蒲田耕二の発言

コメントは実名で願います。

『この首一万石』

2018-01-31 | 映画
オレが高校生だったころ、天下の人気を二分する二枚目と言えば石原裕次郎と大川橋蔵だった。オレ自身は洋画ばかり観ていたのでどっちにも関心なかったが、いま観ると、橋蔵って生まれながらのスター役者だったんだね。画面からこぼれ落ちるほどの華と色気がある。

それも、嫌味なくらい整った美貌とかいうんではなく、上品な愛嬌のあるところがいい。さすが梨園の御曹司。裕次郎は、田舎のヤンキーにしか見えないけど。

その水もしたたる美男俳優が、昨日BSで放送された伊藤大輔監督の映画では、酒と女にダラシなくておっちょこちょいの人足を演じていた。役名は槍の権三だが、近松の同名戯曲とは関係なく、伊藤監督の旧作『下郎の首』に近い内容だ。武士のエゴイズムの犠牲になる庶民の悲劇である。

主人公は最後の最後にだまされていたことに気づき、死に物狂いで抵抗する。その描き方がすさまじい。槍が侍の口から後頭部へ貫通し、主人公の目に刀が突き刺さり、これでもかと凄惨な残酷描写が続く。前半は比較的にゆるい和気あいあいムードだから、著しく劇的なコントラストだ。様式化された立ち回りが売り物だった当時の東映エンタメ時代劇とは、監督の狙いがまったく異なることが分かる。

伊藤監督は時代劇にも現代に通じる社会性を持ち込もうとしたのだろう。東宝の大争議をリアルタイムで体験した40~50年代の映画監督は、総じて問題意識が高かった。血だるまの主人公が代官に射殺される結末に、真摯なメッセージが読み取れる。

生まじめが服を着ていたような伊藤監督の映画は、時にひどく退屈な失敗作もあるので期待していなかったのだが、『この首一万石』は畢生の傑作といっていい作品だと思う。録画しとけばよかったなあ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黄金のトイレ

2018-01-27 | 国際
アーッハハハハハハハハハハ。ああ痛。近ごろ、こんなに笑わせてくれたニュース、ある? ああハラが痛い。

グッゲンハイム美術館のキュレーター、ナンシー・スペクターさんに大大大大大拍手。ツイッターもフェイスブックもやってないことを、オレはつくづく後悔したね。拡散しまくったのに。

何がって、言うまでもないでしょ。寝室に飾るからゴッホを貸してくれとのトランプの厚かましい要求に、ナンシーさん、18金の便器なら貸してあげると返事したそうだ。世界中が腹を抱えたんじゃないの?

これぐらいウィットに富んだ切り返しって、ちょっとないよなあ。スマート、あざやか、水際立ってる……あと、なんて言えばいいんだか形容に苦しむ。

件の便器、朝日によれば「行き過ぎた富を風刺した作品」で、その名も「アメリカ」。金ピカが大好きなくそトランプに、これ以上ふさわしい美術品があろうか。

これ、歴史に残るジョークだね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スクール・セクハラ

2018-01-13 | 社会
かねがね疑問なんだけど、日本の学校の教師って、なんでああエラそうに威張ってんのかね。

教師だから威張るのは当たり前? なんで当たり前なのかね。

日本と違って欧米は、という言い方がもはやなんの説得力もないことを承知で言うのだが(オレ自身、西洋人の東洋に対する無条件の優越心には滅茶苦茶ハラ立つし)、欧米の中等以上の教育では、教師が生徒の名前を呼ぶときは必ずMrとかMissとかの敬称をつける。セレブ家庭の子弟が入る全寮制の私立校だけではなく、一般向けの公立校でもつけるはずだ。まさか、小学校でも、ってことはないだろうが。

あれって、生徒であれ誰であれ、人権はすべて尊重されなければならない、という哲学が根っこにあるからではなかろうか。

一方、日本の教師は生徒をだいたい呼び捨てだ。よくて「君」づけ。それも、気の弱い一部の教師だけ。大半は、もう頭から生徒を見下してる。生徒がタメ口でもきこうものなら、つまり対等の立場に立とうとするなら、態度が悪いと言って叱りつける。

あの見下しスタンスが、体罰やスクール・セクハラへのハードルを低くしていないか。

学校という閉鎖空間の中で教師は威張りくさっているうちに、いつの間にか生徒の人権など意識から抜け落ちてしまう。生徒をあたかも自分が支配する囚人、自分より下位の劣った存在であるかのように思い込んでしまう。だから生徒をさん付けで呼ぼうなんて気はさらさら起きないし、殴ってもかまわん、性欲の捌け口にしてもかまわん、て気分になるのと違うか。

12日にも大阪で、63歳のジジイ教師が女子高生を口説いていたことが発覚。好意を持ってくれてると勘違いしたって、トシいくつだと思ってんだよ。

生徒の人権を尊重するなら、彼らが自分と対等の人格を持つ存在だと認識するなら、そうそう安易に殴ったりセクハラしたり出来ないと思うよ。そら、こんなクズ教師ばかりではないだろうけどさ。

という風なことを言うと、冗談じゃない、そんなのは教育の現場を知らん人間の世迷い言だ、て反論が多分出てくるだろうね。

数年前まで中学が荒れまくっていたのを、オマエはもう忘れたのか。ヘタに生徒をおだてたりしてみろ、中学生はたちまち思い上がって暴れ放題だ。

だいたい、生徒に「さん」だの「君」だのと水くさい呼び方をして、それで本当に心の通い合う師弟の交流が出来ると思ってるのか。

逆じゃないの? 自分の人権を無視される、プライドを尊重してくれない、そういう不満が爆発したのが学校荒廃だったのと違うか。中学生はまだ、自分の怒りを適切に言語化する方法を知らない。だから不満を正しく表現できず、ハタから見れば理不尽な暴力に走ってしまう。

教師がそれを頭ごなしに悪と決めつけるから、荒廃がエスカレートしたのと違うか。

確かに生徒を敬称で呼ぼうが呼ぶまいが、ニューヨークやロサンジェルスの下町の中高校はすさまじく荒れている。しかし、あの背景には貧困や人種差別があるわけで、原因はやっぱり生徒の人権無視だろ。

さらに言えば、心の交流が出来るかどうかは、言葉よりも人格の問題だと思うよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尖閣明け渡し

2018-01-05 | 社会
村本大輔なる芸人が尖閣や改憲に関し、テレビで問題発言をして集中バッシングを浴びているそうな。夜通し番組なんて、オレの体力じゃとても付き合えないから当の放送は見てないが、興味があったから番組内容の記録をネットで漁ってみた。

なんか、すごい率直。「武器は持たなくていい」「戦力を放棄した方がいい」「僕はそっち(非武装中立)です」これって、憲法9条の規定を自分の言葉にしただけじゃん。

要するに村本さんは、安倍がああだこうだと屁理屈こねて憲法をねじ曲げている矛盾を、ごく分かりやすい形で暴いてみせたわけだ。まさに、快刀乱麻。

で、その矛盾の糊塗に、やっぱりああだこうだと難しい言葉で屁理屈をこね回してる大学教授だのジャーナリストだの学者だのが驚きあわて狼狽して、一斉に村本を攻撃している。

朝生の他のゲストの発言を読むと、小学校へ行けだの無知を恥じろだの、寄ってたかって侮辱のオンパレードだ。彼を愚かに見せることで、その発言を無効化しようとの魂胆が見え見え。オレらは知的エリート、オマエは一介のお笑い芸人、との上から目線マインドがプンプン臭う。

村本さんは過去にも問題発言でラジオ番組のレギュラーを失ったことがあるそうで、それにも懲りず大胆発言を続ける度胸に感心するが、それよりももっと大きな功績は、日本にはまだ言論の自由があると世界に示したことだろう。尖閣を明け渡す、などと発言しても彼が逮捕され投獄される怖れは、いまのところは、ない。秘密保護法の適用が拡大したときは、どうなるか分からんけど。

大抵の中国人はそのことに驚き、羨ましく思うのではないか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『合葬』

2018-01-03 | 映画
昔、市川崑監督がアートシアターギルドで撮った映画に『股旅』というのがあった。崑さんの作品だから無論ヤクザ映画ではなく、江戸時代の貧しくみすぼらしい青春を描いた映画だった。

幕末の彰義隊の顛末を描いた『合葬』は、あの慎ましくも愛らしい時代劇を思い出させる。どっちも感覚は現代劇だ。

隊員たちは徳川将軍命と張り切っているのだが、別に剣のみに生きる禁欲的志士とかいうのではなく、芸者屋に入り浸ったり写真館へ出掛けて無邪気にはしゃいだりする。

ただし、物語の本筋に「忠義」という観念が入り込んでいるので、古風な時代劇の定型から完全に抜け切れているわけでもなく、その辺り、やや中途半端な観はある。

目を見張ったのは、ここ数年の日本映画ではついぞ見られなかった撮影の美しさだ。障子の格子の白い矩形と深い陰影とのコントラストが、画面に清冽な気品を漂わせる。はっきりCGと分かる場面もあるが、白けさせるほどではない。

この映画、2年前の封切り当時は少しも評判にならなかったらしい。ネットを漁っても、否定的投稿の方が多い。豪華キャストの話題性も、アクションの派手さもないからだろう。上野戦争も直接には描写されない。くすぐりだけの無内容なコメディだが作れば必ずヒットする三谷幸喜作品の対極に位置するような映画である。

しかし若手俳優たちの好演も手伝い、この寡黙な映画は慈しみの情を人の胸に宿す。音楽の選択にも独創的な視点がある。英詞のポップスの挿入だけは勇み足の感が強いが。

こういう作品が評価もされず話題にもならなかったことは、多分、低俗エンタメに汚染された映画評論界の劣化と観客の感性の退化を物語るものだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする