蒲田耕二の発言

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『次郎長富士』

2014-08-15 | 映画
なんていう映画を観たのは、キャストに京マチ子の名前があったからだ。昨日の昼間、NHK-BSでやっていた。

彼女だけじゃない。山本富士子に若尾文子、それに長谷川一夫、勝新太郎、市川雷蔵と来たら、50年代後半の日本映画を代表するスター勢揃いである。調べてみたら、これ59年の6月に封切りされてる。正月やゴールデンウィーク用のご祝儀作品なら他社でもオールスター作品を撮ることがあったが、お祭り時でもない時期にこんなゼイタクやってたのは、邦画5社の中でも大映だけだろう。

大映という映画会社は、前近代的な慣例が横行した映画界の中でも特に古い体質を持つ会社だった。制作費は大体においてドンブリ勘定、スタッフの管理も常に大雑把。社内の風紀も芳しくなかった。大体、社長の永田雅一が極道上がりで女優をメカケにしていたような会社である。

その代わり、近代的な組織ではありえない野放図な部分が保持されていて、監督もカメラマンも大道具も自分が納得するまで浪費のし放題。東宝や松竹では早々と潰されてしまいそうなはみ出し者が大化けしたり、突出したカリスマ性を持つ俳優が出現したりした。

前者の典型が勝新太郎であり、後者のそれが京マチ子だ。

仲代達矢の回想録によると、オフの京マチ子は物静かで目立たない女性なのだそうだ。それがカメラをとおすと、驚くほどの磁力を発揮する。魔術と呼びたくなるほどだ。カメラが恋している、と言われたマリリン・モンローといい勝負である。

この『次郎長富士』なる映画、股旅物だから活躍するのは男優ばかり。女優はほとんどカメオ出演の扱いだ。

劇中、次郎長一家と仇敵のヤクザ軍団が宴席で鉢合わせする。たちまち殺気立ち、あわや斬り合い、というところで京扮する宴席主催の姐御が現れ、「ここは私の顔を立てて、ケンカよりお楽しみを」みたいなセリフで場を治める。

そのあとダンスシーンが続くが、芝居らしい芝居はそれだけ。出番にして、10分にも満たないだろう。しかし彼女が襖を開け放って登場した途端、画面に大輪の花が咲いたようにムードが一変する。そのあでやかさ、落ち着いた貫禄は、いきり立つ男たちを鎮めるに充分であり、かなり強引なシナリオの設定をごく自然に納得させる。

50年代の日本には、希望があった。戦中戦後の飢餓と言論弾圧の悪夢から抜け出し、いずれ豊かに幸福になる予感があった。だから他愛ないエンタメにもふんだんにカネを注ぎ込み、ケタ外れの個性を開花させる余裕があった。『次郎長富士』は名作でもなんでもないが、そういう時代の空気がみなぎる映画だった。

いま日本にあるのは何だろう。ふたたび戦火に焼かれ、理不尽に命を奪われ、飢餓に苦しみ、言論弾圧に窒息し、不幸になる予感と違うか。誰の責任だ?

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