木のつぶやき

主に手話やろう重複の仲間たちのこと、それと新聞記事や本から感じたことを書き込んでいきます。皆様よろしくお願いします。

ろう者の目線に立った手話通訳者とは?

2009年03月30日 23時23分46秒 | sign language
木村晴美さんがご自身のブログで「困った手話通訳者2」として、こんなことを書いておられる。

■聴者慣れして自分と通じる聴覚障害者たちはエリートだが、普通のろう者は知識や情報量が足りないからと次第に指導者的ふるまいをするようになる。

相変わらず厳しいご指摘です。

ところで、
私も以前参加した司法通訳模擬演習で、ある有名な手話通訳者が模擬通訳に立って、口型付きのいわゆる古典的な「中間型手話(?)」で通訳したところ、被告人役(だったかな?)のろう者から「全然わからんかった」とバッサリやられている場面を目の当たりにして、自分自身を振り返って「まっ青になった」経験があります。

(1)「日本語で言い換えているに過ぎない」という問題
「ある有名な手話通訳者」は、自分なりに(日本語で!)言い換えた手話表現、つまり裁判官や検察官の言ってる内容を「簡単な日本語」に言い換えたのをそのまま中間型手話で表現されていたので、私も見ていて「意味をつかみにくいなぁ~」とは感じていたのですが、私がやってもあんな感じなんだろうなぁと思っていたので、「全然わからんかった」の評価には自分の問題としてショックでした。

(2)「話者(誰の発言なのか)」をどう伝えるかの問題
それと、その通訳者は、誰の発言かをいちいち指さして示していたのですが、その「PT(検察官)」「PT(裁判官)」と指さすたびに、何というか手話のリズム(?)がブチブチに切れてしまって、文の流れがガタガタになってしまって、結局誰の発言がまるでつかめないし、その指さしたあとに表現した手話文も意味がつかめない、という状態になってたように思います。
司法場面において「ロールシフト」によって話者を伝えるのが良いのかどうかは私の力量を超えた課題ですが、「あれをろう者が通訳していたらどうやるかなぁ~?」と想像してみると、指さしはもっと小さな動きで、「サイバンカン」と口型で示しておいて、ロールシフトした「裁判官が検察官に向かった目で」手話を繰り出すような・・・。そんな簡単にはいかないでしょうけど・・・。
この問題は、模擬裁判員裁判を見学している間中ずっと引っかかった点です。誰が話者であるのか?裁判長、検察官、弁護人と最低でも3人のやりとりがある上に、犯罪の状況説明の中にも複数の人が登場して、何が何だかわからなくなります。その上、模擬通訳後半では、弁護士役の先生がわざと「異議あり!」なんて突然叫んだりして、通訳者を泣かせてました。この課題は「個人の工夫」のレベルを超えていると思います。専門家による「司法手話通訳の研究」が必要ではないでしょうか。

(3)全日ろう連「司法手話(単語)」をどう使いこなすかの問題
もう一つは司法用語を手話でどう通訳するかの問題がありますよね。いま日本手話研究所「新しい手話動画」サイトで、司法関係の手話を掲載しておられますが、何かあれを用いるルールを決めておかないと、木村さんが言われるように「(新しい)司法手話を知らないろう者が悪い」みたいな態度の手話通訳者が出てくる畏れがないとも言えません。例えば「~法」という手話表現ひとつ取っても、今は、左手「(指文字の)ほ」+右手「ろ」の手形を振り下ろす、表現のようですが、私の地元であの手話を自然に使いこなしているろう者は残念ながら多いとは言えません。まして「条約」の手話なんて、一年前の全国ろうあ者大会でも全日ろう連幹部が「苦笑いしながら」表現していたような状態です。
司法場面の手話通訳において(政見放送手話通訳の初期にもこんなルールが流布しましたが)、「意訳」してはいかん、元の日本語を忠実にそのまま表現せよ、などという言説を、ろう者がどう整理していくのか、もっと研究(?)が進まないと、木村さんが指摘されたような知識で頭でっかちになってしまった手話通訳者が「幅を利かせる」状態になってしまうのではないでしょうか?
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三ツ矢サイダーヤッターマン・オリジナルフィギュア全八種01「ドロンジョ様」

