ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

スサノオ・大国主建国論3 記紀伝承・神話の真偽判断の方法

2022-10-17 17:12:54 | スサノオ・大国主建国論

 7月5日に「神話探偵団135 記紀神話の9つの真偽判断基準」としてアップしましたが、「スサノオ・大国主建国論」に組み込むために、以下のように加筆・スリム化修正しました。

 

スサノオ・大国主建国論3 記紀伝承・神話の真偽判断の方法

 刑事裁判での自白の真偽判断の基準は、「客観的証拠との整合性」「経験則からみた合理性」「不自然な変遷のない首尾一貫性」などであり、記紀伝承・神話の真偽判断についても、判定基準から検討する必要がある。

 前著の『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』では、古事記・日本書紀のスサノオ・大国主建国伝承・神話を中心において分析しておらず、今回、記紀を中心にスサノオ・大国主建国の歴史を明らかにするにあたり、次の14の「記紀伝承・神話の真偽判断の方法」を提起しておきたい。

① 「伝承・表裏表現・神話」の3分解分析

 これまで、右派はスサノオ・大国主建国伝承・神話を無視して天皇建国に関わるアマテル(天照)・ニニギ神話の一部だけをつまみ食いし、左派は伝承・神話全部を8世紀の創作とし、「たらい水(天皇建国史)とともに赤子(スサノオ・大国主建国史)を流す」誤りを犯している。

 これに対し、私は「晴れ(伝承)、時々曇り(表裏表現)、ところによりにわか雨(神話)」と記紀伝承・神話を3分解して分析した。

 現代風に言えば、記紀伝承・神話を「ドキュメンタリー・ミステリー・ファンタジー」に3分解して解釈するという方法である。

 「表裏表現(ダブルミーニング)」とは、「伝承を荒唐無稽な神話表現にして真実を秘かに伝える」「明らかに矛盾した伝承・神話を盛り込み、読者に真実を推理させる」という太安万侶らの謎かけ表現であり、その分析には読者の高度な推理力が問われる。

 なお、これまで「記紀神話」と書いてきた部分は「記紀伝承・神話」の表記に改めたい。

② 倭音倭語・「主語-目的語-動詞」言語のルーツからの分析

 日本語は倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語の3層構造となっており、大国主を「おおくにぬし」、「出雲国」を「いずものくに」と読むように、魏書東夷伝倭人条の「一大国」は「いのおおくに」、「邪馬壹国」は「やまのいのくに」と読むなど、呉音漢語・漢音漢語を除き、基本的に倭音倭語による分析とした。

 さらに、日本語は東南アジア語・中国語の「主語―動詞-目的語」(SVO)言語構造ではなく、「主語-目的語-動詞」(SOⅤ)言語構造であることや「あ、い、う、いえ、うお」5母音、Y染色体D型などからみて、スサノオ・大国主一族の倭語・社会・文化の解明には南アジアやアフリカから見ていく必要があり、特に霊(ひ)崇拝の神名火山(神那霊山)信仰の解明には南インド・ドラヴィダ族の「pee」信仰、チベットの「ピャー」信仰、ビルマ(ミャンマー)のピュー人などからルーツを検討する必要がある。

 スサノオ・大国主建国の歴史の解明には、日本列島人起源論・縄文人論から考えなければならないと考える。

③ 5母音転換・子音転換に注意した分析

 琉球弁の「あいういう」、本土弁の「あいうえお」5母音からみて、倭語は「あ・い・う・いえ・うお」5母音の可能性が高く、他にも「神(か、か、か、かこお)」「雨・天(あ、あ)」「火()」「海(うみあま)」「魚(お、お)」「赤(あ、あ)」のような母音転換がみられる。

 また「寂しい(さしい、さしい)」「内裏(いり、いり)」「ばりよー、ばれよ」のような「ま行は行」「た行な行」「た行か行」の子音転換がみられる。

 記紀や魏書東夷伝倭人条などの分析にあたっては、母音転換・子音転換の可能性について注意深く見ていく必要がある。例えば、魏書東夷伝倭人条の「投馬国(とうまのくに)」の「と」は「たちつちつ=たちつてと」5からみると、「つうまの国→つまの国」となり、「薩摩=狭妻」より広い「妻(今の鹿児島・宮崎県)」を指している可能性が高いのである。

