ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

37 信長「天主・天王体制」対光秀「天皇・仏教体制」

2009-04-27 23:08:37 | 歴史小説
明智光秀画(ウィキペディアより。岸和田市本徳寺所蔵)



●ボク 21:19
わかりましたよ。ヒメ様の勘はすごいですね?

●ホビット 21:20
ようやく解りました。さすがですね。

●マル 21:21
では、出遅れ3人組の私から、謎解きをしてみましょうか。
信長が、毛利攻略の暁には出雲・石見を与えよう、と言ったとすれば、それはリストラではなく、光秀を№2として見込んでいたのですね。
天主・信長にとって、天王・スサノオや大国主の聖地、出雲の支配を光秀に任せるということは、新たな宗教的権威を創り出す重要な役割を光秀に託した、ということだったとはね。

●ホビット 21:26
世界貿易の重要な資源である岩見銀山の管理を任せた、ということも、厚い信頼を寄せていた証拠と思いますよ。

●カントク 21:27
そうなんじゃ。信長は天下統一後の政治・宗教体制を計算して、一貫して行動し、適材適所で人を配置しておる。しかしながら、光秀にはその政権構想はずっと理解できなかったし、反発していた。
光秀は、天皇の下に征夷大将軍がおり、仏教が国教、という古い秩序感覚から抜け出せなかったのじゃろう。「出雲・石見切り取り」の命令を受け、光秀は反逆を決意したのではないかな。

●マル 21:31
「天主・天王制」対「天皇・仏教制」、この政治・宗教的な路線対決が、信長対光秀の争いだったんですよね。
天下統一に向けては両者の考えは一致していたけど、天下統一後の体制については、路線が違ったのね。

●カントク 21:33 
信長が理不尽に光秀をイジめ、光秀が私憤に駆られて信長を討った、という解釈は、信長、光秀のどちらも矮小化していたんじゃ。

●ホビット 21:35
信長は、宣教師からスペイン、イギリス、フランスなどの絶対王制を知り、直接的には中国の絶対君主制を見習ったのではないでしょうか? 封建主義から絶対王政への世界史の流れを追ったのが信長、それに抵抗したのが光秀、ということになりますね。

●ボク 21:38 
信長の家臣団のうち、誰がこの信長の理念を理解していたのでしょうか?

●カントク 21:39
おそらく、日吉大社ゆかりの秀吉だけが「天王・スサノオ」信仰を理解し、「天主・天王体制」を支持していたのではないかな。
光秀は信長から話は聞いておったが、支持できなかったのであろう。秀吉・光秀以外の武将には、信長は打ち明けていなかったであろう。

●ボク 21:43 
いつ、光秀は謀反を決意したのでしょうか?

●カントク 21:44
おそらく、「出雲・岩見切り取り」の命令を受け、「天主・信長」を支える「スサノオ天王」宗教体制の構築を任された時に、それはできぬ、とんでもない、と思ったのではないかな?
熱心な仏教徒であった光秀にとっては、そのような宗教改革を担うことはそもそも無理じゃった。しかし、信長にとっては、他に適任者はいなかった。ここに「本能寺の変」は必然であったといえる。

●ボク 21:49 
信長は光秀に「出雲・岩見切り取り」の真意を伝えておらず、そのため光秀は単に左遷としか受け止めていなかった、という可能性はありません?

●カントク 21:51
その可能性がないことはないが、光秀はそんなうすらぼんやりした男ではないじゃろう。
謀反に向けて家臣団をまとめるために、「近江・丹波の領地召し上げ」を伝えた、というのが真相ではないかな。

●ヒメ 21:54
お見事、事件解決よね。

●ヒナ 21:55
ヒメさまは、いつ、信長の「天主・天王体制」対「天皇・仏教体制」の対立に気付かれたのですか?

