2月16日の午前中は、嵯峨釈迦堂(清涼寺)から嵯峨野を散策しました。
まずは清涼寺から。境内の梅や馬酔木が咲きはじめていました。





境内の西にある狂言堂も修復を終えて、今年の嵯峨大念仏狂言はこちらの狂言堂で行われるようです。しかし、山門を入りすぐ左手にあった"大文字屋"さんが昨年に閉店され、"あぶり餅"が頂けなくなったのは残念です。

清涼寺の西門を抜け、檀林寺に向かいます。


檀林寺は、嵯峨天皇の妃、檀林皇后(786-850)創建の由緒ある禅寺で十二坊を擁するほどに栄えましたが、皇后亡き後の平安中期に廃絶し、昭和39年になって再興されました。



ご本尊は、檀林皇后を型どったと伝わる容姿端麗な准胝観音(藤原時代)がお祀りされています。
次にすぐ近くにある祇王寺へ。
「平家物語」にも登場し、平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王が清盛の心変わりにより都を追われるように去り、妹の祇女、母の刀自とともに出家、入寺した寺としてあまりにも名高い尼寺です。




祇王寺は明治初年に廃寺となりましたが、墓や仏像は大覚寺が保管していました。
大覚寺門跡 楠玉諦師が再興を計画され、当時の京都府知事 北垣国道の賛同を得て、明治28年に嵯峨にあった北垣の別荘の一棟を寄付して祇王寺の本堂としました。

春から初夏にかけての新緑の季節が一番美しいお寺です。
次に少し登ったところに滝口寺があります。
こちらのお寺も「平家物語」維盛高野の巻きで滝口入道と横笛との悲恋の逸話の残るお寺です。


清盛の西三条殿での花見の宴の席で、建礼門院つきの女官 横笛に恋した斎藤入道時頼は恋文を送るようになりました。この事を知った父から叱責され、ついには嵯峨の往生院で出家してしまいます。やがて、滝口入道が出家し、往生院にいる事を伝え聞いた横笛は逢いにきますが入道は、同宿の僧に頼み「そのような者はいない」旨を伝えます。
横笛は自分の真意を伝えたく、近くにあった石に歌を書いて帰ります。
その後、入道は修行の邪魔にあると思い高野山に移ります。
やがて、横笛も法華寺で出家した事を伝え聞いた滝口入道は一首の歌を送ります。
お互いに想いながら叶わない悲恋を思う逸話です。




写真の扁額は佐佐木信綱博士の書です。
まずは清涼寺から。境内の梅や馬酔木が咲きはじめていました。





境内の西にある狂言堂も修復を終えて、今年の嵯峨大念仏狂言はこちらの狂言堂で行われるようです。しかし、山門を入りすぐ左手にあった"大文字屋"さんが昨年に閉店され、"あぶり餅"が頂けなくなったのは残念です。

清涼寺の西門を抜け、檀林寺に向かいます。


檀林寺は、嵯峨天皇の妃、檀林皇后(786-850)創建の由緒ある禅寺で十二坊を擁するほどに栄えましたが、皇后亡き後の平安中期に廃絶し、昭和39年になって再興されました。



ご本尊は、檀林皇后を型どったと伝わる容姿端麗な准胝観音(藤原時代)がお祀りされています。
次にすぐ近くにある祇王寺へ。
「平家物語」にも登場し、平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王が清盛の心変わりにより都を追われるように去り、妹の祇女、母の刀自とともに出家、入寺した寺としてあまりにも名高い尼寺です。




祇王寺は明治初年に廃寺となりましたが、墓や仏像は大覚寺が保管していました。
大覚寺門跡 楠玉諦師が再興を計画され、当時の京都府知事 北垣国道の賛同を得て、明治28年に嵯峨にあった北垣の別荘の一棟を寄付して祇王寺の本堂としました。

春から初夏にかけての新緑の季節が一番美しいお寺です。
次に少し登ったところに滝口寺があります。
こちらのお寺も「平家物語」維盛高野の巻きで滝口入道と横笛との悲恋の逸話の残るお寺です。


清盛の西三条殿での花見の宴の席で、建礼門院つきの女官 横笛に恋した斎藤入道時頼は恋文を送るようになりました。この事を知った父から叱責され、ついには嵯峨の往生院で出家してしまいます。やがて、滝口入道が出家し、往生院にいる事を伝え聞いた横笛は逢いにきますが入道は、同宿の僧に頼み「そのような者はいない」旨を伝えます。
横笛は自分の真意を伝えたく、近くにあった石に歌を書いて帰ります。
その後、入道は修行の邪魔にあると思い高野山に移ります。
やがて、横笛も法華寺で出家した事を伝え聞いた滝口入道は一首の歌を送ります。
お互いに想いながら叶わない悲恋を思う逸話です。




写真の扁額は佐佐木信綱博士の書です。