ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

神話探偵団138 「神武東征」についてー若御毛沼命の河内湖通過時期

2022-07-15 15:05:46 | 建国論

 もともとFC2ブログ「霊(ひ)の国の古事記論54 若御毛沼命の河内湖通過(「神武東征」)時期について」(2014.10.19)にアップしていたのですが、当時、忙しかったのか図を掲載しないままになっていました。

 この論点は、スサノオ・大国主建国にとっても欠かせないテーマであり、FC2ブログ「霊(ひ)の国の古事記論」で再掲するとともに、ここに掲載しておきたいと思います。「スサノオ・大国主建国」「邪馬壹国(やまのいのくに:筆者説は筑紫大国主王朝)」と「天皇家建国」を結ぶ接点の1つである「神武東征」について考えていただければ幸いです。 雛元昌弘

1.「神武東征」か?

 記紀に書かれた五瀬(いつせ)と稲氷(いなひ)、御毛沼(みけぬ)、若御毛沼(わかみけぬ)(後の伊波礼琵古=磐余彦(いわれひこ)、8世紀に神武天皇と諡(おくりな))ら4兄弟のいわゆる「神武東征」については、①日向(宮崎県)出征説(皇国史観派)、②記紀神話創作説(反皇国史観派)に対し、③邪馬台国東遷・東征説(安本美典氏など)や私の④薩摩半島西岸笠沙阿多の傭兵部隊東進説などがあります。

      

 『スサノオ・大国主の日国 霊の国の古代史』(梓書院)や『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)、ブログ「霊の国の古事記論」などで、私は「薩摩半島西南端の笠沙阿多の山幸彦(山人(やまと)=猟師)の4兄弟たち傭兵部隊の仕官を求めての移動説」を展開しており、「若御毛沼実在・東征否定説(傭兵隊移動説)」という「おおむね真実、一部虚偽」という第4の説です。

 なお、第10代崇神天皇以前、第15代応神天皇以前、第26代継体天皇以前の3つの天皇非存在説についての検討はいずれまとめますが、私の記紀判断の基準に照らし、神話時代を含めた登場人物については、3人の実在した襲名アマテル(イヤナギの御子のスサノオの異母妹、大国主の筑紫妻・鳥耳、筑紫大国主王朝11代目の卑弥呼=霊(ひ)巫女)、壹与(男王と争った卑弥呼の後継女王)を合体して創作されたアマテル(天照大御神)を除き、ほぼ実在していた人物と考えます。

 

2.神話時代の年代論について

 皇国史観は神武即位を「BC660年」としましたが、那珂通世は「AD元年」、久米邦武は「AD6」、とし、高木修三氏は『紀年を解読する』(2000年)において「BC29年」、長浜浩明氏は『古代日本の「謎」の時代を解き明かす』(2012年)において「BC70年」としています。

 いずれもAD239~248頃の卑弥呼の時代より前であり、卑弥呼は大和国の女王とし、モモソヒメ説、神功皇后説などに分かれています。

 これらに対して、記紀の年代分析において初めて統計的に科学的分析を行ったのは、安本美典氏です(図2参照)。氏は古代の天皇、中世・近世の将軍、中国・西洋の王の在位年数から、古代大王の平均在位年数を約10年とし、神武即位を「AD271年頃」とする統計的な推定を行っています。

      

 図3に示す30~40代天皇の即位年の直線回帰による私の追試では神武即位は「AD277年」であり、私はこの安本説を全面的に支持します。

   

 この安本・雛元説だと、「神武東征」は邪馬壹国の卑弥呼死後の争乱後になり、記紀に書かれた卑弥呼の候補者としては、アマテル(天照大御神)になります。なお、この記紀年代の統計的分析において、安本氏はアマテラスより前の王について検討されていませんが、私は古事記神話が始祖としている天御中主までの分析を進めています。

 詳しくは『スサノオ・大国主の日国 霊の国の古代史』を参照いただきたいのですが、古事記によれば天御中主から薩摩半島南西端の笠沙天皇家3代目の彦瀲(ひこなぎさ)(ウガヤフキアエズ:大和天皇家初代のワカミケヌ=神武の父)までは16代(別天つ神4代+神世7代+高天原2代+笠沙天皇家3代)ですが、『新唐書』によると遣唐使は天皇家の祖先を「初主號天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡三十二世、皆以「尊」爲號(ごう)、居筑紫城。 彦瀲(ひこなぎさ)子神武(じんむ)立」と自言したとされ、16代の欠史がみられるのです。

 そして、その16代の空白を埋めるように、古事記はスサノオ・大国主7代、鳥耳を妻とした大国主10代の合計16代の系統を載せ、大国主のアマテルへの国譲りへと続けているのです。

 この事実は出雲でイヤナギから生まれた長兄スサノオの異母妹の筑紫のアマテル1と、大国主に国譲りさせた6代ほど離れた別の女王アマテル2は別人であり、さらに卑弥呼は筑紫大国主王朝11代目のアマテル3であることを示しています。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)、「帆人の古代史メモ アマテル論1~8(200213~0326)」参照

    

 古事記記載の王の順番どおりに「別天つ神4代+神世7代+スサノオ6代+大国主10代+高天原2代+笠沙天皇家3代」の合計32代が真実の歴史であり、私はこの大王の順に推計を行いました。―図3・表1参照

 そしてAD57年の「委奴国王」の後漢への遣使、107年の「倭王師升」の遣使、「100余国を7~80年支配した王朝」、146~189年頃の「倭国大乱」、100余国のうちの30国をまとめた「卑弥呼」の238年の魏への遣使、弟王との後継者争いの後に共立された「壱与」の266年の遣使と古事記・日本書紀との照合性を検討し、「委奴国王」はスサノオ、「倭王師升」は淤美豆奴(おみずぬ)、「100余国を7~80年支配した王朝」はスサノオ・大国主王朝7代」、「倭国大乱」は大国主の後継者争い、「卑弥呼」はアマテラスという結論に達しました。

 

3.「神武東征」の時期について

 このような統計的な分析による安本氏の神武即位「AD271年頃説」(私は「AD277年頃」説)について、物証の裏付けはないのでしょうか?

 その鍵となるのは、記紀に描かれたワカミケヌ(若御毛沼)4兄弟らの行動です。その記述は次の通りです。

 

古事記:「その国(注:吉備国)より遷り上り幸(い)でましし時、亀の甲に乗りて、釣りしつつ打ち羽挙あげて来る人に、速水門(はすひのと)で遇(あ)ひき。・・・故、その国より上り行でましし時、浪速(なみはや)の渡を経て、青雲の白肩津(しらかたのつ)に泊(は)てたまひき

②日本書紀:「難波碕に到るときに、はやき潮ありてはなはだ急きに会ひぬ。因りて、名付けて浪速国とす。亦浪花と言う。今、難波というは、訛れるなり。三月の丁卯の朔丙子(十日)、遡流而上りて、径(ただ)に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります

 

 この「速水門」「浪速の渡」「はやき潮」「遡流而上りて」「草香邑の青雲の白肩津」の記述がその時代を特定する鍵となります。

 

(1) 「速水門」はどこか?

 古事記の「速水門」は吉備出発後の記述であり、考えられるのは備讃瀬戸か明石海峡ですが、備讃瀬戸には「門」と呼べるような狭い海峡はなく、潮流も3.4ノットと緩やかで、地形・海流の両方からみて「速水門」と呼べるような場所ではありません。

     

 「速水門」は、幅4kmで両側の山が迫って「門」にふさわしく、6.7ノット(時速12.4㎞)と潮流の早い明石海峡とみて間違いありません。

    

 古田武彦氏は『古代は輝いていたⅡ』において、明石海峡は「平穏、清明の海」とし、「速水門」に相応しいのは鳴門海峡としていますが、これは全くの事実誤認です。

 学生・院生時代に、四季、何十回と明石海峡を小さな渡し船で渡った私の経験でいえば、明石海峡の潮流は早いのです。海上保安庁のデータでみると、最大潮流は鳴門海峡10.5ノット(時速19.4㎞)、明石海峡6.7ノット(時速12.4㎞)であり、備讃瀬戸の3.4ノット(時速6.3㎞)、播磨灘の0.4~0.5ノット、大阪湾の0.3~0.5ノットと較べると明石海峡は「速水」なのです。

 一方、日本書紀は「速水門」を筑紫の宇佐への途中に置いているので、豊予海峡(5.7ノット)になりますが、豊予海峡は15kmと広く、幅3.5㎞の明石海峡のと較べてみても「門」と言えるような地形ではありません。

 奈良盆地にいて海を知らない日本書紀の編集者達は、若御毛沼たちが未知の海に東征の冒険に乗り出したことを印象づけるために、地形も潮流も舟も知らず、「速水門」を明石海峡から豊後水道に変えたとしか考えれられません。

 

(2) 「遡流而上りて」はいつの時代か

 若御毛沼らは2月11日(3月上旬)に吉備をたち、「速水門」を経て、「浪速の渡」を通り、3月10日に「白肩津」に着いたというのですが、それは史実でしょうか、史実ならいつの時代でしょうか、あるいは8世紀の創作など可能でしょうか? 以下、検討したいと思います。

 長浜浩明氏の『古代日本の「謎」の時代を解き明かす』と前述の古田武彦氏の『古代は輝いていたⅡ』、HP「水都大阪」のデータによると、河内湾・河内湖・河内平野は、次の4つの時代に区分されます。

 

 日本書紀は「遡流而上りて、径(ただ)に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります」としていますが、それはどの時代のことでしょうか?

