
【大分・国東市】奈良時代の養老二年(718)、国東六郷満山の開祖・仁聞菩薩により開創された、中山本寺十ヵ所の一つ。 かつては天台宗で、寺号は国司が支配する地域にあることから久末山護国寺とされ、六郷満山の僧が修行する般若経の講瑞所だった。
武家政権の鎌倉時代から六郷満山を支配・保護していた宇佐八幡の支配力が後退し、武士が地頭として寺院を横暴な振る舞いで支配したことから廃寺が続出、護国寺も廃寺となった。
室町時代応永十一年(1404)、曹洞宗の傑僧明厳禅師が荒廃していた護国寺を中興、護聖寺と命名して法燈を輝かせた。 その後、法燈は代々の住持により守り続けられたが次第に衰微し再度廃寺に。
江戸時代の寛文十三年(1673)、石堂禅師が堂宇を建立し本尊観世音菩薩を安置して再興したことから中興の祖と言われる。 曹洞宗(禅宗)で本尊は聖観世音菩薩像。 <国東六郷満山霊場第十五番札所 (六郷満山中山本寺)>
参道を進み正面から眺めると、まるで城壁の上に堂宇が建っているかのようだ。
頑丈に造られた古い石段を上ると、山門、鐘楼そして手水舎の柱間からスカスカの光景....緑が殆どない少し殺風景な境内が広がる。 山門をくぐると正面に唐破風向拝の本堂が鎮座するが、全く飾り気がなく、何だか無住寺のような印象を受ける。
本堂の左手の奥は草木が伐採されて茶色の土が剥き出しになった荒れ地があり、その中に板碑、宝篋印塔そして一石五輪塔などの石造物が点在している。 これらは鎌倉時代から室町時代の歴史を語る貴重な遺構であり、保存・保管にひと工夫が欲しいと強く願いながら寺を後にした。

門前の遠景..石垣上の白壁と石段は城のような構えだ

石段から眺めた境内



聖観世音菩薩立像..左手に未開蓮を持つ/山門 切妻造桟瓦葺の手水舎

切妻造本瓦葺の山門..四脚門で扉がない

山門と鐘楼の間から眺めた本堂

本堂と庫裡は渡り廊下で結ばれている

入母屋造桟瓦葺の本堂..身舎に裳腰を設けた妻入り

境内の桜の木



唐破風で質素な向拝 境内に置かれた大きな蹲(手水鉢)/切妻造本瓦葺の鐘楼

鐘楼の傍に佇む歌碑

境内の石燈籠越しに眺めた山門と鐘楼

本堂に向かって左手に立つ宝形造銅板葺のお堂

境内に散在する石造物(板碑、五輪塔、宝篋印塔など)


鎌倉時代作の2基の板碑(種子からいずれも阿弥陀三尊)..右は正応四年(1291)建立で大分県最古、左は喜暦四年(1329)建立



鎌倉時代~室町時代作の一石五輪塔/室町時代作の宝篋印塔..塔柱正面の塔身に地蔵尊坐像が彫られている/石を積み重ねた仏塔もある

境内の上の樹林近くに佇む宝篋印塔などの石像物群


多分、かつてあった守護神の権現の台輪鳥居(権現鳥居)と思う..笠木と島木が中央で分断/台輪鳥居近辺に佇む石殿(左)、右の石塔には江戸時代1789年の「天明九年」銘
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます