2-1⑶ 記紀神話の9つの真偽判断基準
刑事裁判での供述の真偽判断の基準は、手元に司法研究所などの資料がないのでおぼろげな記憶によりますが、「客観的証拠との整合性」「経験則からみた合理性」「不自然な変遷のない首尾一貫性」などが、事例分析や行動心理学などをもとに挙げられていました。
歴史学においても、文献の真偽判断に判定基準を設けていると思いますが、私なりに「記紀神話8世紀創作説」への批判として「神話の真偽判断基準」について9つの基準を考えてみました。
① 客観的物証との整合性
この客観的物証との整合性という真偽判断基準については、何人も異存はないと思います。
問題はこの基準を誤解し、「考古学的裏付けのない神話は虚偽」と決めつける論理的誤りがみられることです。かつて「出雲にはめぼしい考古学的発見がないから、スサノオ・大国主神話は後世の創作である」という主張を大和中心史観の歴史家たちがあたかも定説であるかのように主張していましたが、論理的には「スサノオ・大国主神話には、現在のところ考古学的な裏付けがない」としか当時は言えなかったはずなのです。
案の定、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡での国内最大の大量の青銅器(銅矛・銅剣・銅鐸)の発見により、スサノオ・大国主神話は強力な物証による裏付けをえました。古事記に書かれている出雲と大和の大国主・大物主連合の成立が、銅矛・銅剣(筆者説:銅槍)・銅鐸圏の統一として荒神谷・加茂岩倉両遺跡により証明されました。
「物証で裏付けられた神話は歴史的史実」「物証の裏付けがないからといってその神話を虚偽とすることはできない」という原則をまず確認すべきと考えます。
② 他文献との整合性
『古事記』には、大国主は少彦名(すくなひこな)と「国を作り堅め」、少彦名の死後には、大和の大物主と「共に相作り成」し、その国名を「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国」としており、『日本書紀』一書(第六)もまた、大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」とし、動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定めて「百姓、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」と伝えています。
さらに『出雲国風土記』は大国主を「五百つ鉏々(いおつすきすき)取り取らして天の下所造らしし大穴持命」とし、『播磨国風土記』は「大水神・・・『吾は宍の血を以て佃(田を作る)る。故、河の水を欲しない』と辞して言った。その時、丹津日子、『この神、河を掘ることにあきて、そう言ったのであろう』と述べた」と大国主親子が大国主が鉄先鋤より水利水田稲作を普及させた天下経営王であることを伝えています。そして、今に至るまで米俵の上に乗った大国主像は崇拝されているのです。
また、『日本書紀』はスサノオが御子の五十猛(いたける=委武)と新羅に渡ったとしていますが、『後漢書』は「倭奴国奉貢朝賀・・・光武賜以印綬」と書きその「漢委奴国王」の金印は志賀島で江戸時代に発見され、さらに59年には倭人の4代目新羅国王・脱解(たれ)が倭国王と国交を結んだことが『三国史記』新羅本紀に書かれています。
天皇中心史観の予断にとらわれないなら、新羅に渡ったスサノオこそ新羅国王・脱解と国交を結んだ倭(い)国王であり、その2年前に漢皇帝から金印を与えられた委奴(いな)国王もまた、イヤナギから「知海原(海原を知らせ=支配せよ)」と命じられたスサノオとみるべきなのです。なお、後述のように古事記記載や天皇の即位の統計的分析からスサノオの即位年は紀元60年頃となるなど、スサノオが委奴国王(いなのくにのおう)であることは、拙著『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』で証明しています。
記紀の記載が他の国内資料や今に受け継がれている伝承、外国文献と整合しているかどうかは、真偽判断に欠かせない重要な基準となります。
