海人族(天族)であるスサノオ・大国主建国論からスタートした私は、縄文人の貝やヒスイ・黒曜石などの海洋広域交易から縄文海人(あま)族から縄文社会分析を進め、さらに日本列島人起源論においても「海の道」の分析を進めてきましたが、長野県や福島県の黒曜石産地での神名火山(神那霊山)信仰や温帯ジャポニカ・芋もちソバ食などの照葉樹林帯文化から縄文山人(やまと)族の分析に進み、海人族と山人族が共同して日本列島にやってきたとの視点が必要と考えるようになり、縄文ノート186 『海人族縄文文明』の世界遺産登録へ」(240301)をまとめるに至っています。
この縄文時代から続く海人族・山人族の文化は、スサノオ・大国主建国をへて、海の「一大国(いのおおくに:天一柱:壱岐(一城)」と筑後川上流の甘木(天城)高台(高天原)の「邪馬壹国(やまのいのくに)」、さらには天皇家のルーツである薩摩半島西南端の「山幸彦」と兄の「海幸彦」に引き継がれ、その後「大和(おおわ)」を「やまと」と読むことに繋がったことについて考えてみたいと思います。
ずいぶん前にFC2ブログ「霊(ひ)の国の古事記論35 『ヤマト』は『山人』」(100505)を書きましたが、いくつか補足します。http://hinakoku.blog100.fc2.com/blog-date-201005-2.html参照
小学生の時ですが、「大和」を「やまと」と読むと教わり、「嘘だろう!『だいわ』『おおわ』ではないか」と思い、稲作が始まって「米を入れるために軽い弥生式土器が生まれた」という説明には「米は米俵や木の米櫃に入れるもんだ」と反発するなど、私は教師を信用しないへそ曲りの子供でした。
その後、若いころの私の高知の友人に「山戸」君がいましたが、彼の名字は「やまと」読みでした
諏訪湖畔には「大和(おわ)」地名があります。連続母音の省略で「おおわ」から「おわ」になったのです。―ヒナフキンの縄文ノート「100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松」参照
また大和(だいわ)書房の社長で多数の古代史本を執筆された有名な大和岩雄(おおわ いわお)氏は高遠町(現伊那市)出身です。
さらに信州出身者に連れられて飲んだ新橋駅南の新橋駅前ビル1号館2Fの「正味亭 尾和」は東大卒で電通から転職した尾和正登さんの店で、上田出身の氏の名字の「おわ=尾和」は元々は「大和(おおわ)」だったと思います。
「やまと」については、「山戸、山門、山都」「夜麻登、山跡」など地名由来の名前とする説が見られますが、そもそも奈良盆地には「やまと」地名がありません。
記紀の記述によれば、薩摩半島西南端の阿多に天下りしたニニギが阿多都比売に妻問いしてもうけた「ホデリ:海幸彦(漁師)」が「隼人(はやと)」と呼ばれたことからみて、その弟の「ホオリ:山幸彦(猟師)」は「山人(やまと)」なのです。
広辞苑によれば「山人」は「①(関西・四国地方で)山で働く人。きこり。②(九州地方で)狩人」とされており、まさに古事記に書かれた「毛のあら物、毛の柔(にこ)物」を取る猟師なのです。「御子人(みこと=命、尊)」「旅人(たびと)」「商人(あきんど)」「素人(しろうと)」「玄人(くろうと)」「助(すけ)っ人(と)」「盗人(ぬすっと)」など、「ひと」を「と」と読む例からみても、「山人」=「やまと」であり、「海人(あま)」は「あまと」の「と」が略されたと考えます。
これを裏付ける傍証があります。それは、沖縄では自分達(沖縄人)を「ウチナンチュウ」と呼び、本土の日本人を「ヤマトンチュウ」と呼んでいるのですが、沖縄には「ヤマト」は侵攻しておらず、沖縄を支配下に入れたのはハヤト(薩摩隼人)なのです。
ここで思いだされるのは、ヤマト朝廷による720年の「隼人の乱」の鎮圧であり、この時、阿多の栫ノ原遺跡(丸ノミ石斧・曽畑式土器出土)などを拠点とした隼人(ハヤト:南風人)を縄文時代から深い交流があった琉球の海人(ウミンチュウ)は応援したと考えられます。この対立の記憶は現代まで残り、「ウチナンチュウ」対「ヤマトンチュウ(山人)」の対言葉となって続いた可能性が高いと考えます。
阿多天皇家2代目の山幸彦・ホオリは琉球(龍宮)に渡り、海神の娘・豊玉毘売(とよたまひめ、古事記では鰐、日本書紀では龍)を妻として帰り、海辺の産小屋でトヨタマヒメは鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)を産みます。このウガヤフキアエズは、トヨタマヒメの妹の玉依毘売(たまよりひめ)に育てられて妻とし、このタマヨリヒメは若御毛沼(わかみけぬ:後に神武天皇の忌み名)ら4兄弟を産んでいます。大和天皇家の初代神武天皇の祖母と母は琉球(龍宮)人なのです。―「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(2018秋 季刊日本主義43号)参照
若御毛沼らは、傭兵隊として宮崎県北部の美々津、豊国の宇佐に立ち寄り、筑紫国に1年、安芸国に7年、吉備国に8年滞在し、生駒山脈の麓の白肩津(日下)で敗退し、南に下って熊野をへて奈良盆地の大物主(スサノオの子の大年一族)とスサノオ7代目の大国主一族が支配する「美和(みわ:三輪)→大和(おおわ)」の国に入り、天皇家10代目の御間城入彦(後に崇神天皇の忌み名)の時にその権力を奪い、「大和(おおわ)国」を「やまとの国」と読み変えさせたと考えます。―『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』参照
天皇家のルーツを朝鮮半島の高天原からやってきた弥生人にしたい皆さんや、邪馬臺国を「やまだこく」と読み「大和国(やまとのくに)」に当てはめたい邪馬台国畿内説のみなさん、女山(ぞやま)のある「山門郡」(福岡県みやま市瀬高町)にあてたい九州説のみなさんにはショックかも知れませんが、縄文時代からの「海人族(隼人族)」と「山人族」の歴史を古事記はきちんと伝え、天皇家の母方ルーツが薩摩半島の縄文山人族と龍宮(琉球)の海人族であることを隠していなのです。
昭和天皇は記紀に書かれたこの先祖の歴史を無視し、琉球の民衆に多くの犠牲を強いた玉砕戦を容認し、敗北後には沖縄を基地としてマッカーサーに差し出したのです。私は憲法9条の戦争放棄の発案は統帥権を持った昭和天皇以外にありえないと分析しましたが、琉球をその枠外に置いたのです。―「建国史からみた象徴天皇制と戦後憲法」(2016秋『季刊 日本主義』35号)参照
人間天皇家は、記紀に書かれた「阿多」「龍宮(琉球)」の山人族のルーツを公表し、「大和(おおわ)」を「やまと」と呼ばせるようになった経緯を明らかにすべきです。
スサノオ・大国主建国論では、縄文文化・文明の延長上に八百万神崇拝の神名火山(神那霊山)信仰や48mの出雲大社があり、さらにはそのルーツがアジア・アフリカに遡るなど、歴史軸・空間軸を広げて検討し、世界遺産登録をめざすことを考えていただければ幸いです。
□参考□
<本>
・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)
・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)
2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)
2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)
2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)
2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)
2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)
2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)
2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)
2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)
2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)
2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)
<ブログ>
ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
帆人の古代史メモ http://blog.livedoor.jp/hohito/
ヒナフキンの邪馬台国ノート http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/