蒲田耕二の発言

コメントは実名で願います。

 『あかんべえ』

2023-10-20 | ステージ

大好きな劇場、三越劇場へ前進座の新作を観に行く。床の傾斜が少なくて、決して観やすい劇場ではないのだが、レトロな昭和の雰囲気がいい。柱、照明、天井、すべてに古雅な品位がある。キャパの大きな劇場ではないから、役者と観客の距離が近いのもいい。

ドラマは宮部みゆき原作の時代物ミステリー。墓地の跡地に建てられた料亭で、成仏できない怨霊たちがいろいろと騒動を起こす。

内容と設定自体は別に時代物にしなくてもいいようなものだが、歌舞伎仕立てにすることによって前進座ならではの味が出る。この劇団は、伝統的様式美と近代リアリズムを共存させることに成功した、唯一無二の存在なのだ。この舞台も女形は出演せず、女性の役をすべて女優が演じるが、違和感はない。

といっても、二日目の午後の回に観たせいか、第1幕はちょっと緊張を欠いてダルかった。この時期の舞台は、どうしても初日の緊張の反動を避けられない。

しかし第2幕、板前の島次が正体を顕す段になって俄然、面白くなった。演じる中嶋宏太郎丈は、オレの推しである。それまで無口だった島次が突如、怨霊の口調でドスを利かすところなど、実にあざやか。宏太郎さん、ステキ。

「おどろ髪」など、イマイチ存在理由のはっきりしないキャラが出てきたりはするが、宮部らしい入り組んだプロットと前進座らしい端役まで均質な演技が楽しめるステージだった。

帰路、渋谷のエル・スールに寄って店主の原田氏と久しぶりにおしゃべり。アーティストの名前がすぐには出てこないトシになったことを確認。
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『佐倉義民伝』

2019-05-12 | ステージ
という芝居は、先代の中村吉右衛門が主役を演じるのを大昔に観た記憶がある。頃はあの60年代だったから、権力対庶民の対立の文脈で見ていた。歌舞伎にしちゃ随分とイデオロギッシュな内容だなと思った。まるで、その前の50年代に流行った左翼映画人のリアリズム映画みたい。

これを前進座が恒例の五月国立劇場公演でやっている。で、観に行って驚いたことに、内容からてっきり近代の新作歌舞伎だと思っていたら、『切られ与三』で有名な幕末の瀬川如皐(じょこう)の作なんだと。元は『四谷怪談』や鍋島の化け猫騒動みたいな怨霊もののホラー歌舞伎だったらしい。複雑怪奇な筋立てで、上演時間がむやみに長かったそうな。

それを瀬川と同時代の河竹黙阿弥が適当に刈り込み、近代演劇に通じるすっきりした構成に組み立て直した。それでもまだ長くて、序幕や事実上の大詰めの3幕2場をカットする習わしだったらしいが、今回の前進座は黙阿弥版の通し上演。

復活した3幕2場で、主人公の木内宗五郎は既にお上によって処刑されている。宗五郎の無事を祈って祈祷していた叔父の僧侶・光然は、宗五郎ばかりか彼の妻と幼い子供たちも無残に斬殺されたと聞いて怒り狂い、ホトケなんぞに祈っても無駄だと教典を破り捨てて火中に投じる。のみならず、刑場で晒し首になっている宗五郎の遺体を奪って印旛沼に飛び込む。

このあたり、19世紀末の人権意識の芽生え、みたいなものを感じ取らずにはいられないよな。宗五郎は明治の自由民権運動で歴史的先駆者と評価されたそうだが、民衆のあいだにそういう気運があったからこそ、こんなプロレタリア演劇のタマゴみたいな作品も誕生したんじゃないかね。ホトケの否定なんて、当時にしちゃ随分と大胆な設定だったと思うよ。作者と観衆に、反体制の自覚があったかどうかは知らないが。

主役の宗五郎は、前進座では翫右衛門や梅之助ら歴代の座頭クラスが演じてきた大役だ。今回は嵐芳三郎が演じているが、この人、ちょっと線が細くて大向こうを唸らせる迫力には欠ける。その代わり、エグ味のない現代的洗練を備えてるけどね。それに、レパートリー劇団の強みで脇の隅々までレベルが安定しているから主役一人の出来で舞台が大きく左右されるワケでもなく、3時間の長丁場もダレることはなかった。オレはホント言うと、歌舞伎は古典の荒唐無稽な歴史ロマンの方が大らかな味があって好きなんだけど。
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『裏長屋騒動記』