 まず、河内潟時代(BC1050~50)は、河内潟は満潮時も干潮時も海水が満ちており、広い流路で外海と内海は結ばれ、「遡流而上りて」はありえません。

 

 次の、河内汽水湖時代(BC50~AD150)は、「浪速(なみはや)の渡」のあたりで湾口は狭まり、満潮時には上げ潮が湖内に流入し、干潮時には下げ潮が湖内から流出します。

 想定される当時の「河内汽水湖」よりやや小さい浜名湖(日本1の汽水湖)でみると、上げ潮の速さは2ノット(1m/s)、下げ潮は3~4ノット(1.5~2.0m/s)で、その潮流の範囲は湾口からわずかに前後それぞれ1㎞ほどの狭い範囲です(伊東啓勝他「インレット周辺の流況特性把握調査」(『水路 第154号』より)。

 この下げ潮の3~4ノット(1.5~2.0m/s)というと、軽いカヌーの中速であり、この程度の流れなら簡単に漕ぎ上ることができます。カヌーや競技用ボートが高速で8~10ノット(4.0~5.0m/s)程度、26人の漕ぎ手のペーロン船が9ノット(4.5m/s)程度とされていることからみて、汽水湖の下げ潮に逆らいながら特に苦労することもなく遡ることが可能です。

 私は琵琶湖の水がただ1カ所流れ出る瀬田川(流速は確かめられませんでした)をエイト(8人漕ぎの競技用ボート)でよく往復しましたが、軽い性能のいい競技艇ではゆっくり漕いでもゆうゆうと流れの速い瀬田川を遡ることができました。

 浜名湖には流入する大きな川はないのに対し、河内湖には滋賀・丹波・京都・奈良の広範囲な流域から水を集める淀川や木津川、大和川などから流入しており、若御毛沼たちが漕ぎ上ったのが冬の渇水期とはいえ、大阪湾への流出口の水流は浜名湖よりはかなり早かったに違いありません。

 若御毛沼らが10~20人ほどの重い準構造船(丸木舟の舷側に板を張って高くしたもの)を「遡流而上りて」漕ぎ上るとなると、その通過時期はAD150~350年の河内湖淡水湖時代とみて間違いありません。

 

 彼らには急流の浪速の渡を漕ぎ上ったことが強く印象に残り、「遡流而上りて」と伝わった可能性が高いのです。

 大阪湾と河内潟が広い湾口でつながっていた河内潟時代や汽水湖時代には、「遡流而上りて」という表現はでてきません。

 

(3) 「草香邑の白肩津」はどこか?

 「草香邑の白肩津」については、生駒山麓の日下町を当てる説が多いのですが、私はそこから2.3㎞ほど下った「枚岡(ひらおか)」を比定します。

 「7」を「しち」「ひち」と発音する「し=ひ」の例などからみて、「しらかた津」は古くは「ひらかた津(枚方津)」であった可能性が高く、「枚=比良」の地の海側が「枚方=枚潟(ひらかた)」、山側が「枚岡」地名であったと考えます。この地を奈良の登美・春日への最短距離の奈良街道が通っていたことからみても、白肩津は「枚(比良)」の湖岸にあった「枚潟」の港(津)の可能性が高いといえます。

 その時代が生駒山麓の陸地化が進む前の河内淡水湖時代(AD150~350)であることは、この「白肩津」からも裏付けられます。

 完全に陸地化した後の8世紀の記紀作者が、「浪速の渡を経て、青雲の白肩津に泊てたまひき」「遡流而上りて、径に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります」というような文章を創作することができないことは言うまでもありません。これらの記述には、8世紀の記紀作者が知ることのできない「秘密の暴露」が見られます。

 以上、「速水門」「はやき潮」、「浪速の渡」「遡流而上りて」「白肩津」という記紀の記述は後世の創作ではなく、若御毛沼らがAD150~350年の河内湖Ⅰ時代にこの地にきた実際の体験であることが明らかです。これは、安本氏の統計的分析による神武即位「AD271年頃説」(私は「AD277年頃」説)を裏付けています

 神武即位の「BC660年説」「BC70年説」BC29年説」「AD元年説」「AD6年説」は全て成立しません。

 