2009年03月28日 12時48分04秒 | Weblog
全国大会の手話通訳の勉強会へ行く途中に寄ったファミマで前に並んでたオヤジが三ツ矢サイダー買ってるんで、珍しいもの買うなぁ~とよく見たらフィギュアのオマケが…早速ジュースの棚に戻って、まずはドロンジョ様をゲットしました。ヤッター!
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老けてはいなかった。

2009年03月25日 00時14分35秒 | Weblog
先日、「以前の私ならとっくに投げ出しているところですが」と書いた委員会の委員を今日辞めてしまいました。私が用意していった資料に対して「いまさら何の意味があるのか?」と言われて、とてもやってられない、そんなに文句があるならアンタが自分で考えたらいい、弁護士ともあなたが直接交渉してくれよ、と会議の席を蹴って出てきました。
このところ毎月の原稿を書くのもかなり辛かったので、これで締め切りに追われることもなくなります。
私は、基本的にメチャメチャ短気・激情型なので、1年に一回くらいこういうことが起き、その度毎に人間関係を狭くしてきています。あ~あ。
でも、このところ地元のことでいっぱいいっぱいだったので、こうしたスクラップは仕方ないとあっさりあきらめてしまえるのが、やっぱり「老けた」証拠なのかもしれません。
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愛しの深夜特急ブルートレイン全六種「さくらEF65 501」でなく「富士・はやぶさEF66 43」

2009年03月24日 08時58分31秒 | Weblog
ローソン限定 愛しの深夜特急ブルートレイン全六種がスタート。2月に行われたファミマの鉄道シリーズは見逃してしまったので、今回はしっかりチェックしたいと思います。一台目は「さくらEF65 501」東京と長崎を結んでいたとのこと。
…と思って、次なる「富士・はやぶさ」を買ってみたら、何と1台目と同じ顔。よく見たらこれは「さくら」ではなく「富士・はやぶさ」でした。トホホ・・・。
「さくら」をゲットできたらフリッカーに写真アップします。
東京と九州を結んでいたブルートレイン。富士は大分、はやぶさは熊本に向かい、東京~門司間は2本の列車を連結して運転、とのこと。
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books69「下流志向」内田樹(講談社)

2009年03月23日 23時42分31秒 | books
下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

講談社

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私は手話関係以外の本ではめったに単行本は買わないのですが、これはどうしても早く読みたくて、帰省の車内用に買い込みました。サラリーマンの間で大変関心の高かった本らしいです。(2007-05-04 20:45:24記)
「寝ながら学べる構造主義」を読み直したついでにこっちも改めて読みました。
面白いです。「寝ながら・・」を踏まえるとさらに良い。
実は元々この本は毎週読んでるPC雑誌で神足裕司(こうたり ゆうじ)さんが紹介していて知った。
「世の中はカネではないと、説得してくれる本が初めて現れた。」
「サラリと”不快貨幣の起源”を説明する。」
「今の日本の家庭は”不快な者勝ち”なのである。すごいでしょう!?」
「子どもが勉強を嫌がることまで「消費者だからだ」と見抜いたのは内田先生が初めてだ。」
私は例によって抜き書きで紹介します。
■自分の手持ちの度量衡では、それらがどんな価値を持つのか計量できないという事実こそ、彼らが学校に行かなければらない当の理由だからです。
教育の逆説は、教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているのかを、教育がある程度進行するまで、場合によっては教育過程が終了するまで、言うことができないということにあります。(46頁)
■その学生が発した最初の質問が「現代思想を学ぶことの意味は何ですか?」というものでした。
その問いを発した学生は、(中略)ある学術分野が学ぶに値するか否かの決定権は自分に属しているということを、問いを通じて表明しているのです。僕はこの傲慢さと無知にほとんど感動しました。
二十歳の学生の手持ちの価値の度量衡をもってしては計量できないものが世の中には無限に存在します。彼は喩えて言えば、愛用の30センチの「ものさし」で世の中の全てのものを測ろうとしている子どもに似ています。(76頁)
■「自分らしい生き方」を求めて社会の「常識」に逆らい、きっぱりと「自分らしさ」を実現していると主張する彼らの言葉づかいや服装や価値観のあまりの定型性に僕たちは驚愕しますが・・。(115頁)

