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こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

快復のきざし・・・

2011年08月25日 | 魂と聖霊
このところ、どうも体調が思わしくありません。
夏の疲れが出る頃ですが、年齢的なものもありそうです。
加えて、お盆前後の旅の疲れも尾を引いている気もします。

心と体の疲労の割合は、どの程度のものか。
心と体とマイナスの相乗効果で、いつもより疲労感が長引いているのでしょうか。
気になっていること(不安な要素)を意識化して、
それが解消されたことを想像してみても、あまり変化しないところをみると、
やはり心よりは体の夏バテの要素が大きいのでしょう。

不調を乗り切るために、睡眠と食事を意識することはもちろん、
今は一冊の本を傍らにおいて、時間があれば開いています。
以前ブログにも書いたことがある、「失われた物語を求めて」という本ですが、
人に内在する生命力/魂に思いをいたすのは、
元気一杯のときよりも、身心が不調のときの方が相応しいのかもしれません。

読み返しながら、一つ一つのエピソードの内容は忘れていますが、
セラピストの著者がその現場に立ち会った、人のもつ生命力/魂の物語を読む度に、
魂を確かな実在として、私の内に感じているのだと思います。
この本は私にとって、内容の把握より“感じること”がウエイトを占めて、
もっといえば、物語に触れることで“魂を経験している”のだと思います。

今日あたりは、いつになく酷い夏バテにも意味があった。
そう思えるようになって、快復してきている何よりの徴かもしれません。

(160-17)
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大きな自己受容

2011年08月06日 | 魂と聖霊
街であれこれ用事をしながら、ふと、ふしぎな感覚におそわれました。
一瞬でしたが人生に納得した感じ、これまでにない多幸感が
意識に降りてきて、なんともいえない平安感に包まれました。

自力では辿りつけない体験の解釈が、自ずと起こった・・・
そんなふうにもいえる体験の、微かな余韻は今も続いています。

私は私・・・究極の自己受容とでも呼べる瞬間が、
知人が古い寺院で祈っているときに起こった話や、
遥か外地の高原の湖で、湖面に反射した光に貫かれる感覚とともに、
その瞬間すべてを了解した・・・そんな体験を本人から聞いたこともあります。

寺院や湖水の体験のように劇的ではないけれど、
日常のふとした拍子に起こった感覚、私の体験も、
それらに連なる自己受容の瞬間だったと感じています。

それはストレス曲線のどん底をさ迷い歩いた挙句、
もはやこれまでと我をを手放した途端、
ふしぎな体験として大きな自己受容が降りてくるようです。

大きな自己受容は、人生の時に適って、
それぞれの個性にいちばん相応しい形でやってくるものかもしれません。

(120-12)
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夏の夕暮れに

2011年07月12日 | 魂と聖霊
今日も一日暑かった・・・ソファに倒れこんで、ぼんやり小窓を見上げていました。
西日が射し込み、光の帯が床までのびています。
風に揺れる梢の緑に見とれていると、お寺の鐘の音が聞こえてきました。

涼風が心地よい時刻には、濡れ縁に出て深呼吸。。。
緑の空気をいっぱい吸い込むと、満ち足りた気持ちになりました。

帰宅して一時間あまり、自然の中に溶け込むような時を過ごしながら、
このところの、心身の凝りがほぐれてきているのを感じました。

光の帯と深緑の中の虫の音、小鳥のさえずり、そして夏の夕暮れの匂い・・・
私を育んでくれた自然環境の様々な風景が、甦ってきます。

梢の向こうにオレンジの月がのぼる頃には、
“あなたが間違っている”・・・このところ私を苦しめてきた
他者否定の思い込みが、崩されるつつあるのを感じていました。

人は、心と体と魂から成っています。

ときどき生育史の心は、他者否定することでバランスをとろうとしますが、
愛そのものの魂は、他者否定に苦しみを感じます。だから、
他者否定からくるストレス曲線(暗い感情)は、魂の感情といってよいのかもしれません。

たぶん夕暮れ時の自然に心身を委ねたことが、魂のためにとてもよかったのです。
扇子を取り出す元気もないほど精根尽きたとき、
自然の息吹の中で、心の防衛がいとも簡単に解かれたようでした。

