かんじゃまのつぶやき(海の見えるチベットより)

日本一細長い四国佐田岬半島での慣れない田舎暮らしの日常や風景、
  そして感じたこと、思い出などをひとコマひとコマ

石仏・石塔見て歩き(8:生目大神)

2008-06-04 12:22:44 | 田舎の歴史
この石仏は、集落の外れにある。最初この石仏の存在を知った時、衣装などから菅原道真ではないだろうかと思った。少し凛々しさに欠けた表情をしているのが気がかりではあったが・・・。
菅原道真ではないかと思ったのは、以下の理由からだ。
    
ここ名取集落は、現在は一つの集落としてあるが、昔の名取は三つの集落に分かれていたそうだ。だから、神社もそれぞれの集落に一つずつあったそうである。その三つの神社は、一つは「くろち」、一つは「宮」という所の下、もう一つは「じやしき」という所にあったそうである。その後(いつのころか知らないが)、三つの集落が一つにまとまって現在に至ったのだそうである。そういえば、名取地区は「岡、里、峯」の三つに分けられているが、それと関係しているのだろうか? うーん、分からない。

また、『町誌』によると、名取の客神社の由緒沿革が次のように書かれてある。
「寛永年間(1624~1644)の創立であるという。当初の氏神は字黒内に鎮座の天満宮であったのを、寛永年間に客神社を創立し、氏神とした。・・(中略)・・明治6年11月村社に列格、同42年9月天満神社を合祀した。」
私は最初、この部分の記述を何も感じずにいたが、上記の集落が三つあった話の「くろち」と、『町誌』のなかの「黒内」とは、同じ箇所を指すのではないだろうか、と思うようになった。「黒内」は「くろうち」ではなく、「くろち」と読むのではないだろうか。
私は、この地区の「くろち」という地名は、土の色が黒いところから、「黒土」⇒「黒地(くろち)」となったのではないかと思ってきていたのだが、どうも私の考えは外れているようだ。

少し長くなりましたが、つまり、昔「黒内」にあった天満宮(=菅原道真)が、明治時代に客神社に合祀されたけれど、その名残として、天満宮が元あった場所=「くろち」に冒頭の写真の石仏(私が勝手に菅原道真と思い込みかけていた石仏)が残されているのではないだろうかと、思うようになった次第である。

そんなわけで、ある日期待を込めて、この石仏に会いに出かけた。
すると、「生目大神」と刻まれていた。しかも、建立したであろう人の名前も刻まれてあり、名字まである。ということは、明治以降の建立であろう。
ということで、私の拙い想像は見事に外れだった。
ちょうど私がこの石仏を眺めていた時、一人のおばさんがここを通りかかったので、聞いてみると、おばさんは「これは目の神様で、昔は目の悪い人がここで拝むと目が良くなった」と言っていた。

「生目大神」というのは聞いたことがないので、帰ってからパソコンで検索してみると、県内や宮崎県には、“生目八幡”や“生目神社”があるようだ。そして、そこには源平の争いに敗れた平家の武将・平景清の伝説が残されているようである。
戦いに敗れた平景清は、源氏の繁栄を見るのが辛くて、自分の両目をくり抜いて、岩に打ち付けたとか、投げた目が神社の松のこずえに引っかかったとか、というような伝説である。そのため、それ以降景清を祭神に祀り、目の神様としても篤く信仰されてきたようである。

10日ほど前、テレビで「裸の大将~宮崎篇」というのをやっていたが、その時ちょこっと神楽のシーンが出たのだが、神楽をやっていた神社が「生目神社」だった。
この生目大神の衣装は、平家の武将という姿ではなく、公家というイメージなのだが・・・。ともあれ、この石仏を建てた方も、自分あるいは家族の眼病が良くなることを願って、この石仏を祀られたのであろう。
 今も、この石仏の前には花が絶えることはない。