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何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

西来寺-(1) (横須賀)

2024年09月11日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・横須賀市】平安時代の弘仁年間(810〜824)、比叡山天台の学僧・定相律師により天台宗の寺として創建され、一乗寺と号した。 寛元四年(1246)、親鸞聖人関東遊行の際、国府津(相川足柄江津)真楽寺において住持乗頓が親鸞聖人の法莚に詣でて浄土真宗に帰依し、寺号を西来寺と改めた。 これにより乗頓が西来寺の開基となる。
戦国時代、一向一揆を恐れた相模国守護小田原城主北条氏直公は領内に一向宗である真宗寺院のあることを許さず、光明寺(浄土宗材木座)の末寺として改宗を厳達された。 宗旨は浄土真宗(大谷派)で、本尊は室町時代後期の作と推定される阿弥陀如来立像。

★境内入口に寺号と宗旨を記した門柱が立ち、切石敷の境内参道の先の石段の上に山門が建つ。 境内に入ると、右手に”亀の池”があり、池の奥に小さな石橋が架かっている。 低い山の傾斜地に造営された境内は三段になっていて、一番低い所に”亀の池”、中段に山門そして高い位置に本堂や庫裡などが建つ。 山門の石段下に、垂乳根が下がる銀杏の老木が聳え、阿弥陀仏の「四十八願道」の石柱が立つ。

△宗旨と山号・寺号が表記された門柱から眺めた境内....手前右手に”亀の池”があり、銀杏の古木だ聳え、石段上に山門が建つ....右上は庫裡

△下段にある”亀の池”....”鶴の池”もあるようだが、庫裡奥の庭園で非公開か?

△”亀の池”の奥に小さな石橋が掛かっている

△境内は三段に造営されていて、中段に山門、上段に本堂、鐘楼、庫裡などの堂宇が建つ

△石垣の上に建つ山門は大正九年(1920)建立で古くはないが趣がある

△”亀の池”の辺に佇む二基の紀念碑....手前は明治十六年(1883)の造立で、いずれも海軍将兵の功績を称えている/奥は明治廿四年(1891)の造立

★山門の建立は大正九年(1920)で古くはないが、凝った造りの袖塀を備えた品のある四脚門だ。 袖塀は白壁に幅広に連子子を配した連子窓を設けた透塀で、趣がある。 親柱と控柱の根元に飾り金具を施し、前後の控柱の頭貫に獅子の木鼻を配していて格式を感じさせる。
板扉に珍しい彫刻が掛けられた山門をくぐると、狭いエリアの地面が緑の苔で覆われ、七分咲きの早咲きの桜のピンクがきれいだ。 山門脇に多くの舟形石仏が鎮座して参詣者を迎えているが、いずれも墓碑で、ほとんどが江戸初期から中期に造立されたものだ…合掌。

△石段上に建つ切妻造桟瓦葺で袖塀を備えた山門....石段下に昭和六十三年(1988)造立の「四十八願道」(阿弥陀仏の誓願)と刻まれた石柱がある

△両側の瓦葺袖塀は、白壁に幅広に連子子を配した連子窓を設けた透塀

△山門は冠木門に屋根を乗せたような造りの四脚門….軒廻りは二軒繁垂木、前後の控柱の頭貫に木鼻を配している

△大棟端に獅子口が乗り、拝は蕪懸魚       親柱と控柱の根元に飾り金具を施している

△控柱上部の頭貫に各2頭の獅子の木鼻がある....梁に笈形をのせて棟木を支えている

△格式を感じさせる佇まいの山門

△珍しい彫刻が掛けられた山門の板扉を通して眺めた石垣の上に建つ本堂....石段右手石垣の中の楕円形の石は後補か?

△山門脇に鎮座数する江戸初期から中期に造立された舟光背形石仏群

△刻まれた年号は元和、正保、寛文、延宝、貞享、元禄などが確認できる

△山門エリアに佇む石燈籠

△早咲きの桜が咲く山門エリアから眺めた上段に建つ本堂と鐘楼

△石燈籠越しに眺めた上段の本堂






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等覚院-(2) (川崎)

2024年08月06日 | 寺社巡り-神奈川

【川崎・宮前区】等覚院は通称「つつじ寺」と呼ばれる。手入れが行き届いた庭園に約2,000株のツツジが植栽され、「神奈川花の100選」に選定されている。 見頃の時期は4月中旬から5月上旬。

