こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

のこされたもの

2013年12月29日 | 
この一年は変化の大きかった一年でした。

ほんの2、3ヶ月前と比べても変化した自分を感じるのですが、
余分な防衛機制が外れたことを、以前とは違ってきている、
自分は変化してきていると感じているみたいです。
“感じているみたい”とは自分のことなのに変ですね。
でも、そんな言い方がしっくりします。

何が余分で何が必要な防衛機制であるかは本人しか判りませんが、
自分にとって余分だったものがとれるほど、
あれこれと無駄に考えていた時間が減ってくるように思います。

余分なものをもっていると大事なものを見逃してしまう。
このことを、はっきり解らせてもらった一年でした。
あれこれと考えて心を騒がせている間に、
味わうべき大事なものを見逃してしまう。
不毛な思考に費やすほど感じる能力を失ってしまうと、
それをよくよく示された一年だったと思います。

一年の間に大切な女性が二人、見えない世界に旅立ってしまいました。
二人との最期の日々を思い巡らす中で理解できたことでした。
私にとってグレートマザーと呼ぶに相応しい二人は、
その名に相応しく意味深い学びを遺していってくれたのだと思います。
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脆い部分を受け留める

2013年12月26日 | 
忘れたころにやってくる感情のパターンがありまして、
どーんと落ち込み、うつうつして何も手につかなくなる、
神経が過敏だった頃は頻繁に起こっていたこのパターンを、
自分ではストレス曲線の5段階の<錯乱>と位置づけています。

うつうつとした気分を周りに発散させていた頃に比べれば
数時間も一人悶々とすれば回復して、
人知れず通過させられるようになりました。

共通の条件が揃うと起こるパターンは、
もちろん他者が関係していますが、
これまでのように、いつものパターンにいつものやり方で応じて、
なんとなく通過させてしまうのは止めにしたくなりました。
人知れず悶々とする数時間が耐え難くなったとは、
次のステップに進むべき時が来たということです。

条件が揃うと同じパターンで反応する身心の部分があるのだということ。
回復したように見えても本質的な解決にはなっていない。
だからこそ同じことを繰り返すのだし、
反応する部分をケアが必要なもう一人の私であると、
そのように捉えてみたらどうだろう?

その部分は自己否定、自己嫌悪と結びつきやすい脆い部分で、
調子がよいときには忘れているだけの話で、
何か事が起これば、条件が整えさえすればすぐに脆い私が現れてくるわけです。

脆い私に対してパターンの原型を辿る自己分析だけでは、
どうも本質的な解決にはならないようです。

脆い私の存在を認めてやること。
調子のよいときにも消滅したわけではなく私の一部として常に存在していることを、
きちんと認めてやることが、どうも必要なようです。

思考の理解だけでなく感覚とイメージで理解してやると、
私の中の脆い部分は、とてもホッとするみたいです。
要は私が私のカウンセラーとして脆い私に関わっていく。
脆い私を受け留めてゆく。。。そういうことなのだろうと思います。
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感情には、意味がある

2013年12月23日 | 意識と知覚
前回に関連して。
今度は相手の立場から、なぜ和解が成ったのか?
ずっと考えていた訳でもないのですが、
一年のこころの軌跡を辿る日々を過ごす中、ふと考えたことです。

相手の思考の枠組みにおいて何がよかったのかと想像すると、
自分に正直であったこと、これが一番よかったのだと思います。
誤解にせよ、思い込みにせよ、相手がワルイと知覚した。
知覚したことで湧いてくるネガティヴな感情を意識できていたこと。
怒りや恨み、それらの感情を正直に認めたこと。

ネガティヴな感情を認めること。
場合によっては自分の中の見たくない感情をきちんと見つめることが、
何よりも大事な和解に欠くことのできない要素と思われます。

感情を意識した後の対応、どのような防衛機制で折り合いをつけるのか。
こころの安定を図る方法は個性によって様々な形をとることでしょう。
大人の対応、子どもっぽい対応、陰性、陽性・・・
その人その人の個性と限界にもとづいて、感情はいろいろに処理されるにしても、
感情を意識できていれば和解の時は思いがけない形でやってくるかもしれません。
意識の上でそれを望もうが望むまいがやってくる可能性があります。

