メジャーリーガーのイチローが小学生の野球少年に向かって、毎年何かメッセージを伝えている中で、今年は「我慢」ということが、人生において非常に大切とのメッセージを送ったとのこと。間接的ではあるが、TV画面を通じて、イチローが待遇、処遇で「我慢」していることが伝わってくる。周囲の人々にその様子が伝わる状況であれば、それに越したことはないと思ってしまう。通常は、その「我慢」の状況に理解者、支援者が見えないが故に、一般人にとっては、非常につらい状況となってくるのだ。生活が保証されているというような前提があるのとないのでは大違いだ。そうかと言って、少年たちに「我慢」ということが大切と伝えたメッセージが悪いということでなく、むしろその逆で、人生訓のひとつとして意義あることだと思っているが。
宗教的なバックグランドなど無関係で、何でも受け入れてしまうこのお国柄ゆえ、ハロウィーンもクリスマスも聖バレンタインもなんでもござれだが、オリジナルのお正月という味が薄れてしまっている。実際、ここのところ、どこもかしこも、24時間、365日稼働させる、稼働していることが当たり前のようになってしまっている。本当にこれでいいのだろうか? SNS、アプリなど、ITに関連することについても、知らないと時代遅れのような感もある。今から、約20年前、1995年以前には、それほど個人的なPCやケータイなど、そんなに普及していなかったが、今の通信技術があるからといって、さらには四六時中、目が覚めている世の中にあって、格段に便利になったと言えるのだろうか? 単に、以前より「なまけもの」ができるようになっただけで、あたりまえのことだが、休息するところは休息するとして、何もかにも、即対応を求めるような空気感を取り払う必要があるのではと思う。
地方から夢、希望をもって東京へ出てくる若者を追いかけるドキュメンタリーが時々、放映される。ごくごく一部の若者たちのことだけだから、全部の姿を映し出せているのかどうかはわからない。その中で、先日、沖縄から状況して、故郷との違いに愕然としている場面があった。その方曰く、「みんな余裕、ゆとりがなく、これぐらいでいいんじゃないのといった遊びの部分が見当たらない。細かなことばかりを指摘し合い、きゅうくつに感じる」と。小生は、そんな土壌を作ったのは、徳川幕府があまりにも中央集権にしすぎた結果だと勝手に分析しているが、人も多いから仕方ないが、冗談が通じないと思う場面も多いし、正直、お互いに管理、管理で気疲れする部分が相対的に多いと感じる。それとともに、あまりにも地方のことを知らなさすぎると感じさせられることも多々あり、日本だけでも「井の中の蛙」なのに、その中にあって東京地域でさらに「井の中の蛙」を掘り下げてしまっているという風に、地方出身者からは映る。