★仁王門をくぐると傾斜地一面に植栽されたツツジのこんもりとした緑が美しい。 ツツジの中の石段を上り詰めると、側壁に法輪を配した箱棟を乗せた屋根の本堂が建ち、右側に客殿と庫裡が連なっている。 まずは唐破風の向拝に下がる鰐口が鳴らしてご本尊に参拝する。 向拝の天井を見上げると、水引虹梁上に精緻な龍、その上の梁に二羽の鶴、兎毛通は鳳凰そして迫力がある唐獅子の木鼻などどれも見事だ。 中央間の梁に山号の「神木山」の扁額が掲げられているが、「山」の字が「王」にしか見えない。 堂内に入ると、外陣と内陣とが格子壁で仕切られ、内陣に地蔵尊像と最澄坐像そして猛煙を背負い憤怒の形相の不動明王坐像が鎮座し、参拝する人を見守っている。 撮影禁止の表示がなかったので、これらの尊像を撮らせていただいた。

△仁王門を通して眺めた境内....傾斜地に見事なツツジの植栽、真ん中に本堂への石段

△仁王門から本堂境内の間の傾斜地に植栽されたツツジと真ん中に本堂への石段がある....ツツジは境内に約2,000株植えられているとか

△石段を上り詰めた所から眺めた境内の本堂と客殿(右隣)....堂前の松の剪定が行われていた

△宝形造銅板葺の本堂....安政六年(1859)の再建

△屋根頂部に法輪を配した箱棟、向拝の唐破風屋根に鳥衾付き鬼板....鬼板と破風に菊の紋を配す、兎毛通は鳳凰の彫刻

△唐破風の彫刻....小壁に鳳凰や松、水引虹梁の上に龍

△迫力がある唐獅子の木鼻....身舎と向拝柱を繋ぐ海老虹梁は途中で丸桁を支えている

△渦文と植物彫刻の手挟....海老虹梁の途中で彫刻を設けた斗栱を乗せて丸桁を支えている

△正面は五間で中央間に両折両開の桟唐戸、両脇間は両折両開の桟唐戸と連子窓

△中央間の梁の上に掛けられた「神木山」の扁額....向拝に鰐口が下がる

△格子で仕切られた内陣に向かって外陣左側に鎮座する不動明王坐像....天台宗開宗千二百年を慶讃して造立された(総丈3.6メートル)....平成十九年(2007)4月に入仏開眼法要が執り行われた

△外陣右側に鎮座する地蔵尊坐像と伝教大師(最澄)坐像

★本堂前では三人の庭師による松の木の剪定が行われていた。 向拝の脇に「奉納 百度」と彫られた飾り手水鉢が置かれている。 堂前参道脇に二基の石燈籠が立つが、火袋に法輪を配し、竿や脚など装飾性の高い造りだ。 本堂前の境内に建つ手水舎には、精緻な四体の邪鬼の脚に支えられた手水鉢がある。 手水舎の近くに植栽に囲まれて「管仕房」の額が掲げられた建物がある。 ”管仕”は初めて知る語だが、調べたら”ツツジ”と読み、ツツジ科ツツジ属の常緑・落葉低木の総称とあるので、「管仕房」は境内に2,000株あるツツジを専門に手入れする庭師の住まいだと思うが....。 調べたら、ツツジは”躑躅”と書く。

△本堂前の高い基壇の上に立つ石燈籠、その先に手水舎が建つ

△明治三十二年(1899)造立の装飾性が高い石燈籠/明治二十年(1887)造立の「奉納 百度」と彫られた石柱

△切妻造銅板葺の手水舎....剪定作業の梯子が無造作に立てかけられている

△両妻側は唐破風のように湾曲している

△安政七年(1860)造立の手水鉢....「無垢水」と彫られた手水鉢は川崎市地域文化財

△手水鉢の四脚は精緻な邪鬼の彫り物

△切妻造桟瓦葺の管仕房....境内のツツジを世話をする植木職人の住まいか?

△引き戸の上に「管仕房」の額....”管仕”はツツジと読み、ツツジ科ツツジ属の常緑・落葉低木の総称とある

△本堂の右手に連なる客殿と庫裡

△入母屋造桟瓦葺で裳腰を設けた客殿....境内側に高欄付き縁がある

△本堂に連なって建つ客殿と庫裡

△入母屋造桟瓦葺の庫裡....昭和五十七年(1982)の再建

△万福稲荷堂....令和二年(2020)に移設建立された

△箱棟を乗せた切妻造銅板葺の稲荷堂....堂傍に令和二年(2020)造立の「全ての法(現象)は本質的に一つである」とする萬法一如と彫られた石碑が建つ








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等覚院-(1) (川崎)