4.「浪速国」の地名由来について

 日本書紀の「難波碕に到るときに、はやき潮ありてはなはだ急きに会ひぬ。因りて、名付けて浪速国とす。亦浪花と言う。今、難波というは、訛れるなり」という若御毛沼による地名命名説話は、天皇命名地名の怪しさを示しています。

 古事記が「浪速(なみはや)の渡」という地名を載せていることからみて、若御毛沼らがこの地に来る以前から「浪速」の地名があったことを示しており、その地名は流速の早い「渡(渡し場)」のある場所に由来していることが明らかです。

 なお、私は安本美典氏の北九州から畿内への「地名ワンセット東遷」の指摘は重要と考えますが、九州の地名を持ってきた人々は、紀元1~2世紀にこの地で水利水田稲作を普及させたスサノオ・大国主一族であると考えます。「地名ワンセット東遷」を「神武東遷」の証拠とすることはできません。

 若御毛沼らの「東征」より先にこの地に「浪速の渡」があったことを記した古事記の記載がそれを証明しています。

 

5.「草香邑の白肩津」の由来について

 前述のように「白肩(しらかた)津」は「枚潟(ひらかた)津」であったと私は考えますが、「ひらかた」というと関西の人は淀川を遡った「枚方」を思い浮かべるでしょう。河内汽水湖時代(BC50~AD150)には、「潟(かた)」はその周辺に広がっていたことを示しています。

 北の「枚方」に対し、西の「草香邑の白肩津」は、「日下(くさか)村」の南にある「枚岡」の麓の「枚潟」(平潟)にあった「津」(港)とみて間違いありません。この地に、河内国一之宮の枚岡神社があることと、奈良街道が通っていたことからみて、河内湖時代にはこの地が重要な拠点港であったのです。

 大国主を「国譲り」させて後継者となった「天穂日」の子の「天日名鳥、天夷鳥、武日照」が「天比良鳥」とも言われることからみて、「枚=比良」は「日名(夷、日)」と同じであった可能性があります。「はら(腹、原)」「あちら、こちら」の「ら(羅)」は、「はな(鼻)」「ひな(女性の性器=霊(ひ)の宿る所)」などの「な(那、奈)」と同じく、「場所、土地」を示していると考えられるからです。

 記紀によれば、「ひ=日=霊(祖先霊)」であることから考えると、「比良」は「霊羅」で「霊(ひ:祖先霊)の降り立つ聖地」というような意味になります。「天日名鳥命」が「出雲祝神」とも呼ばれていることからみても、この「枚潟(ひらかた)津」は出雲族の祖先霊(磐霊(いわひ):磐座(いわくら)に宿る祖先霊)を祀る聖地であった可能性が高いと考えます。

 若御毛沼らを傭兵として受け入れず、追い返した「長髄(ながすね)彦」が「登美能那賀須泥毘古(とみのながすねひこ)」と書かれていることをみると、「長髄彦(ながすね)彦」(森浩一氏は「長洲根彦」説)は河内湖の入り口あたりの長洲(上町大地から南に延びる長柄砂州)からこの地を経て生駒山を越えた登美・富雄・鳥見あたりを支配した王であり、この地はその交易と祖先霊信仰の拠点であったと思われます。

 さらに、「草香邑」は現在、「日下(くさか)」の地名として残っていますが、出雲市の日下には、出雲国風土記に登場する古社の「久佐加神社」があり、枚岡神社の所在地が「東大阪市出雲井町」であることや、「青雲の白肩津」という記紀の記述と合わせて考えると、この地は出雲族の居住地であった可能性が高いと考えます。

 枚岡神社は中臣氏の祖の天児屋根命を主祭神としていますが、中臣氏から分かれた藤原氏が春日(か須賀)氏の社地を奪って春日大社を建てていることからみても、出雲族の長髄彦の社地を中臣氏が奪って枚岡神社とした可能性が高いと私は考えています。

 

6.「亀に乗ったサヲネツ彦」の「神話的表現」について

 古事記には、速水門でワカミケヌ兄弟らは「亀の甲に乗りて、釣りしつつ打ち羽挙げて来る人に遇(あ)ひき」という印象的な記述が見られます。

 この記述から、「神武東征は、亀に乗った浦島太郎伝説をもとに創作された」というような結論を導き出すことができるでしょうか?