2017-05-13 | ステージ

晴れ渡った初夏の一日、三宅坂の国立劇場へ。恒例の前進座5月公演であります。この公演、1年おきに古典と新作をやるのだが、今年は新作の番で『裏長屋騒動記』という落語ネタのコメディ。堅苦しいドラマじゃなくて助かった。

実をいうと、新作歌舞伎がオレは苦手である。特に明治大正期に盛んに作られたヤツは、西洋心理劇の手法を採り入れて、脱論理的な古典のおおらかなエンタメ性を窒息させてしまっている。一昨年上演された真山青果の『元禄忠臣蔵』なんか、そう言っちゃナンだが、退屈がカミシモつけて歩いてるみたいだった。

作者の山田洋次監督は、第2次大戦前に前進座の出演で制作された山中貞雄の『人情紙風船』が念頭にあったんじゃないかと思う。お通夜の名目で因業大家から酒肴をせしめるエピソードは、多分あの名作からの引用だ。

主演の嵐芳三郎は、ふだん白塗りの二枚目役者だが、貧しく気のいい中年の屑拾いをまずは無難に演じていた。武士と浪人の、カネを受け取れ受け取れぬの板挟みに遭い、大金を持って両者のあいだを往ったり来たりする役。ついには耐えきれなくなって役目を降りる。

お武家様は意地を張ってればいいが、貧しい我々は50両もの大金を持たされれば、このまま持ち逃げしようかと悪い心を起こす。しかしそうすれば、いずれ捕まって晒し首。どうかもう巻き添えにはしないでおくんなさい、云々。

庶民の精一杯のタンカを芳三郎が力みなく、持ち前の爽やかな声でサラリと演じたのがよかった。メンツに生きる武士とその日暮らしの町民との対比に、庶民派・山田監督の心意気を見た。ドラマの勘所だ。

中盤、店子が大家を脅そうと屋敷に押しかけて死人にかんかんのうを踊らせる。派手な見せ場だが、ドラマの文脈では、大家がそれほど因業には見えないのが少々困った点。

死人というのが長屋じゅうの鼻つまみだったヤクザで、長屋に来て以来、店賃を一度も払ったことがない乱暴者である。道で出会った大家から力ずくで下駄を巻き上げたりもする。大家はむしろ、被害者だ。

大詰め、名女形の国太郎扮するバカ殿がデウス・エクス・マキナ然と登場して、もつれた筋にあっさりケリをつけるが、マンガ的な誇張が過ぎて、やや浮いていた。

このように突っ込みどころがないわけじゃないのだが、国立劇場に笑いが渦巻いたのは初めて経験した。

ところで、トシ寄りの観客マナーって年々悪くなるね。柝が入り、幕が開き、下座音楽が鳴り出しても、遠い海鳴りのような私語の騒音がダラダラ消えない。女性陣ばかりではなく白髪のジイさんまでがペチャクチャしゃべり散らしている。年齢層の若い四季の客席が、開幕と同時にピタッと鎮まるのと対照的だ。

オレ自身トシ寄りだから遠慮なく言わせてもらうが、老人は保育園の設置計画が持ち上がったりすると、幼児の声がうるさいといって真っ先に反対する。そのクセ、自分が人に掛ける迷惑には一向に頓着しない。多分、想像力が衰えているせいだろうが、いい加減にして欲しいよ。
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『ノートルダムの鐘』

2016-12-11 | ステージ
四季が手がけるディズニー・ミュージカルの最新作だが、前作『アラジン』とは対照的に、まあなんと暗いこと。作曲は同じアラン・メンケンなんだけど。

もっとも、これは意図したもので、ハッピーなアニメ版とは別の作品を創り出す狙いがあったらしい。そのせいか『アラジン』とは対照的に、10日の上演ではマチネーにもかかわらず幼い観客がほとんどいなかった。

アニメ版とは別の、とは原作により忠実に、という意味だ。フロロの偽善やフェビュスの自己チューが薄められて品行方正型キャラに仕立て直されていたり、カジモドが冒頭と大詰めで醜いメイクを消してイケメンぶりを見せたりする辺り、ディズニー的妥協は多少臭うものの、原作の救いのない悲劇性はきちんと保たれている。

聖に対する俗の象徴のエスメラルダのエロティシズムも冒頭のジプシーダンスで強調されるが、演じる岡村美南がフェロモンどぼどぼタイプではないので、格別効果的ではない。ただしこの女優さん、歌唱力は確かである。聖堂の荘厳さに打たれて歌うソロで、絶妙なピアニッシモを聴かせる。

