左が竜山の石切場、右が石の宝殿
「じゃあ、そろそろ出発しましょうか」
ヒメの合図で、一同は伊保山を後にした。石の方殿を上から眺めながら下り、生石神社の拝殿を抜けて、参道下の駐車場で車に乗り込んだ。
「石切場はこの伊保山の南と、その東南に続く竜山の北側にあります。走りながら車の中から見ていただき、高御位山神社に向かいます」
高木の案内、長老の運転で出発した。
伊保山の石切場の横を車は抜ける。古代から竜山石を掘り続けた石切場は100m近く切り立っている。竜山を南から迂回し、竜山の石切場を左手に眺めながら北上した。
「石の宝殿に取り組んだ間壁忠彦・葭子氏は、石の宝殿を製作したのは蘇我氏で、大和へ運ぶつもりであったとしていたけど、大和へ運びだすなら海岸が迫っていたこの石切場で作るね。伊保山の中腹に造ることはありえない」
長老の意見には誰もが納得した。
「播磨国風土記には、印南郡大国里について『息長帯日女(おきながたらしひめ)命、石作連(やざこむらじ)大来(おおく)を率いて、讃岐国の羽若石を求めたまひき。そこから渡りたまいて・・・』と書かれています。亡き仲哀天皇のために、息長帯日女命、後の神功皇后は自ら讃岐国の羽若石を求め、この竜山に運んで石作連に石棺を造らせ、大阪府藤井寺市の仲哀天皇陵まで運んだと考えられます」
ヒナちゃんはよく調べている。
「仲哀天皇の祖母・播磨稲日大郎(ハリマノイナビオオイラツメ)姫はこの地で仲哀天皇の父のヤマトタケル命を産んだとされているのよね。この地にゆかりの深い仲哀天皇は竜山石の石棺に葬られるのが自然じゃない。息長帯日女命は竜山石を使わないで、なぜ、羽若石を使ったのかしら?」
ヒメの『なぜなぜ』が始まった。
「それだけじゃないぞ。仲哀天皇・息長帯日女命の孫の仁徳天皇陵の石棺は、ここの竜山石で造られているんだ。大国主命や火明命にゆかりの深いこの地で石棺を作りながら、なぜ、竜山石を使わなかったのか、確かに理解に苦しむね」
カントクもヒメに同調した。
「播磨の竜山石や讃岐の羽若石、九州の阿蘇石、奈良の二上山など、石棺に使われる石材の多くは柔らかい凝灰岩なんだ。従って、わざわざ讃岐まで出かけて石材を求めた理由というのはよくわからないね」
長老の言うとおりで、天皇家が地元の奈良の二上山の凝灰岩を使わないで、わざわざ竜山石や羽若石、九州の阿蘇石などの石棺を求めるというのは、葛城生まれの高木の郷土意識に反するものであった。
「私の単なる仮説ですが、天皇や各地の王が亡くなった時、母方の一族が石棺を用意した、という可能性はないでしょうか? 例えば、仁徳天皇の母の中日売(なかつひめ)命の母は、尾張連の祖の娘ですから、この地を拠点とした天火明命の子孫になります」
ヒナちゃんはそこまで調べていたのか、高木は完敗であった。
「仲哀天皇の母は讃岐と関係があるの?」
ヒメの質問は止まらない。
「母は山代の大国の淵の娘の弟苅羽田刀弁(オトカリバタトベ)の娘の両道入姫(フタジノイリヒメ)命となっており、讃岐との関わりは不明です。ただ、仲哀天皇は穴門豊浦宮(今の下関市)と筑紫橿日宮(今の福岡市)に居たとされ、大和には一度も入っていないことから、記紀の記載には疑問が残ります」
ヒナちゃんの答えは慎重だ。
「しかし、そもそも、父のヤマトタケルや妻の息長帯日女命=神功皇后の実在性を疑う歴史学者も多いですよね? そうすると、仲哀天皇の実在性もまた怪しいことになるんじゃないでしょうか」
高木は、正統派として、これだけは言っておかなければならない、と思い切って発言した。
「記紀に書かれたヤマトタケルや息長帯日女命、仲哀天皇の記述には疑問な点が多々あるが、そこからヤマトタケル・息長帯日女命・仲哀天皇架空説が成立するかというと、論理的には無理だな」
