“私がわるかったから、こんなことになってしまったのかと、つい、そんなことを考えてしまう…”病床の末期に囁かれた言葉を受けて、“そんなことは決してないと思う”と応答の言葉が囁かれました。
“私は食べることしか興味がなくて、こんなに食い意地が張ってよいのかしら…!”他愛ない日常のお喋りの場面で発せられた言葉を受けて、“いいじゃない。食べることは楽しいしもの”と、間髪いれず言葉で反応しました。
病床で囁かれた言葉も他愛ないお喋りの中で発せられた言葉も、一見、深刻さの度合いが大きく違うように見えても、心の奥深い場所から発せられていることにおいて違いはないと感じます。
それで二つの場面を時々思い出しては考えてしまうのですが、大事な言葉を聞き逃さないようにと警告されているような気もするし、日常の関係性の延長線上に最期は来るのだということを考えされられもするのです。
私は二つの場に居合わせて偶々目撃する立場にありましたが、最期に囁いた心も、その囁きに、そうは思わないと反応した心も、自嘲気味に発言した心も、いいじゃないと即答した心も、すべて私の心が発しかもしれないし発する可能性がある言葉です。
大事な囁き―魂からの囁きに、それが発せられた目的を、囁いた本人さえ気付いていない目的を、聴き手になった私が、どうしたら、きちんと受けとめられるのだろう…?
二つの出来事を思い出しては、時折考えてしまいます。
ずいぶん前になりますが、魂としての私を意識する、ちょっと楽しい見方を教わりました。
私なりの言葉で整理してみると、魂としての私とあなたの対話は100%愛の世界ですが、そこに双方の心と体の制約が加わることで愛の完全性から遠ざかっていく。双方に課せられた制約の質と度合いに応じて、そこで展開される対話に愛がどれくらい生き残れるか、決まります。制約が小さければ愛は増えるし(魂の100%に近づいてゆくし)、制約が大きければ、どんどん減点されて愛から遠ざかってゆくというのです。
時には、あなたと私の対話を(関係性を)魂の視点で眺めてみるのもよいものです。
この魂の考え方は、カトリックの神学者、ジーンドージャの「神のめぐみとは」からの「魂はやむこともなく老いることもなく永遠不変のもの、自由意志と記憶かつ五感のような感覚も所持し、臨終と共に身体から離脱していく知的生命体である」と定義された思想がもとにあると教わっています。
教わった当初より時の経過とともに熟成されてきたせいなのか、あなたと私の対話や目の前で繰り広げられている会話を一瞬、魂の視点から、ふわっと眺めているようなことがありますが、全体を眺めている一瞬だけは、私も魂の眼差しであるのかもしれません。
魂の一つの見方として頭の隅に記憶してただければと思います。