(八幡砦跡 愛知県豊川市八幡町 2001年9月9日)
都市計画道上宿樽井線築造に伴う今年度の発掘調査が行われた。
それにより、弥生時代後期以降の遺構が検出され、寺院の区画も確定した。
三河国分寺期の遺構として、掘立柱建物及び竪穴住居が多数確認され、弥生時代の方形周溝墓も12基検出された。
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(愛知県豊川市国府町 2001年7月29日)
久し振りに国府の花火を眺めた。(左下の白い物体は、昭和58年、旧弘法山展望台に建設費7億円で建設された、RC造、延床面積2,480m2、5階建ての豊川建設労働者福祉センター(サンシティ豊川)平成12年に雇用促進事業団が全国の勤労者福祉施設を他団体へ譲渡させる方針を打ち出したことや、毎年赤字運営が続き、今後の改修の目処が難しいこと、また、都市公園内であるため、民間売却ができないことなどから、平成15年に廃止、解体された。)
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(東京都港区元赤坂)
この地に鎮座する豊川稲荷は、三河西大平藩(愛知県岡崎市)主であり寺社奉行の大岡忠相(ただすけ)が信仰する、豊川稲荷から分霊した吒枳尼真天(だきにしんてん)を始めとする。藩邸の他、大岡氏下屋敷(文京区目白台・港区赤坂)の鎮守としても祀られていたが、文政十一年(1828)豊川稲荷本山(豊川閣妙厳寺)の管理として屋敷内に参詣所が設けられ、明治20年(1877)には現在地に移転、東京別院となった。
(曹洞宗萬松山泉岳寺 東京都港区高輪)
京浜急行の起点として駅名にも採用されている泉岳寺は、慶長十七年(1612)徳川家康によって外桜田(千代田区霞が関)に創建したのが始まりである。然し、寛永の大火で焼失し、徳川家光の命によって現在地に再建された。このときに関わった大名に赤穂藩主浅野家があり、以降同家の菩提寺となった。そのため境内には浅野長矩(ながのり:内匠頭)の墓及び家臣の赤穂義士(浪士:四十七士)の墓がある。
(神奈川県小田原市栄町 市指定史跡)
小田原駅近くの路地に北条氏の墓所がある。北条氏政とその弟氏照の墓とされる。天正十八年(1590)豊臣秀吉が北条氏を攻略した際、氏政の子氏直は高野山に追放され、氏政、氏照は責任を負って自刃し、この地に埋葬された。その後、稲葉氏が小田原城主となり、北条氏追福のため改葬されたという。大正12年(1923)の関東大震災で埋没したが、翌年に地元の有志によって復興されている。
また、稲葉氏が造立した笠塔婆型墓碑には、氏政、氏照の戒名が刻まれている。「滋雲院殿勝岩傑公大居士 天正十八庚寅年七月十一日 北條相模守氏政」「青□院殿透岳關公大居士 北條陸奥守氏照 天正十八庚寅年七月十一日」
(神奈川県小田原市 国指定史跡 日本100名城23番 日本の歴史公園100選85番)
三年振り、復元天守耐震工事完了後の小田原城を訪れた。
御用米曲輪発掘調査跡
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