京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

京都 ゑびす神社(都七福神のひとつ)

2019年06月20日 08時08分53秒 | 日記
両足院のあと、建仁寺境内西側 大和大路通り沿いにある京都ゑびす神社を訪ねます。





京都七福神のひとつ(日本古来の神様で他の神様はインドや中国から伝来の客神)でゑびす神をお祀りし、毎年 1月の"十日ゑびす大祭"の期間はたいへんな人出で賑わいを見せます。

京都ゑびす神社は、大阪の今宮ゑびす、兵庫の西宮ゑびすと並び三大ゑびすに数えられ、"ゑべっさん"の愛称で親しまれている神社です。





ご由緒は、日本禅宗の祖である栄西禅師が建仁2年(1202)に建仁寺を建立される際に鎮守社として建てられのが始まりです。

"ゑべっさん"と言えば「商売繁盛で笹もって来い」を思い出しますが、笹は縁起物の松竹梅の竹の葉で「節目正しく真っ直ぐに伸びる」「弾力があり折れない」「常緑」であるため家運向上、商売繁盛の象徴とされて来ました。

"ゑべっさん"信仰の笹は、こちらの京都ゑびす神社の「御札」の形態が拡がったものだそうです。





建仁寺塔頭 両足院(半夏生の庭)

2019年06月19日 07時53分52秒 | 日記
霊源院に続いて両足院を訪ねます。ご本尊は阿弥陀如来さまです。



栄西禅師の入寂後、その墓所を禅師直系の弟子たちが守ってきました。その寺院が知足院で、1536年の火災で焼失後、再建され現在の両足院に改称されました。





毎年6月下旬から初夏にかけて庭園の池の周りの半夏生の葉が白くなります。やがて開花が終わるとまた元の緑色に戻ります。
人のこころの変化を如実に表現した禅宗寺院らしい庭園です。







境内には毘沙門堂があります。毘沙門天は、もとは仏道を歩む修行者を守護するインドの神様で、やがて仏教に取り込まれ、勝利や武運をもたらす仏様として広く信仰されてきました。

両足院の毘沙門天さまは鞍馬寺の毘沙門天の胎内仏で、安土桃山から江戸時代にかけて活躍した武将で軍師でもあった黒田長政が信仰していた仏様です。
戦さの際、兜の中に収めて戦い幾多の勝利をもたらした毘沙門さまで肥前黒田家で代々信仰されてきました。明治10年頃にこちらに寄進されました。

また、伊藤若冲筆の「雪梅雄鶏図」を所蔵されていますが、今回は公開がなかったです。


新緑の興聖寺(弥勒祭)

2019年06月18日 13時20分54秒 | 日記
6月15日は、京都市上京区にある臨済宗興聖寺派の本山興聖寺の弥勒祭の法要に参加させていただきました。





興聖寺は、慶長8年(1603)に古田織部が禅の師である虚応内耳(きいんえんに)を開山に迎え開いたお寺です。別名織部寺とも呼ばれ、境内の墓地には織部の墓もあります。
本堂には、ご本尊さまの釈迦如来、左に達磨大師、右に弥勒菩薩がお祀りされています。

この度、弥勒菩薩さまを軸仕立てにされ、その開眼供養が執り行われました。
弥勒菩薩さまは、仏法が衰えた56億7000万年後にこの世に降りて来られ、仏法、また、人々を救済してくださる仏様です。





本堂で1時間の開眼法要があり、和尚さまが読経の後、先代が遺された功績、また、弥勒菩薩さまをお軸にされた経緯、興聖寺が大切に守っている宝物の兜率天曼荼羅図(とそつてんまんだらず)・一切経のお話を熱く語られていました。

兜率天は、仏教の宇宙観にある天上界のひとつで、曼荼羅の左上には七宝でできた宮殿が描かれており、弥勒菩薩さまはここに住まわれています。その内院では説法をされている弥勒菩薩さまが描かれています。ここでは寿命は4000歳で、その1日は人間界の400年に相当する世界だそうです。

また、仏伝によるとお釈迦さまはここ兜率天から降下され摩耶夫人の胎内に宿り、誕生されたと伝わります。
仏教の恐ろしく広大な世界観、宇宙観を垣間見た感じがしました。

法要の後、方丈で斎座(さいざ 禅宗寺院での昼食)を戴きました。





檀家の方々が朝から準備してくださった御斎(おとき)を有り難く美味しく戴きました。

本堂前の庭園の木が数本伐採されていて、随分と境内が明るくなりました。(以前の雰囲気の方が良かったような気もしますが、、、)