「下流志向」っていう表題自体かなりセンセーショナルな響きがありますが、この本に書かれたことって姉貴の娘を見ていても感じる今の若者たちの「志向性」な気がします。超お奨めな一冊です。
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桜の開花も間近!

2009年03月23日 14時06分05秒 | Weblog
この三連休は委員をやってる某協会の事務作業に追われて潰れました。4200円のテキストを買い込んで前半は制度の再勉強。後半はノートにまとめたりしながら今後どう進めて行くか整理しました。正直なところ制度の会計関係が私の手には負えなくて、頼みの綱の弁護士さんからはさっぱり回答来なくて法務も行き詰まってるし、ワヤです。でも会社近くの桜のツボミがこうして膨らんでいるのを見ると、開花も近いしあとひと踏ん張りしなければと思うのです。以前の私ならとっくに投げ出しているところですが、何げに留まっている自分に「老けたよなぁー」と感じる今日この頃です。
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春近し

2009年03月12日 12時55分57秒 | Weblog
花粉症の私にはキツい季節ではありますが、春はもうすぐそこまで来ているんですねぇ~。
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books133「障害者の権利条約でこう変わる Q&A」(DPI日本会議編集)解放出版

2009年03月10日 23時47分19秒 | books
障害者の権利条約でこう変わる Q&A

解放出版社

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2月28日(土)に地元の手話通訳者の研修会があった。「聞き取り通訳」がテーマだったのだが、私のグループは、障害者権利条約について書かれたこの本の抜粋をテープに吹き込んだ文章を「聞き取り通訳」トレーニングし、ビデオ撮りした。
私は「Q8.情報バリアフリー施策をどう変えていけばいいのですか?」という設問の「知的障害者の立場から」という部分が担当だった。
テープの話すスピードがちょっと速かったことは確かだが、私は途中何度も手が止まってしまって、かなりショックを受けた。
それはなぜかというと、この本に書かれている「知的障害者が不便を感じる場面」がさっぱり想像できなかったからだ。
<55頁より>
③交通機関について
電車の切符は、自分が知っている路線などでは、ICカードにお金さえ入っていれば、乗り降りや乗り換えは楽になりましたが、障害者割引を利用しようとするとICカードが利用できません。ICカードを使わないで、知らない路線や初めての駅に行くときはたいへんです。駅はほとんど自動券売機になって、自分で路線図を見て行きたい駅と値段を探さなければなりません。路線図は、多くの知的障害のある人にとっては読み取ることは難しいです。昔は、駅員に駅名を言えば切符をもらえて、どこのホームから乗ればよいのかも教えてくれました。最近は、電車やバスにモニターで、次の駅やバス停を表示してくれますが、ほとんどは漢字とローマ字で、ひらがなの表示は非常に少ないです。
 路線図だけでなくICカードのお金の入金にしても、ガイドヘルパーが頼りなのですが、役所は十分な時間を保障してくれません。社会が便利になればなるほど、知的障害のある人にとって、人間によるサービス(介幼者)が今まで以上に必要になっています。

私はテープを初めて聞いて「路線図は、多くの知的障害のある人にとっては読み取ることは難しいです。」という部分が一瞬どういう状況なのか想像できなかったのです。その後の文章を聞いてやっと「路線図を見てどの駅からどの駅までいくらになるのかを理解し、その値段の切符を買う」ことが困難であるとわかったのです。要するに「聴覚障害以外の障害についての理解不足」ってことなんですが、なんだかいつも養成講座の講義編なんかで「障害者福祉」などというテーマに触れて「それなりに理解がある」と思っていた自分が、全然わかってなかったってことを知ることができてショックです。そんなわけで、この本を買ってきて勉強することにしました。
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books132「寝ながら学べる構造主義」内田樹(うちだ たつる)(文春新書)

2009年03月10日 23時44分23秒 | books
寝ながら学べる構造主義 (文春新書)
内田 樹
文藝春秋

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以前、「下流志向」って本がとても面白そうだと思って紹介したことがあるんですが、最近「R25」っていう無料雑誌を読んでいて、またまた「面白い記事だなぁ~」と感じるのに出会いました(2月5日(木)版R25「ブレークスルーとは何か」)。それが内田樹さんへのインタビュー記事だったのです。
■横にいる他人なんか見てもしょうがないんですよ。本当に見るべきなのは、自分自身でしょう。
■向上心に他人は関係ないんです。
■自分の身に起こる悪いことは絶対に考えちゃいけない。強く念じたことは、それがプラスでもマイナスでも必ず実現する。『取り越し苦労はするな』ということを、僕は多田先生(合気道の多田宏九段)から教わりました。
■”こんなことが起きたらイヤだ”っていう不幸な未来をありありとイメージして、そのリストを長くしている。でも、そうすると必ず”起こって欲しくないこと”が起こる。”こんなことが起きたらいいな”というリストを長くする方が、はるかに効果的な生き方でしょう。

どれも納得です。その記事に著書として「街場の教育論」という新刊が載っていたのですが、まだ高そうだったのでこれはいずれブックオフで探すとして、他にどんな本を書かれているんだろうと探したら、なんと「下流志向」の著者だったんですねぇ~。
しかもそのさらに以前に読んだ「寝ながら学べる構造主義」の著者でもあったのです。驚きました。「下流志向」と「寝ながら学べる構造主義」の著者が同じだったなんて!
そんでもってこの「寝ながら学べる構造主義」がメチャメチャ面白いのです。最初に読んだときも端を折って線が引いてある箇所がたくさんあったんですが、今回改めて読み直してみてもとっても面白い。ちょーお奨めです。確か前回も「紹介したい箇所が多すぎてブログに書くのをやめた」気がするのですが、今回も同じ気持ちです。
【10頁】無知というのはたんなる知識の欠如ではありません。「知らずにいたい」というひたむきな努力の成果です。無知は怠惰の結果ではなく、勤勉の結果なのです。
【11頁】知性がみずからに科すいちばん大切な仕事は、実は「答えを出すこと」ではなく、「重要な問いの下にアンダーラインを引くこと」なのです。
【12頁】入門書が提供しうる最良の知的サービスとは、「答えることのできない問い」、「一般解のない問い」を示し、それを読者一人一人が、自分自身の問題として、みずからの身に引き受け、ゆっくりと嚙みしめることができるように差し出すことだと私は思っています。

【25頁】 構造主義というのは、ひとことで言ってしまえば、次のような考え方のことです。
 私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。
 私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです。

