【京都・左京区】鎌倉時代の寛喜元年(1229)、関白近衛基通の孫・静基僧正により柴野(北区)に開創された。 その後、現上京区実相院町に移転したが、応仁の乱(1467~1477)の戦火に遭ったため、所管となっていた大雲寺の一院・成金剛院の現在地・岩倉に移った。
室町時代末期までに多くの伽藍等が戦火で焼失した。 江戸時代初期の寛永年間(1624~1644)に足利義昭の孫・義尊が入寺、母古市胤子が後陽成天皇の後宮となった関係で皇室と徳川第三代将軍家光から援助を受け、実相院を復興した。
寛文年間(1661~1673)、霊元天皇皇子義延法親王が入室して以来宮門跡が続いた。 義周法親王が門跡の時、京都御所から大宮御所「承秋門院(東山天皇の妃)の旧宮殿」の一部として山門、御車寄、客殿が下賜され移築された。実相院の南東に岩倉具視邸があるが、幕末に岩倉具視が一時実相院に住んでおり、当時の密談記録等が残されている。 宗派は単立(元天台宗寺門派)で、本尊は鎌倉時代作の木造不動明王立像。
◆2011年の京都寺社巡りで訪問した。 地下鉄烏丸線「国際会館駅」から岩倉実相院行きバスに乗車....実相院の門前に着く。 乱積石垣の上に、門跡寺院の最高格式を示す5本の定規筋が入った白壁の築地塀が延び、石造り階の上に落ち着いた雰囲気の山門が建つ。
門柱に「実相院門跡」の聯が掛けられた四脚門をくぐって伽藍境内に入ると、小石を敷いた参道の奥正面に入母屋破風で軒唐破風を設けた客殿の玄関がある。 山門から玄関までの参道右手に境内を仕切るように白壁の築地塀があり、築地塀の奥に玄関の屋根と同じ造りの入母屋破風がある。
客殿の玄関を入り、客殿の「つるの間」に進み、東側の縁側から築地塀で囲まれ枯山水庭園を暫し眺めた。 比叡山を借景とした石庭は「こころの庭」と呼ばれている。 北側の縁側からは、山裾に整然と並んで鎮座する多くの石仏や小さな五輪塔群が見える。 客殿西側のコの字に配された建物の間に池泉回遊式庭園が広がる。 赤い絨毯が敷かれた縁側から眺める山水庭園は、手前の日陰部分が薄っすらと雪化粧している。 山側に建つ茶室と雪化粧が残る苔生した庭の景色は、しみじみとした味わいがある。
趣の異なる2つの庭園はいずれも鮮やかな新緑と紅葉の見所になっていて、黒い床を朱色に染める「床もみじ」と緑に染める「床みどり」が有名…機会があればぜひ観賞したいものだ。
△乱積み石垣の上に建つ山門....左右に白壁の築地塀が続き、趣がある門前だ
△切妻造本瓦葺の山門(四脚門)は本瓦葺の白壁の袖塀を設けている....旧大宮御所の遺構の一つ
△山門の柱に「実相院門跡」の聯が掛けられている....白壁の築地塀に最高の格式を示す5本の定規筋が入っている
△山門を通して眺めた境内....正面は客殿の玄関
△袖塀傍から眺めた客殿(本堂)....南北に建つ本堂は入母屋造桟瓦葺/山門の大棟端に鳥衾を乗せた鬼板、拝に蕪懸魚....袖塀は鬼板と梅鉢懸魚
△山門から眺めた客殿の玄関と客殿(右).....いずれも江戸初期宝永五年(1708)建立の旧大宮御所の遺構で、享保年間(1716~1736)に移築された
△入母屋造桟瓦葺で妻入りの客殿玄関(御車寄?)....銅板葺で軒唐破風ある庇を設けている....大棟端に獅子口、拝に蕪懸魚、妻飾は狐格子
△築地塀奥の入母屋造桟瓦葺の客殿(東面)....大棟端に獅子口、拝に蕪懸魚、妻飾りは狐格子
△軒唐破風に獅子口、兎毛通は変形の懸魚
△白壁の築地塀の北側(客殿の東側)に広がる枯山水庭園....園内に枝垂桜、築地塀の右奥は山門
△「つるの間」から眺めた枯山水の石庭は比叡山を借景としている....石庭は「心の庭」と呼ばれている
△支え柱を設けた客殿の東側に枯山水庭園が広がる
△支え柱がある客殿の北側....客殿の東側と北側に石塊を帯状に並べた雨落溝が設けられている
△.枯山水庭園の北側の隅に本堂(客殿)に向かって鎮座する石仏群
△客殿北側の山裾に整然と立ち並ぶ小さな五輪塔群
△客殿の部屋(西側)内から眺めた庭を中心に池泉を配した池泉回遊式庭園
△池泉回遊式庭園はコの字に配され、客殿・奥書院・茶室の間に広がる
△薄っすらと雪化粧した山水庭園....池泉に苔生した自然石の沢飛石があり、また、茶室側の前庭が苔に覆われていて風情がある
△客殿西側の縁側傍にある清水が張られた四角い蹲踞/茶室傍に数基の石燈籠が佇む
△一番西側に位置する茶室....切妻造桟瓦葺屋根の妻側に寄棟造屋根を足したような構造
△本堂から茶室への回廊の隅から眺めた山水庭園のほぼ全景
△回縁に赤い絨毯が敷かれた客殿の西側(庭園側)....格子戸、腰高格子戸の上は大きな格子欄間になっている
△山水庭園の裏山の山裾に鎮座する五輪塔群
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