蒲田耕二の発言

コメントは実名で願います。

『テオレマ』

2024-02-16 | 映画
パゾリーニの古い映画がアマゾン・プライムに出ていたので、半世紀ぶりに再見。4Kレストア版とやらで、意外に高画質だった。

城館のようなブルジョワ一家の豪邸に、なぜか他人の男が滞在している。末息子の友人らしいが、それにしては男と息子との見た目の年齢差が大きく、はっきりとは分からない。

メイドから始まって、息子、娘、主婦、一家の主人と、一族が次々にこの男に惹かれ、男はその全員と性的関係を持つ。その後、男は不意に家を出ていき、二度と姿を現さない。

残されたブルジョワ一家は、まず息子が意味不明の世迷い言をつぶやいたり、カンヴァスに絵を描く代わりに小便をかけたりするようになる(気がフレたとしか思えない)。娘は体が硬直して生ける屍と化し、主婦は街で男を漁る。一家の主は地位も財産も捨て、素っ裸で荒野をさまよう。

ひとり、メイドのみが郷里に帰って聖女となり、子供の病気を治したり空中浮遊の奇跡を起こしたりする。

パゾリーニの映画は、表現スタイルが在来のそれと大きく異なるので、難解な映画の典型と言われた。しかし『奇跡の丘』(マタイ福音書の映画化)にせよ『アポロンの地獄』(エディプス伝説)にせよ、実は取り立てて分かりにくいということはない。セリフに頼らず絵で多くを語るスタイルなので、外国人にはかえってなじみやすい。観る方がヘンに身構えず、虚心坦懐に画面と向き合うと、スラスラ胸に入ってくる。

晩年のエロティック三部作(『デカメロン』『カンタベリー物語』『アラビアン・ナイト』)なんか、テレビドラマ並みに分かりやすい。

だが、この『テオレマ』は別だ。初めて観たときと同様、多少人生経験を積んだ今になっても腑に落ちないことばかりで困惑する。ネットに散見する賞賛のコメントも「深い」「哲学的」云々と、空虚な形容詞の連呼である。

主人公の男はどうやらキリストのメタファーらしい、ぐらいは見当がつく。だが、キリストがなんで突然現れ、突然消えるのかが分からん。ま、ファティマの聖母も、これから行くから待っててねと断って出現したワケじゃないけどさ。

男が去ったあとのブルジョワ一家の崩壊は、宗教心を失った現代人の心の荒廃を意味しているのかもしれない。しかしそれじゃ、あんまり観念的で浅いんじゃないかね。

一家の悲惨に対してメイドだけが救われるのは、無産階級に寄せるパゾリーニの共感の表れ?

映画の初め、庭の椅子で読書をしている男を見ているうちにメイドが発情し、バタバタ落ち着きなく走り回るシーンがある。少女の初恋のようで、なんか微笑ましい。しかし、その恋は身分違いのため報われることはなく、彼女はガス管を加えて自殺を図る。この辺り、階級制度への批判がワリと明快だ。

という風に見てくると、この映画はパゾリーニが自身の抱く二つの信条、左翼思想とカトリック信仰との折り合いをつけるために作ったものなのかもしれない、とも思う。

あと、タイトルがなんで『テオレマ』(定理)なのかね。定理って、数学用語だろ。

マリア・カラスは『王女メディア』(嫌な訳題だね。Medeaはメデーアだろ)出演の前にこれを観て、なんとバチ当たりな、と慨嘆したそうだ。

この映画、初上映は確か日比谷にあった有楽座という由緒ある劇場でだった。あの頃は、こんなアート系の映画でも大劇場で採算が取れるぐらい観客が入った、というより興行者側にアート系作品へのリスペクトがあったんだね。

いまは、マンガ原作でテレビ・タレントが何人か出演している映画じゃないとシネコンが上映を引き受けてくれないそうだが。
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あき竹城

2022-12-23 | 映画
別にファンだったわけじゃないが、妙に心に残る女優さんだったよなあ。取り立てて強烈な個性があるわけでもなければ、飛び抜けた演技力の持ち主でもなかったのに。