さんざ架空説と論争してきた長老の答えは手厳しい。
「その人物の記紀の記述に、他の人物の功績や言い伝えが混じっていたり、脇役なのに主役にされたり、実際には天皇や皇后ではないのに天皇や皇后にされたり、系図が書き換えられたり、いろいろと疑問があったとしても、その人物が全くの構成の創作の証明にはならないんだな。むしろ、その人物の記述が他の資料や伝承で裏付けられるかどうか、が問題なんだ」
「小説家の立場から見ると、播磨国風土記に、息長帯日女が石作連を率いて、讃岐国の羽若石を求めてこの地で仲哀天皇の石棺を作った、というような意味不明の創作は難しいわよね」
ヒメが長老をフォローするのは珍しい。
「祖先霊を祀る国において、その子孫が架空の祖先を祀ることは考えられません。記紀に登場する人物が実在の人物かどうか、その1つの判断基準は、その人物が子孫に祀られているかどうか、だと思います」
神社の神主の娘だけあって、ヒナちゃんの基準は明快だ。
「その基準から考えると、崇神天皇がアマテラスの霊を宮中から出し、遠く伊勢神宮に移して、明治まで天皇が参拝していないということは、天皇はアマテラスの子孫ではない、ということになるね」
カントクのいつものこだわりの主張だ。
「ヒナちゃんは、本当は答えを出しているんじゃないの?」
ヒメの嗅覚は格段に鋭い。
「私は、大和に入っていない仲哀天皇こと帯中津日子(タラシナカツヒコ)命は、天皇ではなく、成務天皇の後は、大和にいた香坂(かごさか」王、忍熊(おしくま)王の兄弟が天皇位を継いだと考えています。帯中津日子命はヤマトタケルが豊国の中津で設けた王子で、穴門の豊浦や筑紫の岡田に支配を広げていたのではないでしょうか」
「香坂王、忍熊王って、仲哀天皇の皇子じゃあなかったかしら」
高木が質問しようとしたところを、マルちゃんが先取りした。
「私は香坂王と忍熊王は、成務天皇の皇子で、香坂天皇、忍熊天皇として皇位を継いだ、と考えています。成務天皇の腹違いの兄のヤマトタケルの子の帯中津日子命は、傍系の皇族として豊国の王で終わるところでしたが、その死後、妻の息長帯日女命は、丹波・播磨・摂津・讃岐・豊・長門・筑紫の大国主ゆかりの一族を糾合し、忍熊天皇を打倒して天皇位を奪い、子の応神天皇を擁立して王朝を立てたのではないでしょうか?」
ヒナちゃんの仮説は首尾一貫している。
「日本書紀によれば、応神天皇は71歳で即位し、111歳で死亡している。2倍年として、35・6歳で即位したことになるから、仲哀天皇が死んで35・6年も天皇位が大和で空位であったことはありえないな。その間、大和には香坂・忍熊の両天皇が即位していた、とみるのは妥当じゃないかな」
長老も同じ考えのようだ。
「その説だと、息長帯日女命が讃岐国の羽若石を求めたことが説明できるの?」
ヒメは獲物を離さず、食い下がる。
「帯中津日子命の母は讃岐の王女で、ヤマトタケルの子として讃岐で育ち、豊国の中津にきてこの地の王女の大中津比売と結婚してこの地の王となったとしたら、その石棺を生まれ育った母方の故郷、讃岐に求めた可能性は十分にあると思います」
仮説に次ぐ仮説であるが、高木には他の可能性はすぐには考えられなかった。
資料:日向勤著『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』(梓書院)
姉妹編:「邪馬台国探偵団」(http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/)
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「じゃあ、そろそろ出発しましょうか」
