今年の庭は、いつになく賑やか。薄ピンクのシデコブシの花つきがよく、その後ろの紫モクレンも見事に花開きました。そして今は、ふたつが散り始めるのと入れ違いに山桜が満開です。山桜は本当に控えめで、これまでは、どこからともなく舞ってくる花びらに、あっ咲いていたんだ、、と花盛りの後になって気付くことも多かったのですが、実生の木も20年近く経つと大きく成長して、今年は存在感を増してきています。
木々が成長すると小鳥や動物達の訪問も増えて、小鳥はよいとしても動物の訪問は嬉しいような困ったような複雑な心境です。今朝も庭と畑の境に植えている椿に沿って、雌鹿が二匹来て、どうやらツバキの間に植えているお茶の木が目的だったようですが、庭の中ほどのヤグルマソウはすでに食べられちゃって、次はミヤコワスレかと予想がつきますが、さてどうしたものか。
侵入をゆるすことで起こるストレスと、追っ払うことで生まれるストレスと。その兼ね合いを図りながら、方針と行動を選択することになりそうです。
風に舞う花びらを受けながら山間を小さな舟で川くだりしている私…そんな想像が浮かんできたのですが、一昨日の一件で淀んでいたものが一掃され、感情が流れ出してきているしるしかもしれません。
さて。庭の賑やかに足並みを揃えて私の心の方も少し賑やかに、活発に動かしてみたくなりました^^)♪生涯学習 ブログランキングへ
夕べは中々寝付けず、ストレス曲線のてっぺんまで行って右往左往、、薪ストーブの温もりの幸福感は応急処置に終り長くは続かなかったのでした。小さな後悔はきっかけに過ぎず、ここ数ヶ月かそれ以上の間に処理しきれていなかった諸々の気がかりが、どっと流れ出したような気もします。
寝床でざわざわ、イジイジから抜け出せないまま、どっぷり見苦しさに浸かった所で気を紛らすべく、ガバッと起き上がり居間へ。テレビのスイッチ入れてみたり、台所(=食べ物)へ足を向けそうになりながら、イヤそれはダメと思いとどまり、目に入ったメガネと本と辞書を掴んで、ヤブレカブレの気分で寝床に戻りますが、それから、猛然と始めた調べモノに精根尽きたところで、ようやく眠りにつくことができました。
朝はいつもの時刻に目覚めて起きて、思うに夕べは、“感情をふりきって突き進む法”を体得したのかもしれないと。それは案外よいことで有意義な逃避とも。昇華ともいえそうですが、感情処理の方法として私があまり取り入れてこなかった方法です。
ヤブレカブレの効用。感情をふりきって突き進む。感情処理の方法として折々に取り入れようと決めています。生涯学習 ブログランキングへ
どうして、ああなっちゃったのか?
小さな後悔に囚われて気持ちの切り替えができない。
こういうことがたまに起きて、人に話したら、
“理解できない”と一笑にふされるくらい小さな事だと、
わかっていても、どーにもなりません。
最後は気にすることに疲れ果てたところで気持ちが切り替わる、
なんとなく忘れて終結するのが、いつものパターンです。
それで。久々にパターンに落ち込んでみて、
ぐずぐずと感情に囚われている姿は見苦しい!
見苦しいから止めよう!と。切り替えを図ることにしました。
美しくないから止める。
とりあえず。シンプルに行ってみましょう。
外は雨…ストーブにも火を入れて。幸せになりましょう^^)

よく喋っているなあ、、自分で喋りながら、喋っている自分に新鮮な驚きを感じている…そんな場面が増えている一方、ある場面では、めっきり口数少なく口を噤むようになってきているのです。
感情昇華として言葉を発するということは、こういうことか。昇華させる自由な体感は、よいものですね。
一方、口を噤むようになった場所では、以前そこで喋っていたのは昇華でなく感情を発散させていただけだった・・・その違いがよく分かる様になりました。昇華のお喋りと発散のお喋りは反比例するものかもしれません。
昇華させているときには、私の自由な体感と共に自他肯定の雰囲気がありますし、相対で会話している場合なら、あなたと私は支配からも依存からも自由で、別々の人格として独立して世界に開かれている雰囲気の中で対話しています。
ここで思い出すのがJ・ヒルマンの本ですが、ヒルマンは著書の中で、美醜についてのプロティノスの定義を引用しています。「自分自身の存在に正直であるとき、私たちは美を所有している。醜さとはいつもと違う別の状態に移行してしまうことにある」「たましいは醜いものと出会うと、すぐさましりごみしてこれを拒絶し、目をそむけ、協調しようとせず、これに恨みを向けます」十数年前に一読して、この定義に強く惹かれました。(定義自体、美しい!)