③ 後世史実との整合性
安定した平安時代の基礎を築き、空海・橘逸勢とともに日本三筆とされた第一流の文人であった52代・嵯峨天皇(桓武天皇第2皇子)は、「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は即ち皇国の本主なり」として正一位(しょういちい)の神階と日本総社の称号を尾張の津島神社に贈り、66代一条天皇は「天王社」の号を贈っています。
記紀に書かれたスサノオ・大国主一族の建国に対し、嵯峨天皇はスサノオを「皇国の本主」とし、一条天皇は「天王」として認めているのです。7世紀からの「天皇」呼称の前に、スサノオには「天王(あまの王:てんのう)」と呼ばれており、「てんのうさん」として民衆から支持されていた通称名を天皇家が追認したと考えられます。
このように、後世の資料・伝承などとの整合性は記紀の真偽判断には欠かせません。
④ 地名・人名との対応
皇国史観は天照(アマテル:本居宣長説はアマテラス)の宮殿のある高天原(たかまがはら)を天上の国としましたが、古事記はその場所を「安河(やすのかわ)・天安河(あまのやすのかわ)」のある「筑紫(ちくし)日向(ひな)橘小門(たちばなのおど)阿波岐原(あわきばる)」とし、「○○県△△市□□町大字××」のように具体的に地名を記しています。
調べてみると、福岡県の「旧甘木市」(古くは天城の可能性大)には「夜須(やす)川(安川・山見川)や「蜷城(ひなしろ)」「美奈宜・三奈木(みなぎ=ひなぎ)」「荷原(いないばる=ひないばる)」があり、そのすぐ東には 女帝・斉明(さいめい)天皇と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が百済救援の朝倉橘広庭宮を置いた「橘」があり、さらにその東には「杷木」地名があり「阿波岐原=あ杷木原」と符合しており、地名からみて高天原(天原の高台)はこの地の可能性が高いと考えます。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照
この高天原からのニニギの天下りについても、高天原→猿田(佐田)→浮橋(浮羽)→頓丘(日田)→久士布流岳(久重山)→高千穂峰(々)→阿多・吾田(阿多)、竹屋(同)、長屋(同)、笠沙(同)と記紀記載の地名がそのまま現代に残っているのです。
さらに、古事記はアマテルの子・孫で大国主に国譲りさせたホヒ(菩比:穂日)・ヒナトリ(建比良鳥、武夷鳥・天夷鳥、武日照、日名鳥)親子の名前がでてきますが、出雲の揖屋(いや)のイヤナミ・イヤナギ(伊邪那美・伊邪那岐)名のように古代人は地名ゆかりの名前をつけることが多いことからみて、ヒナトリは「蜷城(ひなしろ)」「比良松」地名のあるこの地で生まれた御子の可能性が高いと考えます。
記紀の真偽判断にあたっては、現代にまで継承性の高い地名やその地ゆかりの名前の人物の伝承などと符合するかどうかの検討が真偽判断には欠かせません。
⑤ 統計的検証との整合性
記紀をもとに古代の天皇の在位年について初めて統計的検証を行い、約10年であることを明らかにしたのは安本美典元産能大教授です。―『卑弥呼の謎』(講談社新書)など多数
安本氏は天照大御神(筆者:アマテルと表記)の即位年を220~250年、神武天皇在位年を270~300年と推定していますが、私はさらに古事記をもとに始祖神・天御中主まで遡り検討しました。―『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』参照
古事記では天御中主から薩摩半島南西端の笠沙天皇家3代目の彦瀲彦瀲(ひこなぎさ)(ウガヤフキアエズ:大和天皇家初代のワカミケヌ=神武の父)までは16代(別天つ神4代+神世7代+高天原2代+笠沙天皇家3代)ですが、『新唐書』によると遣唐使は天皇家の祖先を「初主號天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡三十二世、皆以「尊」爲號(ごう)、居筑紫城。 彦瀲(ひこなぎさ)子神武(じんむ)立」と伝えた(自言)とされ、16代の欠史がみられるのです。そして、その16代の空白を埋めるように、古事記はスサノオ・大国主7代、鳥耳を妻とした大国主10代の合計16代の系統を載せ、大国主の国譲りへと続けているのです。
この事実は出雲でイヤナギから生まれたスサノオの異母妹の筑紫のアマテル1と大国主に国譲りさせたアマテル2は襲名した6代ほど離れた別の人物である可能性が高いことを示しています。私の母方の祖母の一族では代々「太郎右衛門」を襲名していることをみても、襲名の伝統は古くからあり、記紀などに異なる時代に登場するスサノオやアマテル、大物主、武内宿禰なども、襲名していた可能性は高いと考えます。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照
古事記に登場する王名順に、はっきりとしている31~50代天皇の即位年をもとに最小二乗法で推計すると、天御中主は紀元前53年頃、スサノオは紀元60年頃、大国主は122年頃、卑弥呼(アマテル2)は225年頃、ワカミケヌ(神武天皇)は277年頃、10代ミマキイリヒコ(崇神天皇)は370年頃の即位となります。
王の確実な年齢や在位年数からより古い時代の王の年齢や在位年数の統計的分析は、後世の錯誤や創作の入りにくい予測値として重要視されるべきです。
⑥ 不自然・不合理記述の合理的解釈
大和初代天皇の年齢を古事記137歳(日本書紀127歳)、10代崇神天皇168歳(120歳)とするなど、初代から16代の天皇の年齢は異常に長くなっています。
この記載から、「記紀神話は信用できない、後世の創作である」という説や、「春秋2倍年であった」などの解釈が見られますが、合理的な推理でしょうか?
まず、小説から考えてみていただきたいのですが、創作するなら本当らしく装うはずであり、わざわざ誇張して桁外れた長寿にするという創作理由がみあたりません。
次の「春秋2倍年説」ですが、そもそも漢の時代から朝貢交易を行い、スサノオの異母弟の月読の名前や神無月・神在月の出雲での神集いの行事からみてスサノオ・大国主建国には中国に倣った暦があったと見るべきであり、さらに遣隋使・遣唐使などで中国文化に精通していた記紀作者たちが、敢えて「春秋2倍年」を使い後進性を中国・韓国にアピールすることなど考えられません。
私は16代のスサノオ・大国主一族の建国の歴史を隠すとともに、後世にその事実を秘かに伝え残すために、敢えて16代の天皇の年齢を倍にするという不自然な記載を太安万侶らは行ったと推理しています。
「不自然不合理神話」を記紀作者の無能性や空想性、他神話からの模倣性など、日本の後進性・非文明性から説明するという「拝外卑下史観」から卒業し、「不自然不合理神話の合理的解釈」の可能性をまず徹底的に考えるべきです。
⑦ 神話的表現による史実記載
古事記には、イザナギが殺したカグツチの血から神々が生まれたという神話や、イザナギの体に付いた黄泉の国の汚垢(けがれたあか)からスサノオやアマテル(天照)、ツキヨム(月読)が生まれたという神話、スサノオが殺したオオゲツヒメ(大気都比売・大宜都比売:イヤナギ・イヤナミの御子、筆者説はオオキツヒメ)の死体から蚕や稲・粟・小豆・麦・大豆が生まれたという神話が見られます。
典型的な神話的表現のように見られていますが、甕棺や「柩・棺(ひつぎ=霊継ぎ)」の内側が丹(に)で塗られていることからみて、子宮(ひな=霊那=霊が留まる場所)の血の中から赤子が産まれるという「黄泉帰り」の再生思想があったことが明らかです。
また播磨国風土記には「(大神の)妹玉津日女命、生ける鹿を捕って臥せ、その腹を割いて、稲をその血に種いた。よりて、一夜の間に苗が生えたので、取って植えさせた。大国主命は、『お前はなぜ五月の夜に植えたのか』と言って、他の所に去った」や「大水神・・・『吾は宍の血を以て佃(田を作る)る。故、河の水を欲しない』と辞して言った」という記載があります。
現代人の考えではなく、古代人の黄泉帰り思想から同時代的に解釈すべきであり、カグツチを産んでイヤナミが亡くなりその子孫栄えたことやオオゲツヒメが養蚕や五穀栽培を開始したことを、古代人はカグツチの血やオオゲツヒメの死体からそれらが生まれたとする伝承神話的な表現が生まれたと考えられます。
スサノオ・大国主神話の解釈は、現代的な合理性判断基準ではなく、古代人の宗教・思想から判断し、神話的表現で書かれた真実の歴史の探究を行うべきです。
⑧ 天皇家不名誉記述は真実への入口
高天原から天下りした笠沙天皇家3代の「ニニギ―ホオリ(山幸彦)―ホホデミ(ウガヤフキアエズ・彦瀲)」について、古事記は初代のニニギが美しい阿多都比売(あたつひめ)を妻とし醜い石長比売(いわながひめ)を親の元に返したので呪いをかけられ、「天皇命等之御命不長也(天皇らの御命は長くないなり)」とする一方で、孫のホホデミは「伍佰捌拾歲(五百八拾歳)」としており、その子の大和天皇家の初代・ワカミケヌ(8世紀に神武天皇の忌み名)の137歳よりも桁外れた長寿としています。
この580歳というのは神話によく見られる誇張とも言えますが、天皇らの「御命不長也」と不敬にあたる表現で書きながらホホデミを「五百八拾歳」と太安万侶が書いたことをみると、単なる神話的誇張表現とみるわけにはいきません。
太安万侶は天武天皇に「諸家のもたる旧辞及び本辞、すでに正実に違い、多く虚偽を加う。・・・偽りを削り實(実)を定め、後葉に流(つた)えんと欲す」と命じられ、「旧辞・本辞」と「帝紀」(天皇の系譜)を稗田阿礼に「誦(よ)み習わし」て古事記を編纂したのであり、百歳を越える長寿の天皇を記載しながら、「天皇命等之御命不長也」と書くのは首が飛びかねない大問題であったはずです。
可能性としては、太安万侶が参考にした「本辞・旧辞」が天皇短命説・長命説のどちらで書かれ、太安万侶がどう調整したか、です。
この「本辞・旧辞」とは、『日本書紀』に記された620年(推古天皇28年)に聖徳太子と蘇我馬子が編纂した「国記」と考えられ、中大兄皇子による蘇我入鹿暗殺の際に「蘇我蝦夷等誅されむとして悉に天皇記・国記・珍宝を焼く、船史恵尺(ふねのふびとえさか)、即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献る」と記されている「国記」以外には考えれられません。
その蘇我氏作成の「国記」には、前述のように天御中主からウガヤフキアエズ(彦瀲)まで32代の王の系譜が書かれていたのに対し、天武天皇は「スサノオ・大国主16代の建国を目立たなくし、天皇家中心の建国史に書き換えよ」と命じた可能性が高く、そこで苦慮した太安万侶は襲名したアマテル3人(スサノオの異母妹、大国主の筑紫妻の鳥耳、卑弥呼)を合体してスサノオ・大国主16代分を省き、代わりに16代の大和天皇の年齢を倍にする細工を行うとともに、笠沙天皇家のウガヤフキアエズを580歳(36歳×16代)と不自然に水増しして、スサノオ・大国主16代分を省いた構成としたと私は考えます。―『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』参照
スサノオ系の「大海人(おおあま)皇子=大天皇子=天武(あまたける)天皇」は、太(多・意富)氏を始めスサノオ・大国主系の豪族の助けをえて壬申の乱で勝利しており、天武朝では乱後にスサノオ・大国主系を重用しながら天皇中心の集権体制を築く必要があり、太安万侶はその期待に応え、スサノオ・大国主建国史を抹殺することなく系譜や水利水田稲作の功績などを伝え、真実の歴史を伝える手掛かり(16代天皇2倍年、ウガヤフキアエズ580歳)を残しながら、天皇中心史へと「国記(本辞・旧辞)」を書き換えたものと考えます。
その他、大和天皇家の初代ワカミケヌ(後世の忌み名:神武天皇)を「若御気怒」などと書くのではなく「若御毛沼」と「毛むくじゃらの毛人」を思わせる漢字を当て、その大和の皇后・ホトタタライスズキヒメ(富登多多良伊須須岐比売:ホトは女性器、多多良は真っ赤なタタラ製鉄炉)をワカミケヌの死後、薩摩半島阿多で生まれた長男・タギシミミ(多芸志美美、手研耳)が妻とし、ホトタタライスズキヒメの子のカムヌナカワミミ(神沼河耳)たちが殺すなど、古事記には天皇家の名誉とならないような記述が多く見られ、これらは全て真実の歴史を伝えている可能性が高いと考えます。
⑨ スサノオ・大国主一族有利記述の解釈
古事記の高天原神話では、出雲で生まれた長兄のスサノオはイヤナギから「海原を知らせ」と命じられながら、母の根の堅州国に行きたい」と「八拳須(やつかひげ)心(むね)の前にいたるまで啼きいさちき」、アマテルとの後継者争いでは「営田の畔を離ち、溝を埋め」「殿に尿をまり散らし」「忌服屋に斑馬を逆剥ぎにして堕とし入れ」、さらにはオオゲツヒメを殺すなど、泣き虫乱暴者・殺人者として描かれていますが、出雲ではクシナダヒメ(櫛名田比売)を助け、ヤマタノオロチ王を討った英雄として描かれ、スサノオの「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を」の歌は古事記に登場する最初の歌であり、紀貫之は古今和歌集で「和歌の始祖」としてスサノオとシタテルヒメ(下照比売:大国主の娘で暗殺された天若日子の妻。「夷振(ひなぶり)」の歌を詠む)の名を挙げています。
前述の大国主が少彦名(すくなひこな)と「国を作り堅め」、少彦名の死後には、大和の大物主と「共に相作り成」し、その国名を「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国」としたという記載を始め、スサノオ・大国主一族を讃えた記載は、基本的に真実を伝えているとみてよいと考えます。
なお、スサノオを貶めた「母の根の堅州国に行きたいと八拳須(やつかひげ)心(むね)の前にいたるまで啼きいさちき」という記述はスサノオが出雲でイヤナミから生まれた長兄であることを示しており、イヤナミの死後に筑紫にやってきたイヤナギが筑紫日向(ちくしのひな)でもうけた筒之男3兄弟(住吉族)や綿津見3兄弟(金印が発見された志賀島を拠点とする安曇族)、アマテル・ツキヨミ(月読:壱岐)より年長の長兄であることを示しています。イヤナギはイヤナミ亡き後に筑紫で妻問いしてスサノオの異母弟・異母妹をもうけたのです。
太安万侶はアマテルを姉、スサノオを弟と記載しながら、秘かに「母の根の堅州国に行きたい」とスサノオが「青山は枯山の如く泣き枯らし、河海は悉に泣き干し」たという神話的表現で煙幕を張りながら、スサノオが長兄であることを秘かに伝えているのです。
このようにスサノオ・大国主一族に対し、相反する記述があるときは、一族に有利な記述こそ真実の歴史としてその背景を検討すべきです。
以上、記紀神話の真実性の判断基準として、9つの指標を示しましたが、以下の分析ではさらに具体的に検討していきたいと考えます。
なお、「物証の裏付けのない神話は後世の架空の創作」「ヤマタノオロチ退治のように古事記にしか書かれていない記述は虚偽」「矛盾した記載は疑わしい」「神話にでてくる地名は小説などと同じで後世の細工」「統計的推計よりは具体的記述こそ重要」「不自然・不合理記述は創作の証拠」「神話的表現は神聖性を高めるため」「天皇家不名誉記述やスサノオ・大国主一族有利記述は後世の脚色の証拠」などのこれまでの神話真偽判断基準と対比しながら判断いただければ幸いです。
□参考□
<本>
・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)
2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)
2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)
2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)
2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)
2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)
2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)
2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)
<ブログ>
ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/
帆人の古代史メモ http://blog.livedoor.jp/hohito/
邪馬台国探偵団 http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/