【33頁】フロイトは心理学の目的を「自我はわが家の主人であるどころか、自分の心情生活の中で無意識に生起していることについては、わずかばかりの報告をたよりにしているに過ぎないのだ、ということを実証」することである、と書いています。
【34頁】「無意識の部屋」は広い部屋でさまざまな心的な動きがひしめいています。もう一つの「意識の部屋」はそれよりずっと狭く、ずっと秩序立っていて、汚いものや危ないものは周到に排除されており、客を迎えることができるサロンのようになっています。そして、「二つの部屋の敷居のところには、番人が一人職務を司っていて、個々の心的興奮を検査し検閲して、気に入らないことをしでかすとサロンに入れないようにします。」(『精神分析入門』フロイト)
【35頁】この機制は二種類の無知によって構成されています。一つは、「番人」がいったい「どんな基準で」入室して良いものといけないものを選別しているのか、私たちは知らないということ。いま一つは、そもそも「番人」がそこにいて、チェックしているということ自体、私たちは知らないということです。この構造的な「無知」によって、私の意識は決定的な仕方で思考の自由を損なわれています。
【39頁】私たちは生きている限り、必ず「抑圧」のメカニズムのうちに巻き込まれています。そして、ある心的過程から組織的に目を逸らしていることを「知らないこと」が、私たちの「個性」や「人格」の形成に決定的な影響を及ぼしています。(中略)私たちは自分を個性豊かな人間であって、独特の仕方でものを考えたり感じたりしているつもりでいますが、その意識活動の全プロセスには、「ある心的過程から構造的に目を逸らし続けている」という抑圧のバイアスがつねにかかっているのです。

【44頁】 技芸の伝承に際しては、「師を見るな、師が見ているものを見よ」ということが言われます。弟子が「師を見ている」限り、弟子の視座は「いまの自分」の位置を動きません。「いまの自分」を基準点にして、師の技芸を解釈し、摸倣することに甘んじるならば、技芸は代が下るにつれて劣化し、変形する他ないでしょう。(現に多くの伝統技芸はそうやって堕落してゆきました。)
 それを防ぐためには、師その人や師の技芸ではなく、「師の視線」、「師の欲望」、「師の感動」に照準しなければなりません。師がその制作や技芸を通じて「実現しようとしていた当のもの」をただしく射程にとらえていれば、そして、自分の弟子にもその心像を受け渡せたなら、「いまの自分」から見てどれほど異他的なものであろうと、「原初の経験」は汚されることなく時代を生き抜くはずです。
【45頁】これはヘーゲルが「自己意識」ということばで言おうとしていた事態とそれほど違うものではありません。というのは、「自己意識」とは、要するに、「いまの自分」から逃れ出て、想像的に措定された異他的な視座から自分を振り返る、ということに他ならないからです。

【50頁】ニーチェによれば、「大衆社会」とは成員たちが「群」をなしていて、もっぱら「隣の人と同じようにふるまう」ことを最優先的に配慮するようにして成り立つ社会のことです。

【66頁】ソシュールは言語活動とはちょうど星座を見るように、もともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけることだというふうに考えました。
【67頁】言語活動とは「すでに分節されたもの」に名を与えるのではなく、満天の星を星座に分かつように、非定型的で星雲状の世界に切り分ける作業そのものなのです。ある観念があらかじめ存在し、それに名前がつくのではなく、名前がつくことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになるのです。
【68頁】外国語を母国語の語彙に取り込むということは、「その観念を生んだ種族の思想」を(部分的にではあれ)採り入れるということです。そのことばを使うことで、それ以前には知られていなかった、「新しい意味」が私たちの中に新たに登録されることになります。私の語彙はそれによって少しだけ豊かになり、私たちの世界は少しだけ立体感を増すことになります。
 ですから、母国語にある単語が存在するかしないか、ということは、その国語を語る人たちの世界のとらえ方、経験や思考に深く関与してきます。

【72頁】私たちはごく自然に自分は「自分の心の中にある思い」をことばに託して「表現する」というような言い方をします。しかしそれはソシュールによれば、たいへん不正確な言い方なのです。
 「自分たちの心の中にある思い」というようなものは、実は、ことばによって「表現される」と同時に生じだのです。と言うよりむしろ、ことばを発したあとになって、私たちは自分が何を考えていたのかを知るのです。それは口をつぐんだまま、心の中で独白する場合でも変わりません。独白においてさえ、私たちは日本語の語彙を用い、日本語の文法規則に従い、日本語で使われる言語音だけを用いて、「作文」しているからです。
 私たちが「心」とか「内面」とか「意識」とか名づげているものは、極論すれば、言語を運用した結果、事後的に得られた、言語記号の効果だとさえ言えるかも知れません。
【73頁】私か確信をもって他人に意見を陳述している場合、それは「私自身が誰かから聞かされたこと」を繰り返していると思っていただいて、まず聞違いありません。

