ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

141 出雲大社の故地を推理する

2022-10-27 20:16:31 | スサノオ・大国主建国論

 私は2007年2月に出雲大社、2013年9月には島根県立古代出雲歴史博物館を見学して、次に記す2つの疑問を持っていました。

 建築史の授業にはほとんど出られなかった建築学生でしたが、仕事ではプランナーとして施設立地や都市計画に携わってきた経験からの疑問です。

<出雲大社建築計画の2つの疑問>

疑問1 出雲大社が神名火山(神那霊山)である八雲山を向いていない。

       

疑問2 長い直階段は横風に対して構造的に弱い。建築時に足場が不要となる内階段(廻り階段)の可能性が高いのでは。

       

 「スサノオ・大国主ノート140(縄文ノート154) 縄文建築から出雲大社へ:玉井哲雄著『日本建築の歴史』批判」をまとめている作業中に、大国主時代の古出雲大社の位置がほぼ推定できたので、ここに紹介したいと思います。

 大国主の八百万神神道は、縄文時代から続く霊(ひ:祖先霊)信仰を受け継いでおり、世界の母系制社会の氏族・部族社会(母族社会)に共通する普遍的な宗教であると考えてきた私は、出雲大社を中心としたスサノオ・大国主系の古社の世界遺産登録を提案してきました。そのためには紀元2世紀の世界最高の木造建築の可能性が高い48mの古出雲大社の復元を進めるべきと考えており、元建築場所の発掘調査による確定と復元が必要と考えています。

 広く議論していただくための、第1歩となれば幸いです。

 なお、以下の地図のベース図は国土地理院地図です。

 

1.直階段か廻り階段か?

 第2の疑問「直階段か廻り階段か?」については、すでに公表しましたので先に紹介します。

 本ブログでは「古代出雲大社」は外階段か内階段(廻り階段・スロープ)か?」を2020年2月18日にアップし、はてなブログ「ヒナフキンの縄文ノート」の「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「50 『縄文6本・8本巨木柱建築』から『上古出雲大社』へ」において再掲しましたが、出雲国造の千家(せんげ)家に代々伝えられてきた「金輪造営図」には神殿の前に「引橋長一町」と書かれた長方形の図について、日本書紀には「大国主が往来して海に遊ぶ具の為に、高橋・浮橋および天鳥船を造り供す」と書かれており、出雲大社本殿から大国主神門水海(かんどのみずうみ)にでるため「高橋(桟橋)」と「浮橋(浮き桟橋)」があったのです。

       

 「金輪造営図」に書かれた「引橋長一町」を「一町=109m」の階(きざはし:階段)=直階段と見たのは誤りであり、桟橋(木道)と浮桟橋だったのです。

 発掘を行えば柱の太さから直階段があったのかどうかは簡単に判明するはずであり、試掘調査が求められます。

 この論点は日本建築の歴史解明にとって重要であり、出雲大社が9本柱の巨木建築であることが証明されると、縄文時代の6700~4000年前頃の阿久尻・中ツ原・三内丸山遺跡の巨木建築の伝統を受け継ぎ、3世紀頃の邪馬壹国時代の「楼観」へと連続した神名火山(神那霊山)信仰のための神殿建築文化があったことが証明されます。―「スサノオ・大国主ノート140 縄文建築から出雲大社へ:玉井哲雄著『日本建築の歴史』批判」参照

    

 

2.出雲大社と神名火山(神那霊山)

 第1の疑問「出雲大社が神名火山(神那霊山)である八雲山を向いていない」ことから、図5のように古出雲大社は現在地より東にあったのではないか、と私は考えていました。

     

 1つの可能性は、図1の赤線①のように、現出雲大社の軸に沿って平行に八雲山から伸ばした位置に古出雲大社があった可能性です。

 もう1つは、現在の参道と平行に八雲山から伸ばした赤線②の延長上にあった可能性です。

 この段階では、これ以上の決め手はありませんでした。

 その後、縄文社会研究に入り、諏訪の中ツ原・阿久・阿久尻遺跡が「ヒジン様(霊神(ひじん)様=女神(めのかみ))」を祀る蓼科山を信仰する祭祀施設であることに気付き、三内丸山遺跡の巨木建築もまた神名火山(神那霊山)である八甲田山を向いていることを確かめ、出雲大社はこの縄文時代からの神名火山(神那霊山)信仰を受け継いでいることが確かめられました。―縄文ノート「105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列群」「106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」参照

 この時は阿久尻遺跡の巨木建築の復元に関心があったのですが、図6のように出雲大社は八雲山よりさらに遠くにある神名火山(神那霊山)の琴引山を向いている可能性が高いことを明らかにしました。

   

 今回、「スサノオ・大国主ノート140(縄文ノート154)」において日本建築論として検討するにあたり、前から抱いていた古出雲大社の建築地についてさらに検討を深めました。

 

3.古出雲大社の立地場所はどこか?

