こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

私の中の、困った人

2013年01月31日 | 未整理
人の話をまったく受けつけない知人がいました。
揉め事があると正しいのはいつも自分で、
人間関係の捉え方が相当偏っているので、楽しくお付き合いできるはずもなく、
親身に関わっていた知り合いも一人また一人と遠ざかり、知人は孤立してゆきました。
遠ざかるだけでなく私はこの知人に対して、次第に無関心になってゆきました。

数年が流れ最近になって、知人の近況を風の便りで知りました。
そこで湧いて来た私の感情は否定的で、
“いつもの合理化…悪しきパターンの繰り返し…”というものでした。
でもなんとなく、そんなことを思う自分に居心地のわるさを感じたのも本当で、
無関心をこのまま放置したくないと思いました。

この人は変わりっこないと他者否定的に決め付けて合理化するとは、
なんのことはない、私も知人と同じことをしていたわけです。
でもそういう反応をする自分に居心地のわるさを感じて、
知人の行動の中に肯定的な要素を見つけようとしてみると、
その方がずっと気分がよいことに気付きます。

わからずやの困った人にも肯定的な見方を意識しようとすることは、
私の中の困った人の要素に対して、知らず知らず否定的に見ていたところから、
肯定的に理解するような姿勢に移行していくことにも、たぶん繋がります。
自分にとってストレスの素になる人が、知らず知らず自分が自分になしてきたことを、
気付かせてくれることが少なくないことを心に留めておくのはよいかもしれません。

こんな自分は変わりっこないと自分を決め付けているようなところがなかったでしょうか?
人間関係が無意識の私を鏡のように映し出してくれることが案外あるのですね。
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決心の、時。。。

2013年01月29日 | 未整理
なんとなく心が沈みがちで明るく生きられないことを嘆く友に向かって、
その人は、ひとしきり友の話に耳を傾けた後、
“そういうときは、明るく生きるって決めればいいのよ!”と、快活に言い放ちました。
悩める友にその言葉がどのように聴こえたかは別にして、私は嬉しい驚きと共に、
やったね!と心の中で、その人に喝采を送っていました。

“明るく生きると決める!”とは、その人が自分で掴み取った実感のこもった言葉です。

思わず口から飛び出した言葉だったかもしれませんが、私には、
その人が自らの内にありながら知られていなかった力に目覚め、
自分で自分を幸せにする道を選択して歩みだそうとしている決意表明のように聴こえたのです。

自分で決める。自分で選択して決めることなしには何も始まらない。
このことが深く自分に浸透して、それがわかるまでに私などは十年余りかかったような気がしますが、
時間の長短はどうでもよいとして、知られていなかった内なる力に気付き、
自分で幸せになろうと決意して、その道を歩もうと決める“時”が人にはあるようです。

いつ時がくるか、それは誰にもわかりませんが、
この“時”が誰の上にも開かれているのは、確かなことなのです。

心が沈むとか暗い感情、ストレス曲線の感情は、その人の中に、
幸せな道を選択するためにバランスをとるべき何かがあること、
統合すべき何かがあるということを知らせてくれる大事なシグナルです。

絡まりに絡まった感情を少しずつ解いていく中で、人は少しずつ心のバランスを取り戻してゆきますが、
明るく生きると決意したその人も、そうやって心のバランスを取り戻したのです。
その人の内なる力に気付く喜び、快活さのエネルギーは、鏡のように、
冒頭の友人にも、いつか自身に気付かれていない力の存在に気付くきっかけを与えるかもしれません。

人には力がある。感情によって心のバランスを取り戻し、
自らの力に目覚める“時”が誰の上にも開かれているということを、私自身、
今あらためて深く深く心に<刻みつけよう。。。刻もうと決めました。
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否定することを、否定しない。