でも、もしも感情を抑え込んでいたとしたら。
怒りや恨みの感情がないがごとく自分自身にウソをつくとしたら、
和解の道は閉ざされてしまうことでしょう。

今回の和解は双方が自分の感情に正直であったからこそ成ったのです。

さてここで、私の中の別の一つの問題が意識され、
ネガティヴな感情、できれば見たくない感情の存在にも気付くわけですが、
抑圧から解放されたことを、よしとしたいと思います。
そこには思い込みがあるかもしれない。ひょっとすると誤解を含んでいるかもしれない。
でも意識化し認めたことが、いつかくるかもしれない和解への一歩に、
幸福曲線という天国への道、その可能性に開かれたことは確かだと思っているのです。
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平安と、バランス

2013年12月13日 | 螺旋状に上昇する意味
ごく最近、誤解が解けて実に穏やかな交わりが成った…体験をしました。
私が誤解していたのでなく、しっかり誤解されていた立場なのですが、
その始まりを考えると20年近くネガティヴな感情を向けられていたことになります。

そも、こころの世界において私の方はとうの昔に和解していたので、
今回こころの和解が成った相手の安堵を想像して、よかったなあとしみじみ思いました。
恨むことが苦しく自身を消耗することであるというのは、私もよく知っています。

防衛が崩れた相手のあたたかな想いに接することができて、
もちろん、とてもうれしかったのですが、
こんなふうに幸いな展開が訪れたのはどうしてなのか。なぜ和解が成ったのか?
そこには何か法則のようなものがあるのではないか?と、
そのことが気になって、なんとなく自問し続けています。

要はバランスの問題なのではないか?
双方の在りようのバランスがピタッとはまったとき、
和解が成るための必要条件が満たされて、
和解は思いがけない形でやってくるのではないかと自問は決着しつつあるのですが。

死ぬまでに誤解が解ければいいなと…なんとなく、
考えるともなく考えてきた委ねる姿勢がよかったのか。私の委ねる在りようが、
たまたま今回は、全体のバランスにおいて合致したということなのだと思います。

見えない世界のバランス。
見えない世界が反映されて現れる、見える世界のバランス。

場合によっては委ねて待つことよりも、誤解を解消すべく行動することの方が、
全体のバランス、和解へのプロセスに適うこともあるのだと思います。

大前提は、まず私自身が和解すること。
どのような形であれ納得した道を選択して、
私自身が平安であることが和解の前提になるのでしょう。

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成育史のこころ+魂のわたし。。。

2013年12月10日 | 和解と平和
大抵の場合、物事が滞りなく進んでいるとき、
思考と現実のギャップがないときに、
自分の感情を意識することはありません。

それに対して、上手く事が運ばないとき、
思考と現実のギャップが生まれたときに、
感情を意識することの方が圧倒的に多い。。。

物事が上手く進んでいるときの、
とくに意識することもない、平らかな感情が
どこからきているものなのか?
その時のことを想像して、ちょっと考えてみると、
こうありたい、こうあるべきだ、こうあってほしい等などの
理想が満たされていることからくる平安であることがわかります。

今日はここまでやると決めた何か。今やろうとしている何か。
勉強でも家事でも社会貢献の活動でも何でも。
思考したことが滞りなく進んでいるとき、こころは平安です。

こころは成育史で育まれてきた考え方、理想の領域と考えますが、
理想と現実のギャップがないとき、成育史のこころは安定します。

でも、ここでちょっと考えてみたいのは、

成育史のこころが満足して、それでよしとしてしまわずに、
上手く事が運んでいるときこそ、
今ここで、ここに在る私が成して/為していることに、
今、生きていることのヨロコビに感じ入る瞬間がもてたなら、
上手く事が進んでいるという事象に対する、
私のあるべき応答なのではないかと、そんな気がしてなりません。

人はこころを満足させただけでは、幸せではないようです。
遅かれ早かれ人生のとこかで魂の充足という問題がでてくるのだとしたら、
こころに加えて魂の私を意識しておくのは早いほどよいかもしれません。

とはいえ、人にはそれぞれのプロセス、人生の展開があるので、
“時にかなって”素直にプロセスに従って進んでゆけたらいいですね。
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