こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

一枚の絵から

2007年11月27日 | 五感と体感
友人の部屋へ一歩踏み込むや、一枚の絵が目に飛び込んできました。部屋の壁には常時、銅版画や自作の木彫が無造作に並べ掛けられていますが、その絵を見るのは初めてでした。木々の緑と空とレンガの建物が水彩タッチで描かれた小さな複製画が、漆黒、幅広の木彫の額に馴染みよく納まっています。訊けば、ノートルダムとパリの街をMA氏の書斎から眺めた風景なのだそう。私はMA氏の深い思索が込められた随想集に、20代のある時期傾倒していたので、それを聞いて、いよいよ絵から目が離せなくなりました。

ちょうど行き場を探していたという、複製画を一組貰いうけ、その画家の絵を、今、傍らに置いて眺めています。

ちょっと情けない話を告白しますが、いちばん身近な人物の好みに影響されて、かなり長い間、自分が“好きと感じるもの”を、無意識の内に遠ざけてきました。「同じであることが安心」という、例の防衛機制を過剰に働かせた結果です。“自分の好き”を生きなくて、どうして自分の人生といえましょう!まずは、好きと直感したものを傍らに置いて、湧いてくるものを言葉にしてみよう。今、ここで「感じている私」をしっかり生きてみよう。

私自身から出発する人生でなければ、生きている意味がありません。芸術全般に対する好みがとてもはっきりしていて、その好みを実にのびのびと、言い放す人物の傍で、私もまた、自身の好みを主張するようになってきて、家の中が、これまでよりイキイキしてきたような気がします。自分だけでなく相手のためにも、私は私の人生をどうしても生きる必要があると思っています。



コメント (3)

2007/11/20

2007年11月21日 | 意識と知覚
旅の最終日、空港にて。
シュリンプカレーのランチセット、4種から選べる前菜と、デザートとコーヒー付
味もよく、給仕の間も適切でこれで2000yenとは良心的。横広がりの窓から、飛行機の離陸風景を間近に見て、高齢の母とふたり、別れの時刻まで食事と会話でゆったりと過ごします。

それから出発まで、ひとりロビーで東京での日々を想い、夕日に照らされて機内へ入るとき、なんだか、胸がいっぱいになりました。

一時間半の空の旅を終えて、暗闇に車を走らせ一路山の我が家へ。空弁の夕食を済ませ、ストーブの温もりにほっと一息ついた頃、知り合いから電話が入り数分しゃべったとき、少し変化した自分に気付きます。

<相手からの親愛の情を素直に感知して、応答している>心と体と魂をもって、喜び、対話を愉しんでいる私・・・。
          
           *

今回のワークショップ、五感・体感からくる感情を怖れることなく意識化した3日間でした。ネガティヴな本音を意識して、感情の流れを生きられるようになると、ポジティヴな感情を素直に感知して、“信じて”生きられるようになる、
こころの仕組みは、そうなっているようです。意識して知覚して、湧いてくる感情の流れを生きる・・・。悔いのない人生のためには、この修行しかない。

人が出会って、様々な感情が湧いてきて、意識できた感情を、どのように生きるかは自分次第。私にとって、ワークショップは他にない、気付きと修練の場であることを再確認しました。





コメント (2)

響く言葉

2007年11月14日 | 魂と聖霊
日常に何気なく交わされる会話の中で、私に向けて発せられる言葉の中で、心の奥底に、ひゅんと響く言葉と出合うことがあります。語った本人もそうとは気付かず、余にあっさり、さりげなくやってくるので、受けとった私も、その意味を理解するまでに少し時間がかかります。聞いた直後は「ふいをつかれた」印象で、後日、しばしば浮んできますが、その言葉を復唱し吟味してみるとき、嫌な感じが全くないのが特徴です。

気になるので、その言葉の意味を、いろいろな角度から眺めてゆくと知らなかった自分の思考と行動に気付きだして、埋もれていた感情も見えだして、「私にはこういう一面もあったのか」と、新たな自分に出合うことになるのです。

響く言葉だけでなく、響く光景というのもあって、今気になるのは少し前にテレビで見た、凡人なら当然、怒りだす状況、相手に対して、平然と穏やかに対応していたお坊さんのあり様が、しばしば頭を過ります。修行とはこういうことか…と感動した思いと共に、憧れが呼び覚まされるような、そんな気持ちになります。

印象に残る言葉を発した人も、光景の中の人物も、私に与える影響のことなど少しも念頭にないのに、確実に私の深いところに何かを残し、明るい変化をもたらしてくれるのだから、ふしぎです。私のために目に見えないところで働き、善き場所へ導こうとしている存在のこと・・・響く言葉や光景と出合う度に、それを強く思います。

コメント

今日一日

2007年11月10日 | 意識と知覚
ここのところ、一日の過ごし方を意識的に変化させています。必要な家事と約束事の遂行以外は、ヨガ風体操(あまりに体が硬いのでヨガと呼ぶのは気が引けます)を最優先するのですが、なんとなく、からだと対話する感じが掴めてきました。

朝の目覚めの瞬間、私はたいてい少し重たい気分ですが、おそらく目覚めの直前まで見ていた夢の影響です。夢の意味は複雑で安易に判断できるものでないと了解しているので、目覚めの瞬間の気分は、重くても軽くても気にしませんが、問題は、その気分の後にくる、気持ち・感情です。

からだと対話すること。きょうの生きる目的を、明確に意識した途端、なにやら気持ちは晴れやかになり、気力が湧いてくるから不思議です。

からだに意識を向けて対話する感じが、家事であるとか、日常の他の行動にも波及してきたようで、何か事を起こすとき、その目的意識や感情を、ゆったりと自問自答するだけの間もとれるようになってきました。

なぜ、どうして?と過去を因果的に分析する堂々巡りから自分を解放つこと。今日一日の生きる目的を意識して、自身のからだに意識を向けるようになって、ふと理由なき幸福感に満たされる瞬間が増えてきたのはどういうわけでしょう?しばらく、この方針でいってみようと思います。


コメント (2)

距離感を楽しむ?

2007年11月02日 | 無意識の世界
自分が不安に襲われるときを思い起こしてみると、<同一化*>が損なわれたとき、不安になる傾向が見えてきます。様々な人(親子、夫婦、友人、あらゆる人間関係で)や事物との程よい同一化は、心の安定に必要なものですが、過剰な同一化は、絶え間ない不安、分離不安と背中合わせといえるかもしれません。何よりも、同一化の心地よさに安住していると内的成長が阻まれることは確かです。

ここのところ自分の同一化を適度に修めるような、楽しい方法を見つけました。それはとても単純なこと、日々出会う人、友人や知り合いとの“距離を感じてみる”ことです。(そんなことやってる、当たり前という人もいるでしょうが、私にとってはとても新鮮なんです!)近いとか遠いだけの単純な距離感でなくて、あらゆる要素から成り立っている二人が出合い、その違いから生まれる距離感をイメージとして楽しく意識してみるのです。

相手をよく知覚しないと、距離感をイメージし意識することができませんから、それは知覚したものから湧き上がる、感情を意識化する訓練にも繋がります。

ここに在るわたしが、今ここで何を感じているのか、どんな感情をもつのか、本音の意識化を妨げる大きな要素の一つが、過剰な同一化だと思います。・・・ここまで書き進めてきて、また気がつきました。同一化が適正でないと、真に相手の個性を楽しむこともできないのですね!

コメント