映画の代表作といえば、やっぱり今村昌平『楢山節考』の嫁かな。女を知らない弟のために一晩、相手をしてやってくれないかと夫(緒形拳)に頼まれて、「わがったと言ってるでねえか!」とヒステリックに答える。嫌で嫌でたまらないが、さりとて人の頼みに逆らうことには罪悪感を否めない、古い東北の女の心情を完璧に表現していた。

あと、タイトルは覚えていないが何かのB級作品で、少年を性のおもちゃにする有閑マダムを演じているのを見たことがある。憎たらしいキャラもこの人が演じると、不思議に愛嬌が出て嫌味がなかった。

しかし、いちばん記憶に残っているのは、彼女が女優に転身したばかりの頃に出演したエアコンのコマーシャルだ。共演の黒人タレントが天にまします我らが神よ、みたいな一節をうなり、あきさんが「えっ、おめーの父ちゃん天国さいんのけ?」と応じる。次いで胸元で両腕を組み、半眼の流し目をしながら「冷気は下だあ」とストリッパーの決めポーズで締める。品はないけど、猛烈におかしかった。

このコマーシャル、主婦層から総すかんを食い、たちまち放映中止になった。反発を呼んだのは東北弁ではなく、ストリッパーのポーズのせいだったと思う。新聞に出た彼女の追悼記事も、女優の前はストリッパーだったことに一切触れていない。

しかし、あきさんは決して前身を隠していなかった。むしろ、プライドを持っていたのではないかと思う。彼女がテレビに出始めたころ、ヌード時代の衣装、つまり最小限の衣装で深夜番組に登場したことがある。全身メイクを施してもいたのだろうが、真っ白の輝くように美しい裸身だった。

朝日の記事のように「ダンサーから女優へ」などと書く偽善は、書いた記者の中に巣食う差別意識の表れにほかなるまい。
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『コンプリシティ/優しい共犯』

2022-08-01 | 映画
こう暑くちゃ、出かける気にもならない。大体、BA.5とやらの大流行で、暑くなくとも出られない。

で、家でエアコンをガンガン掛けてストリーミングの映画ばかり観ているが、どういうわけか、自宅で観る映画って退屈なんだよね。日常を引きずっているせいか。

それでもまれに、半年に1本くらいの割で目の覚めるような秀作に出会うことがある。テレビで観ようがソファーに寝転がって観ようが、あらゆる環境条件を超越して観るものを捉える力を持つ映画がたまにある、ということだ。

それが、この日中合作映画。日本に出稼ぎに来た中国人青年と、老いたソバ職人との交流を描いている。2年前に公開されたらしいが、当時どう評価されたのか、ネットを漁ってもアマチュアの投稿と宣伝しか出てこない。大手の配給ではないので、職業的批評家には黙殺されたのかもしれない。

青年は劣悪な環境の最初の職場を逃げ出して他人になりすましており、正体がバレないかと常におびえている。老職人は妻に先立たれ、息子からは店をたたむように求められている。孤立した二つの魂が、自然と互いを惹き寄せる。

アクションらしいアクションがあるのは、青年がガス給湯器を盗む冒頭のシーンだけ。技能実習制度という事実上の奴隷制度の不合理にも触れているが、その闇を深掘りするわけではない。不法滞在者を追う警察と中国人青年の追いかけっこが描かれるわけでもない。

そうした通俗的サスペンス要素は、この映画ではすべて不純物として削ぎ落とされる。ドラマは誇張のない現実感を常に保ち、静謐な表現の中に驚くほど透明度の高い詩情を獲得している。気品のある映画である。

サスペンス要素がなかろうと、主人公がソバ店に就職するころ観る者はすでに彼の心情に同化しているし、演出にシャープな潔癖感があるので最後まで心理的緊張が途切れることはない。強制送還の不安に揺れる青年の心理を繊細な演技で表現したルー・ユーライ、頑固一徹ではなく剽軽な茶目気やギャンブル好きの一面もある老職人を飄々と肩の力を抜いて演じた藤竜也、ともに素晴らしい。

