人の話をまったく受けつけない知人がいました。
揉め事があると正しいのはいつも自分で、
人間関係の捉え方が相当偏っているので、楽しくお付き合いできるはずもなく、
親身に関わっていた知り合いも一人また一人と遠ざかり、知人は孤立してゆきました。
遠ざかるだけでなく私はこの知人に対して、次第に無関心になってゆきました。
数年が流れ最近になって、知人の近況を風の便りで知りました。
そこで湧いて来た私の感情は否定的で、
“いつもの合理化…悪しきパターンの繰り返し…”というものでした。
でもなんとなく、そんなことを思う自分に居心地のわるさを感じたのも本当で、
無関心をこのまま放置したくないと思いました。
この人は変わりっこないと他者否定的に決め付けて合理化するとは、
なんのことはない、私も知人と同じことをしていたわけです。
でもそういう反応をする自分に居心地のわるさを感じて、
知人の行動の中に肯定的な要素を見つけようとしてみると、
その方がずっと気分がよいことに気付きます。
わからずやの困った人にも肯定的な見方を意識しようとすることは、
私の中の困った人の要素に対して、知らず知らず否定的に見ていたところから、
肯定的に理解するような姿勢に移行していくことにも、たぶん繋がります。
自分にとってストレスの素になる人が、知らず知らず自分が自分になしてきたことを、
気付かせてくれることが少なくないことを心に留めておくのはよいかもしれません。
こんな自分は変わりっこないと自分を決め付けているようなところがなかったでしょうか?
人間関係が無意識の私を鏡のように映し出してくれることが案外あるのですね。
揉め事があると正しいのはいつも自分で、
人間関係の捉え方が相当偏っているので、楽しくお付き合いできるはずもなく、
親身に関わっていた知り合いも一人また一人と遠ざかり、知人は孤立してゆきました。
遠ざかるだけでなく私はこの知人に対して、次第に無関心になってゆきました。
数年が流れ最近になって、知人の近況を風の便りで知りました。
そこで湧いて来た私の感情は否定的で、
“いつもの合理化…悪しきパターンの繰り返し…”というものでした。
でもなんとなく、そんなことを思う自分に居心地のわるさを感じたのも本当で、
無関心をこのまま放置したくないと思いました。
この人は変わりっこないと他者否定的に決め付けて合理化するとは、
なんのことはない、私も知人と同じことをしていたわけです。
でもそういう反応をする自分に居心地のわるさを感じて、
知人の行動の中に肯定的な要素を見つけようとしてみると、
その方がずっと気分がよいことに気付きます。
わからずやの困った人にも肯定的な見方を意識しようとすることは、
私の中の困った人の要素に対して、知らず知らず否定的に見ていたところから、
肯定的に理解するような姿勢に移行していくことにも、たぶん繋がります。
自分にとってストレスの素になる人が、知らず知らず自分が自分になしてきたことを、
気付かせてくれることが少なくないことを心に留めておくのはよいかもしれません。
こんな自分は変わりっこないと自分を決め付けているようなところがなかったでしょうか?
人間関係が無意識の私を鏡のように映し出してくれることが案外あるのですね。