今年の庭は、いつになく賑やか。薄ピンクのシデコブシの花つきがよく、その後ろの紫モクレンも見事に花開きました。そして今は、ふたつが散り始めるのと入れ違いに山桜が満開です。山桜は本当に控えめで、これまでは、どこからともなく舞ってくる花びらに、あっ咲いていたんだ、、と花盛りの後になって気付くことも多かったのですが、実生の木も20年近く経つと大きく成長して、今年は存在感を増してきています。
木々が成長すると小鳥や動物達の訪問も増えて、小鳥はよいとしても動物の訪問は嬉しいような困ったような複雑な心境です。今朝も庭と畑の境に植えている椿に沿って、雌鹿が二匹来て、どうやらツバキの間に植えているお茶の木が目的だったようですが、庭の中ほどのヤグルマソウはすでに食べられちゃって、次はミヤコワスレかと予想がつきますが、さてどうしたものか。
侵入をゆるすことで起こるストレスと、追っ払うことで生まれるストレスと。その兼ね合いを図りながら、方針と行動を選択することになりそうです。
風に舞う花びらを受けながら山間を小さな舟で川くだりしている私…そんな想像が浮かんできたのですが、一昨日の一件で淀んでいたものが一掃され、感情が流れ出してきているしるしかもしれません。
さて。庭の賑やかに足並みを揃えて私の心の方も少し賑やかに、活発に動かしてみたくなりました^^)♪生涯学習 ブログランキングへ
よく喋っているなあ、、自分で喋りながら、喋っている自分に新鮮な驚きを感じている…そんな場面が増えている一方、ある場面では、めっきり口数少なく口を噤むようになってきているのです。
感情昇華として言葉を発するということは、こういうことか。昇華させる自由な体感は、よいものですね。
一方、口を噤むようになった場所では、以前そこで喋っていたのは昇華でなく感情を発散させていただけだった・・・その違いがよく分かる様になりました。昇華のお喋りと発散のお喋りは反比例するものかもしれません。
昇華させているときには、私の自由な体感と共に自他肯定の雰囲気がありますし、相対で会話している場合なら、あなたと私は支配からも依存からも自由で、別々の人格として独立して世界に開かれている雰囲気の中で対話しています。
ここで思い出すのがJ・ヒルマンの本ですが、ヒルマンは著書の中で、美醜についてのプロティノスの定義を引用しています。「自分自身の存在に正直であるとき、私たちは美を所有している。醜さとはいつもと違う別の状態に移行してしまうことにある」「たましいは醜いものと出会うと、すぐさましりごみしてこれを拒絶し、目をそむけ、協調しようとせず、これに恨みを向けます」十数年前に一読して、この定義に強く惹かれました。(定義自体、美しい!)
そして。惹かれると同時に“たましいの美的感覚的な反応を”受け留められるだけの、そのような私でなければ、この定義は意味をなさないだろうことも理解しました。
発散のお喋りに、いつもと違う場所への移行を感じるようになってしまった。そういうことなのだろうと思っていますが、生き甲斐の心理学の学びと共に多少の人生経験を積み重ねてきた中で“そのような私”に少しは近づいてきたしるしなのかもしれません。
「自分自身の存在に正直であるとき、私たちは美を所有している。醜さとはいつもと違う別の状態に移行してしまうことにある」いつまでも大切に。心と身体に深く染み渡らせたい定義です。
朝早く目が覚めて、ふと気がかりなコトが浮かんできて、小さな不安感を意識したときのことです。
意識するや、あっという間にストレス曲線をギュッと濃縮したような時間があって、それは一分にも満たない十数秒ぐらいだったかもしれませんが、これはいけない、不安が大きくなっているとハッと我にかえります。
暗い予感に走り出す思考にハッとして、ブレーキをかけたのです。小さな不安が、あっという間に大きな不安になるときには、暗い思考に捕らえられていることが、よく分かります。
まずは大きくなりすぎた不安を小さくすること。思考するとしたら、それからです。最初に意識した程度まで不安感を小さくするのに、まず意識を向けたのは「呼吸」でした。
吐いて吸って、吐いて吸って・・・静かに呼吸を意識していると、、いつしか混乱は沈静して暗い思考も消えて、どんどん落ち着いてくるのが判ります。
呼吸に意識を向けながら、どんな悩みに対しても悩みの内容に関わらず、呼吸によって、とりあえず落ち着くことは最高に効果的なことだと、もしかしたら今ここで得る平安の大切を知らしめるべく、気がかりが浮かんできたのかと、そんなことまで浮かんできます。
起床して動き出して、もちろん気がかりの内容は解決されたわけではありませんが、現状(気がかり・不安)を受け容れ落ち着いて思考するだけの環境は整ったようです。
呼吸に意識を向けるというシンプルなコトが大きな力を秘めているらしいと…実感した朝でした。
悩んでいるのは私なのだから、私が私の問題を解決する。この意識を推進するために、私の感情と身体感覚を大事することを心がけています。個体の強化というか、“生きている私”をくっきりさせることが重要だと思うのです。
それには気持ちよい五感を意識して知覚することも大事でしょう。感覚的な好き・嫌い、怖い・怖くないが意識できることも大事ですし、湧いてくる感情を肯定的に解釈してゆく知恵も必要だと思います。
朝の目覚めのトーンがなんとなく精彩を欠いている・・・そんな今は、とりあえず身体感覚に意識を向けて、起床する。起床したら練功(気功の決まった動作)をする。朝のスタートに心身を調えることが大事な日課ですが、身体感覚から平安感を得て一日を始める、この方法に助けられています。
「個人はすべて、自分が中心であるところの、絶え間なく変化している経験の世界に存在する」