そして。惹かれると同時に“たましいの美的感覚的な反応を”受け留められるだけの、そのような私でなければ、この定義は意味をなさないだろうことも理解しました。
発散のお喋りに、いつもと違う場所への移行を感じるようになってしまった。そういうことなのだろうと思っていますが、生き甲斐の心理学の学びと共に多少の人生経験を積み重ねてきた中で“そのような私”に少しは近づいてきたしるしなのかもしれません。
「自分自身の存在に正直であるとき、私たちは美を所有している。醜さとはいつもと違う別の状態に移行してしまうことにある」いつまでも大切に。心と身体に深く染み渡らせたい定義です。
いくつになっても発見があるので、こころの世界は本当におもしろいです。なーるほど…こういうことかと、ある日突然、熟した果実がポトンと落ちるように気づきはやってきます。
好き嫌いがはっきりしていて表現するしないはともかく、自分の中で、はっきり好き嫌いが意識できている。表現される場合は己の傾向にも周囲にも配慮、TPOを心得て、それはたまには表現にしくじることはあっても、概ね彼の(彼女の)感情表現はセルフコントロールが効いたものとして周囲に好ましく映ります。
そのような心はなぜ、そのようであるのか?そのような心を私は身近なところで、ふたつの心がぱっと思い浮かびます。二人は似ていると以前から思っていましたが、あるとき。似ている共通項はこれかと…思い当たりました。
なるほどなるほど。彼らは対象に向かうや即、美醜を捉えて、好き嫌いの判定を下しているのだと解りました。美しいものは好き。醜いものはキライ。そこに思考が入り込む隙はなく五感と六感で対象を一瞬で捉えます。美しいものは快、醜いものは不快。単純なことです。感覚で捉えられたものについて、よいわるいの評価はナンセンス。だから心に罪悪感をもつこともなく、実にさわやかです。
美醜の感覚が鈍っていることが、そもそも感情の意識化を阻んでいる、感情生活を不健全にしている一番の要因であると仮定してみると、やるべきは美醜の感覚を取り戻すことであると、自ずと答えが出ます。しかし。森羅万象をそのような目で眺めることは簡単なようで実はそうでもありません。
彼らは勤勉さと謙虚さと、いついかなるときも中心と繋がっている感覚をもち、わかってもいないのに、わかっているふりをすることが決してない。目の前のことに集中して日々淡々と我が道を行きます。
なるほど~と、これに気付いたときには希望の光が見えた気がして気付く前より、いっそう眼前がクリアーになった感じがしました。美醜に鈍感であった人生の日々が運命なら、今ここで、クリアーな目を取り戻すのも運命であるかもしれません。可能性のないことが気づきとしてやってくることはないと信じています。
小さな不安感を意識したときのことです。
意識するや、あっという間にストレス曲線をギュッと濃縮したような時間があって、
それは一分にも満たない十数秒ぐらいだったかもしれませんが、
これはいけない、不安が大きくなっているとハッと我にかえります。
暗い予感に走り出す思考にハッとして、ブレーキをかけたのです。
小さな不安が、あっという間に大きな不安になるときには、
暗い思考に捕らえられていることが、よく分かります。
まずは大きくなりすぎた不安を小さくすること。
思考するとしたら、それからです。
最初に意識した程度まで不安感を小さくするのに、
まず意識を向けたのは「呼吸」でした。
吐いて吸って、吐いて吸って・・・静かに呼吸を意識していると、、
いつしか混乱は沈静して暗い思考も消えて、どんどん落ち着いてくるのが判ります。
呼吸に意識を向けながら、どんな悩みに対しても悩みの内容に関わらず、
呼吸によって、とりあえず落ち着くことは最高に効果的なことだと、
もしかしたら今ここで得る平安の大切を知らしめるべく、
気がかりが浮かんできたのかと、そんなことまで浮かんできます。
起床して動き出して、もちろん気がかりの内容は解決されたわけではありませんが、
現状(気がかり・不安)を受け容れ落ち着いて思考するだけの環境は整ったようです。
呼吸に意識を向けるというシンプルなコトが大きな力を秘めているらしいと…実感した朝でした。
窓から見えるもの小道沿いにあるもの、どれも愛らしさ全開で、
地味な山萩の美しさを再発見して、つい見とれてしまいます。
夕方が近づくと、夕顔の開花が待ち遠しく、
東の空に月を見つけては歓声をあげて見入ってしまう。。。
昨日から今日、家人の焚く薪の匂いに覚える安らぎと懐かしさは、
成育史だけでは説明がつかないので、遠い祖先の記憶によるものでしょうか。
朝いちばんに頂く果物の味わいも、秋は格別です。
虫の音に混じって、FMラジオから流れる弾むようなピアノ曲も心楽しく、
秋は五感の喜びが増す季節で、私のスケールでは、
五感の喜びは“幸福感”と密接に関係しています。
一日の中で、人は幸福曲線とストレス曲線を行ったり来たりしますが、
幸福感の対極にあるのが鬱的感情といわれていて、
ウツが、暗い、思い込みの世界に閉じ込められている情況とすれば、
外界に開かれている五感の幸福感はまさにウツの対極といえます。
その日やるべきことに焦点を合わせ、それらを順にこなしながら、
合間合間で、五感の幸福感を意識していると、
少なくとも、暗い思い込みに浸っている余裕はありません。
物思いにふける秋は返上して、行動的に、
五感の幸福感を意識して、冬へ駆け抜けよう・・・そんな心境の今日この頃です。
*幸福曲線・ストレス曲線:生き甲斐の心理学のテキストを参照のこと

先延ばししたい気持ちをおして、えいッと始めましたが、
風もなく雨上がりの薄曇のお天気は作業するのにちょうどよく、
満タンにした燃料が尽きるまで停止せず続けることができました。
疲れもそれほどでなく、余裕ある体感が自分でも意外ですが、
同じ姿勢でじーっと動かない気功(静功)が日課になって、
以前に比べ持久力がついてきたのかもしれません。
体力をつけるのが気功の目的ではないけれど、体力の余裕は心の余裕に繋がります。
日々の気功は私にとって努力と多少、刻苦の要素がありますが、
持久力を実感したことで、やり甲斐が増しました。
こころと体・・・人生は双方が影響を与え合って進んでいきます。
照らしあうこころと体を意識する場所を、(気功、瞑想、森の深呼吸…)
自分が、これだと思えるものを何か一つ意識的に確保するのは、
こころと体のために、とても大事なことのように思います。
これから先何が見えてくるか、心身の変化が楽しみな感じです。
(119-19-3)
悩んでいるのは私なのだから、私が私の問題を解決する。この意識を推進するために、私の感情と身体感覚を大事することを心がけています。個体の強化というか、“生きている私”をくっきりさせることが重要だと思うのです。
それには気持ちよい五感を意識して知覚することも大事でしょう。感覚的な好き・嫌い、怖い・怖くないが意識できることも大事ですし、湧いてくる感情を肯定的に解釈してゆく知恵も必要だと思います。
朝の目覚めのトーンがなんとなく精彩を欠いている・・・そんな今は、とりあえず身体感覚に意識を向けて、起床する。起床したら練功(気功の決まった動作)をする。朝のスタートに心身を調えることが大事な日課ですが、身体感覚から平安感を得て一日を始める、この方法に助けられています。
「個人はすべて、自分が中心であるところの、絶え間なく変化している経験の世界に存在する」
ロジャーズの19の命題の第一番目にもあるように、私が生きているのだから、私の感情、身体感覚から出発する以外、存在しようがないし、世界は始まりようがないのですね。
(119-2)
平時の安穏から底なしの不安感へ、天災を境にわたしの心の環境は激変しました。思考と感情のバランスをとるためには、列島を覆う大きな不安感から、意識して、自分を切り離す必要があるようです。
自分の手に負えない不安感に同一化している内は何も始まりませんが、自分の身の丈にあった不安感を意識しだすとき、心は安定してくるのでした。わたしの場合は結果的には、夕べさめざめと泣いたことが突破口になりました。泣いて泣いて感情を発露したとき、現実を受け容れることができたのだと思います。
平時の安定は激変しても、季節はめぐってきます。今朝は久しぶりに霜の庭にでました。ミツマタが満開、豊後梅は遅くまだ蕾だと朝のメールで被災地の友に伝えると、後で、思いがけず庭の紅梅の写メを送ってきてくれました。ほっとする瞬間を共有できたことが嬉しくて飛び上がってしまいました。
手に負える不安感と向き合いながら、心のバランスを保つこと、相手に必要なものを届けたいのなら、自身の心を調えるのが先決であることを天災の後の友人たちとの対話の中で、このことの大切さに益々気付かされるのです。
(118-2)