そして何よりも、デビュー作でこの完成度に達した近浦啓という新しい才能の出現を祝福したい。

ただ一つ残念なのは、ドラマの余韻を断ち切るように、最後に突如テレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」が大音響で鳴り響くこと。ドラマの中で主人公の恋のアイコンとして使われている曲なのだが、あれはどう考えても通俗歌謡だ。いくらテレサの歌がうまくても、映画のトーンとは異質と言わざるを得ない。
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『家へ帰ろう』

2021-10-08 | 映画
優れた映画作品を産み出す国として、韓国を挙げる人はいてもアルゼンチンを挙げる人は多くないのではなかろうか。オレも、この国を映画と結びつけてイメージしたことはなかった。

その固定観念を、アマゾンプライムで偶然見つけた映画にあっさり覆された。予備知識はまったくなく、ステイホームでヒマだから観始めたのだが、予想をはるかに超えてずんと胸に刺さる1本だった。

主人公は、ホロコーストを生き延び、ブエノスアイレスで暮らすユダヤ人の老いた仕立屋。そこそこ財をなして何不自由のない暮らしだが、家族には疎まれ、施設に入れられようとしている。そこでありったけの金を持って家を飛び出し、かつて命を助けてくれた親友に会いに母国のポーランドへと向かう。

映画はこの頑固老人の一人旅を追うロードムービーだ。題材とプロットに新味はないが、道中で出会う様々な人々、特に女性のキャラが興味深い。

最初は、マドリードの安ホテルのコンシエルジュ。若作りだが、よく見るとシワだらけの60がらみの婆さんで、泊まりに来た老人にポンポン憎まれ口をたたく。だが、ジイさんとは妙にウマが合い、一緒に飲みに行く。マドリードに住んではいるが不仲だったジイさんの娘との和解を取り持ったりもする。

列車を乗り換えるパリの駅でジイさんは、ドイツを通過するのは絶対に嫌だと言い張る。駅員はスペイン語もイディッシュ語もまったく解しない。そこへ居合わせたドイツ人女性が助け船を出す。ジイさんは彼女を拒否しまくるが、彼女は列車に乗ってからもジイさんに何くれとなく気を遣う。

ワルシャワに着いた老仕立屋は持病が悪化して入院し、気のいい若い看護師のケアを受ける。退院したら生まれ故郷のウッチまで同行してくれとジイさんに頼まれ(ワルシャワからウッチは東京から甲府ほどの距離らしい)、彼女はちょっと渋い顔をするものの快く引き受ける。

70年音信不通だった親友に会えるかどうか、不安に怯えるジイさんを励ましながら車椅子を押してウッチの街を歩き回り、ジイさんが親友と再会したのを見届けて静かに立ち去る看護師の姿が美しい。

この映画が胸を打つのは、老人と行きずりの人々とのあいだに本音の触れ合いがあるからだ。ジイさんは自分と関わり合う人間に誰彼かまわず不平不満を浴びせる。浴びせられた人々は、特にドイツ人女性が典型的なのだが、感情的に反発することもなく自分を押し殺すこともなく、ごく自然に理性的に対応する。

ノーベル賞を受賞した真鍋淑郎さんは、記者会見で次のように述べたそうだ。

「日本で人びとは常に、お互いの心をわずらわせまいと気にかけています。とても調和の取れた関係性です。これが、日本の人びとが簡単に仲良くなる理由の一つです」

他人をわずらわせたくないという「思いやり」は、美点には違いない。だが同時にそれは「わずらわされたくない」思いの裏返しとも言える。簡単に良くなる仲は、簡単に切れる仲でもある。「思いやり」は、時として人と人との繋がりを希薄にする。