 「出雲(いづも)」は「いつむ(委頭)」の可能性があり、大黒山(だいこくさん)(元々は大国山であろう)の麓の神庭の権現山中腹にある神代(かむしろ)神社(元は神城の可能性)の主祭神の「宇夜都弁命(うやつべのみこと)」は「つ=と」で分析すると「うやとべ」になり、若御沼毛(わかみけぬ)(後の神武天皇)により紀国で誅殺された「名草戸畔(なくさとべ)・丹敷戸畔(にしきとべ)」と同じく女王国(女神国)があったことを示している。

④ 漢字は全て倭音倭語への当て字

 古事記は「二霊群品の祖」の産霊(むすひ)夫婦神として高御産巣日(たかみむすひ)・神産巣日(かみむすひ)をあげているが、日本書紀では高皇産霊(たかみむすひ)・神皇産霊(かみむすひ)とし、「ひ」に「日、霊」の二種類の当て字が使われている。前者の産巣日(むすひ)夫婦だと太陽を産む神となり「世界を照らすアマテル太陽神信仰」の皇国史観には都合がいいが、後者の産霊(むすひ)夫婦神だと、人々(群品)を生んだ神となり、八百万神信仰のスサノオ・大国主一族の伝承の可能性が高い。

 古事記によれば若御毛沼(わかみけぬ)(8世紀に付けられた忌み名は神武天皇)の祖父の火遠理(ほをり)は「山幸彦」と呼ばれる猟師、その兄の火照(ほでり)は「海幸彦」と呼ばれる漁師(日本書紀では「隼人(はやと)」族)であることからみると、「山幸彦」の一族は「山人(やまと)」の可能性が高い。「大和」は倭音では「おおわ」としか読めず、大国主・大物主一族の「大和国(おおわのくに)」を乗っ取った天皇家が「大和」を自らの部族名の「やまと」と呼ばせたとしか考えれられない。

 このように「漢字は全て当て字」(国語学者の大野晋氏)として、その倭音から別の当て字を検討し、本来の意味を探り当てる必要がある。

⑤ 客観的物証との整合性

 記紀記載などと客観的物証との整合性という真偽判断基準については、何人も異存はないであろう。

 問題はこの基準を誤解し、この国の歴史学は「考古学的裏付けのない神話は虚偽」と決めつけてきた論理的誤りがみられることである。かつて「出雲にはめぼしい考古学的発見がないから、スサノオ・大国主神話は8世紀の創作である」という主張を大和中心史観の歴史家たちはあたかも定説であるかのように主張していたが、論理的には「スサノオ・大国主神話には、現在のところ考古学的な裏付けがないが、記紀記載や出雲大社からみて真実の可能性が高い」としか言えなかったはずである。

 案の定、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡での国内最大の大量の青銅器(銅矛・銅剣・銅鐸)の発見により、スサノオ・大国主神話は強力な物証による裏付けをえた。古事記に書かれている出雲を中心とした大国主一族と美和(三輪)を中心とした大物主一族の連合の成立が、銅矛・銅剣(筆者説:銅槍)・銅鐸圏の統一として荒神谷・加茂岩倉両遺跡により証明された。

   

 この反省に立つならば、「物証で裏付けられた神話は歴史的史実」「物証の裏付けがないからといってその伝承・神話を虚偽と決めつけることはできない」という大原則をまず確立すべきである。

⑥ 内外文献の整合性

 『古事記』は、大国主は少彦名(すくなひこな)と「国を作り堅め」、少彦名の死後には、大和の大物主と「共に相作り成」し、その国名を「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国」と書き、『日本書紀』一書(第六)もまた、大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」とし、動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定めて「百姓、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」と伝えている。

 さらに『出雲国風土記』は大国主を「五百つ鉏々(いおつすきすき)取り取らして天の下所造らしし大穴持命」とし、『播磨国風土記』は「大水神・・・『吾は宍(しし)の血を以て佃(たをつく)る。故、河の水を欲しない』と辞して言った。その時、丹津日子(につひこ)、『この神、河を掘ることにあきて、そう言ったのであろう』と述べた」と大国主親子が大国主が鉄先鋤より水利水田稲作を普及させた天下経営王であることを伝えている。

 また、『日本書紀』はスサノオが御子の五十猛(いたける)(委武(いたける))と新羅に渡ったとしているが、『後漢書』は「倭奴国奉貢朝賀・・・光武賜以印綬」と書き、その「漢委奴国(い(ひ)なのくに)王」の金印はスサノオ義弟の綿津見(わたつみ)3兄弟の拠点である志賀島で江戸時代に発見され、59年には倭人の4代目新羅国王・脱解(たれ)が倭国王と国交を結んだと『三国史記』新羅本紀は書いている。

