こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

感情を信頼するところから

2011年04月29日 | 愛とゆるし
あなたとわたしの関係において、あなたから受ける不快な印象を
まったく無視していたところから、最近ようやく、
“あなたの態度に不快を感ずる”と認められるまでになりました。
ここまでくるのに、こんなに時間がかかったのは、
不快な出来事を他人事のように観察している期間が長かったせいです。

ガラス戸越しに自分の感情を眺めるという、あの感じですが、
そこに留まりながら自立の力を蓄えていた…そんなところもありました。

自分にとって大事な存在であればそれだけ、この観察期間が長くなり、
分離不安をかきたてる対象だと、不快の明確な意識化は簡単にはいきません。
人間関係の原型が再現されている可能性もあるデリケートな領域だからです。

他人事として温存してきたことを自分事としてあらためて感情体験する、
遅まきながら今ここで、不快感を私の感情として素直に認めると、
あなたとの関係において、今ようやく“自分になれた”安堵を感じます。

分離不安が起こるような人間関係は様々な感情をもたらし、
成長過程の感情生活の学びを再学習する機会を与えてくれます。
自分の感情を信じる/自己信頼を学ぶのに遅すぎるということはないようです。

「心理的適応は、自己概念が、象徴のレベルにおいて、
有機体の感官的・内臓的経験をことごとく自己概念と首尾一貫した関係に
同化しているか、もしくは同化するであろうときに存在するのである。」ロジャーズの19の命題・⑮

(119-16)
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本質的な、不安感

2011年04月28日 | 魂と聖霊
久しぶりに開いた本の中に、魂の美しい表現をみつけました。

「ひとは誰でも、まじりけのない一点をもって生まれる。
期待や後悔、野望や困惑、怖れや心配から自由な、
最初に神の祝福をうけた高潔な一点をもって。そこから安らぎが生まれる」
「やむことのない緊張の中にあって、人間は汚れ混乱する。
しかし疲れきったとき、われわれは人間の核心にある腐敗しえない高潔な一点に回帰する。」
マーク・ネポの言葉、“失われた物語を求めて”(レイチェル・ナオミ・リーメン著・藤本和子訳)より。

人は心と体と魂から成っています。
「人間の核心にある腐敗しえない高潔な一点」を想うとき、
湧いてくる感情には、この一点に至るための大事な示唆が含まれていると感じます。
成育史の心の理解が深まるほどに、その確信は強まりました。

人間の本質は不安といわれていますが、
臨終の時、生物としての人間から離れゆく魂・・・
永遠に存在する神の祝福を受けた高潔な一点/愛の魂を、
ときどき意識してみることは、私の潜在する緊張感を和らげることになります。

魂について知りたい、感じたい、考えたい・・・子供の頃から、
なんとなく抱いてきた魂への希求が満たされて、どれだけ安堵したことか。
最終的な目的に統合される平安感は、魂への信なくしてはありえないようです。

(119-15-3)
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抑圧するのは、もったいない

2011年04月26日 | 愛とゆるし
どんなときに、どんな感情を抑圧しやすいか。
人それぞれ傾向があるようですが、私の場合は、
たとえば誰かのことを嫌いと思うとき(感じるとき)、
嫌いを意識したら大変なことになる!・・・
そんな思い込みが無意識にあったように思います。
嫌いを意識するのはコワイ。

または人を嫌うのはよくない、嫌うべきではない。
そんな自己概念も関係していたでしょう。

これは湧いてきてもよいけれど、この感情は湧いてほしくない。
人生の前半は知らず知らず感情を差別して生きていたのだと思います。
そういう意味では、“心理的緊張”が恒常的だったともいえます。

感情は意識されてこそ存在意義があるので、
無視され抑圧されてしまったのでは、
“立つ瀬がない、、”感情の悲鳴が聞こえてきそうです。

人が平安感を意識できるのは、不安感が意識できるときです。
同じく明るい感情を意識できるのは、暗い感情を意識できるからです。
抑圧していた、“嫌い、我慢できない!”が意識にのぼるのを許されると、
それだけで緊張がほどけ、不安感が一つ解消され平安感へ向かいます。

感情を抑圧することは、心の可能性、感情分化の可能性、
豊かな人間関係と人生の可能性を狭めてしまうようなものです。
人生の前半、感情を差別していたのは、ほんとうにもったいないことでした!

(119-15-2)
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感情がわからない!