【80頁】第三章 ミシェル・フーコー(社会史)
ある制度が「生成した瞬間の現場」、つまり歴史的な価値判断がまじり込んできて、それを汚す前の「なまの状態」のことを、のちにロラン・バルトは「零度」と術語化しました。構造主義とは、ひとことで言えば、さまざまな人間的諸制度(言語、文学、神話、親族、無意識など)における「零度の探求」であると言うこともできるでしょう。

【84頁】「エスニック・アイデンティティ」というものを私たちはあたかも「宿命的刻印」のようなものとして重々しく語ります。しかし、多くの場合、それは選択(というより、組織的な「排除」)の結果に過ぎません。ある祖先ただ一人が選ばれ、それ以外のすべての祖先を忘れ去り、消滅させたときにのみ、父祖から私へ「一直線」に継承された「エスニック・アイデンティティ」の幻想が成り立つのです。

【102頁】国家主導による体操の普及のねらいはもちろん単なる国民の健康の増進や体力の向上ではありません。そうではなくて、それはなによりも「操作可能な身体」、「従順な身体」を造型することでした。
「軍隊では体操は、素人兵に集団戦法を訓練するときに使われました。体操は、一人一人ではたいした力を期待できない戦いの素人たちを、号令とともに一斉に秩序正しく行動できるように訓練します。近代的軍隊においては、兵士たちは個人的な判断で臨機応変に戦うというよりも、集団の中においてあらかじめ決められたわずかな役割を任命され、合図に応じてこれを繰り返し反復するだけです。(略)体操が集団秩序を高めることを目的とするのは、この戦街上の必要を満たすためであり、いいかえれば、それは平凡な能力しか持たない個人を有効に活用するための方法であったのです。」(『「健康」の日本史』)
 近代国家は、例外なしに、国民の身体を統御し、標準化し、操作可能な「管理しやすい様態」におくこと-「従順な身体」を造型することを最優先の政治的課題に掲げます。「身体に対する権力の技術論」こそは近代国家を基礎づける政治技術なのです。
【103頁】身体を標的とする政治技術がめざしているのは、単に身体だけを支配下に置くことではありません。身体の支配を通じて、精神を支配することこそこの政治技術の最終目的です。この技術の要諦は、強制による支配ではありません。そうではなくて、統御されているものが、「統御されている」ということを感知しないで、みずから進んで、みずからの意志に基づいて、みずからの内発的な欲望に駆り立てられて、従順なる「臣民」として権力の網目の中に自己登録するように仕向けることにあります。
【104頁】権力が身体に「刻印を押し、訓育し、責めさいなんだ」実例を一つ挙げておきましょう。1960年代から全国の小中学校に普及した「体育坐り」あるいは「三角坐り」と呼ばれるものです。
 ご存知の方も多いでしょうが、これは体育館や運動場で生徒たちをじべたに坐らせるときに両膝を両手で抱え込ませることです。竹内敏晴によると、これは日本の学校が子どもたちの身体に加えたもっとも残忍な暴力の一つです。両手を組ませるのは「手遊び」をさせないためです。首も左右にうまく動きませんので、注意散漫になることを防止できます。胸部を強く圧迫し、深い呼吸ができないので、大きな声も出せません。竹内はこう書いています。
「古くからの日本語の用法で言えば、これは子どもを『手も足も出せない』有様に縛りつけている、ということになる。子ども自身の手で自分を文字通り縛らせているわけだ。さらに、自分でこの姿勢を取ってみればすぐに気づく。息をたっぷり吸うことができない。つまりこれは『息を殺している』姿勢である。手も足も出せず息を殺している状態に子どもを追い込んでおいて、やっと教員は安心する、ということなのだろうか。これは教員による無自覚な、子どものからだへのいじめなのだ。」(竹内敏晴『思想する「からだ」』)
 生徒たちをもっとも効率的に管理できる身体統御姿勢を考えた末に、教師たちはこの坐り方にたどりついたのです。しかし、もっと残酷なのは、自分の身体を自分の牢獄とし、自分の四肢を使って自分の体幹を緊縛し、呼吸を困難にするようなこの不自然な身体の使い方に、子どもたちがすぐに慣れてしまったということです。浅い呼吸、こわばった背中、痺れて何も感じなくなった手足、それを彼らは「ふつう」の状態であり、しばしば「楽な状態」だと思うようになるのです。