2013年01月23日 | 未整理
否定することを否定する。これがいちばん心の環境にとってよくないようです。

感情が湧いてくるのは自然現象のようなもので、
肯定的でも否定的でも、感情そのものによいも悪いもありません。

それなのに、このことを頭では十分理解しているはずなのに、
否定的な(原初的なところでは怖い、嫌いというような)感情が湧いて来ると、
つい感情に対して否定的になる、つまり否定することを否定する姿勢に自動的に傾いてゆく。。。

この傾向が改められるだけでも精神衛生がぐんとよくなります。

あまりに無意識に自動的にスイッチが入るので、否定的な感情を否定していることに人は案外気付いていないようです。
否定的な感情は身を滅ぼすかのような思い込みが、とことん沁みついているせいかもしれませんが、
ここで身を滅ぼす原因が感情にあるのではなく、否定的感情を否定する姿勢の方に問題があることを、
意識して、沁みこんでいる思い込みの方を修正しておくのがよさそうです。

まずは否定的な感情を否定している自分を意識するところからですが、
否定することを否定しているときの心の暗いトーンに気付いてみてください。
それに気付くと、きっと自分を変えたくなって、否定することを否定したくなる姿勢を、なんとか変化させたいと思うようになります。

そんな気付きの最中、否定的な感情を否定している自分の傾向に気付きだした途端、早速おもしろいことがありました。
家人の否定的な感情を否定して、ちょっとした言葉のバトルが起こりました。
相手の否定的な感情を感知するや自動的に否定的な感情で反応している自分に気付いたわけですが、
感情によいもわるいもないという定義は、もちろん他者にも当てはまるわけで、
否定的な感情を頭ごなしに否定することは身を滅ぼすという警鐘をしかと受け止めた朝でした。

とにかく、まず自分の内に湧いて来た否定的な感情を否定しない姿勢をもつのが先決で、
それができてくると他者の感情に対しても、否定的な反応が消滅して、それは、
平和な人間関係を築く上で外せない、基本中の基本の姿勢なのだと思います。

さて家人の否定的な感情に触れる機会をテグスネ引いてまっているような気分で、
こちらの反応の変化が、どのような言葉のやり取りを生み出すのか。
家庭内の平和構築のプロセスを、大いに楽しもうと思っているのです^^)
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感情に、どんな意味があるのだろう

2013年01月19日 | 未整理
どんな感情にも意味があるというならば、
ネガティヴな、他者否定的な感情が湧いてくるのにどんな意味があるのだろう。
そのような感情を嫌ってきた私としては、そこをしっかり押さえて置きたいと思います。

感情には意味があるというとき気をつけたいのは、意味を考えるべく、
いきなり誰かとの関係にフォ-カスすることは、イライラを募らせるだけかもしれません。
個別のケースを考えたい場合は、まずは湧いて来た感情を受け容れて、
受け容れることによって心を安定させてから、
感情の背景にある自分の考え方、自己概念を考えるのがよさそうです。

感情を受け容れるということが、言葉でいうほど簡単ではないから、
時間をかけて心の仕組みを学び、学びを日々の体験に照らして、こういうことかと、
腑に落ちる経験を何度も重ねながら体得してゆく必要があるのでしょう。

感情には意味があります。一つには、
否定的な感情が湧いてくると、その感情が嫌いだと感じるところに意味があるように思われます。
否定的な感情が湧いてくるのは、心の深いところで自分が他者肯定を希求している証であると、
捉えてみるとどうでしょう。。。何か大事な大事な宝物が、
心の深い深いところで、私に掘り起こされるのを待っているような気がしてくるのです。

ときどき感情体験することの意味を、広やかな視野に立って、
感情は心の奥底に眠っている宝物を知らせてくれている。
宝物を掘り出すのは私しかいないことを、思い出すのは大事なことかもしれません。

広い視野で眺めることをしながら、日々の感情をありのままに認め受け容れてゆくことができたなら、
心の奥底の宝物を自在に掘り起こすことができる、新しい私が生まれてくるように思うのです。
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暗くなる必要があるだろうか。

