ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

スサノオ・大国主建国論4 古事記神話(伝承)の構成

2022-11-08 16:51:24 | スサノオ・大国主建国論

 前置き的な部分が長かったが、ここから本論に入りたい。

⑴ 古事記中心史観対日本書紀中心史観

 古代史、特に建国史の文献分析では、私は古事記を中心として日本書紀・風土記・万葉集、魏書東夷伝倭人条・三国史記新羅本紀、神社伝承、地名などで補充するという方法をとってきた。

           

 通説は日本書紀を正史として中心において分析しているが、私は古事記を日本最初の正史として扱い、分析の中心に置いたが、その理由は次の通りである。

 第1は、古事記編纂を命じた天武天皇は、日本の統治・軍事機構、都、宗教、歴史、文化の原型を作った天皇であり、その国家形成の一環として古事記・日本書紀の編纂を命じたのであり、古事記は名実ともに最古の史書であり、この国の建国史の基本を決めた歴史書であるからである。

 第2は、天武天皇は稗田阿礼に帝皇日継と先代旧辞(せんだいくじ)(帝紀と旧辞)を詠み習わせ、太安万侶に書かせたものであり、この先代旧辞は聖徳太子と蘇我馬子が編纂し、蘇我家が滅んだときに焼ける前に取り出された国記(くにつふみ)の可能性が高く、文献的裏付けの明白な史書であるからである。稗田阿礼が暗記していた伝承をまとめたものなどではない。

 第3は、古事記は壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒して権力を握り、直接に政治・行政・軍事・宗教・文化を指導し、初めて「天皇」を名乗った多面的な高い才能(短歌なども)を備えた専制君主である天武天皇の直接的な指示で作られており、「4人の襲名アマテル」を一人に統合し、「スサノオ・大国主建国」に「天皇建国」を一体的に結合した歴史書は天武天皇でなければ構想できない構成であることである。帝皇日継と先代旧辞(せんだいくじ)を再編集しただけでは、「スサノオ・大国主建国」に「天皇建国」を巧妙に接ぎ木することなどできないからである。古事記分析は、浅薄な近代合理主義者の視点ではなく、天武天皇の立場から分析すべきである。

         

 第4は、凡海氏(海部一族)に養育された大海人(おおあま)皇子=天武天皇は、海人(あま)族系のスサノオ・大国主一族と、山人(やまと)族系の天皇家の両方の血を引いており、壬申の乱ではスサノオ・大国主系(元々、新羅と米鉄交易を行い建国した)の国々に支持されて圧倒的な勝利を収めており、国史作成においては海人(あま)族系のスサノオ・大国主建国を中心に置き、海人(あま)族系と山人(やまと)族系笠沙天皇家3代の両方の歴史を統合する必要があったことである。なお大海人(おおあま)=天武(あまたける=てんむ)から明らかなように、「あま」=「海=海人=天」、海人族=天族であり、高天原系の天皇一族を「天津神」、葦原中国系のスサノオ・大国主一族などを「国津神」と分類する皇国史観からは卒業すべきである。

 第5は、日本書紀もまた、天武天皇作成の古事記を幹とし、山人(やまと)系の各部族伝承を強化して付け加えたものであることである。天皇制の分析にしか興味のない皇国史観・天皇中心史観・大和中心史観の通説派は日本書紀中心史観であるが、スサノオ・大国主建国史の分析においては古事記を主とし、日本書紀などを補足資料として分析すべきである。

 以下、「古事記中心史観=スサノオ・大国主建国史観」と通説の「日本書紀中心史観=笠沙天皇家中心史観」の違いを意識しながら検討していただければと考える。

 これまで、古事記と日本書紀の記載の多くのズレやそれぞれの記載の多くの矛盾を分析し、記紀神話を8世紀の創作と決めつけた津田左右吉氏や、甚だしきは古事記偽書説・太安万侶不在説などは、それらの原因がスサノオ・大国主建国と笠沙3代天皇家建国を接ぎ木したことによるものであることを検討していない。

 

⑵ 日本神話(筆者説:スサノオ・大国主建国史)の知識

 「日本神話(記紀神話)」(筆者説:スサノオ・大国主建国史)についての私の元々の知識は、幼児の時に見たスサノオのヤマタノオロチ退治の備中神楽、小中高の歴史と高校の宮崎修学旅行(高千穂峡・霧島えびの高原・鵜戸神宮)、大学1年の出雲大社旅行によるもので、出雲での「イヤナギ・イヤナミの天下り」「国生み(教師たちが好きであったイヤナギの余ったところでイヤナミの足らないところを塞ぐという話)」「スサノオの八岐大蛇(やまたのおろち)退治」「国引き」「因幡の白兎」「大国主の国譲り」神話と天皇家の高天原での「天岩屋戸(あまのいわと)での天照の復活(教師の大好きなアメノウズメのストリップ話)」「天孫降臨」「山幸彦の龍宮訪問」くらいであり、宮崎修学旅行・出雲旅行の経験がなく丸暗記歴史に興味がなかった理科系の妻は「因幡の白兎」「八岐大蛇退治」「天岩屋戸」伝説しか知らなかった。

        

 おそらく多くの日本人の神話知識は私と妻の間くらいではないかと思われるが、これではスサノオ・大国主建国や天皇建国などには何の興味も持たれないに違いない。

 この国では皇国史観系の右派、反皇国史観の左派がともに協力して「記紀神話」全体を8世紀の創作として無視し、都合のいいアマテルだけをつまみ食いし、真実の建国史全体の解明を放棄してしまったからである。キリスト教支配の中世暗黒時代を打ち破り、ギリシア神話をもとにした西欧ルネサンス文化が花開いたのと較べると、わが国は神話否定の、文化的になんとも貧しい卑下史観・拝外主義の国といわざるをえない。

 私はこれら8世紀の創作神話とされてきた物語の大部分は真実の歴史の伝承(ドキュメンタリー)であり、一部に伝承を神話的表現でカモフラージュした表裏表現伝承(ミステリー)と、伝承を神話的な表現(ファンタジー)とした部分が見られると考えている。

 表1は日本神話(筆者説:スサノオ・大国主建国史)のうちのよく知られている点について、通説と筆者の説をまとめたものであるが、各論で具体的に説明したいと考える。

 

⑶ 古事記神話編(筆者:スサノオ・大国主建国編)の構成

 私が古事記に初めて目を通したのは40代後半のことであり、おそらくほとんどの人は読んでいないと思うので、その全体構成を『古事記』(倉野憲司校注の:岩波文庫)をもとにした図1によりざっと見ておきたい。

 

 第1にまず注目したいのは、スサノオ~大国主7代の活動範囲が広く西日本(方言区分の北陸方言、岐阜・愛知方言、九州方言の区域を含む)に及んでおり、「百余国」の「委奴国」に対応していることである。

 古事記にはスサノオ・大国主一族の活動が筑紫から大和、越まで及んでいることがはっきりと書かれており、出雲地域だけで論じるなどありえず、筑紫・大和の歴史分析においてもスサノオ・大国主一族の建国史を前提としないなどありない。邪馬壹国(やまのいのくに)や大和(筆者説:おおわ)の纏向(間城向)遺跡の分析においても、スサノオ・大国主一族との関係をまず分析すべきである。

 第2は、スサノオから八嶋士奴美(やじまじぬみ)―布波能母遲久奴須奴(ふわのもぢくぬすぬ)―深淵之水夜禮花(ふかぶちのみずやれはな)―淤美豆奴(おみずぬ)―天之冬衣(あめのふゆきぬ)―大国主は6代も離れており、出雲でイヤナミから生まれたスサノオの筑紫日向(ちくしのひな)生まれの異母妹のアマテル1と、大国主に国譲りさせたアマテル2は同一人物ではありえないことである。