●ヒメ 21:39
日吉大社で、日吉丸=秀吉と信長、大山咋神とスサノオの関係に気付いたことは、前に言ったわよね。
すぐに安土に向かい、「安土城天主信長の館」で天主閣の復元模型を見て、カントクの話が理解できたのよ。「上八方下方形」をひっくり返した「6階方形5階八角形」の模型を見たら、「6階天主信長・天王スサノオ、5階天皇・仏教」の信長の政権構想に気付くわよ。

●ヒナ 21:43
延暦寺焼き討ちの真相は?

●ヒメ 21:44
安土城の天主閣跡に登って、琵琶湖越しに比叡山を見て、「上延暦寺下日吉大社」の関係をひっくり返した、「上スサノオ、下仏教」の構想に気付いたのよね。天主閣模型の「6階儒教・道教、5階仏教」の絵を見て、比叡山を見たら、皆さん、全員が気付いたと思うよ。
天主・信長は、絶対王政の確立にあたって、「スサノオ天王」を中心とした出雲神道を考えていた、とね。

●カントク 21:48 
信長の頭の中では、天下をとった後に、安土に城を築く構想は出来上がっていた可能性は十分にある。その時に、神聖な神那霊山、日枝山の頂上を延暦寺が占拠していたとしたら、許しがたかったかもしれんのう。

●ヒナ 21:51
しかし、そこから先の、「本能寺の変」と「出雲・岩見切り取り」との関係となると、誰も考えつきませんよね。

●ヒメ 21:52
安土城跡から西を見ている、琵琶湖の向こうに比良山脈があって、そのずっと向こうにはスサノオの故郷、出雲がある、となんとはなしに思ったのよ。
その時、信長が光秀に「出雲・岩見切り取り」を命じたことを思い出したのよ。信長の政権構想においては、出雲が宗教的・精神的な支柱になるはずだ、とね。

●マル 21:56
「出雲・岩見切り取り」はリストラではなかった、№2の光秀にふさわしい新たな大役であった、ということになるわよね。

●ヒメ 21:58
そう。ここで、「本能寺の変」は単なる私憤から起きた謀反ではなく、天下統一後の政権構想にからむ路線対立だ、と思ったのよね。

●ボク 22:00 
そこには、天皇家の示唆があったのでしょうか?

●ヒメ 22:01
その可能性はあるとは思うけど、私は、光秀の単独犯行と思うな。
光秀はとびっきり優秀で、慎重、かつ大胆な男なのよ。その光秀が、誰かの謀略、策略に乗って謀反を起こすということをするかしら。
光秀は、信長の政治・宗教改革を否定し、旧体制の側に立って決起する、という使命感を持って立ち上がったのよ。そうだとすると、危険な謀議などは絶対に行わなかった、と思うな。

●カントク 22:06
しかし、光秀の使命感は旧友の同志、細川藤孝にも、私憤による謀反としか理解されなかったようじゃ。

●マル 22:07
光秀の娘の明智珠(細川ガラシャ)が秀吉の計らいで夫・細川忠興の元に戻されたのは知っているよね。また、光秀の腹心の斎藤利三の娘が、家康に取り立てられて家光の養育係となり、天皇から「春日局」の称号と従三位の位を受けていることは、秀吉・家康・天皇家は、光秀の主君・信長殺しを単なる謀反とは見ていない、ということになるわよね。

●カントク 22:11
その結果、封建時代が続き、歴史が300年、停滞したがね。

●長老 22:12
スサノオの時代から、戦国時代へと話が飛んでしまったけど、この時代に、スサノオ天王信仰を国教としようとする信長の動きがあった、ということは大きな収穫ですね。ヒメカン・ワールドはお見事という以外にないね。
特に、ヒメが、日吉大社から安土城へと現地で考えてきたことは大きいなあ。「現場100回」だよね。

●カントク 22:17
そろそろ、大魔人のお目覚めかな。伊勢神宮か熱田神宮に戻ろうと思ったけど、安土に来た以上、「壬申の乱」とスサノオに触れないわけにはいかぬ。ヒメの書きかけの推理小説とカブるかもしれんが、寄り道ついでじゃ。

(ネタモトは日向勤氏の『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』(梓書院)です)

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