ヒメの合図で、一同は伊保山を後にした。石の方殿を上から眺めながら下り、生石神社の拝殿を抜けて、参道下の駐車場で車に乗り込んだ。
「石切場はこの伊保山の南と、その東南に続く竜山の北側にあります。走りながら車の中から見ていただき、高御位山神社に向かいます」
高木の案内、長老の運転で出発した。
伊保山の石切場の横を車は抜ける。古代から竜山石を掘り続けた石切場は100m近く切り立っている。竜山を南から迂回し、竜山の石切場を左手に眺めながら北上した。
「石の宝殿に取り組んだ間壁忠彦・葭子氏は、石の宝殿を製作したのは蘇我氏で、大和へ運ぶつもりであったとしていたけど、大和へ運びだすなら海岸が迫っていたこの石切場で作るね。伊保山の中腹に造ることはありえない」
長老の意見には誰もが納得した。
「播磨国風土記には、印南郡大国里について『息長帯日女(おきながたらしひめ)命、石作連(やざこむらじ)大来(おおく)を率いて、讃岐国の羽若石を求めたまひき。そこから渡りたまいて・・・』と書かれています。亡き仲哀天皇のために、息長帯日女命、後の神功皇后は自ら讃岐国の羽若石を求め、この竜山に運んで石作連に石棺を造らせ、大阪府藤井寺市の仲哀天皇陵まで運んだと考えられます」
ヒナちゃんはよく調べている。
「仲哀天皇の祖母・播磨稲日大郎(ハリマノイナビオオイラツメ)姫はこの地で仲哀天皇の父のヤマトタケル命を産んだとされているのよね。この地にゆかりの深い仲哀天皇は竜山石の石棺に葬られるのが自然じゃない。息長帯日女命は竜山石を使わないで、なぜ、羽若石を使ったのかしら?」
ヒメの『なぜなぜ』が始まった。
「それだけじゃないぞ。仲哀天皇・息長帯日女命の孫の仁徳天皇陵の石棺は、ここの竜山石で造られているんだ。大国主命や火明命にゆかりの深いこの地で石棺を作りながら、なぜ、竜山石を使わなかったのか、確かに理解に苦しむね」
カントクもヒメに同調した。
「播磨の竜山石や讃岐の羽若石、九州の阿蘇石、奈良の二上山など、石棺に使われる石材の多くは柔らかい凝灰岩なんだ。従って、わざわざ讃岐まで出かけて石材を求めた理由というのはよくわからないね」
長老の言うとおりで、天皇家が地元の奈良の二上山の凝灰岩を使わないで、わざわざ竜山石や羽若石、九州の阿蘇石などの石棺を求めるというのは、葛城生まれの高木の郷土意識に反するものであった。
「私の単なる仮説ですが、天皇や各地の王が亡くなった時、母方の一族が石棺を用意した、という可能性はないでしょうか? 例えば、仁徳天皇の母の中日売(なかつひめ)命の母は、尾張連の祖の娘ですから、この地を拠点とした天火明命の子孫になります」
ヒナちゃんはそこまで調べていたのか、高木は完敗であった。
「仲哀天皇の母は讃岐と関係があるの?」
ヒメの質問は止まらない。
「母は山代の大国の淵の娘の弟苅羽田刀弁(オトカリバタトベ)の娘の両道入姫(フタジノイリヒメ)命となっており、讃岐との関わりは不明です。ただ、仲哀天皇は穴門豊浦宮(今の下関市)と筑紫橿日宮(今の福岡市)に居たとされ、大和には一度も入っていないことから、記紀の記載には疑問が残ります」
ヒナちゃんの答えは慎重だ。
「しかし、そもそも、父のヤマトタケルや妻の息長帯日女命=神功皇后の実在性を疑う歴史学者も多いですよね? そうすると、仲哀天皇の実在性もまた怪しいことになるんじゃないでしょうか」
高木は、正統派として、これだけは言っておかなければならない、と思い切って発言した。
「記紀に書かれたヤマトタケルや息長帯日女命、仲哀天皇の記述には疑問な点が多々あるが、そこからヤマトタケル・息長帯日女命・仲哀天皇架空説が成立するかというと、論理的には無理だな」
さんざ架空説と論争してきた長老の答えは手厳しい。
「その人物の記紀の記述に、他の人物の功績や言い伝えが混じっていたり、脇役なのに主役にされたり、実際には天皇や皇后ではないのに天皇や皇后にされたり、系図が書き換えられたり、いろいろと疑問があったとしても、その人物が全くの構成の創作の証明にはならないんだな。むしろ、その人物の記述が他の資料や伝承で裏付けられるかどうか、が問題なんだ」
「小説家の立場から見ると、播磨国風土記に、息長帯日女が石作連を率いて、讃岐国の羽若石を求めてこの地で仲哀天皇の石棺を作った、というような意味不明の創作は難しいわよね」
ヒメが長老をフォローするのは珍しい。
「祖先霊を祀る国において、その子孫が架空の祖先を祀ることは考えられません。記紀に登場する人物が実在の人物かどうか、その1つの判断基準は、その人物が子孫に祀られているかどうか、だと思います」
神社の神主の娘だけあって、ヒナちゃんの基準は明快だ。
「その基準から考えると、崇神天皇がアマテラスの霊を宮中から出し、遠く伊勢神宮に移して、明治まで天皇が参拝していないということは、天皇はアマテラスの子孫ではない、ということになるね」
カントクのいつものこだわりの主張だ。
「ヒナちゃんは、本当は答えを出しているんじゃないの?」
ヒメの嗅覚は格段に鋭い。
「私は、大和に入っていない仲哀天皇こと帯中津日子(タラシナカツヒコ)命は、天皇ではなく、成務天皇の後は、大和にいた香坂(かごさか」王、忍熊(おしくま)王の兄弟が天皇位を継いだと考えています。帯中津日子命はヤマトタケルが豊国の中津で設けた王子で、穴門の豊浦や筑紫の岡田に支配を広げていたのではないでしょうか」
「香坂王、忍熊王って、仲哀天皇の皇子じゃあなかったかしら」
高木が質問しようとしたところを、マルちゃんが先取りした。
「私は香坂王と忍熊王は、成務天皇の皇子で、香坂天皇、忍熊天皇として皇位を継いだ、と考えています。成務天皇の腹違いの兄のヤマトタケルの子の帯中津日子命は、傍系の皇族として豊国の王で終わるところでしたが、その死後、妻の息長帯日女命は、丹波・播磨・摂津・讃岐・豊・長門・筑紫の大国主ゆかりの一族を糾合し、忍熊天皇を打倒して天皇位を奪い、子の応神天皇を擁立して王朝を立てたのではないでしょうか?」
ヒナちゃんの仮説は首尾一貫している。
「日本書紀によれば、応神天皇は71歳で即位し、111歳で死亡している。2倍年として、35・6歳で即位したことになるから、仲哀天皇が死んで35・6年も天皇位が大和で空位であったことはありえないな。その間、大和には香坂・忍熊の両天皇が即位していた、とみるのは妥当じゃないかな」
長老も同じ考えのようだ。
「その説だと、息長帯日女命が讃岐国の羽若石を求めたことが説明できるの?」
ヒメは獲物を離さず、食い下がる。
「帯中津日子命の母は讃岐の王女で、ヤマトタケルの子として讃岐で育ち、豊国の中津にきてこの地の王女の大中津比売と結婚してこの地の王となったとしたら、その石棺を生まれ育った母方の故郷、讃岐に求めた可能性は十分にあると思います」
仮説に次ぐ仮説であるが、高木には他の可能性はすぐには考えられなかった。
資料:日向勤著『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』(梓書院)
姉妹編:「邪馬台国探偵団」(http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/)
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