また、境内には涅槃堂があり、愛宕山の白雲寺から伝わってきた地蔵菩薩さまをお祀りしており檀家の方々のご位牌が安置されています。
天上は格天井で、長らく友禅染めの図案を描いてこられた山本さんの「四季花卉図」が各季節それぞれ10面ずつ計40面描かれています。
岩絵具ではなく、退色、劣化のないアクリル絵具で描かれています。

次に僕のお気に入りの真如堂へと向かいます。

建仁寺塔頭 霊源院(甘露庭)

2019年06月18日 07時00分35秒 | 日記
6月12日は、建仁寺塔頭の霊源院からです。





霊源院は五山文学、漢文学の中心をなす寺院で、多くの優秀な学僧を輩出しています。
俗に「建仁寺の学問面」と呼ばれる所以です。
かっては、一休宗純が漢文学を学んだり、駿河の戦国大名 今川義元が出家した寺でもあります。

この時期、甘茶の庭「甘露庭」が公開されます。
屋内から眺める枯山水庭園で、お釈迦さまの誕生から入滅までを表しています。







お釈迦さまが誕生された際、人々は大いに喜び、空からは甘露の雨が降ったと伝わります。
毎年4月の誕生日は"花まつり"と呼ばれ、お釈迦さまの誕生仏に甘茶をかけて祝います。





今回、庭に降りれるように履物が用意されていました。
お寺のお話では、近々、庭園を作り変える予定で今の「甘露庭」としての公開は今回が最後だそうです。

お茶室も四畳半の"也足軒"と一畳台目の"妙喜庵"のふたつをお持ちで"也足軒"で呈茶をされています。

また、青蓮院門跡をはじめ多くの寺院や飲食店、ゼスト御池などのパブリックスペースに絵を描かれている木村英輝さんの誕生仏の絵が奉納されていました。






新緑の建仁寺②・上皇さま、上皇后さまお見送り

2019年06月17日 06時26分49秒 | 日記
6月12日、今年の「新緑の建仁寺」の2回目です。前回に訪れた5月8日の時の新緑と比べて見て下さい。











ひと月が経ち、随分と緑が色濃くなってきています。7月末には梅雨の時期も終わり、日照時間が長くなればさらに深い緑になります。夏には日差しをたっぷりと浴びて光合成で養分を蓄え、長い冬に備えます。



建仁寺と言えば誰もが知る俵屋宗達筆の国宝「風神雷神図屏風」があまりに名高いです。

しかし、元から建仁寺が所蔵していた訳ではないのです。第一に落款も印章もないこの屏風がなぜに宗達の真筆とされているのでしょうか?養源院に残る白象の杉戸絵と共通点が多く、法橋印がない事、線質が柔らかい事、などから宗達の真筆である事を疑う論争も皆無です。
江戸時代の最も優れた芸術家であり、目利きであった尾形光琳や酒井抱一も宗達筆として認め、同じモチーフの「風神雷神図」を描いています。
江戸時代の豪商で歌人でもあった糸屋の宇乃公軌(うだ きんのり)が寛永14年(1637)、鳴滝にある建仁寺派妙光寺の再興の記念に宗達に制作を依頼し奉納したとされています。
その後、妙光寺の住職が建仁寺の高僧になった際に持ち込まれたようです。



法堂天井の双龍図は小泉淳作氏の作品です。
禅宗寺院の法堂天井には龍が描かれる事が多いですが、これは龍が仏法の守護神であり、また、水を司る神であり。お堂を火災から守っているためです。

建仁寺のように、二頭の龍が描かれているのは珍しいです。栄西禅師が宋から臨済宗を伝え、最初に建立された由緒ある禅宗寺院だからでしょうか?







三門。
茶園 。建仁寺の生垣は茶です。
開山堂。栄西禅師の御廟です。





この日は偶然にも上皇さま、上皇后さまのお姿を拝見しました。13時から14時半まで河原町三条にある朝日カルチャースクールで琵琶湖疎水の講義を終え、徒歩で川端通りを四条河原町に向かっていると警察官が等間隔に、、、しかも上空には警察のヘリコプターがホバリングしていました。
警察官の方にお聞きすると間も無くお車が通られるとの事、急遽お見送りする事に!

初めて知りましたが、ちゃんとお見送りの場所が事前に決められているんですね。しかも歩道にはテープが貼られていて、その範囲内でのお見送りです。
つい焦ってしまって早くシャッターを切ってしまいました。しかし、その分お見送りの時間があった事が幸いでした。お見送りの場所に近づくとお車は減速してくれます。
上皇后さまの笑顔のお姿が印象的でした。

平成の新しい皇室を築かれたおふたりさま。
末永くお元気でお過ごしになられる事を切に願わずにはいられないです。