(120-4)
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本質的な、不安感

2011年04月28日 | 魂と聖霊
久しぶりに開いた本の中に、魂の美しい表現をみつけました。

「ひとは誰でも、まじりけのない一点をもって生まれる。
期待や後悔、野望や困惑、怖れや心配から自由な、
最初に神の祝福をうけた高潔な一点をもって。そこから安らぎが生まれる」
「やむことのない緊張の中にあって、人間は汚れ混乱する。
しかし疲れきったとき、われわれは人間の核心にある腐敗しえない高潔な一点に回帰する。」
マーク・ネポの言葉、“失われた物語を求めて”(レイチェル・ナオミ・リーメン著・藤本和子訳)より。

人は心と体と魂から成っています。
「人間の核心にある腐敗しえない高潔な一点」を想うとき、
湧いてくる感情には、この一点に至るための大事な示唆が含まれていると感じます。
成育史の心の理解が深まるほどに、その確信は強まりました。

人間の本質は不安といわれていますが、
臨終の時、生物としての人間から離れゆく魂・・・
永遠に存在する神の祝福を受けた高潔な一点/愛の魂を、
ときどき意識してみることは、私の潜在する緊張感を和らげることになります。

魂について知りたい、感じたい、考えたい・・・子供の頃から、
なんとなく抱いてきた魂への希求が満たされて、どれだけ安堵したことか。
最終的な目的に統合される平安感は、魂への信なくしてはありえないようです。

(119-15-3)
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きらっと光るもの

2010年12月27日 | 魂と聖霊
少し前のテレビで、91歳になる絵本画家のことを知りました。
ニュースの中のトピックで、ちらっと見た瞬間、
すごいっ、すてき、かっこいいーと、惹きつけられました。
自己を追求する迫力が、燻し銀のような光を放っている。
老画家は北斎が一つの目標といいますが、90歳をこえても、
まだまだこれからと憧れのイメージに制限をつけないところが、
かっこいいし、こういうところが本物の人の真骨頂と思うのです。

老いてなお精力的に活動しているからといって、
誰でも魅力的というわけではありませんが、(どんなに有名でも!)
老画家には、なんとなくC・イーストウッドと共通のものを感じます。
年齢を超越した、何かきらっと光るもの・・・
やはりそれは魂が、というほかない気がするのですが、
にじみ出た魂の気配に引きつけられるのだと思います。

そこに守りの姿勢はなく、世間の評価と関係ない次元を、
ゆうゆうと我が道を歩んでいるように見えます。
だからといって、もちろん独りよがりでもない。
魂は愛そのものであると定義するならば、
魂の気配に引き寄せられる心は、いつだって、
自己肯定と他者肯定の世界を求めているに違いありません。

(101-4)
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魂としての、わたし

2010年08月28日 | 魂と聖霊

こころ(成育史)と体が、時間の制約を受けるのに対して、魂は時間の制約からは自由で、死後も体を離れて存在し続ける・・・そう、わたしは信じているのですが、“わたし”をどこに位置づけるか?こころと体を、わたしとして意識するよりも、魂としてのわたしを意識する方が、遥かに安定感がよいことに気付きます。

魂のわたしを意識するだけで、風景がまったく違ってみえてきて、たとえば何か問題をかかえて汲々としている情況にあったとして、魂であるわたしを意識するだけで、なんとなく一呼吸おく余裕がうまれてきます。

「人間の方が、ゲノムという乗り物に乗ってこの世に現れ、ゲノムの持つあらゆる可能性を駆使して生き、死ぬときにはゲノムを乗り捨ててこの世を去る。」

免疫学者で春に逝去された、多田富雄さんのこの言葉はまったくそのとおりで、わたしの考える人間をくっきりと表してくれていると感じました。

「人間の方が」の人間が、魂としての人間を指しているのは明らかです。

人間の方が、DNA(ゲノム)という乗り物に乗ってこの世に現れ・・・この言葉を考えただけで、わくわくしますし、広やかな宇宙に在るわたしと、永遠のイメージが重なってきます。

(青人草・61)

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遍在する愛へ

2010年08月13日 | 魂と聖霊
ホオズキとホウキ草をふれあい市場で買ってきました。
庭の草花をみつくろって竹かごに活けようと思います。
ほのかにピンクのバラの花は別バージョンでガラス器に。
考えてみれば、お盆は本家のものと決まっているわけでもない。
遍在する愛のために懐かしい記憶を再現しよう…!



