以前から思っていることでなかなか継続できないのが、日聴紙などの記事の紹介です。
今年こそと思ってまず日聴紙を取り上げます。
新年号では2面から4面にかけて「新春座談会」が載っています。今年は「通訳制度の新たな展開をめざして」というテーマで安藤理事長、市川恵美子全通研運営委員長、小椋日本手話通訳士協会会長のお三方がお話しされています。司会は大杉さん。
最初に安藤理事長が、昨年の国会の参考人質疑で、応益負担について「障害者独自のレベルに合わせた3%」という数字を出して批判を浴びたことに対して釈明されています。そのときの読み取り通訳が市川さんだったとのことで、日比谷の集会で安藤さんが「3%」発言をして「読み取り間違いじゃないか」と思ったと書かれていて面白いです。「応益負担はもう避けられない」からといって「3%」という条件闘争的な発言をして運動に水を差した安藤理事長の責任は決して軽くないのではないかと私は思うのですが…。やはり障害者自立支援法に対する危機意識の差みたいなものを他の障害者団体は感じたのではないでしょうか。
小椋さんは、地元山梨県での学習運動の成果を話されています。
「1年をかけて勉強会をしてきました。この1年間で何ができたかというと、共感です。学習の内容を共感、共有し、聞こえない人たちも通訳をやる人たちも、いま山梨の課題は何かと言うことを共有する1年間だったんで、手足が動く運動をする前に「今の課題は何か」などをお互いに共有する時間をすごく大事にして時間もかかりました。
やはり同じテーマで繰り返し繰り返し勉強することがすごく大事で、法律の内容も難しいし、自分と関わってくると、どういうふうになるのだろうということが1回や2回ではちょっと飲み込めない。小グループで地域を転々として同じテーマで繰り返し、繰り返し、全国レベルとか、関東とかブロックなどで、とにかくたくさんたくさんさんの学習会を同じテーマでやることは、すごい大事なことだったと思っています。」
とのこと、素晴らしいです。見習いたいです。
市川さんは「中央レベルでは他の障害者団体と一緒に取り組むことができたけれども、地方レベルでそれができたか」という問題提起をされています。全くその通りだと思いますが、先の安藤理事長のような意識というか「手話通訳は地域生活支援事業に逃げ込めたから安心」みたいなスタンスではやはり他の障害者運動との連帯は難しい気がします。市川さん自身の発言にも「法案の行方に生活かかってる」意識はあまり感じられません。
これらの雰囲気に対して大杉さんが
「さて、理事長は、政府とのいろんな交渉で、『手話通訳派遣の利用者負担はなじまない』と話してきました。この取り組みの中で、障害者団体からは『全日ろう連が離れている』というような感じを受けているようですが…」
と鋭く突っ込んでいます。これに対して安藤理事長は、
「身辺介護などの介護と、言語通訳ということで違いはあるけれども、基本的に、憲法の上での権利は同じ事ですから、『こちらは言語のことで』とか『身体障害者はどうだから』というのでは納得できないのではと思います。特に身辺介護の支援は24時間介護で見守らないといけない、命に関わる深刻な問題ですし、それが有料でこちらの通訳が無料というのでは説得は難しいと思います。
ただ、身辺介護は昨年までは支援費制度の中で応能負担になっていたわけで、手話は支援費制度に入ってなくて別になっていた、そういうことの説得は当面は可能かなぁと思うのですが、将来的には、身辺介護と言語を含めてはっきりとした、公的な制度が必要だと思います。」と答えられています。
これに市川さんも
「なぜ別なのかというところで私たちが主張してきたのは、コミュニケーションは一方だけでなくて、お互いが必要だからというような言い方です。」と同調されています。
私は「お互いが必要とする」のはコミュニケーションだけなのだろうか?とずっと疑問を感じています。じゃ、肢体不自由の友達が医者に行くときに移送サービスを利用するのは、一方的なニーズなのか? 医者がいちいち障害者の元に迎えに行ったり往診したりするわけにはいかないから、医者にとっても移送サービスは必要不可欠なものだと言えるのではないかと思うのです。
また知的発達遅滞の仲間が日常生活を送るのに様々なサービスを必要とするのが「一方的なニーズ」だというのなら、いったいバリアフリーな生活を送る権利とはなんなのだろうか?という疑問に行き着いてしまう。
このあたりは市川さんも
「ただ、制度として『コミュニケーションは人権』というならば、『介護も人権だ』というように考えて同じように見なければならない部分はあると思います。」と補足されています。
この市川さんの発言に続けて、小椋さんは
「通訳士協会の学習会で、ある講師から「…(中略)…特別の事業では発展を求めることは難しい」と非常に厳しいことを言われました。「利用料があることがおかしいことを理論的に構築しなければいけない」ということでした。…(中略)…こっちに近づけていくのが私たちのレベルだとか思うことでいいんじゃないかと思います。」
と発言されています。この指摘をされたのって筑波大学の奥野英子先生ですね。
確かに利用料がないのが理想的であることは私も同感です。しかし、「特別に」利用料のない現在の手話通訳労働を巡る状況が、本当に「こっちに近づけていく」レベルであるのか、そこのところがもっと厳しく問われなければならないのではないかと私は思います。