私が尊敬する竹内敏晴さんまで登場した!実に面白いですねぇ~。これでやっと半分です。(ここまで2009-02-27 20:34:56記)
【122頁】第4章 ロラン・バルト(記号学「零度の記号」)
「例えば、私が「おじさんのエクリチュール」で語り始めるや、私の口は私の意志とかかわりなしに突然「現状肯定的でありながら愚痴っぽい」ことばを吐き出し始めます。「教師のエクリチュール」に切り替えると、とたんに私は「説教臭く、高飛車な」人間になります。同じようにヤクザは「ヤクザのエクリチュール」で語り、営業マンは「営業マンのエクリチュール」で語ります。そして、そのことばづかいは、その人の生き方全体をひそかに統御しているのです。

これって結構ショックですよねぇ~。確かに「手話通訳者養成講師のエクリチュール」になってる自分っているかもしれません。
【123頁】言語を語るとき、私たちは必ず、記号を「使い過ぎる」か「使い足りない」か、そのどちらかになります。「過不足なく言語記号を使う」ということは、私たちの身には起こりません。「言おうとしたこと」が声にならず、「言うつもりのなかったこと」が漏れ出てしまう。それが人間が言語を用いるときの宿命です。
【148頁】第五章 レヴィ・ストロース(文化人類学者)
「私は曇りない目でものを見ているという手前勝手な前提から出発するものは、もはやそこから踏み出すことができない。」
【184頁】第六章 ジャック・ラカン(精神分析)
「私が自分の過去の出来事を「思い出す」のは、いま私の回想に耳を傾けている聞き手に、「私はこのような人間である」と思って欲しいからです。私は「これから起きて欲しいこと」、つまり他者による承認をめざして、過去を思い出すのです。私たちは未来に向けて過去を思い出すのです。」
「『自我』とは主体がどれほど語っても、決してことばがそこに届かないものです。主体をして語ることへ差し向ける根源的な「満たされなさ」のことです。」
「ラカンの『自我』は、その「言葉にならないけれど、それが言葉を呼び寄せる」ある種の磁場のようなものだと思ってください。」
「『私』とは、主体が「前未来形」で語っているお話の『主人公』です。」
「こどもが育つプロセスは、ですから言語を習得するというだけでなく、「私の知らないところですでに世界は分節されているが、私はそれを受け入れる他ない」という絶対的に受動的な位置に自分は「はじめから」置かれているという事実の承認をも意味しているのです。」
「平たく言ってしまえば『怖いもの』に屈服する能力を身につけること、それがエディプスというプロセスの教育的効果なのです。」

 どんどん難解な話になっていくのですが、結局最初に書かれている構造主義ってのは
「私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。
 私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです。」

という文に還るって感じですね。僕も2回読み直して(つまり最初に読んだ時を含めて3回読んで)、やっと理解の入り口に立てたかなって感じです。
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手話で学べる中学を