 第3は、新唐書に「初主號天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡三十二世、皆以尊(みこと)爲號(ごう)、居筑紫城。彦瀲(ひこなぎさ)子神武(じんむ)立」と遣唐使が伝えたと書かれているが、古事記に書かれた天皇家は16代しかなく、スサノオ・大国主16代を組み込むと32代になるのであり、古事記はスサノオ・大国主7代の委奴国・倭国と筑紫大国主王朝10代の系譜を正確に伝え残しているのである。

 なお、天皇家は元々皇居において始祖神である天つ神5柱や天照大御神に対し祖先神として祀っていないのに対し、出雲大社では天つ神5柱を正面に祀っており、「天つ神5柱+神世7代」はスサノオ・大国主一族の先祖である。―『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』参照

 

 第4は、「大国主の神裔」として書かれた大国主の妻・鳥耳(とりみみ)からの10代の名前の「日名」「比那」「耳」「天」「八島」「志麻」「忍(おし)」「日腹」「多良」は全て北九州の地名にあり、「甕(みか)」名もまたこの地域の甕棺由来であり、新唐書に書かれた「初主號天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡三十二世、皆以尊(みこと)爲號(ごう)、居筑紫城」からみても、鳥耳からの10代は筑紫大国主王朝であることは動かせない。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

        

 鳥耳は襲名した筑紫日向(ちくしのひな)のアマテル2であり、出雲で大国主に国譲りさせた穂日・夷鳥(日名鳥)親子は鳥耳の子・孫である。

 第4は、スサノオは大兄としてイヤナギから海の支配を任され、異母弟の筒之男(つつのお)3兄弟(住吉族)や綿津見(わたつみ)3兄弟(金印が発見された志賀島を拠点とする安曇族)を従えて後漢や新羅と交易を行い、宗像族の王女に妻問して宗像3女神をもうけ、母イヤナミの出雲を拠点としており、異母妹のアマテル1と高天原の支配を争うことなど考えにくいことである。

 高天原の支配を巡って争ったアマテルは、魏書東夷伝倭人条に書かれた卑弥呼と弟王の可能性が高い。図1の古事記伝承・神話全体の中に卑弥呼を位置付けるとすると筑紫大国主王朝10代の次にしか割り込む余地はなく、卑弥呼こそが筑紫大国主王朝11代目の襲名アマテル3であるとしか考えられない。その死後に岩屋戸から復活したとされるのは後継女王の壹与(襲名アマテル4)である。

 なお、図3は男系図としているが、本来は女系図として書き直すべきものである(『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』参照)。

 次の図4は、図1にアマテル1~4に関係するところを追加したものである。

 古事記は時代も経歴も異なる筑紫日向の4人の襲名アマテルを「スサノオの姉」として一人の人物として描き、薩摩半島南西端の笠沙(かささ)・阿多(あた)の山人族の笠沙天皇家3代をスサノオ・大国主一族の後継王に仕立てたのであるが、これは太安万侶の発案というより、天武天皇の政治的な判断であると私は考える。

 

 

 第6は、筑紫日向(ちくしのひな)の高天原(甘木=天城の高台)から薩摩半島南西端の笠沙(かささ)への壹与派の国々を避けた険しい九州山地を通ってのニニギ(邇邇芸)の天下りであるが、天上から地上の霧島連峰・高千穂峰への天下りなどではないことである。

 古事記の「高千穂之久士布流多気(くじふるだけ)」は大分県の旧久住町(現竹田市)の「くじふる岳=久住山(九重山)」であり、記紀に登場する筑紫日向から薩摩半島笠沙まで地名のほとんどは現存しており地上移動の逃避行を示している。

 第7は、ニニギは阿多の大山津見(おおやまつみ)の娘の「阿多都比売(あたつひめ)」を妻とし、別名を「木花佐久夜毘売(このはなさくやびめ)」としているが、播磨国風土記の宍禾郡(しそうのこおり)では「許乃波奈佐久夜比売(このはなさくやひめ)」は伊和大神(大国主)の妻としており、さらに大山津見の子の木花知流比売(このはなちるひめ)がスサノオと櫛名田比売の子の八島士奴美(やじましじぬみ)と結婚していることからみても、瀬戸内海の大三島の大山祇神社に祀られた大山津見の娘の「木花佐久夜毘売(このはなさくやびめ)」が薩摩半島西南端の阿多にいるはずなどないのである。