(つづく)
今年こそと思ってまず日聴紙を取り上げます。
新年号では2面から4面にかけて「新春座談会」が載っています。今年は「通訳制度の新たな展開をめざして」というテーマで安藤理事長、市川恵美子全通研運営委員長、小椋日本手話通訳士協会会長のお三方がお話しされています。司会は大杉さん。
最初に安藤理事長が、昨年の国会の参考人質疑で、応益負担について「障害者独自のレベルに合わせた3%」という数字を出して批判を浴びたことに対して釈明されています。そのときの読み取り通訳が市川さんだったとのことで、日比谷の集会で安藤さんが「3%」発言をして「読み取り間違いじゃないか」と思ったと書かれていて面白いです。「応益負担はもう避けられない」からといって「3%」という条件闘争的な発言をして運動に水を差した安藤理事長の責任は決して軽くないのではないかと私は思うのですが…。やはり障害者自立支援法に対する危機意識の差みたいなものを他の障害者団体は感じたのではないでしょうか。
小椋さんは、地元山梨県での学習運動の成果を話されています。
「1年をかけて勉強会をしてきました。この1年間で何ができたかというと、共感です。学習の内容を共感、共有し、聞こえない人たちも通訳をやる人たちも、いま山梨の課題は何かと言うことを共有する1年間だったんで、手足が動く運動をする前に「今の課題は何か」などをお互いに共有する時間をすごく大事にして時間もかかりました。
やはり同じテーマで繰り返し繰り返し勉強することがすごく大事で、法律の内容も難しいし、自分と関わってくると、どういうふうになるのだろうということが1回や2回ではちょっと飲み込めない。小グループで地域を転々として同じテーマで繰り返し、繰り返し、全国レベルとか、関東とかブロックなどで、とにかくたくさんたくさんさんの学習会を同じテーマでやることは、すごい大事なことだったと思っています。」
とのこと、素晴らしいです。見習いたいです。
市川さんは「中央レベルでは他の障害者団体と一緒に取り組むことができたけれども、地方レベルでそれができたか」という問題提起をされています。全くその通りだと思いますが、先の安藤理事長のような意識というか「手話通訳は地域生活支援事業に逃げ込めたから安心」みたいなスタンスではやはり他の障害者運動との連帯は難しい気がします。市川さん自身の発言にも「法案の行方に生活かかってる」意識はあまり感じられません。
これらの雰囲気に対して大杉さんが
「さて、理事長は、政府とのいろんな交渉で、『手話通訳派遣の利用者負担はなじまない』と話してきました。この取り組みの中で、障害者団体からは『全日ろう連が離れている』というような感じを受けているようですが…」
と鋭く突っ込んでいます。これに対して安藤理事長は、
「身辺介護などの介護と、言語通訳ということで違いはあるけれども、基本的に、憲法の上での権利は同じ事ですから、『こちらは言語のことで』とか『身体障害者はどうだから』というのでは納得できないのではと思います。特に身辺介護の支援は24時間介護で見守らないといけない、命に関わる深刻な問題ですし、それが有料でこちらの通訳が無料というのでは説得は難しいと思います。
ただ、身辺介護は昨年までは支援費制度の中で応能負担になっていたわけで、手話は支援費制度に入ってなくて別になっていた、そういうことの説得は当面は可能かなぁと思うのですが、将来的には、身辺介護と言語を含めてはっきりとした、公的な制度が必要だと思います。」と答えられています。
これに市川さんも
「なぜ別なのかというところで私たちが主張してきたのは、コミュニケーションは一方だけでなくて、お互いが必要だからというような言い方です。」と同調されています。
私は「お互いが必要とする」のはコミュニケーションだけなのだろうか?とずっと疑問を感じています。じゃ、肢体不自由の友達が医者に行くときに移送サービスを利用するのは、一方的なニーズなのか? 医者がいちいち障害者の元に迎えに行ったり往診したりするわけにはいかないから、医者にとっても移送サービスは必要不可欠なものだと言えるのではないかと思うのです。
また知的発達遅滞の仲間が日常生活を送るのに様々なサービスを必要とするのが「一方的なニーズ」だというのなら、いったいバリアフリーな生活を送る権利とはなんなのだろうか?という疑問に行き着いてしまう。
このあたりは市川さんも
「ただ、制度として『コミュニケーションは人権』というならば、『介護も人権だ』というように考えて同じように見なければならない部分はあると思います。」と補足されています。
この市川さんの発言に続けて、小椋さんは
「通訳士協会の学習会で、ある講師から「…(中略)…特別の事業では発展を求めることは難しい」と非常に厳しいことを言われました。「利用料があることがおかしいことを理論的に構築しなければいけない」ということでした。…(中略)…こっちに近づけていくのが私たちのレベルだとか思うことでいいんじゃないかと思います。」
と発言されています。この指摘をされたのって筑波大学の奥野英子先生ですね。
確かに利用料がないのが理想的であることは私も同感です。しかし、「特別に」利用料のない現在の手話通訳労働を巡る状況が、本当に「こっちに近づけていく」レベルであるのか、そこのところがもっと厳しく問われなければならないのではないかと私は思います。
(つづく)