2009年03月10日 20時33分08秒 | sign language
2009年(平成21年)3月10日(火曜日)読売新聞朝刊に「手話で学べる中学を」という記事が載ってました。
先日行った東京都の耳の日大会でも募金活動やってたのかなぁ~?と思って「第38回耳の日記念文化祭」のパンフを見てみましたが、米内山さんの「手話文化村」の広告は載っていたけど、「明晴学園」中学部設立への応援メッセージは見あたりませんでした。
大人のメンツの張り合いで、聞こえない子どもたちの「手話で学べる中学を」という願いを無視しちゃうっていうのは、なんだかなぁ~。了見が狭いよなぁ~。公式企画として「ゆずり葉」資金カンパが最重要課題だってのはわかるけど、せめて三田の障館前駐車場でやってた模擬店スペースに明晴学園の子どもたちの「駄菓子屋さん」出店なんてアイデア浮かばなかったのかなぁ~。明晴学園を応援するしないは会場へ来たろう者一人一人が判断すればいい。仮にも「東京『都』聴覚障害者連盟」って、『都』って看板しょってるんだから、東京『都』品川区にある私立のろう学校を東京が応援しなくて誰が子どもたちの未来に責任持つのかなぁ~と思ってしまう。
障害者権利条約の講演会で「第2条で手話は言語だって定義づけられた」って、説明している一方で、「手話で学べる中学を」っていう運動を無視するのは明らかに自己矛盾してると思うのです。
こんなことを書くときっと「参加したいという申し出がなかった」なんてコメントが入るんだろうなぁ~。聞こえない子どもたちの目線で考えることが必要じゃないのかなぁ? 子どもたちに向かって「耳の日文化祭で募金やってみない?」って誘うのは大人の役割なんじゃないのぉ~って思う。

手話で学べる中学を
 設立目指し子供たち募金活動
  【2009.3.10読売新聞朝刊より】

〔写真・略〕寄付を呼びかける明晴学園の子供たち
(2月28日、港区の秩父宮ラグビー場で)

 耳の聞こえない園児や児童が手話で授業を受けている私立のろう学校「明晴学園」(品川区八潮5)が、中学部設立をめざし、寄付を募っている。児童が小学部を卒業した後も、引き続き手話で学べる場をつくるためだ。「自分たちの″言葉″である手話で勉強を続けたい」という子供たちの願いをかなえようと、保護者や学校関係者らが奔走している。
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 日本のろう学校は、補聴器などの助けで相手の唇の動きを読んで発声練習する「聴覚口話法」で授業を行うのが主流という。しかし、言葉を読み取るのに精いっぱいで、授業内容を理解しにくいのが課題。「たまご」と「たばこ」は唇の動きが同じで、わかりづらいといった具合だ。
 こうした実情から、「ふだん使っている手話で勉強させてやりたい」という保護者らの努力が実り、都の教育特区制度で認可された明晴学園が昨年4月、開校。幼稚部に16人、小学部に22が通っている。
 この春に7人が6年生になるが、卒業後に進学できる中学部がない。都に中学部設立を申請するには「3年分の運営資金の保有」が条件。現在保有している資金に加え、申請期限の今年6月までにあと3000万円集める必要があるという。
 聴覚障害者のラグビー「デフラグビー」を支援する関東ラグビー協会はこの状況を知り、募金活動への協力を申し出た。先月28日に秩父宮ラグビー場(港区)でラグビー日本選手権決勝が行われた際には、会場入り口でデフラグビーのチーム「イースタンクワイエットタイフーン」の選手らが同学園の子供と一緒に来場者に寄付を呼びかけるチラシを配った。鮫島功生選手(24)は「今後も応援していきたい」と話していた。
 同学園5年の佐々木景惇君は「口話で学ぶのは大変。中学部を作ってほしい」。宮坂七海さん(5年生)も「友達とのコミュニケーションも手話ならスムーズ。中学生になっても一緒に勉強したい」と語った。
 今月11日には品川区の大井町駅前で寄付を呼びかける予定。問い合わせは同学園中学部設立準備会(電話03・6380-6775)
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