何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

旧閑谷学校-(2) (備前)

2019年05月05日 | 史跡探訪-日本編

【岡山・備前市】閑谷学校は明治三年(1870)、藩政改革のため廃校となり、学房・習字所・教官宿舎が撤去された。 また、一時撤去の動きがあったものの講堂他主要施設は維持され、明治六年(1873)、備中松山藩から山田方谷を招き、「閑谷精舎」として再興された。 その後、「閑谷精舎」廃校・「閑谷黌」開校などの変遷を経たが、昭和二十八年(1953)に旧閑谷学校講堂が国宝に、翌年に「旧閑谷学校」として特別史跡に指定された。
平成二十七年(2015)、近代日本の教育遺産群の一つとして国の特別史跡に指定され、最初の日本遺産に認定された。 なお、他の教育遺産は、特別史跡旧弘道館(茨城県水戸市)、史跡足利学校跡(栃木県足利市)、史跡咸宣園跡(大分県日田市)の3か所。

東側の少し遠めの広場からしばらくの間、壮麗な講堂を眺める。 洗練された講堂は築後300年以上経た建物だが、良質の建材を用いて完璧な施工が行われたため、現在も寸分の狂い無く建ち続けているそうだ。 講堂の南側と北側に足場が組まれ、大棟の補修工事が行われていて少し残念だったが、大きな錣葺の屋根と内室を囲む入側の壁に並ぶ大きな花頭窓が独特の外観を形作っていて趣がある。
東側から縁側に上がり、花頭窓から中をのぞき込みながら廻縁を一周した。 中は床張りの一室で、10本の丸柱で囲まれた内室とその周りに入側が設けられている。 拭き漆の床がピカピカに磨かれていて、西北側から眺めると南東側の花頭窓から差し込む光が床に美しく反射していて幻想的だ。 内室の北側の床に置かれた天板が傾斜した小さな座り机を見ていると、教師の話に熱心に耳を傾ける生徒たちの姿が浮かんだ。
講堂の西側に農民が学んだ教室の「習芸斎」と休憩室の「飲室」が繋がって建ち、教師と生徒が「飲室」の小さな炉を囲んで湯茶を喫しながら談笑している光景が目に浮かぶようだ。
講堂から出て、白壁で質素な造りの「小斎」・「習芸斎」・「飲室」を外から眺めながら西端に建つ資料館に向かう。 講堂と「飲室」の南側のかまぼこ形石塀に、藩主が臨学する際に使った袖塀付の「公門」と生徒や聴講者たちの通用門の「飲室門」がある。 「飲室」の西側に少し離れて土蔵造りの白壁の「文庫」が建ち、その後方に、人工の山の「火除山」があるが、「火除山」は学舎・学房が出火した際に講堂などへの延焼を防ぐために造営されたものだ。 元禄時代に造営された総延長約765メートルの石塀を近くで見る....正面周辺の約505メートルは、高さ約2.1メートル、幅約1.8メートルのかまぼこ形になっているが、堅牢な造りとその美しさに思わず唸ってしまった。 「火除山」と石塀の間の狭い参道を進むと、学房跡に建つ資料館に着く。

入母屋造本瓦葺で錣屋根の講堂(国宝)....元禄十四年(1701)改築....旧講堂(茅葺)は延宝元年(1673)の創建で、池田光正が視察した

桁行七間、梁間六間で、錣屋根は三重構造で杮葺に板葺を乗せ、その上に備前焼の本瓦を葺いている....左隣(南側)の小さな建物は「小斎」
 
大棟端に鳥衾が乗る鬼板、拝に蕪懸魚、妻飾は豕扠首/周囲に縁側を設け、内側は床張りの一室だが入側と内室で構成

内室を囲む入側の壁に明りとりの大きな花頭窓が並ぶ

東側の入側の壁の花頭窓、内側に明かり障子がある

南側の入側

北側の入側の花頭窓と回廊....回廊には雨戸が入っている

講堂の正面となる西側....入り口に飾り金具を施した両開き桟唐戸

内部は十本の欅の丸柱で支えた内室とその四方を囲む入側とで構成されている
 
内室の長押の上に掲げられた「克明徳」の三字額....江戸中期、岡山藩5代目藩主池田治政の書/拭き漆の床は生徒たちによって磨かれていて、花頭窓から入る光を美しく反射させている
 
十本の丸柱で囲まれた内室の北側の壁には伊豫の署名がある壁書が掲げられ、北側の床には天板が傾斜した小さな座り机が置かれている

西側に建つ習芸斎に繋がった廊下から眺めた講堂
 
農民たちも学んだ教室の「習芸斎」....農民が聴講できる「朱文公学規」の講釈が行われた/教師・生徒らが湯茶を喫した「飲室」....縁に火気厳重注意文が彫られた炉が、床の中央に設けられた休憩室

講堂の南縁から眺めた数奇屋風建物の「小斎」

入母屋造杮葺屋根の「小斎」(国重文)....藩主が臨学の際に使われた御成の間で、現存する建物の中で最古の姿を残している

入母屋造本瓦葺の「習芸斎」(講堂側)と「飲室」(いずれも国重文)は1棟の造りで、右の窓のない建物は「習芸斎」の玄関

「習芸斎」の玄関は教官や来賓が使い、生徒は飲室の方から出入りした....玄関の上には開閉式の欄間が設けられている

講堂と飲室の近くの石塀に設けられた「公門」(手前)と「飲室門」

切妻造本瓦葺の「公門」(薬医門で国重文)....元禄十四年(1701)の設置で、藩主臨学の際に使用した門で「御成門」ともいう

切妻造桟瓦葺の「飲室門」(薬医門で国重文)....日通いの生徒や朱文公学規講釈に出席する聴講者が出入りする通用門

切妻造本瓦葺で土蔵造りの「文庫」(国重文)....内部は二階構造で教科書等の書物を収納....土塗り白漆喰で木部を覆った防火構造で、入口は土戸と竹格子戸で3重扉になっている

「火除山」の石垣の傍から眺めた講堂の境内....手前の切妻屋根の建物は「文庫」
 
「火除山」....防火のために造られた人工の山で、西側の学舎・学房(寄宿舎)と東側の講堂の間に造営/石塀と「火除山」の間の狭い道は西側に建つ資料館への参道

「火除山」造営の目的は、学舎・学房の出火が講堂などに及ぼないようにするもの

学校全体を取り囲む総延長約765メートルの石塀(国重文)....300年以上前の元禄十四年(1701)の完成....正面周辺の約505メートルは、高さ約2.1m、幅約1.8mのかまぼこ形をしている

学房跡の前の石塀にある切妻造桟瓦葺の「校厨門」

寄棟造桟瓦葺の資料館(有形文化財)....明治三十八年(1905)、学房跡に「私立中学閑谷黌」の本館として建てられた建物で、旧閑谷学校の貴重な資料を保管

コ字型建物の中央棟に妻破風の庇を設けた玄関がある

コ字型資料館の右側(東側)の建物

案内板の写真を拝借....備前焼の本瓦葺屋根の校門、錣屋根の講堂、小斎(杮葺)、公門、習芸斎、飲室、文庫、そして「火除山」の奥に資料館

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 旧閑谷学校-(1) (備前) | トップ | 紀三井寺-(1) (和歌山) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

史跡探訪-日本編」カテゴリの最新記事