 古出雲大社の立地場所について、私は以下の5点の検討により、現在地より南東約250mの場所であったと考えます。

⑴ 「神名火山(神那霊山)からの直線配置」「二等辺三角形配置」の法則

 ブログ「邪馬台国探偵団」も書き続けていた私は、纏向遺跡の大型建物がアマテル太陽信仰の宮殿との報道が気になり、纏向遺跡は大国主一族の穴師の拠点と考えて分析を行い、大国主一族の施設立地には神名火山(神那霊山)へ向かう「直線配置」と神名火山(コニーデ)型の「二等辺三角形配置」の法則があることに気付きました。

    

 なお、その内容は2019年3月に「纏向の大型建物は『卑弥呼の宮殿』か『大国主一族の建物』か」というレジュメを書いて関係者に配布し、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本第2版:2000年1月)にも入れたのですが、なぜかブログにはアップしておらず、次回に掲載します。

 さらに出雲について調べてみると、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡が大黒山と権現山を神名火山(神那霊山)とする「直線配置」と「二等辺三角形配置」があったのです。

    

 大国主一族の施設配置には「神名火山(神那霊山)からの直線配置」と「二等辺三角形配置」という2つの法則があったのです。

 

⑵ 古出雲大社は八雲山―琴引山ライン上に建てられた可能性が高い

 縄文焼畑農耕において、ソバ栽培があったのではないかとの仮説を立てて調べていくうちに島根県飯石郡頓原町で1万年前の蕎麦の花粉が発見されたというネット記事が見つかり、「縄文ノート109 日本列島そば好きラインー蕎麦と焼畑」で次のように書きました。

 

 1万年前の蕎麦の花粉が発見されたとされる島根県飯石郡頓原町(筆者注:現飯南町)の南には琴引山があり、「縄文ノート106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」の図17で取り上げたように出雲大社の南方に位置し、出雲国風土記によれば、「琴引山・・・古老の伝えに云へらく、此の山の峰に窟あり。裏に所造天下大神の御琴あり・・・又、石神あり・・・故、琴引山と云ふ」と書かれ、大国主が琴を弾いて神意を聞いていた重要な神名火山(神那霊山)とされており、神在月に八百万の神々は「琴引山」を目印に集まり、神戸川を下って日本海へ出て稲佐の浜より上陸したとされています。

 このような出雲族の聖山・琴引山のある頓原町から日本最古の1万年のソバの花粉が見つかっており、現在も出雲そばが有名であることからみて、ソバ栽培の起源についてはさらなる研究を期待したいところです。

           

 「事代主」を「言代主」とも書くことから考えると、「琴引山」=「事引山=言引山」であり、神門水海(かんどのみずうみ)から神門川(かんどがわ)の源流域にある琴引山は神山として古くから信仰され、出雲国風土記の記述や伝承から見て、大国主はこの山で神の言葉を聞いていた可能性が高い特別の神名火山(神那霊山)であり、出雲大社は琴引山に向けて建てられた可能性があると考えました。

 しかしながら、現出雲大社本殿と琴引山を結ぶと、出雲大社も参道も正確には琴引山には向いておらず、少しずれています。

      

 やはり、古出雲大社は現出雲大社の位置ではなかった可能性が高いのです。

 そこで八雲山と琴引山を結ぶ線を引いてみました。 

    

 なんと、現在の出雲神社参道の東に、島根県立古代出雲歴史博物館の建物に添う点線の道路状の表示とこの八雲山―琴引山ラインが重なり、さらにその西側にも平行の道路状の表示と道路があるのです。

 伊勢神宮の式年遷宮のように、老朽化した出雲大社を建て替える時には、その傍に新たな社を建設したに違いなく、参道(元は高橋+浮橋)の位置も平行にズレるはずであり、図11の①②の2つの点線の道路状の点線で示したものは、その遺構である可能性があります。

         

 私は古出雲大社は図11の長方形赤色点線の位置に創建された可能性が高いと考えます。

 なお、琴引山は神戸川の源流域であるとともに、斐伊川の支流の三刀屋(みとや)川の上流部にもあたり、出雲国風土記よれば「三刀屋」は大国主の「御門(みと=みかど)」があったとされており、斐伊川と三刀屋川の合流点の木次(きすき)町は八岐大蛇(やまたのおろち)の8つの頭を埋めた場所と伝わり、斐伊神社から武藏國一之宮「大宮氷川神社」(さいたま市大宮区)にスサノオの霊を移したとされています。

 私の住むさいたま市中央区の犬散歩圏内にも多くの氷川神社がありますが、そのルーツはこの出雲国風土記の飯石郡(現雲南町)なのです。

 どうやら、八雲山―琴引山ラインは大国主の霊(ひ:祖先霊)信仰にとって重要な意味を持っていた可能性が高く、古代出雲歴史博物館一帯の発掘調査が求められます。

 