2013年01月16日 | 未整理
今ここでの体験の解釈、それが何より大事と書いた途端、
今ここで、どうしても暗く考えてしまう不愉快なことに遭遇するとは…よくできています。
なにこれ?意味がわからない。どーもかみあわない。こういうこと前にもあった…。
ちょっとした理不尽を感ずるや、いとも簡単に暗い解釈に落ち込んでゆく私がいます。

理不尽を知覚して不愉快になる。そのような感情はどのような思考から湧いてくるのか?
理不尽を感ずる、それはよい。そのように自分が知覚することは認めるとして、
そこから先、暗くなる必要があるだろうか?理由があるだろうかと冷静に考えてみれば、
考えるほどに、ないということが、はっきりしてくるのです。

理不尽を知覚した自分を認めることと、相手が本当に理不尽であるかは別物と捉えるのが
ここで、冷静かつ理性的に考えるコツかもしれません。

その言葉を聞いて、いや~な気分になった自分のことは認めてやる。
自分の感情を受け容れてやると、感情的にぐるぐる考えだすような堂々巡りに陥ることなく、
出来事を落ち着いて見られるようになります。

感情を受け容れることで感情と思考を切り離す。ここがポイントです。

感情をいったん受け容れると、相手の言動は本当に理不尽といえるか?
理性的に思考が動き出し、相手の心の枠組み(物事の捉え方)に思いを致す余裕もでてきます。

感情を受け容れるということは、自分が思っているほどにはできていないものらしいということを、
案外できていないらしいことを知っておくのは大事かもしれません。

本当は受け容れていないのに、受け容れたつもりになっているところから、
感情的で暗い堂々巡りの思考が始まってしまうようにも思うのです。

どんな感情が湧いてきても、それをいったん受け容れる。
明るい気持ちで、自己受容的な雰囲気で受け容れる。
どんな感情でも湧いてくる感情には意味がある。私にとって大切な意味がある。
感情は宝物であり人生の大事な道しるべ。これをよくよく頭と心に刻み付けておきたいものです。
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体験の解釈が、世界を変える

2013年01月14日 | 未整理
体験の解釈は世界を変えるとは確かにその通りで、
言葉を頭で理解していた頃よりも、うんうん本当にそうだと、
近頃の方が、言葉が身に沁みてきたようです。

体験の解釈が世界を変えるとは、
出来事を振り返り思い込みを点検することで解釈が変化する。
解釈が変わると、出来事に対する感情も変化して、
ストレス曲線から幸福曲線へと心の世界も変化する。

出来事の思い込みから解放される、
嫌な思い出と思い込んでいたものが懐かしい思い出に変化する。
これも確かに大事なのですが、この言葉にはもっと大事な意味があって、
あの体験、この体験、あの頃の出来事、この出来事、苦い思い出…などなど、
体験の一つ一つを検証するような姿勢だけでは、
言葉の意味を十分生かしているとはいえないかもしれません。

考えてみれば、体験とは絶え間がなく、生きていることは体験の連続なわけです。
ということは、生きることは体験の解釈を絶え間なく続けることでもあるわけです。
いちばん大事なのは、今ここでの体験の解釈ということだと思います。
今ここで、世界をどのように捉えているか。私は世界をどのように捉えようとしているのか?
絶え間ない体験の世界で、絶え間なく自由意志を問われ委ねられているともいえそうです。

人間には解釈の自由が委ねられています。
考えてみれば、これはすごいことだなあと思います。

今ここでの体験の解釈の自由は誰の上にもあるわけで、
生きている人全員にあるわけで、年齢も境遇も性別も何も関係がないとは、すごい。。。
綴りながら思いましたが、この自由を存分に生きること、
誰もがもっているのに自分で気付かない自由を生きる体質に気付き、
この体質を強化していくのが、生き甲斐の心理学の学びの大きな目的かもしれません。
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自分のためか、他人のためか

