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「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

岐阜司町

2007-02-17 19:00:49 | STRUCTURE-構造物残影-

 明治4年(1871)、笠松から県庁がこの地に移転し、司町は誕生した。
現在の岐阜県岐阜総合庁舎は昭和41年(1966)岐阜市郊外薮田に移転するまで、県庁舎であった。
 大正13年(1924)に竣工した県庁は、RC造地下1階地上3階、延面積7,759㎡の庁舎棟と、一部SRC造延面積1,656㎡の議会棟からなり、当初は11階建て塔屋付きの予定であったが、建築段階で関東大震災が発生し、現在の構造に急遽変更されたという。
 現在は岐阜県近代化遺産に指定され、内装に赤坂金生山産のシカマイア(古生代二枚貝)化石含有大理石を使用し、ステンドグラスを採用するなどの特徴がみられる。
  
 県庁に隣接する旧岐阜大学医学部附属病院は、明治8年(1875)に岐阜県公立病院として開設され、翌年この地に移転したことに始まる。
 2004年閉鎖時点で残された建物は、 1954年南病棟、1956年北病棟 、1961年中病棟、1965年看護婦宿舎がそれぞれ築造され、1967年には、当時岐阜県立医科大学附属病院であった施設を国立移管し、岐阜大学医学部附属病院となった。そして1970年放射線治療棟、外来診療棟、1972年病棟(東側・第1期工事)、 1973年病棟(西側・第2期工事) 、1976年中央診療棟、1986年リハビリ棟、1991年MRI-CT装置棟がそれぞれ築造されたが、その後は手狭となったことと、相次ぐ増築により敷地面積30,900㎡に対し延床面積69,700㎡と空間が著しく減少したこと、更に外壁落下等の老朽化が進み、耐震割合が21%で、残りの建物79%が耐震不合格危険構造物となってしまったこと等により、移転することを決定。2004年に岐阜大学分散校舎統合と共に岐阜市西部郊外柳戸に移転した。
 2007年度には解体を開始し、土壌調査後に再開発されることになっている。
事実上制約を受けやすい病院施設跡地利用を、市文化施設として整備する方針が進められているという。
 栄枯盛衰を如実に現したようなこの地を、感慨深くみる人は多いことだろう。
    

(関連記事:旧岐阜県庁舎2008


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2 コメント

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Unknown (くらじろう)
2007-02-17 22:05:11
総合庁舎ですか。かなり近い場所で勤務していましたので、馴染み深い建物です。
解体されるとはまったく知りませんでした。撮影しておけばよかったです・・・。
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スクラップ・ビルド (kourei)
2007-02-17 22:29:11
総合庁舎は近代化遺産なので残されますが、病院は更地になりますね。
戦後の建物の寿命の短いこと、とくに高度成長時代のコンクリートはもろくて簡単なつくりをしているので、余計哀愁を感じます。
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