 天皇中心史観の予断にとらわれないなら、新羅に渡ったスサノオこそ新羅国王・脱解と国交を結んだ倭国王(い(ひ)のくにのおう)であり、その2年前に漢皇帝から金印を与えられた委奴(いな・ひな)国王もまた、イヤナギから「知海原(海原を知らせ=支配せよ)」と命じられたスサノオとみるべきである。

 記紀の記載が他の国内資料や中朝文献との整合、さらには現在まで受け継がれている伝承、毎年の神在月の行事、出雲大社や青銅器の集積という物証などは、真偽判断に欠かせない重要な真偽判断基準である。

⑦ 後世史実との整合性

 安定した平安時代の基礎を築いた52代・嵯峨天皇(桓武天皇第2皇子)は、「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は即ち皇国の本主なり」として正一位(しょういちい)の神階と日本総社の称号を尾張の津島神社に贈り、66代一条天皇は「天王社」の号を贈っている。

              

 記紀に書かれたスサノオ・大国主一族の建国は、嵯峨天皇がスサノオを「皇国の本主」とし、一条天皇が「天王」として認めているのである。スサノオは「天王(てんのう)さん」として民衆から広く支持されており、天皇家は追認したのである。

 このように、後世伝承との整合性は記紀の真偽判断には欠かせない。

⑧ 地名・人名との対応

 皇国史観は天照(あまてる)(本居宣長・皇国史観説はアマテラス)の宮殿のある高天原(たかまがはら)を天上の国としたが、古事記はその場所を「安河(やすのかわ)・天安河(あまのやすのかわ)」のある「筑紫日向(つくしのひな)橘小門(たちばなのおど)阿波岐原(あわきばる)」とし、「○○県△△市□□町××」のように正確に地名を書いている。

 調べてみると、福岡県の旧「甘木市」(甘木=天城)には「夜須(やす)川(安川・山見川)や「蜷城(ひなしろ)」「美奈宜(みなぎ)・三奈木(みなぎ)(みなぎ=ひなぎ=蜷城(ひなしろ))」「荷原(いないばる)(いないばる=ひないばる)」があり、そのすぐ東には 女帝・斉明(さいめい)天皇と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が百済救援の朝倉橘広庭宮を置いた「橘」や「杷木(はき)」地名があり「阿波岐原(あわきばる)=あ杷木原」もある。地名からみて高天原(天原の高台)はこの地の可能性が高い。

 この高天原からのニニギの天下りについても、前に述べたように高天原→猿田(佐田)→浮橋(浮羽)→丘(日田)→久士布流岳(久重山)→高千穂峰(々)→阿多・吾田(阿多)、竹屋(同)、長屋(同)、笠沙(同)と記紀記載の地名がそのまま現代に残っている。

 さらに出雲の揖屋(いや)のイヤナミ・イヤナギ(伊邪那美・伊邪那岐)名のように、古代人は地名ゆかりの名前をつけることが多いことからみて、アマテルの子・孫で大国主に国譲りさせたホヒ(菩比:穂日)とヒナトリ(建比良鳥(たけひらとり)、武夷鳥(たけひなとり)・天夷鳥(あまのひなとり)、武日照(たけひなてる)、日名鳥(ひなとり))親子の、ヒナトリ(ヒラトリ)は「蜷城(ひなしろ)」「比良松(ひらまつ)」地名のあるこの地で生まれた可能性が高い。

 記紀の真偽判断にあたっては、現代にまで継承性の高い地名がその地ゆかりの名前の人物として伝承されているかどうかの検証が真偽判断には欠かせない。

⑨ 統計的検証との整合性

 記紀をもとに31~50代の天皇の平均在位年数について初めて統計的検証を行い、約10年であることを明らかにしたのは『卑弥呼の謎』(講談社新書)など多数の著書のある安本美典元産能大教授である。

 そこから安本氏は天照大御神(筆者:アマテルと表記)の即位年を220~250年頃、神武天皇在位年を270~300年頃と推定しているが、私はさらに古事記をもとに始祖神・天御中主まで遡り検討した。

 古事記では天御中主から薩摩半島南西端の笠沙天皇家3代目の彦瀲(ひこなぎさ)(ウガヤフキアエズ:大和天皇家初代のワカミケヌ=神武天皇の父)までは16代(天つ神4代+神世7代+高天原2代+笠沙天皇家3代)としているが、『新唐書』は「初主號天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡三十二世、皆以「尊(みこと)」爲號(ごう)、居筑紫城。彦瀲(ひこなぎさ)子神武(じんむ)立」と伝えた(自言)とし、16代の欠史がみられる。一方、その16代の空白を埋めるかのように、古事記はスサノオ・大国主7代、鳥耳を妻とした大国主10代の合計16代の系統を載せており、大国主の国譲りへと続けている。

 この事実は出雲でイヤナギから生まれた大兄(だおおえ)(長兄)のスサノオの異母妹の筑紫のアマテル1と大国主に国譲りさせたアマテル2は実際には6代ほど離れ、記紀に登場するスサノオやアマテル、大物主、武内宿禰などは襲名して何度も登場した可能性が高いことを示している。

 古事記に登場するこの32代の王名順に、31~50代天皇の即位年から最小二乗法で推計すると、天御中主は紀元前53年頃、スサノオは紀元60年頃、大国主は122年頃、卑弥呼(アマテル3)は225年頃、ワカミケヌ(神武天皇)は277年頃、10代ミマキイリヒコ(崇神天皇)は370年頃の即位となる。

 古代の王の年齢や在位年数の統計的分析は、後世の歪曲や創作の入りにくい予測値として重要視されるべきである。

⑩ 「現代人的不合理解釈」から「古代人的合理的解釈」へ

 大和天皇家の初代神武天皇の年齢を古事記は137歳(日本書紀127歳)、10代崇神天皇を168歳(120歳)とするなど、初代から16代の天皇の年齢は異常に長くなっている。

 この点から「記紀神話は信用できない、後世の創作である」とする説が見られるが、小説と同じで、創作するなら桁外れた長寿にするという理由は考えれない。

 一方「当時は1年を春秋2年としていた」という説が見られるが、後漢と朝貢交易を行い、スサノオの異母弟の「月読」という名前や、毎年の神在月(神無月)の出雲での神集いの行事などからみて、スサノオ・大国主王朝には中国に倣った暦があったと見るべきである。さらに遣隋使・遣唐使などで中国文化に精通していた記紀作者たちが、敢えて「春秋2倍年」を使い後進性をさらけ出すなど考えられない。倭人を「暦もない未開人」にしたいという劣等感の強い拝外主義の歴史家の妄想である。

 私は太安万侶や日本書紀編集者たちは、16代のスサノオ・大国主一族の建国の歴史を隠すとともに、後世にその事実を秘かに伝え残すために、敢えて穂穂出見(ほほでみ)(彦瀲(ひこなぎさ))を580歳あまりとし、16代の天皇の年齢を倍にするという不自然な「ネタバレ」の記載を行ったのである。

 「不自然不合理神話」から真実を読み取る推理力・分析力を欠き、記紀編集者の無能性を説くなど、日本の後進性・非文明性から説明するという「拝外卑下史観」から卒業し、「不自然不合理神話の古代人的合理的解釈」のまず徹底的に試してみるべきである。

⑪ 「古代人の宗教思想」からの推理

 古事記には、イザナギが殺したカグツチの血から神々が生まれたという神話や、イザナギの体に付いた黄泉の国の汚垢(けがれたあか)からスサノオやアマテル(天照)、ツキヨム(月読)が生まれたという神話、スサノオが殺したオオゲツヒメ(大気都比売・大宜都比売:イヤナギ・イヤナミの御子、オオキツヒメ=きつねひめ=お稲荷さん)の死体から蚕や稲・粟・小豆・麦・大豆が生まれたという神話が見られる。

 これらは典型的な荒唐無稽な神話のように見られてきたが、甕棺や柩(ひつぎ)・棺(ひつぎ)(霊継(ひつぎ))の内側が丹(に)(朱)で塗られていることからみて、子宮(ひな=霊那=霊が留まる場所)の血の中から赤子が産まれるという「黄泉帰り」の再生思想があったことからみて、死体からの生誕神話はイヤナギが出雲と筑紫の各地で妻問して御子をもうけた伝承を伝え、オオゲツヒメの死体らの穀類や豆類、蚕などの誕生は、母系制社会において女王がそれらの生産を担っていたことを神話的表現で伝えているのである。

     

 播磨国風土記に「(大神の)妹玉津日女命、生ける鹿を捕って臥せ、その腹を割いて、稲をその血に種いた。よりて、一夜の間に苗が生えたので、取って植えさせた。大国主命は、『お前はなぜ五月の夜に植えたのか』と言って、他の所に去った」や「大水神・・・『吾は宍の血を以て佃(田を作る)る。故、河の水を欲しない』と辞して言った」という記載からみても、出産と同じく、血の中から稲が生えるという思想があったことが明らかである。