2011年04月25日 | 無意識の世界
抑圧の渦中にあるとき、自分が感情を抑圧していると気付く人はいません。
感情生活が、なんとなくへんと感じ出した頃、鏡に向かって
“自分の感情がわからない”と独り言したのを覚えています。

今思うと、感情がわからない、この認識がすべての始まりでした。
抑圧があまりに深くなると、人は言っていることとやっていることがチグハグになります。
自分で自分のチグハグに気付きだし、気持ち悪くなったとき、
“自分の感情がわからない”、この言葉がでたのかもしれません。

大事な感情を置き去りにしていると、不安がどんどん大きくなります。
不安が大きくなると心身は緊張状態に追い込まれ、身体症状というかたちで、
“大事な感情に気付いて”と、シグナルを送ってくることがあります。

かつて写真に写った顔をみて、そのすさまじさに仰天したことがありますが、
考えてみると、身体の不調を感じて受診したのもその頃でした。
それから間もなく、心の仕組みと感情生活の理解が進みだして、
ようやく感情がわからない、混乱している自分に気付きだすわけです。

ふり返ると自分の感情がわからないと呟いた日、
不安感/心理的緊張に置かれている自分に気付くまでが、けっこう長かったのです。

「心理的不適応は、有機体が、重要な感官的・内臓的経験を意識することを拒否し、
したがって、そのような経験が象徴化されず、自己構造のゲシタルトへと
体制化されないときに存在する。この状況が存在するとき、基本的もしくは
潜勢力的(potential)な心理的緊張がある。」ロジャーズの19の命題⑭

(119-15)
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信じる気持ちが湧いてくる・・・

2011年04月21日 | 第9章:愛
今の私は、人生ではじめて経験する不安感の中を生きています。
震災以後、日本中が経験している不安感のほかに、個人的な不安感も、
これまで経験したことのない領域に入ってきたのを感じます。

近親者の悔いのない人生について考えることが増えました。
といっても悔いのない人生の答えは、本人の内にしかないので、
変化する状況を見守り、感情を受け取りながら、
相手のために私に何ができるか?・・・自問する毎日です。

19の命題の考察は計画的に始めたわけではありませんが、
今あらためて成育史の自己概念を考察していると、
この作業が不安感を生き抜く力を与えてくれるのを感じます。

19の命題を取り上げる気持ちになったのは、
不安感を生き抜くための、無意識の要求だったのでしょうか?
命題を考察していると、心の可能性を信じる気持ちがふつふつと湧いてきて
気がかりな人も自分も大丈夫、悔いのない人生を生き抜けると元気がでてきます。

(119-14-2)
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無意識の要求…

2011年04月20日 | 無意識の世界
かれこれ30年も前のこと、生け花の試験会場を間違えて、
初級試験を受けられなかったことがあります。
ハランを活け込む特訓をしたのが水の泡になったのだから、
残念至極のはずなのに、なぜかあまり落胆しなくて
試験を受け損ねたのを潮に、なんとなくお稽古から遠ざかりました。

試験会場を間違えるなど普通はちょっと考えられません。
生け花が気に染まなくて止めたい本音が自己概念に反するので、
試験をふいにすることで遠ざかる道筋をつくったのではないか・・・?
試験前後の出来事や感情体験を思い起こすと、そんな推測も成り立ちます。

人は意識に上らない要求を意識に上らせないまま満たそうとすることがある。
心にはそのような動きがあるといいますが、意識されない要求の中には、
ひょっとして私の人生の核心/魂に迫る重要な要求もあるかもしれません。
意識しないだけで、誰もが核心に出合うプロセスを生きているのではないか。
そんなことを考えるのですが、私は心の仕組みを学ぶことで、
その核心にどんどん近づいているような気がします。

「ある場合には、行動は、象徴化されていない有機的な経験や要求から起こることもあるであろう。
このような行動は、自己の構造と矛盾するであろうが、しかしこのような場合には、
その行動はその人自身によって、“自分のものとして認められ”(owned) ないのである。」
ロジャーズの19の命題⑬

(119-14)
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大事にしたい、自己概念

2011年04月19日 | 無意識の世界
気功が日課になって、以前より動じなくなったのを感じます。
何かあれば右往左往して揺れるところは変わらなくても、
揺れている自分を観察する余裕が少しはでてきて、私は私と居直る、
アイデンティティの統合までがぐっと短縮されたと感じます。

私はこうしたい、こうありたい、このようなことはしたくない…など、
明確な自己概念がないとアイデンティティは統合できません。
気功は、動じない自己概念で私は私の道を行けばよいのだと、
心の迷いを整理統合する姿勢を強化してくれるように思います。

思えば人生の前半は、他者から受け継いだ価値観に無意識に縛られて、
自身の感覚と感情に根ざした価値観/自己概念が驚くほど希薄でした。
(一見そうは見えないので、それだけに根は深かったと思う、、)
そのことにハタと気付くのは、心の仕組みを学びだしてからですが、
とりわけロジャーズのパースナリティ理論・19の命題は、
私の無意識的な思考と感情と行動を小気味よくあぶりだしてくれました。

「有機体によって採択される行動のし方はほとんど、
自己概念と首尾一貫しているようなし方である。」ロジャーズの19の命題⑫

気功の身体感覚と感情体験に根ざした価値観から生まれた
“私の自己概念”を大事に、残る人生を生き抜きたいと思うのです。

(119-13)
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自己概念を、見直すとき

2011年04月16日 | 愛とゆるし
理想の相手と思って結婚したはずだったのに、そうでもなかった。
相手のことを“こんな人とは思わなかった、、”と年月とともに、
以前には感じなかったストレスをたくさん感じ出したりします。

やっと理想の人にめぐり合えたとばかりに惹かれあった二人が、
時ととも、相手の中の理想ではなかった部分も目に入りだし、
相手に対して好きなだけでない様々な感情があることに気づきだします。

様々な感情が意識化できたとき、そこで終わりにするのか、それとも
自己概念を見直し努力して愛と信頼へ移行するか、人生の分かれ道です。
このように恋から愛へ移行するような心理は、結婚だけでなく、
あらゆる人間関係で起こり得ることだと思います。

長くつきあっている親友のことを考えても、年月の中で、
お互いの理想からはずれた部分を認めた瞬間が、いくつもあったと思うのです。
小さな幻滅を乗り越えながら、信頼と友情を深めてきたといえます。

そうかと思うと、なかなかストレスが意識できなくて、
不自然な関係を長く続けてしまったこともありますが、
抑圧を続けることは、大きな不安を蓄積することになるので、
遅かれ早かれ人生のどこかで、意識化する時はやってくるようです。

「いろいろの経験が個人の生活において生起すると、それらの経験は、
(a)なんらかの自己との関係へと象徴化され、知覚され、体制化されるか、
(b)自己構造との関係が全然知覚されないので無視されるか、
(c)その経験が自己の構造と矛盾するので、象徴化を拒否されるか、
もしくは、歪曲された象徴化を与えられるか、のいずれかである。」
ロジャーズ19の命題⑪

(119-12)
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自己概念を点検すると…

2011年04月14日 | 無意識の世界
人は多かれ少なかれ身近な大人たちの影響を受けながら、
その人独自の考え方や価値観/自己概念を身に付けて成長します。

身近な大人は親であったり、祖父母、叔父叔母・・・いろいろでしょうが、
私の場合はなんといっても母の影響が大きく、
あまりに無意識的で馴染みすぎていた領域が根深いので、
この歳になっても、ここまで影響を受けていたとは!と呆れることがあって、
自己概念が成り立つ心理的なメカニズム、その複雑さに、
なるほどと、あらためて感心してしまうのです。

しかし自己概念が出来上がる出発は母の影響があったとしても、
成長過程で、自身の感覚と感情体験がそこにプラスされなければ、
現在の自己概念が出来上がることもなかったのです。
友達との関係や周囲の大人と接して感じ取った、
私独自の好き・嫌い、怖い・怖くないの積み重ねの中で、
今ここにいる私の価値観や考え方、傾向はつくられてきました。

かりに一つの自己構造(自己概念)から母の影響を差し引くと、
有機体としての私の経験、折々の感情体験があぶりだされてきて、
そこに母の影響を離れたユニークな私が見えてくるように思うのです。
自己概念を点検する最終的な目的は唯一の私と出合うため。そうともいえそうです。

「いろいろの経験に結び付けられている諸価値や、自己構造の一部である諸価値は、
ある場合には有機体によって直接的に経験される諸価値であり、ある場合には他人から
投射されもしくは受けつがれるが、しかし、あたかも直接的に経験されたかのように
歪められたかたちで知覚されるものである。」ロジャーズ19の命題⑩

(119-11)
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へんな自己概念・・・

2011年04月10日 | 無意識の世界
子供の頃、家のことを話さないようにしていました。家庭のことは話さない。
大人になって、育った家と対照的なあり様の一家と近親関係なったときに、
自分がへんな自己概念を身に付けているらしいことに、はじめて気付きました。

思えば自分に対して否定的な価値観をもった最初が、お喋りに関してでした。
あるとき、近所の大人相手に無邪気に喋ったことが、
母を不快にしたらしいと感じたことがあって、
具体的に何がいけなかったのか分らなかったので、
とにかくお喋りを慎めば、お母さんを不快にしないですむ。
これが“お喋りを怖れるようになった”出発点だったと思います。

大人になっても初対面の人に自分のことを話したり、
知り合いに初めてのことを打ち明けたときなど、
喋りすぎてしまったんじゃないかと、ふと不安が過ぎることがあります。
成育史の失言を怖れる傾向が無意識に残っているのでしょう。

偶に過敏に悩むことがあるのを知っている親友たちは、
これを読んで、なるほどそういうことだったのかと頷いているかもしれません。
人の性格の背景には必ず成育史の体験があります。

「環境との相互作用の結果として、とくに、他人との評価的な相互作用の結果として、
自己構造が―“わたくしは”もしくは“わたくしに(を)”の特質や関係についての知覚の、
体制化された、流動的な、しかし首尾一貫している概念形式が、これらの諸概念に
結びつけられている諸価値とともに―形成される。」ロジャーズ19の命題⑨

(119-10)
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