ロジャーズの19の命題の第一番目にもあるように、私が生きているのだから、私の感情、身体感覚から出発する以外、存在しようがないし、世界は始まりようがないのですね。
(119-2)
平時の安穏から底なしの不安感へ、天災を境にわたしの心の環境は激変しました。思考と感情のバランスをとるためには、列島を覆う大きな不安感から、意識して、自分を切り離す必要があるようです。
自分の手に負えない不安感に同一化している内は何も始まりませんが、自分の身の丈にあった不安感を意識しだすとき、心は安定してくるのでした。わたしの場合は結果的には、夕べさめざめと泣いたことが突破口になりました。泣いて泣いて感情を発露したとき、現実を受け容れることができたのだと思います。
平時の安定は激変しても、季節はめぐってきます。今朝は久しぶりに霜の庭にでました。ミツマタが満開、豊後梅は遅くまだ蕾だと朝のメールで被災地の友に伝えると、後で、思いがけず庭の紅梅の写メを送ってきてくれました。ほっとする瞬間を共有できたことが嬉しくて飛び上がってしまいました。
手に負える不安感と向き合いながら、心のバランスを保つこと、相手に必要なものを届けたいのなら、自身の心を調えるのが先決であることを天災の後の友人たちとの対話の中で、このことの大切さに益々気付かされるのです。
(118-2)
凝りが解れて内臓が按摩される感じが、脳に刻まれたせいなのか、
他のことをやっていても、“これは、按摩だ…”と浮かんできてしまいます
たとえば文章を練り上げる過程も、なでて、押して、揉んで、叩いて・・・
これはもう按摩そのものではないかという具合です。
言ってしまえば、日常生活とは按摩の連続で、
押して、叩いて、揉んで、心身を鍛え上げてゆくのが人生だと、
そんなふうに考えると、なんとなく笑みさえ浮かんできて楽しくなってしまいます。
人間関係もしかりで、かつては不快なだけだった抵抗感や違和感も
按摩だと思えば心地よい刺激と感じるようになります。
刺激をどんどん意識化して、湧いてくる感情を折々の状況に相応しく
対処、昇華してゆくことができれば、心身の健康の維持・強化につながることでしょう。
心の按摩は最初は親しい間柄から、少しずつ範囲を広げてゆくのがよいかもしれませんね。
(100-6-1)
泣けることって、少ないような気がします。
誰かを喪失したときの悲しみの涙は別にして、
平素の人間関係で怒って泣いているようなとき、怒りの奥には、
実は悲しいという感情が隠れているのだけど、
その悲しみを理解して、自分は今悲しくて泣いているのだと、
きちんと感情体験するところまでは、至れないようです。
だから、なんとなく不消化な感じが残ったり、
心が浄化するところまでは、なかなか体感できないのでしょう。
涙がこぼれる、泣くという行為は、実はものすごく正直に、
その人の心を身体の反応として表わしているにもかかわらず、
意識の方が、悲しみという感情を拒んでしまうようです。
実はつい最近、感情と寸分違わず一致して泣くことができて、
つまり怒りの奥にある、悲しみを意識することができて、
涙の理由を、正直に伝えるという体験をしたばかりです。
意識と流した涙が一致した清々しさを、久々に味わいました。
(100-3-2)
3つのツリーと馬小屋と、玄関のイルミネーション、
そしてランチの準備と、適当に分かれて作業を進めますが、
私は3人で聖堂にクリスマスツリーを飾りました。
作業の後、神父さまのパエリアのランチを賑やかに頂いてきましたが、
行事の前にはいつものことで見慣れた光景です。
しかし今回はなんとなく、いつもとは違う楽しさがありました。
楽しかった。この言葉が、いつもより深いところから湧いてくる感じです
一緒にツリーを飾ったHさんも“きょうは楽しかったですねー”と言っていたので、
いつもと違っていたのは、私だけでもなかったようです。
心と身体にずれのない、いつもより統合されている感じ。
感情は絶え間なく動いているのだけど、安定感がある。
枝葉は折々の風に揺れるけど、幹は動じずしっかり立っている・・・、
そんな感じと表現したらよいでしょうか。
後でつらつら考えて、これが“無防備”ということかもしれないと思いました。
どういうとき、人は無防備でいられるのでしょう?
無防備の開放感と楽しさを忘れないように。よく覚えておこうと思います。
(100)
そのストレス曲線を、どのように処理していたのか考えてみると、わたしの場合、
休日の登山が心身のバランスをとるのにとてもよかったのだと思います。
20代になって始めた登山は、子供の頃から憧れていたことだったので、
登山に関しては何の迷いもなく、統合されていました。
同好の友も、山に行けば平素の交流とは別次元に移行しますから、
山では日常のすべての人間関係から自由になれるわけです。
山歩き、自然の中に入ってゆく時間をもつことで、
あの頃は辛うじてバランスをとっていたように思います。
人間関係の悩みを、信頼のおける誰かに打ち明けてみることはあっても、
いつも、なんとなく満たされないものが残ります。
心の奥深いところにある本質的な悩みに辿りつけない限り(気付けない限り)、
満たされないのが当たり前なことは、今になるとよく解るのですが、
問題の核心に辿りつくまでの堂々巡りのような日々を
なんとかバランスを持ちこたえさせるためには、一つでよいから、
自分を安定させる場所持てることが、とても大事なことのようです。
(99-3)

緑滴る国土に生まれた、ふしぎ。
この偶然を生き抜くのに、
自然の織りなす変化に鈍感であっては、もったいない。
変化する自然に敏感であることは、
山川草木の国土に生まれたものの使命かも・・・そんな気さえします。
不毛の堂々巡りに落ち込まないためにも、
身近な自然に感じ入る時間は意識して、大事にしたいものです。
(青人草・78)