明治天皇陵の西側には宇治の街並みが一望できます。かってはここから見える一帯は巨椋池が広がっていました。干拓され、今は住宅地になっています。
陵前の石段は、教育勅語が発布された明治23年10月30日を表しています。
1階層は23段の石段からなり、それが10階層に区切られています。つまり、23段ごとに踊り場があります。前者は明治23年を表し、後者は10月を表しています。最後の23段と御陵直前にある7段を加えた30段は30日を表しています。
明治天皇 伏見桃山陵の参拝を終え、東に向かいます。明治天皇の皇后 昭憲皇太后 伏見桃山東両です。
慶応3年(1867)に明治天皇の女御となり、明治元年(1868)に皇后となりました。
社会事業に多くの足跡を残された方で華族女学校(現 学習院女子高等科)やお茶の水東京女子師範学校(現 お茶の水女子大学)の設立、また、日本赤十字社の発展に寄与された方です。
「昭憲皇太后基金」は、明治45時(1912)に国際赤十字にご寄付された10万円(現在で3億5千万相当)を基に設立され、そこから得られる利子が世界の赤十字社の活動に配分されています。
日本赤十字社の名誉総裁は代々皇后陛下が引き継がれています。
本来の追号は昭憲皇后であるべきですが、孝明天皇の正妻であり明治天皇の実母だった英照皇太后の追号が「皇太后」であったことから誤ってそれに倣い命名してしまった為と言われています。
ご好意で近くにある京都橘中学校・高等学校の資料室を見せて頂きました。
資料室は、昭和60年(1985)京都橘学園創立85周年を記念して開設されました。
同校の貴重な写真や文書を中心に学籍簿、戦前戦後の教科書、制服の変遷などが展示されています。
一時期、フランスのデザイナー ピエール・カルダン氏がデザインした制服もありました。残念ながらパネルだけの展示ですが本人のサインがありました。
また、移転に伴う発掘調査で出土古墳時代の埴輪、奈良時代の須恵器、桃山時代の大名屋敷跡の鬼瓦、金箔軒丸瓦、天目茶碗などが、また、当時の伏見城下の地図も展示されており興味深く拝見しました。
最後に乃木神社です。
祭神は、明治の軍人で教育家、明治天皇崩御の際に殉死した乃木希典と妻静子です。
本殿
一間社春日造。北面して伏見桃山御陵を護ってあます。
神門は樹齢三千年の台湾檜の一幹で建てられています。扉板は全く継ぎ目のない一間四方の一枚板で作られています。台湾檜は耐久性に優れかおりも良く、良材として当時の日本の神社仏閣や造船に多く使われました。
これは、乃木中将が日清戦争後に日本の領土になった台湾の第三代総督として赴任した際、全力で改革を行い台湾住民に大変慕われ、そのため、切り出しが禁止されていた台湾檜の大木を喜んで提供してくれました。(日本統治前の台湾では不正が横行しており、住民の不満が蔓延していたようです。)
こうして伏見桃山エリアを巡ってみると明治以降の近代の歴史もなかなか面白いものです。
陵前の石段は、教育勅語が発布された明治23年10月30日を表しています。
1階層は23段の石段からなり、それが10階層に区切られています。つまり、23段ごとに踊り場があります。前者は明治23年を表し、後者は10月を表しています。最後の23段と御陵直前にある7段を加えた30段は30日を表しています。
明治天皇 伏見桃山陵の参拝を終え、東に向かいます。明治天皇の皇后 昭憲皇太后 伏見桃山東両です。
慶応3年(1867)に明治天皇の女御となり、明治元年(1868)に皇后となりました。
社会事業に多くの足跡を残された方で華族女学校(現 学習院女子高等科)やお茶の水東京女子師範学校(現 お茶の水女子大学)の設立、また、日本赤十字社の発展に寄与された方です。
「昭憲皇太后基金」は、明治45時(1912)に国際赤十字にご寄付された10万円(現在で3億5千万相当)を基に設立され、そこから得られる利子が世界の赤十字社の活動に配分されています。
日本赤十字社の名誉総裁は代々皇后陛下が引き継がれています。
本来の追号は昭憲皇后であるべきですが、孝明天皇の正妻であり明治天皇の実母だった英照皇太后の追号が「皇太后」であったことから誤ってそれに倣い命名してしまった為と言われています。
ご好意で近くにある京都橘中学校・高等学校の資料室を見せて頂きました。
資料室は、昭和60年(1985)京都橘学園創立85周年を記念して開設されました。
同校の貴重な写真や文書を中心に学籍簿、戦前戦後の教科書、制服の変遷などが展示されています。
一時期、フランスのデザイナー ピエール・カルダン氏がデザインした制服もありました。残念ながらパネルだけの展示ですが本人のサインがありました。
また、移転に伴う発掘調査で出土古墳時代の埴輪、奈良時代の須恵器、桃山時代の大名屋敷跡の鬼瓦、金箔軒丸瓦、天目茶碗などが、また、当時の伏見城下の地図も展示されており興味深く拝見しました。
最後に乃木神社です。
祭神は、明治の軍人で教育家、明治天皇崩御の際に殉死した乃木希典と妻静子です。
本殿
一間社春日造。北面して伏見桃山御陵を護ってあます。
神門は樹齢三千年の台湾檜の一幹で建てられています。扉板は全く継ぎ目のない一間四方の一枚板で作られています。台湾檜は耐久性に優れかおりも良く、良材として当時の日本の神社仏閣や造船に多く使われました。
これは、乃木中将が日清戦争後に日本の領土になった台湾の第三代総督として赴任した際、全力で改革を行い台湾住民に大変慕われ、そのため、切り出しが禁止されていた台湾檜の大木を喜んで提供してくれました。(日本統治前の台湾では不正が横行しており、住民の不満が蔓延していたようです。)
こうして伏見桃山エリアを巡ってみると明治以降の近代の歴史もなかなか面白いものです。