エスメラルダと言えば、随分昔の映画だが、ジャック・プレヴェールが脚本を書いたフランス映画で演じたジーナ・ロッロブリージダが、とびきりチャーミングだったよなあ。ジプシー娘の野性的で神秘的な魅力横溢だった。

ボロは着てても心はニシキ、みたいな今度の舞台のエスメラルダよりも、無邪気で惚れっぽくて善良で、ちょっと拷問されるとたちまちウソの告白をしてしまうあの造型の方が、もっとリアルで共感を呼んだと思うのだが。

音楽は総じて重厚荘重。これも『アラジン』の軽妙さとは対照的だが、やはり原作の壮大なロマンティシズムに合わせたものだろう。宗教音楽風の合唱をくり返す聖歌隊が場面に応じて石像にもなり、カジモドとの対話を通じてプロットを進める演出が面白い。

なお、Cour des Miracles は劇中「奇蹟御殿」と呼ばれる。18世紀までパリに実在したコジキや難民たちのスラム街のことである。昼間、街頭で施しを請うイザリや盲目のコジキたちが夜このスラム街に帰ると、アラ不思議、杖や眼帯を捨ててスタスタ歩き出すので「奇蹟」の名がついた。

「奇蹟御殿」と「奇蹟小路」の二つの訳し方があるようだが(courにはどっちの意味もある)、実際の形態から見て「小路」の方が合理的ではなかろうか。ま、スラム街を御殿と呼ぶところに皮肉なニュアンスを感じないでもないけどね。
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『たいこどんどん』

2016-10-18 | ステージ

これ、井上ひさしが前進座のために書き下ろした戯曲だと思い込んでいた。それくらいこの劇団になじんでいる、ていうか、劇団初演時に主演した故・中村梅之助丈の印象が強いってことなんだろうな。

いまネットで調べてみたら、井上がこれを発表したのは1975年のことで、前進座の初上演の12年前。元ネタの小説はもっと前の作らしい。つまり、どっちかというと若書きの作品だ。

そのせいか、後年の『國語元年』の緻密さとも『父と暮せば』の繊細な味わいとも違い、率直で豪快な展開で見せる。年代の近い『日の浦姫物語』を連想させるセリフも出てくるが、あれほど入り組んだ構成ではない。大筋はあくまで、肩の凝らないコメディである。

幕末、大店の若旦那と吉原の幇間の二人が運命のいたずらで東北各地を放浪する物語。若旦那の方は、江戸芝居の定番のカネと力のない色男の典型で、比較的に単純な性格設定だから、まあ歌舞伎の基本を身につけた二枚目役者なら、演じるのはさほど難しくないだろう。

しかしタイコ持ちの方は大変だ。序盤の情けない提灯持ちからやがて旦那に売られて恨み骨髄の復讐鬼になり、だが再会すれば情に負け、最後は戦友的同志感情で結ばれる。感情心情の起伏が激しいにもかかわらず、喜劇の洒落気を失ってはならない。その上、お座敷芸の披露まで要求される。

これを若手注目株の筆頭、中嶋宏太郎が演じている。梅之助の名演を覚えている客が多いから大変だろうと思うが、なかなかの健闘だ。全幕を通じて楽天的な軽妙さをうまく表現している。劇中で披露する富本節も見事な喉。随分と練習したことだろう。

ただ、梅之助だと、言葉遊びも幇間芸もサラリと体の中から湧いて出てくるような闊達さがあった。そこが宏太郎はまだ、努力している気配がある。場数を踏めば、もっとほぐれるだろうけど。

劇中、年増の女性キャラはどれもふてぶてしく、アッケラカンと悪事をやってのける。あまりに悪びれないので笑いを誘われるほどだ。これら悪婆役を一手に引き受ける北澤知奈美が実に達者で痛快なのだが、キャラごとの違いがはっきりしないため、似たようなエピソードのくり返しに見えてしまうデメリットもある。

ミュージカル仕立ての芝居だが、いずみたく作曲の音楽は独創的なひらめきに乏しく、とりたてて印象的ではない。そして前進座の歌とダンスのレベルは、もう一つのレパートリー劇団、四季に遠く及ばない。本業じゃないんだから無理もないが。

しかし三越劇場って久しぶりに行ったが、独特の雰囲気があって、やっぱりいい小屋だね。三越本店の建物が持つ古雅な風格を劇場も引き継いでいて、必ずしも覚えていたくはない現実をいっとき忘れさせてくれました。
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