⑶ 八雲山―琴引山―三瓶山を結ぶ二等辺ライン

 三瓶山は出雲西部を車で走ると目につくシンボリックな活火山で、『出雲国風土記』の「国引き神話」では鳥取県の大山と共に国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされ、琴引山とともに古代出雲にとっては神聖な山であったことは確実です。

 そこで前掲の「図6 出雲大社から遠望した方角」では出雲大社と両方の山を結んだ線も引いていますが、出雲大社から琴引山と三瓶山はきれいに左右対称の角度になっています。

 図12は八雲山から三瓶山、琴引山を結んだ全体図ですが、二等辺三角形にはならないものの、左右対称の角度になっています。

    

 大国主一族の施設建設の「二等辺三角形」配置の法則には当たりませんが、大国主が出雲大社の立地点を決めるにあたり、三瓶山と琴引山との位置関係を決め手として八雲山の麓にした可能性は十分に考えられます。

 

⑷ 古出雲大社は真名井神社近くにあった可能性

 図11を見ていただくと、私が想定する古出雲大社の場所のすぐ右上に真名井神社があり、真名井の清水は出雲大社の祭事の中でも特に大事な、神在月の11月23日に古伝新嘗祭(こでんしんじょうさい)に使われており、古出雲大社はそのすぐそば、境内にあった可能性は高いと考えます。

            

 古事記によれば薩摩半島西南端の笠沙天皇家3代の2代目「火遠理=穂穂出見=山幸彦」で「毛のあら物、毛の柔物(にこもの)」を獲る猟師であり、「山人」である縄文系であり、五穀豊穣に感謝して新米をいただく稲作民の「新嘗祭(にいなめさい)」は大和に入ってからのものであり、私は天皇家の新嘗祭は大国主一族の古伝新嘗祭(こでんしんじょうさい)を引き継いだものと考えます。

 なお、出雲大社の新嘗祭では真名井から取り出した小石を使う「歯固めの儀」と儀式があり、百番の舞という神舞が行われています。

 この神社の祭神・彌都波能賈(みづはのめ)(日本書紀では罔象女(みつはのめ))は、揖屋のイヤナミ(伊邪那美=伊耶那美)の尿から誕生したとされる水神であり、大国主にとっては真名井の清水は重要な意味を持っていたことが明らかです。

 

⑸ 大風を避ける3方を囲まれた安全な谷間に出雲大社は移された

 では、なぜ古地から、現在の位置に出雲大社は約20mも西北に移されたのでしょうか?

 それは図9の地形図や図13の図を見て頂ければ明らかですが、現出雲大社は西・北・東風の影響を受けにくい谷間に移されたと考えられます。

       

 出雲大社は、はっきりとした記録では1061年、1108年、1109年、1141年、1172年、1235年の6回、平均で43年で建て替えられていますが、1108年には倒壊しており、この時に安全な谷間に移された可能性が高いと考えます。

 現在の場所は奥まっていて日本海から見えにくい場所にあり、越や筑紫などを船で往来していた大国主がこのような場所を建設地として選んだ可能性は低く、元々の出雲大社は日本海から見える位置であったと考えます。

 

4.調査・検討課題

 以上の検討は私が入手できた資料とネット情報の範囲であり、さらに次のような調査が求められます。地元での調査を期待したいところです。

⑴ 出雲大社移築の伝承の調査

 古出雲大社の社地移転について、伝承が残っていないとは考えにくく、特に出雲大社には何らかの記録が残っている可能性は高いと考えます。

⑵ 古代出雲歴史博物館西側の2本の道路状点線の調査

 私の考察は地図からだけですが、古代出雲歴史博物館建設にあたり、この地に旧参道があったことはすでに確認されている可能性があり、確認が求められます。

⑶ 奉納山などからの琴引山・三瓶山の方位確認

 2009年7月に級友・馬庭稔さんに案内してもらい奉納山にのぼったのですが、当時は問題意識がなく琴引山について聞くこともなく、あいにく曇りで写真もを撮れていませんでした。私の検討は地図上からなのですが、目で見て琴引山がどう確認できるのか、気になっています。

     

⑷ 権現山・大黒山での「神名火山(神那霊山)からの「直線配置」と「二等辺三角形配置」法則の確認

 仕事の帰りに荒神谷遺跡を見に行って以来、なぜこの地が選ばれたのか、さらに加茂岩倉遺跡との位置関係がずっと気になっていたのですが、前述のとおり、纏向遺跡と穴師山・穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社(兵主神=大国主)の関係から2つの立地法則を見つけ出し、大黒山・権現山に当てはめましたが、大黒山(315m)から荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡(150m)、さらには神原神社古墳が実際に見えるのかどうか、気になっています。どなたか、山登りの好きな方に確かめて欲しいものです。

  

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/


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