    

 古事記は笠沙天皇家を、イヤナギ・イヤナミの子の大山津見と結びつけるためにニニギの妻の阿多都比売の別名を「木花佐久夜毘売」としたのである。

 なお、古事記はアマテルの子の天忍穂耳(あめのおしほみみ)の子を天火明とニニギとしているが、播磨国風土記飾磨郡(しかまのこおり)では火明(ほあかり)は大国主の子としており、天照国照彦火明(あまてるくにてるひこあめのほあかり)を祀る粒坐天照神社がたつの市の日山にあることなどからみて、古事記にスサノオの異母妹のアマテル1の子として書かれた天之忍穂耳や天之菩卑などは大国主の筑紫妻の鳥耳(アマテル2)の子とみるべきであり、火明(ほあかり)は大国主の子と考えられる。

 このように、古事記は笠沙天皇家3代の初代ニニギを「アマテル・アタツヒメ・アメノホアカリ」の3人を接着剤としてイヤナギ・スサノオ・大国主一族と結びつけているのであるが、そもそも出雲生まれのスサノオにたいし筑紫日向のアマテル1は異母妹で姉などではなく、瀬戸内海・大三島の大山津見が薩摩半島南西端の阿多にいて阿多都比売の父であるはずなどない。

 古事記・播磨国風土記の両記載からみて天火明は鳥耳(アマテル2)と大国主の子であり、『日本書紀』一書によれば大国主を国譲りさせて後継王となった穂日の兄弟になる。

 第8は、新唐書の「初主號天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡三十二世、皆以尊(みこと)爲號(ごう)、居筑紫城。彦瀲(ひこなぎさ)子神武(じんむ)立」の記載からみて、笠沙天皇家3代(ニニギ・ホオリ(山幸彦)・ウガヤフキアエズ(彦瀲(ひこなぎさ)))の始祖ニニギ(邇邇芸(ににぎ))は天御中主(あめのみなかぬし)から数えて30代目、スサノオから19代目、大国主から13代目にあたり、スサノオ異母妹のアマテル1、スサノオ7代目の大国主の筑紫妻の鳥耳(アマテル2)の孫とするにはいずれも時代が合わない。鳥耳からの筑紫大国主王朝10代からの3代目になることであり、次の女王アマテル3(卑弥呼)の孫とするとぴったりと年代が合うのである。

 魏書東夷伝倭人条には248年の卑弥呼の死後に男王派(弟王)と女王派(壹与を擁立)の後継者争いが記載されていることからみて、「卑弥呼の後継者争いでの男王派の敗北」の邪馬壹国の史実をもとに2世紀遡らせてスサノオとアマテル1の高天原後継者争いが創作された可能性が高い。

 ニニギは卑弥呼の後継者争いで敗れた男王派で、投馬国の「さ・投馬(薩摩半島)」に逃れた10数人ほどの山人(やまと)族グループの一員であったと考えられる。名前に「邇岐志(にきし)国邇岐志」が付き、父が忍穂耳(おしほみみ)、母が萬幡豊秋津師(よろづんはたとよあきつし)比売であることからみて、父は「彌彌(みみ)・彌彌那利(みみなり)」という正副の官が置かれていた投馬国の出身者の可能性あり、母は豊後の国東半島の現安岐町の「津(港)」のあった「秋津」出身者で、邇岐志(にきし)国で生まれ育った筑紫大国主王朝の傍系であった可能性が高いと考える。

 決め手は邇岐志(にきし)国があったとされる「邇岐=二木・仁木・新木」地名であるが、北九州ではまだ見つけることができていない。

 記紀や魏書東夷伝倭人条にでてくる地名について、地名学者は全て候補地をあげて比定していただきたいものである。そうすれば、高天原天上説の皇国史観の名残や、邪馬壹国(やまのいのくに)畿内説など成立の余地はなくなるのは確実である。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

 帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

 邪馬台国探偵団    http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 


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