 現代人の考えではなく、古代人の黄泉帰り思想から同時代的に解釈すべきであり、カグツチを産んでイヤナミが亡くなりその子孫栄えたことやオオゲツヒメが養蚕や五穀栽培を開始したことを、古代人はカグツチの血やオオゲツヒメの死体からそれらが生まれたとする神話的表現で示したのである。

 これらは8世紀の記紀編集者たちの荒唐無稽な創作というより、古代人の黄泉がえりの宗教思想を伝えるとともに、母系制社会のイヤナギ・スサノオ・大国主一族の農耕の伝承を伝えていると考える。

⑫ 天皇家不名誉記述からの真実

 高天原から天下りした笠沙天皇家3代の「ニニギ―ホオリ(山幸彦)―ホホデミ(ウガヤフキアエズ・彦瀲(ひこなぎさ)」について、古事記は初代のニニギが美しい阿多都比売(あたつひめ)を妻とし醜い石長比売(いわながひめ)を親の元に返したので呪いをかけられ、「天皇命等之御命不長也(天皇らの御命は長くないなり)」としている。

 また、河内湖岸でのナガスネヒコ・トミビコとの戦いでの敗北、南に敗走しての紀国での名草戸畔(なくさとべ)・丹敷戸畔(にしきとべ)(女王)の誅殺と略奪、大和に入ってからの宴席に招いての土雲八十建(やそたける)らの暗殺などは堂々たる軍の戦とは言い難い。

 さらに吾田(あた)の阿比良比売(あひらひめ)(吾平津媛(あひらつひめ))との間に当芸志美美(たぎしみみ)らをもうけた若御毛沼(わかみけぬ)(イワレビコ:神武天皇)は、大和(おおわ)に入ると伊須気余理比売(いすけよりひめ)を后とし3人の御子をもうけるが、神武の死後、タギシミミは義母のイスケヨリヒメを妻とし、その3人の子に殺されたという話を載せている。その後の天皇家内部の権力争いやだまし討ちの暗殺の数々なども含めて、これらの天皇家にとって名誉とはいえない伝承は真実を伝えている可能性が高いと私は考える。

 太安万侶は天武天皇に「諸家のもたる旧辞及び本辞、すでに正実に違い、多く虚偽を加う。・・・偽りを削り實(実)を定め、後葉に流(つた)えんと欲す」と命じられ、「旧辞・本辞」と「帝紀」(天皇の系譜)を稗田阿礼(ひえだのあれ)に「誦(よ)み習わし」て古事記を編纂したのである。天皇家にとって不名誉・不利な伝承をわざわざ書くこともなく、威風堂々たる輝かしい正史を工夫して創作すればいいのであるが、多くの天皇家不名誉記載を載せているのは、それらが「旧辞・本辞」「帝紀」に書かれた真実の伝承であるからである可能性が高い。

 この「本辞・旧辞」は、『日本書紀』に記された620年(推古天皇28年)に聖徳太子と蘇我馬子が編纂した「国記」と考えられ、中大兄皇子による蘇我入鹿暗殺の際に「蘇我蝦夷等誅されむとして悉に天皇記・国記・珍宝を焼く、船史恵尺(ふねのふびとえさか)、即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献る」と記されている「国記」以外には考えれられず、それらに書かれている伝承なら「天皇家不名誉・不利記載」といえども、太安万侶が罰せられることはないからである。

 スサノオ系の「大海人(おおあま)皇子=大天皇子=天武(あまたける)天皇」は、太(多・意富)氏を始めスサノオ・大国主系の豪族の助けをえて壬申の乱で勝利し、天武朝では乱後にスサノオ・大国主系を重用して天皇中心の集権体制を築いており、太安万侶はその期待に応え、スサノオ・大国主建国史を抹殺することなくその系譜や水利水田稲作の功績などを伝え、真実の歴史を伝える手掛かり(16代天皇2倍年、ウガヤフキアエズ580歳)を残しながら、天皇中心史へと「国記(本辞・旧辞)」を書き換えたと考えられる。

 その他、大和天皇家の初代ワカミケヌを「若御毛沼」と「毛むくじゃらの毛人」を思わせる漢字を当て、その大和の皇后・伊須気余理比売(いすけよりひめ)の別名の「富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ)(ホトは女性器、多多良は真っ赤なタタラ製鉄炉)」を載せるなど、古事記には天皇家の名誉とならないような記述が多く見られ、これらは全て真実の歴史を伝えている可能性が高いと考える。

⑬ スサノオ・大国主一族有利記述からの真実

 古事記の高天原伝承・神話では、出雲で生まれた大兄(長兄)のスサノオはイヤナギから「海原を知らせ」と命じられながら、母の根の堅州国に行きたい」と「八拳須(やつかひげ)、心(むね)の前にいたるまで啼(な)きいさちき」と書き、アマテルとの後継者争いでは「営田の畔を離ち、溝を埋め」「殿に尿をまり散らし」「忌服屋(いみはたや)に斑馬を逆剥ぎにして堕とし入れ」、さらにはオオゲツヒメを殺すなど、泣き虫・乱暴者・殺人者として描かれているが、出雲では櫛名田比売(くしなだひめ)を助けてヤマタノオロチ王を討った英雄として描かれ、スサノオの「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を」の歌は古事記に登場する最初の歌であり、紀貫之は古今和歌集で「和歌の始祖」としてスサノオと下照比売(したてるひめ)(大国主の娘で暗殺された天若日子の妻で夷振(ひなぶり)の歌を詠む)の名を挙げている。

        

 前述の大国主が少彦名(すくなひこな)と「国を作り堅め」、少彦名の死後には、大和の大物主と「共に相作り成」し、その国名を「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)水穂国」としたという記載を始め、スサノオ・大国主一族を讃えた記載は、基本的に真実を伝えているとみてよいと考える。

 なお、スサノオを貶(おとし)めた「八拳須(やつかひげ)、心(むね)の前にいたるまで啼(な)きいさちき」という記述はスサノオが出雲でイヤナミから生まれた長兄であることを示しており、イヤナミの死後に筑紫にやってきたイヤナギが筑紫日向(ちくしのひな)でもうけた筒之男(つつのお)3兄弟(住吉族)や綿津見(わたつみ)3兄弟(金印が発見された志賀島を拠点とする安曇族)、アマテル・ツキヨミ(月読神社は壱岐に本社)より年長の長兄であることを示している。

 太安万侶はアマテルを姉、スサノオを弟と記載しながら、秘かに「母の根の堅州国に行きたい」とスサノオが「青山は枯山の如く泣き枯らし、河海は悉に泣き干し」たという神話的表現で煙幕を張りながら、スサノオが長兄であることを秘かに伝えているのである。

 このようにスサノオ・大国主一族に対し、相反する記述があるときは、一族に有利な記述こそ真実の歴史としてその背景を検討すべきである。

⑭ 最少矛盾仮説の採用

 工学分野では「仮説検証法」はありふれた手法であり、仮説実験を繰り返して「最適解」を求めるのであるが、古代史の分野においても、記紀伝承が真実かどうか、いくつもの仮説をたて、最少矛盾仮説を採用し、発掘や再現実験を行い検証するという方法が採られるべきと考える。

 現在の考古学は、開発によりたまたま見つかった遺跡の緊急発掘を行うという「たまたま考古学」に多大なエネルギーが割かれているように思えるが、この国の歴史の根幹にかかわるようなテーマ、例えば高天原や大国主の墓などについては、シュリーマン方式の発掘が求められる。

 百余国を7~80年支配した「委奴国王」「倭国王」について、私は「①奴国王」「②金印が発見された志賀島を拠点とした綿津見一族の王」「③スサノオ~大国主7代」の3つの仮説をたて、最初は②で検討したが、③を思い切って選ぶと検証作業は進み、最少矛盾仮説として③を採用したがそれが現段階の真実と考えている。

 

 以上、記紀伝承・神話の真偽判断方法として、14の指標を示したが、次のような主張についても当然ながら検討した。

 「物証の裏付けのない神話は後世の架空の創作」「ヤマタノオロチ退治のように古事記にしか書かれていない記述は虚偽」「矛盾し混乱した記載は疑わしい」「神話にでてくる地名は小説などと同じで後世の細工」「統計的推計よりは具体的記述分析こそ重要」「不自然・不合理記述は創作の証拠」「神話的表現は神聖性を高めるため」「天皇家不名誉記述やスサノオ・大国主一族有利記述は後世の脚色の証拠」などのこれまでの説と対比しながらご判断いただければ幸いである。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

 帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

 邪馬台国探偵団    http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/


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