(青人草・51-3)
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空を巡る巡礼

2009年10月02日 | 魂と聖霊
劇団東演の“どん底”を観ました。舞台には4体の二段ベッドと二十数名の役者たち。全員が白を基調とした衣装に、セリフや音楽に合わせてベッドの上を回転しては、浮遊するような歩行を繰り返す。独特の動きは透明な混沌とでもいったらよいのか、なんともふしぎな世界が展開します。

どん底を生きる人々の救いようのない現実が描かれている一方で、どん底にあってもなお善きものを希求して止まない心の本性が描かれている。それが希望の光として、確実に観る者の心に残ります。洗練の極みと思える演出と鍛錬あればこその役者のしなやかな動き。久しぶりに手が痛くなるほど拍手しました。

どん底の人々に揶揄されながらも信念を曲げず、信じる言葉を言い残して立ち去ってゆくルカにこんなセリフがあります。“わしらは、みんなこの地上では巡礼さ。わしらの地球だって空を巡る巡礼というじゃないか”。ゴーリキーの戯曲が生まれて100年を経て、今尚上演を重ね観客を集め続けているテーマは、やはり“信じて見えてくるもの”なのだと思いました。

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満ち足りた時間

2009年02月10日 | 魂と聖霊
少し前になりますが、テレビでスロバキアの山間の村、ヴルコリニェツのクリスマスの様子が放映されました。18世紀の木造民家が世界遺産にも登録されて、クリスマスは里帰りの人で多少賑やかになりますが、平素は6世帯、人口28人の小さな集落の映像です。

番組は村人のミネルヴァさんが共同の清水場で水汲みする場面から始まりました。細い雪道をバケツを提げて家に戻ると、壁際に暖房と調理ができる頑丈なキッチンストーブ、真中に大きなベッドのある室内が映し出され、一人暮らしの日常生活はこの一部屋で営まれているのがわかります。

クリスマス・イヴ。書机に小さな灯りをともし、ミネルヴァさんは一人静かに祝い日の晩餐をとります。飾り気のないシンプルな食卓ですが、傍らに立つ大きなモミの木には、母から譲り受けた大切なクリスマス飾りが煌いていました。食事が済むと深夜のミサに与るために教会へ。

人口が今の何十倍もあって賑やかだった子供時代から、今に至るまでの村の暮らし、天国のご主人との想い出の数々。いちばん大切な方と静かに向き合い対話しながら過す最良の時。映像を通して、すべての出会いの核になる最良の関係を慎み深く生きている女性の、満ち足りた時間がしーんと伝わってきます。

観終わって、番組開始から30分も経っていないことに驚きましたが、最良の関係に見入って、いつもはあまり経験することのない時の流れを漂っていた、そんな気がしました。

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ミカンの花咲く遺跡

2009年01月06日 | 魂と聖霊
子供の頃に親しんだ童謡の絵本。♪ミカンのはーなが さーいているー ミカン畑に座って海を眺めている姉弟の後姿の挿絵が、妙に心に残っています。訪ねた遺跡は、その絵を連想させるようなミカン畑にありました。

そこでは、縄文土器だけでなく石器も発見されており、先土器時代の遺跡分布に、「早水台(そうずだい)型石器」と名前が載っています。そんな名のある遺跡が立て札だけというのは拍子抜けでしたが、ミカン畑に踏み込むや “その場の気配”に魅了されました。“ここに住んでみたい!”・・・太古から累々と、人が暮らし続けてきた場所がもつ“まろやかな空気感”とでも呼びたいような心地よい気配が満ちているのです。

遺跡の後に足をのばした神社では、初詣客の混雑で、清澄な空気は多少薄められているような気がしました。

場所にはそれぞれ独特の気配があって、更に、そこに人びとの気配や思いが混ざり合って、折々の雰囲気を醸し出すものなのかもしれません。

太古から先人が積み重ねてきた空間に私は存在している…そして私の気配も今この時空に織り込まれているのだという、あたりまえのふしぎ。身近な史跡や遺跡を訪ね、人類の足跡を想う時いつも、せせこましさからの解放と深く広やかな眼差しを与えられるのを感じます。

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