2013年01月07日 | 未整理
その道の専門家が子供達に授業をするテレビ番組で、
創作活動に携わっている先生が子供達に向かって、
創作するときは使命感を感じて取り組むことが何より大切であると語った。
その言葉に友人はとても感動したそうです。

誰かのためにそれを成すことがとても大事というところに
共感したという友人の話を聞きながら、私は違うなあと感じました。

自分のために成すのが一番で他人のためには、その結果として得られるもの。
私はそう考えるほうがしっくりくるので、そう言うと、
誰かのために成す、使命を果たすことが結果として自分のためになるんじゃない?と言われました。

最終的には、あなたもわたしもハッピーに変わりはないのだけど友人と私は順序が逆です。

私は私の入り口から目指すのが平安で、友人の順序では不安を覚え、
友人は友人の入り口から目指すのが平安で、私の順序では不安なわけです。
最終的に同じところを目指していても入り口が違うとは、
おもしろいなあと思いますが、この違いは自己概念の違いからきています。

とりわけ母親をどのように知覚して成長してきたか。
友人と私の場合は、その違いが大きく影響しているのではないかと察しをつけています。
意識の上で自分を殺して(本人の言葉ですが)誰かのために生きてきた母に対して、
どちらかというと自分中心に自身の要求を押し通す人生を送ってきた母の違いがあって、
それぞれが、よくもわるくも母の影響を強く受けて成長してきたところは共通しています。

興味深いのは友人と私の歩んできた人生も、どちらかといえば母たちが反面教師みたいに交差しています。

テレビの授業を受けた子供達は何かを成すためには誰かのために、
使命感が何より大事という考え方を自己概念に取り入れて大人になることでしょう。
この自己概念が子供達それぞれの人生の中で、平安感のもとになることもあれば、
ストレスや不安感のもとになることもあるでしょうが、それでよいのです。

知らぬ間に身につけてきた自己概念を大人になって自由な心で検証しなおす。
いらないものは捨てて、よいものはまた意識的に自己概念に取り入れてゆけばよいだけの話です。

自分と誰かが幸せになれる道なら入り口はどちらでも構いと思います。
ただ成育史の中で育まれた独自の自己概念を知ることで、
自分の一番しっくりする道が見つけられることもある。それを覚えておくのはよいかもしれません。
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ひと続きの、愛

2013年01月04日 | 未整理
こんなに心穏やかな越年は、かつてなかった。
生まれて初めてだと思いました。

以前より自分に寛げるようになった感じがしていて、
外界のあれこれに右往左往することがなくなりました。

実にふしぎなんですが、どうしてあんなに迷ったのか。
他者に対する対応をいちいち迷って、消耗していたなんて。
随分、疲れる人生だったなあ。。。と。

自分に寛げる感じは、自己信頼の目盛が上がったことからきているのだと思います。

どうしてあんなに迷ったんだろう?
一人一人との関係を、その人とわたしの関係を、
ユニークなひと続きの、まとまった関係性として捉えてみれば、
難しいことなど一つもなかった。
遠い人、近い人、濃い人、淡い人、惹かれる人、そうでもない人・・・
あなたとわたしの関係は、それぞれ違って当たり前、
他者の数だけ関係性も様々に現れてくるのは当然でした。

どこかで他者を一緒くたにしていたような気もして、
個々の相手の個性を、よく見てこなかったのかもしれないと思います。
余分な防衛機制の働きや何か理由があってのことでしょうが、
相手のことをきちんと見なければ関係性もユニークになりようがありません。

遠くても近くても、淡くても濃くても、惹かれても惹かれなくても、
あなたとわたしを、ひと続きの関係としてユニークに育むことは、
とてもおもしろいことなのだと強く思うようになりました。

それは縁を大切に生きることにも通じるでしょう。

苦手な人は苦手な人なりにおもしろい。
相手の存在と個性を認められる適当な距離を見つけて、
ひと続きの関係性を保つおもしろさを存分に生きてみたい。
新しき年の私の楽しみであり、ちょっとスリリングなテーマです。
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