ナチスに目の前で肉親を殺された怨みを、戦争を知らない若いドイツ人女性に遠慮なくぶつけた老人は、その正直さによって彼女の同情、というより信用を獲得した。

そういえば、映画の冒頭で登場する老人の孫娘は、ワガママいっぱいに祖父にねだる。そういう少女を、老人は目に入れても痛くないほど可愛がっている。

本音をぶつけるより自分を抑える日本式の付き合い方は、本当のマナーなのか。相手への気兼ねは、実は逃げではないのか。むかし毛沢東は「ケンカしないと仲良くなれないよ」と言ったけど。拾い物のアルゼンチン映画を観ながら、そんな感想が去来した。

すぎやまこういちが亡くなって、朝日までが「1点のスキもない音楽的構造」「一瞬にして人の心をとらえる天賦の才」と絶賛の嵐。あれだけ悪口言われときながら、なんとまあ……と思ったら、津田大介の批判的コメントでバランスを取っていた。

記事本文より津田さんのコメントの方がはるかに説得力があったが、彼一人に憎まれ役を押しつけるのも大新聞のやることじゃないんじゃないかね。これも、死者をムチ打つような真似はしないという日本的マナーかも知れないが。
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さよならアルヌール

2021-07-23 | 映画
昨日、フランソワーズ・アルヌールの逝去がひっそり報じられた。いまじゃ、このフランス人女優の名前を知ってる人も少なくなっただろうなあ。

1931年生まれだから、ジャンヌ・モローやブリジット・パルドーとほぼ同世代の人である。だが知名度は、ぐーんと下。何かの受賞なんて名誉は、キャリアで一度もなかったんじゃないか。

この3人、妙な共通点がある。若いころ、やたらとハダカになっていたことだ。

ジャンヌ・モローも? そうだよ。彼女が知性派の実力女優と見なされだしたのは1957年の『死刑台のエレベーター』からで、それまでは『バルテルミーの大虐殺』なんていうアホな史劇で全裸を披露したりしていた。

アルヌールも50年代前半は、『禁断の木の実』『上級生の寝室』『肉体の怒り』なんて日活ロマンポルノの源流みたいな映画の常連だった。盛大な脱ぎっぷりで世の識者や教委、PTA等々の袋叩きにされ、当時中学生のオレは無論、観ること叶わなかった。

色っぽかったんだよねえ、50年代のアルヌール。ハシタない言い方は控えますが、高校生のオレにとって女優とは、日本なら京マチ子、海外ならフランソワーズ・アルヌール。マリリン・モンローは、高校生にはちょっとヘヴィだった。

アルヌールのイメージが変わったのは、ジャン・ルノワールの『フレンチ・カンカン』からだ。B級作品以外への初の出演で、これによって彼女はエロ女優から愛くるしい小町娘に脱皮した。当時の日本社会に受け入れられる下地が出来た。

1年後、1955年の『ヘッドライト』が日本での決定打になったのは、間違いないだろう。この映画で彼女は、薄倖の貧しい娘を演じた。高度経済成長以前の日本社会は、慎ましく寡黙に生きるアルヌールに共感と同情を寄せた。そういうイメージは実は彼女の一部でしかなかったのだが、日本の観客はオレを含めて自分の観たい部分だけ観た。

あと1本、彼女の出演作を挙げるなら、ロジェ・ヴァディム演出の『大運河』だ。この映画では、彼女はむやみに酷い目に遭う。男に頭をガンガン壁に打ちつけられたり、すれ違う2隻のゴンドラに指を挟まれたり。

ヴァディムは当時バルドーの夫だったから彼女のライバルのアルヌールをいたぶったなどと噂されたが、嘘でしょう。アルヌールの一種、哀れっぽい風情を活かすための演出だったと思う。MJQのクールなサウンドとヴェネツィアの佇まいとアルヌールの持ち味とが、いかにも「ヨーロッパ」だった。

それにしても、80代のアルヌールの写真を掲載するなんて、朝日も無粋だよな。夢を壊すなよ。ヤツガレメが高校時代に描いた似顔絵で、当時の美しさを想像してください。

NHKが前田/大谷対決のカードを無視して五輪のサッカー予選を放送。それも、録画で。受信料、返せ。
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