小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

紀州十三代藩主 徳川慶福

2016-03-29 | 嘉永四年 辛亥日記

後の第十四代将軍徳川家茂です。
弘化3年(1846年)閏5月24日、紀州藩第11代藩主・徳川斉順の次男として江戸の紀州藩邸で生まれました。祖父は十一代将軍の徳川家斉で十三代将軍の従弟に当たります。
実父の斉順は家茂が生まれる前に亡くなっています。幼名は菊千代。
第十二代藩主の徳川斉彊が死去したために養子となって四歳で十三代紀州藩主となりました。勿論、四歳では政務は執れませんから、隠居されていた十代藩主の徳川治宝が行っていました。治宝が亡くなると家家老の水野忠央が実権を握りました。そして伊達千広(陸奥宗光の父)をはじめとする藩政改革派を弾圧しました。
伊達千広は一般的には陸奥宗光の実父として知られていますが、なかなかの人物で劇的な生涯を送った人なので後日調べてみたいです。
家茂は紀州藩主としての治世は9年2か月であり、この間、江戸に居続けたまま将軍となったため、江戸参府も紀州帰国もなかったので本当に名前だけの藩主だったようです。

時は幕末となっていました。
第十三代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、家定の従弟にあたる慶福は徳川氏の中で将軍家に最も近い血筋であるということで、彦根藩主井伊直弼大老らの支持を受けて十三歳で第十四代将軍とされてしまいました。と同時に名前も慶福から家茂と変わりました。実権は井伊大老が握っていた上に、ライバルだった一橋慶喜(二十三歳)が後見についたので若さもありますがなかなか思い通りにはならなかったのでしょう。
家茂といえば皇女和宮との公武合体結婚がよく知られています。政略結婚ではありましたが、徳川家歴代の将軍と正室の中で最も夫婦仲が良かったということです。
文久三年(1863年)には将軍としては229年振りとなる上洛を果たし、義兄に当たる孝明天皇に攘夷を誓いますが慶応二年(1866年)、家茂は第二次長州征伐の途上大坂城で病に倒れました。京都や江戸の著名な医師が多数派遣されましたが、薬効の効果なく同年七月二十日の薨去しました。二十一歳の若さでした。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする