ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

157 温羅(うら)は「吉備王・占(うら)」

2024-06-12 15:09:29 | スサノオ・大国主建国論

 「縄文ノート125 播磨・吉備・阿蘇からの製鉄・稲作・古墳の起源論」(220226)において、私は次のように書きました。

 祖母の住んでいた「浦部」集落は揖保川町史によれば「占部」の可能性が指摘されており、五十狭芹彦(大物主の妻で箸墓に葬られた百襲(ももそ)姫の弟。後の吉備津彦)に殺されたと伝わる吉備の「ウラ(温羅)王」も「占王」であり、対馬・壱岐をルーツとした「占部氏」由来の地名・人名ではなかったかなどと考えていました。

 

1 温羅(うら)は「吉備王・占(うら)」

 岡山空襲で焼け出された父母は、吉備津神社の「温羅」の首を埋めたとされる「御竈殿(おかまでん)」の真横の借家に疎開しており、そこで私は小学生になる前まで御釜殿から回廊(スケーターで下るとスリルがある)にかけてよく遊んでいましたが、播磨の「浦部」と吉備の「温羅」、何か因縁を感じずにはおれません。

 この御釜殿で行われる「鳴釜神事(なるかましんじ)」について、ウィキペディアは「釜の上に蒸篭(せいろ)を置いてその中にお米を入れ、蓋を乗せた状態で釜を焚いた時に鳴る音の強弱・長短等で吉凶を占う神事。・・・一般に、強く長く鳴るほど良いとされる。原則的に、音を聞いた者が、各人で判断する。女装した神職が行う場合があるが、盟神探湯・湯立等と同じく、最初は、巫女が行っていた可能性が高い」「吉備津神社には鳴釜神事の起源として以下の伝説が伝えられている。吉備国に、温羅(うら)という名の鬼が悪事を働いたため、大和朝廷から派遣されてきた四道将軍の一人、吉備津彦命に首を刎ねられた。首は死んでもうなり声をあげ続け、犬に食わせて骸骨にしてもうなり続け、御釜殿の下に埋葬してもうなり続けた。これに困った吉備津彦命に、ある日温羅が夢に現れ、温羅の妻である阿曽郷のの娘である阿曽媛に神饌を炊かしめれば、温羅自身が吉備津彦命の使いとなって、吉凶を告げようと答え、神事が始まったという」としています。

 父からこの話を聞いて御釜殿は怖いと思っていましたが、温羅一族は鬼とされ「桃太郎の鬼退治」物語の元となったのです。

 この伝承で重要なのは、岡山市の「黄蕨(きび)の会」代表の丸谷憲二さんから教えられたことで、図1のように妻の阿曽媛の阿蘇地区が古代からの製鉄拠点であったことです。―縄文ノート121 古代製鉄から『水利水田稲作』の解明へ」(220205)参照

 温羅が捕まったとされる鯉喰神社は楯築墳丘墓から700mほどのところにあり、温羅の血で染まったという血吸川・赤浜はこの地が赤土=赤目(あこめ)砂鉄製鉄の拠点であったことを示しており、阿曽地区から血吸川をさらに遡った鬼城山(鬼ノ城は温羅の本拠地)の麓に6世紀中ごろの現在のところ日本最古とされる製鉄遺跡千引カナクロ谷製鉄遺跡(千引=血引であろう)があるのです。―「縄文ノート120 吉備津神社と諏訪大社本宮の『七十五神事』」(220129)参照

  この「温羅王」について、ウィキペディアは「鬼神」「吉備冠者(きびのかじゃ)」という異称があり、「出自についても出雲・九州・朝鮮半島南部など、文献によって異なる」としています。

 私は大国主を国譲りさせて後継王となった穂日と武日照(たけひなてる:天夷鳥、天日名鳥)親子が出雲祝神社(埼玉県入間市)に祀られていることから、大国主の後継者は「祝(いわい)」と呼ばれていた可能性があり、筑紫鳥耳・大国主王朝の子孫である筑紫君磐井もまた「磐井=祝」であったと考えています。そして、同じように吉備王「温羅」もまた「占=卜」で神事を行っていた王の可能性が高いと考えます。

 

2 阿曽族は製鉄部族

 丸谷憲二さんはこの阿曽一族が行っていた製鉄は「阿蘇リモナイト」(褐鉄鉱、沼鉄鉱)を使った阿蘇の製鉄法が伝来したと考えており、広島大学や愛媛大学でもモナイト製鉄再現実験を行っており、調べてみると図2のように阿曽・麻生地名のあるところで製鉄が行われていることから私も丸谷説を支持しています。―縄文ノート121 古代製鉄から『水利水田稲作』の解明へ」(220205)、「縄文ノート119 諏訪への鉄の道」参照

 母の故郷であるたつの市揖保川町の「浦部」の前の山には鉄糞(かなくそ:鉱滓、スラグ)が出ることを又従兄弟から「古代人の糞が出る」と間違って聞いており、図3のように隣の太子町には阿曽地名があり、その近くにはスサノオと共に新羅に渡った御子の五十猛(いたける)を祀る中臣印達神社(なかとみいたてじんじゃ:いたて=いたける)があります。―「縄文ノート127 蛇行剣と阿曽地名からの鉄の伝播ルート考」(220318)参照