 まず「亀の甲に乗りて」は次のような現実的な解釈が可能です。

第1の仮説は、甲板(デッキ)を設けた小型艇の甲板を「亀の甲」と呼んだ可能性です。丸木舟に舷側板を付けた舟(ボート)ではなく、甲板を付けた構造舟です。

第2の仮説は、「亀の甲羅のような板舟(幅広のサーフボード)」に乗って釣りをしていた漁師の伝承が、「亀の甲に乗りて」に変わった可能性です。

第3の仮説は、「桶舟(たらい舟)に乗って釣りをしていた漁師」の伝承の「桶」が「瓶(かめ)」に変わり、さらに「亀」に変わって、「亀の甲に乗りて」となって伝わった可能性です。「桶から瓶、瓶から亀」への「伝言ゲーム」ミスです。

 「浦島太郎伝説をもとにした創作説」が成立するためには、この3つの説を否定しなければなりません。

 さらに、「打ち羽挙げて来る人」(打羽挙来人)ですが、まず亀に乗って竜宮城に行き来した「浦島太郎伝説引用説」ではこの部分は説明が付きません。しかし実際の舟を想定すると、「打羽」は帆船の「帆」となり、合理的な解釈が可能です。「うちわ・うちは(団扇)」の語源は「打ち羽」とされており(『日本語源大辞典』)、この風を起こす道具は風を受ける道具でもあります。

 「サヲネツ彦(槁根津日子)」は浦島太郎伝説のように亀に乗った人ではなく、帆を張った「亀型の甲板舟」に乗った漁師の可能性が高く、それは九州沿岸に見られる板張り丸木舟(沖縄のサバニ、アイヌのイタオマチプ(板綴り舟))ではなかったために印象深く言い伝えられたものと考えられます。―帆人の古代史メモ「琉球論3 『龍宮』への『无間勝間の小舟』200202」参照

       

 なお「さお」に「竿」「棹」の漢字を当てず、「槁(かれ-る)=木+高」字を当てているのは、「棹を持つ漁師」ではなく、「槁舟=ヨットに乗った漁師」を示していると考えます。

 ワカミケヌ兄弟らは、浦島太郎のような亀に乗った空想的な神話上の人物ではなく、帆船で釣りをしていた漁師に「汝は海道を知るや」と、「浪速の渡」から「白肩津」への水路の案内を頼んだとみるのが妥当です。

 

7.「神武東遷」まとめ

 以上の検討結果をまとめると、「若御毛沼傭兵部隊東遷」について、次の事実が明らかであり、真実を伝える「秘密の暴露」がみられます。

① 「浪速の渡」「遡流而上りて」「白肩之津」の記述は、8世紀の記紀編集者の創作ではなく、河内湖時代(AD150~350)の印象的な体験談を示しています。

② 若御毛沼による「浪速国」の地名由来は、日本書紀編集者の創作です。

③ 「草香邑の青雲の白肩之津」の地名は、この地の王が出雲の大国主の子孫の可能性が高いことを示しています。

④ 「亀に乗ったサヲネツ彦」は「浦島太郎伝説」を元にした後世の創作ではなく、実際の印象的な体験談を示しています。

 

8.神武東遷時期の確定は「邪馬台国畿内説」を否定する

 以上の検討により、「神武東征」はなく、若御毛沼傭兵部隊の奈良盆地への移動は「AD271年頃」(私はAD277年頃)となり、神武即位年の「BC660年説」「BC70年説」「BC29年説」「AD元年説」「AD6年説」は全て成立しません。

 この結果は邪馬台国畿内説の崩壊を示しています。

 紀元239年頃に魏に使いを送り、248年頃に死んた卑弥呼は、271~277年頃に即位した神武より8~14代後の倭迹迹日百襲(やまとととひももそ)姫(第7代孝霊天皇の皇女)や倭姫(第 11代垂仁天皇の皇女)、神功皇后(14代仲哀天皇の皇后)とすることはできず、畿内説は全面崩壊です。

 卑弥呼=畿内アマテラス説は崩壊せざるをえません。古事記によれば、天照大御神からオシホミミ命―ニニギ命―ホホデミ命―ウガヤフキアエズ命―若御毛沼命(神武)と続いていますが、アマテラスは「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で生まれ、ニニギ命・ホホデミ命・ウガヤフキアエズ命は薩摩半島の笠沙で死んでいます。アマテラスは大和とは無縁です。

 なお、言うまでもありませんが、記紀神話創作説や2~9代天皇の「欠史8代説」を採用するなら、天照大御神や倭迹迹日百襲(やまとととひももそ)姫、倭姫だけを歴史上の人物として論ずる邪馬台国畿内説はそもそもナンセンスであり、何らの文献的根拠もありません。

 記紀からアマテラスだけを「つまみ喰い」するような行儀の悪い考古学者やそれをもてはやす新聞各社・NHKなどのマスコミ人は、この国の知性の崩壊を示しているといわざるをえません。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/



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