映画『アラビアのロレンス』の冒頭、ではなかったと思うが(なんせ大昔に見ただけだから)初めの方に、カゲロウの揺らめく地の果てから男が馬で駆けてくるシーンがある。砂漠の井戸の水を無断で飲んだ通訳を、男は新月刀でばっさり斬り捨てる。
鮮烈なシーンだった。なるほど、砂漠じゃ水が人の命以上に貴重なんだなあ、と彼の地の風土も人心も一撃で教え込まれた気がした。
ところが『イスラムの怒り/内藤正典』(集英社新書)によると、これが
真っ赤な偽り。ハリウッド一流のペテン。アラブ人は正反対に、水が貴重だからこそ独占せず、だれとでも分かち合うのだそうだ。
砂漠を旅してきた人間は、どこの馬の骨だか分からずとも、砂漠で自分たちと同じ苦労をしているのだから最上級のもてなしで遇する。これがイスラムの教えだという。目からウロコ。
かつてユダヤを目のカタキにすることによって経済・社会をせっせと発展させてきた西欧世界が、いまは同じメカニズムをアラブ世界への敵視に適用している。同書を読むと、それがよく分かる。
ブルカやスカーフなどの服飾規定はイスラムの性差別のシンボルのように言われるが、もしもこれが女性自身の本意ではなく、男性からの強制のみで行われるなら1500年間も慣習として継続できただろうか、と著者は問う。言われてみれば、そのとおりだ。
もっとも、女が幼いころからマインドコントロールされて慣例に疑問を持たない、ってことも考えられるけどね。
ま、アバタもエクボ的アラブ観なきにしもあらずだが、いろいろと蒙を啓いてくれる本ではある。あと、ウィキペディアの“イスラーム”という表記は正しくないらしい。ので、オレも以後は“イスラム”表記に変更。
上掲書とは対照的な視点でイスラム社会の底辺をルポしたのが『神の棄てた裸体/石井幸太』(新潮文庫)。
こっちはこっちで西欧史観に洗脳されすぎの嫌いはあるが、イスラム国のインドネシア軍が東ティモールでいかに残虐な反人道的犯罪を行ったか(スマトラ北部のアチェ州では、いまもやっているらしい)、イスラム社会で貧しい女性がいかに人権を制限されているか、性同一性障害者や同性愛者がいかに非人間的扱いを受けているか、等々を生々しく報告している。
宗教は人を殺す、と言ったのは中村とうよう氏だが、こういうルポを読むと、インドネシア国軍もナチス・ドイツもベトナムの米軍もガザ地区のイスラエル軍も大差ないことが分かりますな。つまり3大一神教の国家のやることは、ほとんど同じってこと。
ただし、元来は異教徒に寛容だったイスラムにタリバンのような原理主義勢力が発生したのは、異端に対してもっとも非寛容なキリスト教の反作用であることは間違いないようだ。
これら2書に対し、ユダヤへの蒙を啓いてくれるのが『私家版・ユダヤ文化論/内田樹』(文春新書)。ヨーロッパがユダヤ弾圧で発展したことを教えてくれたのは本書である。
ただこの本、ちょっとヘンなところがあるんだよね。著者いわく、ヨーロッパ世界がヨーロッパ世界として成立するためにはスケープゴートが必要であり、そのために“ユダヤ人”という概念が作り出された。“ユダヤ人”とは人種でもなければ民族でもなく、ましてユダヤ教徒ですらない。
つまり“ユダヤ人”とは
観念上の存在でしかなく、「ユダヤ人はユダヤ人に生まれるのではなくユダヤ人になるのだ」(言うまでもなくボーヴォワールのもじり)。
だとすれば、だよ。ユダヤ人とはヨーロッパ世界(アメリカを含む)にとっての相対的存在ってことになるじゃん。それがなんで、地域社会とは無関係のグローバルなアイデンティティをあんなに強烈に保ってるんだよ。
アメリカのユダヤ富豪はかつて日露戦争で日本を支援し(ロシアでユダヤ虐殺が頻繁に起きていたから)、いまはイスラエルを支援している。単なる相対的存在が人種も国籍も宗教も異なる国民に、あそこまで熱烈な連帯意識を抱くかね。
それとこの本、大学教授特有のもったいぶった文体で閉口する。ふだん、学生相手にいばってるとお山の大将になっちまうんだろうなあ。あと、ケチな揚げ足取りをするようだが、MacLeodの発音は“マクラウド”だろ。