今日は地元(県南)の手話通訳者とろう協会の合同新年会だった。
普段はみんな車で飲めないから、1年に1回くらいは飲んで懇親を深めようと駅の近くを会場にしての新年会。
都会じゃこんな苦労は分からないだろうな。
通訳者とろう者がだいたい半々。場が盛り上がるにつれて声が消えていく。
どうしてなんだろう?って不思議に思いながら眺めていた。
聴者とろう者がお互いに腹を割って話そうと思ったら、こうなるのが自然なのかな。
特に飲み会では会話の相手がころころ変わったり、人の会話にちょっかいだしたり、誰かと誰かの会話をただ黙って見てるってのもある。そうするとろう者と聴者が同じ空間にいる飲み会で「声」は「不純物」になっていく気がする。
同じ楽しさを共有できる喜びを邪魔するもの、それが「声」だってことなのかな。
逆にいうと同じ楽しさを同じ瞬間に共有できる「手話」を聴者とろう者が共に持ってることの素晴らしさを実感した飲み会でありました。「みんなが手話で話した島」って本の題名を思い出した。
普段はみんな車で飲めないから、1年に1回くらいは飲んで懇親を深めようと駅の近くを会場にしての新年会。
都会じゃこんな苦労は分からないだろうな。
通訳者とろう者がだいたい半々。場が盛り上がるにつれて声が消えていく。
どうしてなんだろう?って不思議に思いながら眺めていた。
聴者とろう者がお互いに腹を割って話そうと思ったら、こうなるのが自然なのかな。
特に飲み会では会話の相手がころころ変わったり、人の会話にちょっかいだしたり、誰かと誰かの会話をただ黙って見てるってのもある。そうするとろう者と聴者が同じ空間にいる飲み会で「声」は「不純物」になっていく気がする。
同じ楽しさを共有できる喜びを邪魔するもの、それが「声」だってことなのかな。
逆にいうと同じ楽しさを同じ瞬間に共有できる「手話」を聴者とろう者が共に持ってることの素晴らしさを実感した飲み会でありました。「みんなが手話で話した島」って本の題名を思い出した。