小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

「紀州藩十代目藩主徳川治宝」

2016-03-28 | 嘉永四年 辛亥日記

歴代の紀州藩主の中で一番輝き業績を多く残したのが第十代の徳川治宝公(はるとみこう)です。
明和8年6月18日(1771年7月29日)、第8代藩主・徳川重倫の次男として生まれました。幼名は岩千代。
八代藩主の重倫が隠居したとき、岩千代はまだ幼少だったので、成長するまでの中継ぎとして、大叔父である松平頼淳改め徳川治貞が第九代藩主となり、安永6年(1777年)には治貞の養嗣子という形をとって次の藩主になること決められました。
なんだか手続きがややこしいですね。治貞公に実子がいれば一騒動起こったかもしれません。
治宝公は天明2年(1782年)3月7日には元服し時の将軍の徳川家治の一字を賜って治宝と改名し、寛政元年(1789年)10月26日、治貞の死去に伴って第 十代目の藩主に就任しました。十八歳の若い殿様です。
治宝公は「数寄の殿様」という名で庶民から慕われていました。つまり、趣味が多くそれを藩政に反映させたからでしょう。
学問好きで知られた治宝は、紀州藩士の子弟の教育を義務化し、和歌山城下には医学館を、江戸赤坂紀州藩邸には明教館を、松坂城下には学問所を開設するなど文武両道において若者の教育に力を入れました。現在、これら藩校の蔵書は紀州藩文庫に保管されています。
当時の松阪城下は紀州藩の藩領となっていて、松阪城は当地を統括する城として城代が置かれていました。そこで治宝公は学問所を設置したのでしょう。紀州の藩校の教師たちが出張講義にでかけていた資料なども残っています。
治宝は本居宣長に吹上御殿で講義をさせたり、『紀伊続風土記』の新撰を命ずるなど文化・芸術面での功績が非常に大きいのです。
書画、雅楽にも親しみ琵琶の演奏もしたそうです。
また茶道の表千家や楽家(楽焼き)を厚遇して文化の向上に努めました。今でもお庭焼きは有名ですね。
和歌浦の不老橋や表千家の総門も作らせたそうです。

ところが、文政6年(1823年)に紀ノ川流域で「こぶち騒動」と呼ばれる大規模な百姓一揆が勃発して、その責任を取る形で治宝公はその翌年藩主の座を養子としていた斉順(将軍・徳川家斉の七男)に譲ります。これは財政援助を行っていた幕府の強い圧力が背景にあったからのようで隠居となっても西浜御殿で藩政を行い続けました。
大好きな養翠園は西浜御殿の別邸で,池泉回遊式庭園で池に海水が混じっていて淡水魚が泳いでいます。船着き場があって驚いたりしました。
さて、弘化3年(1846年)に十一代の斉順公が死去しました。そこで問題になるのが十二題藩主を誰にするかでした。治宝公には娘しか誕生していません。もめた末に斉順公が当主を務めていた清水家から斉彊公を新藩主に迎えることになりました。
隠居後もこうして権力を保持し続ける治宝公に藩主側との軋轢が多々あったようです。しかし、紀州藩主としての治世は隠居政治期間を入れると64年もの長きに亘り、その歴史に残る功績も多く、歴代の紀州藩主のなかでは一番の名君として名を残しています。


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