 また、近くの雛山の麓の4~7世紀の朝臣古墳群の1号墳からは阿蘇ピンク石の舟型石棺蓋が見つかっていますが、図4のように岡山市の5世紀前半の全国第4位の巨大前方後方墳の造山(つくりやま)古墳の舟型石棺は灰色の阿蘇溶結凝灰岩、瀬戸内市長船町の5世紀後半の築山(つきやま)古墳の家型石棺や香川県観音寺市の5世紀中頃~後半の丸山古墳の舟形石棺、5世紀中頃の帆立貝形の青塚古墳の舟形石棺などは阿蘇ピンク石であり、高槻市の6世紀前半の今城塚(いましろづか)古墳(第26代継体天皇の陵墓説)など5~6世紀の大阪・奈良・滋賀の10の古墳にもまた阿蘇ピンク石は使われており、高砂市の竜山石と同じく古代王たちのルーツを示す最高級の石材であった可能性があります。―「縄文ノート125 播磨・吉備・阿蘇からの製鉄・稲作・古墳の起源論」(220226)

 以上、「温羅」と妻の「阿曽姫」の子孫の「祝(いわい:神主)」の娘の「阿曽姫(襲名)」伝説から、私はこの地の製鉄を行う阿曽族の姫に吉備王の「温羅(占)」が妻問いして夫婦となったと考えます。

 

3 吉備津神社の2つの聖線(レイライン:霊ライン)

 私は公共施設の配置を計画する地域計画や建物の立地を決める建築基本計画の仕事をしてきましたから、吉備津神社の配置が特に気になります。図5~に示すように吉備津神社本殿は神名火山(神那霊山)である「吉備中山」を向いていないのです。

 これに対して、神池(幼児の時、三輪車とともに落ちて溺れそうになったことがあります)の中にある宇賀神社(吉備国最古の稲荷神:スサノオ・神大市比売の娘、大年(大物主)の妹を祀る)から御釜殿(温羅の墓所)、えびす堂(出雲の事代主を祀る)、岩山宮(スサノオの異母弟の吉備児島の建日方別(たけひかたわけ)を祀る)、環状石籬(せきり:列石)などの磐座(いわくら))は、吉備中山へ向かう参拝路となっているのです。―「縄文ノート120 吉備津神社と諏訪大社本宮の『七十五神事』(220129)参照

 この事実は、この地はもともとはスサノオ・大国主一族と同族の建日方別とその子孫である吉備王・温羅を祀る神名火山(神那霊山)信仰の祭祀拠点であり、その権力を奪った7代孝霊天皇の御子の彦五十狭芹彦(ひこいせさりひこのみこと)が温羅を殺して大吉備津彦を名乗り、後にその地に新たに吉備津神社を建てたことを示しています。―図5・6参照

 吉備津神社ホームページ掲載の19世紀の境内図(図6)を見ると、神名火山(神那霊山)である吉備中山に向かう出雲・吉備族の信仰軸と、吉備中山の大吉備津彦の墓所に向かう天皇家の信仰軸の2本の聖線(レイライン:霊線)が見られるのであり、もしも吉備津神社に行かれることがあれば、このスサノオ・大国主建国を示す聖線と天皇家の権力奪取を示す聖線を体感していただきたいと思います。―図6・7参照

 なお、吉備中山の環状石籬(せきり:列石)と楯築墳丘墓上の環状に配置された巨石が縄文時代のストーンサークル・ウッドサークルから続く宗教思想を示すのか、前者はたまたまの自然配置なのか、研究を期待したいところです。

 

4 吉備製鉄の解明を!

 日本書紀によればスサノオは御子の五十猛(イタケル)とともに新羅に渡り、魏書東夷伝辰韓条では「国、鉄を出す、韓・濊(わい)・倭皆従いてこれを取る」と書かれ、さらに三国史記新羅本紀は紀元59年に4代新羅王の倭人の脱解(たれ)が倭国と国交を結んだとしていますから、スサノオ(委奴国王)は米鉄官制交易を軌道に乗せ、新羅で製鉄法を秘かに入手して早々に帰国し、鉄鉱石が採れる山陽側の吉備、播磨で製鉄が古代製鉄がおこなわれていた可能性が高いと私は考えています。

 出雲の金屋子神社などの伝承によれば、出雲のたたら製鉄は金屋子神により図8のように「播磨・宍粟→吉備中山→伯耆・日野→出雲・奥日田」へと伝えられたとされています。―「縄文ノート125 播磨・吉備・阿蘇からの製鉄・稲作・古墳の起源論」(220226)参照

 ヤマタノオロチ王を切ったスサノオの剣を祀る備前国一宮の石上布都魂神社のある赤坂(オロチ王の本拠地であったと私は推理しています)は播磨の宍粟から吉備中山へのルートの途中にあり、赤穂(赤生:筆者説)・明石(赤石)とともに赤鉄鉱のあった場所であり、古代の重要な製鉄拠点であったと考えます。

 そして、この1・2世紀頃の新羅の製鉄技術の後に、阿曽族によるより簡便な縦型円筒炉による製鉄が4世紀頃に導入されたのではないかという仮説を私は考えていますが、いずれ製鉄遺跡発見により解明されることを期待しています。

 なお、図9・表1・2に示すように、私は通説の「製鉄ヒッタイト起源説」「草原の道伝播説・照葉樹林帯伝播説」に対し、「製鉄西アフリカ起源説」「海の道伝播説」ですが、宗教・農耕関係の倭音倭語がドラヴィダ語(タミル語)と類似しているのに対し、製鉄関係の倭音倭語はドラヴィダ語・呉音漢語・漢音漢語にはなく、韓国語を語源とする説もないことから、新羅鉄・阿曽鉄の伝播ルートの解明は今後の研究課題です。―縄文ノート「122 『製鉄アフリカ起源説』と『海の鉄の道』」(220210)、「136 『銕(てつ)』字からみた『夷=倭』の製鉄起源」(220427)、「178 『西アフリカ文明』の地からやってきたY染色体D型日本列島人」(230827・0930)参照


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