こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

幸いなる個性へ

2008年07月30日 | 愛とゆるし
若い頃、あまりに慎重すぎて、いろいろと有意義な体験をやり損ねたのは、確かに残念なことではあるのですが、今は、それを悔やむことよりも、これからの可能性に期待する気持ちの方が勝っているようです。つくられた性格を幸いなる個性として、悔いのない人生を生き抜くことができたなら“慎重さを形成するためには、外界を怖がる年月が必要だった”このように捉えることさえ可能でしょう。

自分の性格をどのように捉えるのか?まずは肯定的に解釈していくことが、すべての始まりですが、この作業は、正直に丁寧に自問自答して、頭で理解するだけでなく“感情で受け容れること”が、どうしても必要なのだと思います。

今頃の季節、朝一番に台所の窓からガウラの花をみるのが楽しみです。白い花を付けた茎たちが、上下に揺れているのが見えますが、沢山のマルハナバチがやってきて、花にとまっては蜜を吸い、花を移動するたびに、細い茎があっちでもこっちでも、リズミカルに揺れるのです。これを見ていると自然と笑みがこぼれ、なんとも穏やかな気持ちになります。マルハナバチが見せてくれるリズムは、私の内なるリズムを目覚めさせ、全てを肯定的に受容するのを助けてくれる、そんな力があるように思われます。

自然のリズムは感情レベルでの受容を、なだらかなものにしてくれる・・・それは、人も自然の一部だからかもしれません。

自分のこれまでの人生を肯定的に受けとめられるようになると、周りの人びとの人生に、以前よりずっと楽しく、穏やかに耳を傾けている自分に気付くようになります。自然のリズムに助けられながら、内なるリズム・可能性を目覚めさせてやること。性格を幸いなる個性として受け容れるとき、人生の可能性は誰にでも開かれています。


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自己愛について(1)

2008年07月28日 | 未整理
“歪んだ自己愛を脱皮するたびに、健康な自己愛があらわれてきた”これが、生き甲斐の心理学を学び始めてから今日まで、私に起った変化です。悩みにぶつかることは、いつも、私の中の歪んだ自己愛を修正する機会でした。自己愛の問題は人により様々な形であらわれますが、健全なものに近づくと、“知覚が変化し行動が変化してくる”のは、どんな場合も共通です。

30年来の友によると、ごく若い頃から私は、好き嫌いがはっきりしていて、行動を起こすことに慎重で、無駄なことはしない人と、映っていたようです。なるほど、そうかもしれないと思うのですが、今も指摘される慎重な性格は、“外界が怖かった”心を反映して、つくられてきた性格であるのが解ります。自己愛が健康になってくると、外界は怖いところではなくなり、むしろ可能性に満ちた、楽しい場所として映るようになりました。これをはっきり意識したのは、ここ数ヶ月のことですが、“旅が楽しい”と思えるようになったことが、如実にそれを示しています。

自己愛は誰にとっても大事な問題で、自己愛が健康でないと、人生は虚しく、なんとか生き延びるだけの人生に、終始してしまいます。“生き延びる”とは、周囲に翻弄されるイメージがありますが、そうではなくて、主体的に自己を生きる、“生き抜く”人生に変化させることが大事なのだと思います。

歪んだ自己愛は、歪んだ自己愛と結びつきやすいもの。誰にとっても脱皮は繰り返されるもので、歪みはないか、健全なものであるかどうか、自己愛に対する自問自答は、生涯、繰り返されるべきものです。そして、この自問自答だけは無手勝流というわけにはいかないもので、自己愛の知識を身につけ、理解することなしには、不可能です。どうぞ、生き甲斐の心理学を利用して、“生き抜く人生を”を掴んで下さい。


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感情を楽しむ

2008年07月25日 | 無意識の世界
毎日、毎日いろいろなことが起こります。自然との関わりにおいて、家内外の出来事、遠くの友人、近くの知人との交流の中で、何かが起こるたびに、心は揺れて、様々な感情が湧いてきます。人は湧いてきた感情をもとに、体験した出来事にいろいろな解釈を与えていきますが、一つの出来事・体験の直後には見えなかった意味が、暫らく後、“ああ、こんな意味があったのか…”と合点がゆく経験は、よくあることです。

出来事の意味は一つでなく、幾重にも意味が重なっているのだと知ってから、出来事をよく見ることはしても、解釈はなるべく保留するようにしています。とくにイヤな出来事の場合は、考えるより、まずは感情を見ることが大事で、感情をざわつかせたまま考えることほど、無駄なことはありません。そういうときは全体をみる余裕がなく、文字通り感情的な判断しかできないものです。今は解釈はしない。考えないで、感情に意識を向ける。そのように決心することで、以前はなかなか意識に上げられなかったストレス曲線の感情*が、ごく自然に意識に上がってくるようになりました。

不安感と怒りの様々な在りようを意識し出すと、事あるごとに出現する、多種多様の不安感と怒りは面白いほどで、その強弱の妙を観察することが、なんだか楽しくさえなってきます。

不安感と怒りの感情を、きちんと意識できることは、人生でいちばん大事な平安感と、幸福感ある人生の条件なのだと思います。不安感と怒りを飛び越えて―意識できないまま―抑鬱感だけが多いのだとしたら、それは大いに問題ですが、私はこの状況から抜け出すのに、けっこう時間がかかりました。小さな不安感や怒りの、微細な感覚に気付けるようになって漸く、感情を楽しみ、大変ではあるけれど、“生きることは楽しい”と心から言えるようになったのです。


*ストレス曲線 テキスト生き甲斐の心理学・第5章を参照のこと



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夏の自然

2008年07月19日 | 五感と体感
このところの暑さで、ふーふーしています。朝の陽射しが一段と強くなる頃、隣の雑木林では盛大な蝉時雨が始まりますが、これを煩いと感じないのは私が日本人だからで、騒音と思ったら耐え難い大きさです。

降り注ぐ強烈な陽射しを受けながら、事もなげに緑を煌かせている植物たち。“夏は、自然に圧倒される…自然の勝ち”、そんなことをぼんやり考えながら、のそのそ家事をしていたら、突然、大粒の雨が降り出しました。大慌てで、家中の窓を閉めて回りますが、やれやれと思う間もなく、雷鳴が轟きだし、今度はパソコンのコンセントを抜きに走ります。

ぴかっと光る度に身を縮め、轟音の来る瞬間を待つのは、本当に怖しい時間で、“大きいのが来ません様に!”と心で必死に念じます。ゴロゴロッがなんとか無事に過ぎると、激しい雨音の中、次の閃光までの間に今度は手を合わせて“どうか落ちませんように!”と、声に出して言います。いな光の後、暫らくの間は息を止めて、雷鳴が過ぎると手を合わせて祈る。これを数回繰り返した後、いつしか音は遠のき、雨足も弱くなりました。

熱くて堪らないなあと、ぐたーっとしているところに雷雨の襲撃を受けて、こわかったけれど、身体中の細胞が、少しシャキッとした感じです。自然からくるこの程度の脅威は、ほどよい緊張で細胞を活性化させ、生きる意志の確認を促してくれるかのようです。

うだるような暑さの中で、思考するのは難しいもの。酷暑の夏を生き抜くためには、圧倒的な自然の力を感じ、受け取りながら、自然と融合するような気持ちで過ごすのがよいのかもしれません。北方では哲学者が、南方には神秘家が生まれると聞いた事がありますが、夏は、人間が自然界の神秘生活に接近できる、よいチャンスなのだと思います。



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バラの木に惹かれるわけ

2008年07月13日 | 五感と体感
バラが好きで、庭のあちこちに十数本のバラを植えています。農薬は使いたくないので、病害虫用には天然素材を調合した液体を作っていますが、その液体では対応しきれないことが多く、たいていは、虫はピンセットで取り除き、被害にあった枝葉はどんどん切り落とすようにしています。そんなやり方だと、見事な花をコンスタントに咲かせるのは難しく、効果的な予防策がないまま、病害虫で傷ついた枝葉をしょっちゅう目にするのは、ちょっと辛いものがあります。

しかし、どんなに手がかかっても、稀にしか綺麗な花が見られなくても、私はバラ育てが止められません。何故かというと、バラの木の再生の力が私にとって堪らなく魅力的だから、これがいちばん大きな理由です。

春いちばんに現われる新芽の、なんと清々しいことか。傷ついた枝葉を除いた後に、再生した新しい枝。そこに小さな若葉を見つけたときの喜びといったらたとえようがなく、感動して、はっと息を呑む瞬間です。そして、しんとした中にたつ解放感と晴れやかさ、この微妙な気配を体はしっかり感じとります。

さて、昨日のこと。幸福曲線(明るい感情の領域)とストレス曲線(暗い感情の領域)*に照らしながら、自分の感情の傾向を考えていて、ふと気付いたのですが、暗い感情(具体的には小さな怒りでした)から、明るい感情へ移行する瞬間の体感と、バラの木の再生に立ちあった瞬間の体感は同質だと、思ったのです。私にとって少し厄介だった(考えても堂々巡りしてしまうような)感情を、上手に発散させることに成功したときの体感が、バラの再生を見る瞬間と同じだった。これは、なかなか素敵な発見で、バラの木と、感情生活の在りようを重ねて考えると、自身の感情傾向を調べることが、なんだか楽しくなってきます。バラの木との喜びを、もっともっと増やしたくなってきました。


*幸福曲線とストレス曲線は、テキスト「生き甲斐の心理学」の
 第6章、第7章を参照のこと



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自己紹介アレルギー

2008年07月09日 | 愛とゆるし
その昔、フォルクローレの演奏グループの一員だったことがあります。アマチュアですが、幼稚園のクリスマス会や夏祭りの余興、市民文化祭等、お呼びがかかると出掛けて、人前で演奏する機会がけっこうありました。私はケーナという笛の担当でしたが、演奏は楽しい、歌うのも楽しい、拍手も嬉しい。しかし、ものすごく苦痛なことが一つあって、それは大勢の前で“自己紹介”するハメになってしまうことでした。

メンバー紹介で、ペコリと頭を下げるだけなら、どうということはないのに、時々、自己紹介を求められることがあると、もうストレスの極みに上り詰めて、その情況が耐えられなくて、演奏活動を止めてしまったと思える節もあるくらい、最後まで、慣れるということがありませんでした。

そんな自己紹介アレルギーで生きてきた私が、初めて自分を気持ちよく語った体験は、生き甲斐の心理学のワークショップに参加したときのことでした。“自己紹介を兼ねて、今、感じていることを一人ずつ語ってゆきましょう・・・”そのとき、“感じていることや感情”を語ることなら、全く拒否感がないことに気付きます。感じていることや感情を語るのは、職業とか年齢、出身というレッテルとは無関係に、“今ここに在るわたし”を伝えることで、きっと“魂の在りよう”を伝えることでもあります。

しかし、私とは逆の場合もあるでしょう。レッテルだけ言うのは構わないけれど、感情を言うのは苦痛だという人もいることでしょう。人の感受性は様々です。またそれだからこそ、私の人生に起こることや体験すること、感受性は何かを示唆している、意味ある幸福な人生のために、私を導き、何かを伝えようとしていると、考える根拠もでてくるわけです。一風変わったこと、一見すると奇癖と思えることにさえ意味が隠されていることを知ると、自身にも他者に対しても、広く暖かな眼差しを向けられるようになるものです。




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細胞は生きたがっている

2008年07月04日 | 第9章:愛
根源的な不安感というのが、ときどきやってきます。ほんの些細なことがきっかけになって、モクモク湧いてくる感情。孤独でサビシイ。傍らに人がいてもいなくても関係なくやってくる感情。

こういうときの私の処方箋は、一冊の本を開くこと。日常の仕事をこなしながら、時折本を開き、感情が通り過ぎるのを待ちますが、その本は、レイチェル・ナオミ・リーメン著、藤本和子訳の“失われた物語を求めて(原題・Kitchen Table Wisdom)”内容は、人生で最も大事なこと、それが何かを伝える小さな物語で埋め尽くされています。

言い知れぬような不安感に置かれたとき、以前のように拒否するのでなく、(感情を拒否することは、しばしば苦しみを倍増させ長引かせます)感情を認め、落ち着いて対応できるようになったのは、この本が大きく影響しています。この本は、生きることに対する私の信念を強め、確かなものにしてくれます。

★ 人間には(私には)生きのびようとする意志が深い無意識の中に存在している。

★ 人間には(私には)意識にかかわらず、人生をより良く幸福にするために、常に教え導いてくれようとしているものが根拠にある。

人間の深層に内在している善きもの、それを確信させる沢山の物語に触れているうちに、心にひろがりはじめた不安感という靄が、少しずつ晴れてゆくのを感じます。カウンセラーで、長く小児医療にも携わってきた著者が、人びとの小さな物語を通して、「身体は複雑なバランスをもち、生存は優雅とさえいえる戦術の重なりの上に成りたっている」、「細胞の中には生命をたもとうとする粘り強さがある」と、確信をもって伝えてくれてくれるとき、私の中にも、じっとばかりはしていられない、動かなくては、と気力が湧いてくるのを感じます。

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