
【中国・北京市】前身の「清漪園」は、清朝の第8代皇帝道光帝の道光年間(1820~1850)以降は国力の衰退に伴って次第に荒廃し、第9代皇帝咸豊帝の咸豊十年(1860)、第二次アヘン戦争によって北京を占領した英仏連合軍によって破壊され廃墟と化した。
1875年に4歳で即位した第11代皇帝光緒帝の摂政として政治を掌握した西太后が、光緒十四年(1888)に「清漪園」を再建し、「頤養沖和(穏やかさを養う)」という言葉から取って「頤和園」と名づけた。 再建された頤和園は、光緒二十六年(1900)、義和団事件を支持した西太后による列強への宣戦布告により、8ヵ国連合軍の攻撃によって再び破壊されたが、2年後の1902年に再建された。
●楽寿堂から昆明湖の北岸に沿って西に延びる長廊の東の入口である彩色装飾が絢爛に施された邀月門をくぐって長廊に。 長廊に入って天井を見上げると、梁や桁に人物・花鳥風月などの山水・歴史・古典文学・神話などを題材にした鮮やかな絵が描かれている。 全長728メートルある長廊の梁などに14,000枚もの画があるらしい。
長廊の途中から、長廊に沿って続く参道を歩いて万寿山の中腹に建つ仏香閣に向かう。

△楽寿堂の西に建つ邀月門....この門は昆明湖に沿って西に延びる長さ728メートルの長廊の東入口

△入母屋造本瓦葺で豪華絢爛な邀月門....二軒繁垂木で下の地垂木は円垂木、途中にある四阿の軒廻りも同じで角垂木と円垂木

△乾隆帝の散歩道として知られる長廊....梁や桁に人物・花鳥風月など、山水、歴史、古典文学、神話などを題材に約1万4千点の絵が描かれている

△万寿山の南端から昆明湖に沿うように長廊が続き、全長は728メートル


△二軒繁垂木の東側長廊の前半は壁のない吹き放しの造り/長廊の途中にある最初の四阿の留佳亭....長廊には4つの四阿がある

△長廊から眺めた十七孔橋....橋の袂に建つ廓如亭が見える

△昆明湖に浮かぶ南湖島と十七孔橋の遠景

△南湖島に建つ涌虚堂と龍王廟

△玉瀾堂後方の湖畔から眺めた長廊(回廊)、無尽意軒、雲輝玉宇(と思う)そして仏香閣

△漆喰の壁に明り取りの二重ガラスでできた空窓のある長廊....昆明湖の秀逸な景色を眺める場所

△様々な形をしている空窓がある長廊の先の建物は、入母屋造瓦葺で妻側屋根のみ本瓦葺

△湖畔に建つ無尽意軒越しに眺めた南湖島
●東西に延びる長廊の真ん中の仏香閣の下の湖畔に建つ雲輝玉宇....その右隣の介寿堂まで行って、そこから仏香閣を暫し見上げた。 高さ20メートルの大きな基壇の上に建つ仏香閣は、高さ約41メートルの豪壮かつ壮麗な八角三層の塔で、まさに頤和園のシンボルだ。 仏香閣の傍まで行って拝観したかったが、ツアーのスケジュールの関係で叶わず、引き返した。

△仏香閣近くの湖畔に建つ入母屋造瓦葺の雲輝玉宇(と思う)....妻側屋根のみ本瓦葺

△排雲殿の右側に建つ介寿堂(と思う)...飲食ができる休憩所のようだ

△万寿山の中腹に建つ八角三層で瓦葺の仏香閣

△約20メートルの基壇の上に聳える仏香閣....塔高は約36.5メートル


△第9代皇帝咸豊帝の咸豊十年(1860)の第二次アヘン戦争で焼失、後に清朝末期の1902年西太后により再建....塔の内部には像高5メートルの千手観音菩薩像を安置/初層と二層目の周囲は一間吹き放しの造り

△万寿山に頂上に君臨する頤和園のシンボル仏香閣

△玉瀾堂後方の湖畔から眺めた仏香閣

△玉瀾堂後方の湖畔から眺めた右から長廊、無尽意軒、雲輝玉宇(と思う)そして仏香閣

△玉瀾堂近くの船橋から遠望した仏香閣と雲輝玉宇(と思う)

△楽寿堂から人造湖の昆明湖の辺にでて眺めた万寿山

△昆明湖と西胡を仕切る西提に架かる鏡橋(と思う)....丘陵に七重塔が建つ
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