こころの自由と、こころの不自由と。感情との付き合い方しだいで、こころは自由にもなれば不自由にもなるようです。
それで誰もがこころの自由を謳歌したいと思っているのかというと、不自由に留まりながら、ちっとも不自由を感じていない心もあるようです。
感情をきっちりと自分で受け止めることができないとき、その感情は自分にとって都合の悪い感情ということになって、感情は抑圧されるか、合理化されることになりますが、不自由でありながら、それを不自由と感じない心は、合理化がすっかりその人の個性となっているケースといえるかもしれません。
そんな悲しいことは考えないようにする。嫌なことは考えないことにしている。落ち込んでしまうから考えないようにする等など。。。ときには合理化は必要ですが、感情の意味と向き合うことなく合理化することに逃げてばかりいると、せっかく湧いてきている感情が浮かばれないなあ…と思います。
合理化だけでなく、とりあえずの置き換え、とりあえずの退行も然りで、とりあえずのまま放置され続け、いつまでたっても素直に現れることがゆるされないとしたらせっかく湧いてきているのに、感情はその役目を果たすことができません。
感情は、その心を深く豊かに耕すきっかけを与えたくてやって来ている(湧いてくる)と思うのです。
感情は感情に気付き、存在を認めてほしいと願っていますが、心の方は受け止める準備ができていない。。。どんな感情でも無視せずに認めることができる心を育みたいのは、こころの自由を求める人にとって、それは生涯続くテーマなのだと思います。
子供時代は、こころの自由を謳歌しているお手本が身近になかったとしても、(身近にお手本があるケースの方が稀かもしれません)、今ここで本気で、こころの自由を希求するならば、その時点で自由は約束されたのも同じこと。こころの自由を育むことに遅すぎるということはなく、いくつになっても人生のどこででも始められるのですね。
その人にしかわからない、こころの自由。わたしにしかわからない、わたしのこころの自由。生涯をかけて、大切に育んでゆきたいものです。
日常のあれこれを為すのに、いちいち動機を意識したりしないものですが、あらためて意識してみると、“べき、ねばなぬ”という言葉によって動こうとしていることが案外多いような気がして、それで最近は、べき、ねばで動こうとしている自分に気付くや反射的に、“なぜそれをするのか?”と自問している私がいます。
人生において自発的行動が優位な人には関係がない話ですが、もしも自発性に欠ける自覚があって、自発的に生きたいと願う人には、この問いかけは小さいけれど大事な一歩になるのではないかと思います。
当たり前のように為している小さな仕事について、なぜそれをするのか?と問いかけるとき、なぜ?の向こうには、生きている意味や人生で大切にしたいもの、自分は何のために生きているのか?この大事な問いが控えていて、行動の動機をなぜ?と問うたびに、大事な問いに心が向かうことになるわけです。
なぜそれをするのか?
これを問う意味は、目的をもってことを為す、成す心の土壌を育むためでもあります。
自分は何のために生きているのか?
目的意識のある自発的行動が優位な人生では、この問いが身心を貫いて、日々のルーティンワークさえも、長い人生の先にある、大きな目的に向かうプロセスの一こまとして活き活きと成されているように見えます。
自分は何のために生きているのか?
目的に向かってことを成す、行動するような心の土壌があるときはじめて、この大切な問いを携えて、人生を活き活きと生きてゆけるようです。