2024年08月01日 | 寺社巡り-神奈川

【川崎・宮前区】創建年や縁起、開山が不詳の天台宗の寺院で、寺号は長徳寺。 江戸時代の文化・文政期(1804~1830年)に編纂された「新編武蔵風土記稿」の長尾村の頁に「等覺院」の記録がある。 秘仏本尊の不動明王立像が納められている厨子の前に安置されている木造薬師如来坐像(もと江戸茅場町にある智泉院の本尊、寄木造で玉眼)は、近年の解体修理で室町時代の造立とされた。 宗旨は天台宗で、本尊は不動明王立像。関東三十六不動霊場第6番札所。

★バス停「神木不動」から坂道を上っていくと、石を積み上げた垣の上に寺号標石が建ち、道が左右に分かれている。 右は堂宇境内への参道で、左は一般道で少し先に楼門が見える。 道に面した楼門は仁王門で、すり鉢の底のようなところに建つ。 楼門右手と背後の傾斜地に植栽されたこんもりした緑のツツジ(躑躅)が鮮やかだ。
仁王門は約40年前の明治期の建立だが、古びた佇まいで趣を感じさせる。 四方方の台輪の上に、脚間に十二支の彫刻を配した中備の蟇股があり、自分の干支を見つけて口元がついほころんだ。 両側の金剛柵の金網の中に鎮座する躰に天衣をまとった仁王像を拝観するが、違和感を感じた。 それは通常向かって右側が阿形像なのだが、ここでは何故か逆....この配置を目にしたのは初めてだと思う。

△等覚院への参道....右は本堂境内への参道で左は一般道....奥に仁王門が建つ

△「神木山 等覚院」と彫られた寺号標石....平成二十五年(2013)の造立

△一般道に面して建つ豪壮な楼門の仁王門

△入母屋造銅板葺の仁王門....明治十五年(1882)の建立

△上層に擬宝珠高欄付き回縁....後方の傾斜地の植栽のツツジが見事

△二間の側壁は下層・上層いずれも横羽目板   屋根の入母屋破風の拝に配された鶴の彫刻

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手目と三手目が尾垂木の三手先、中備は蟇股....上層の正面と背面は中央に桟唐戸、両側に連子窓を配す

△回縁を支える腰組は三手先....腰組間の台輪の上に蟇股を配す

△木鼻は角は唐獅子で真ん中は象

△台輪上の蟇股の脚間に十二支の彫刻を配している

△仁王門の両側の金剛柵の奥に仁王像が鎮座

△天衣を纏った仁王像は左に阿形、右に吽形....一般に阿形は右側に鎮座するが、ここでは何故か逆だ

△戸口の通路側一部に金網がなく、そこから見上げた仁王像

△楼門の戸口の2枚の天井絵は迦陵頻伽

△迦陵頻伽は上半身が人間で、下半身が鳥という仏教における想像上の生物

★仁王門の周りには絵馬堂が建ち、数体の石仏が鎮座し、一基の石燈籠が佇んでいる。 また、仁王門の背面には白砂が敷かれていて、その中に石組が配されているのでまるで小さな枯山水庭園のようだ....そうなのかな? 仁王門の戸口に入ると、天井に鮮やかな2枚の飛天のような絵が描かれている。 後で調べて知ったのだが、”迦陵頻伽”という仏教における想像上の生物だそうで、上半身が人間、下半身が鳥というお姿だ。

△仁王門右側の植栽傍に鎮座する三基の石造物....奥の傾斜地に植栽されたツツジと高台に建つ庫裡....直裁前の白砂と石組は枯山水庭園か?

△右手に鎮座する石造物は巡拝塔(左端)と二基の石仏....巡拝塔は昭和五年(1930)の造立で、「四国・西國・秩父・坂東の参拝記念塔」と彫られている

△駒型青面金剛庚申塔(日月瑞雲、3猿).....正徳四年(1714)の造立とみられる/舟型石仏は観音菩薩とみられる....造立年は建長三年(1251)か?

△二王門の左手に建つ絵馬堂と石燈籠

△寄棟造銅板葺の絵馬堂....平成六年(1994)の再建で、「冥顕」(冥界と顕界)の額が掲げられている

△吹き放ちの造りで、絵馬を掛ける壁の三面と梁の上に額絵馬が掲げられている

△延寶九年(1681)造立の重厚な石燈籠   絵馬堂の脇に佇む「不動尊」と彫られた石仏

△「つつじ寺」と呼ばれる等覚院の境内に咲き誇るツツジ群(NETから拝借)












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東漸寺-(2) (横須賀)

2024年07月01日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・横須賀市】本堂には寛正三年(1462)に造立された日金地蔵と呼ばれる木造地蔵菩薩半跏像が安置されている。 日金地蔵はもと鎌倉雪ノ下にあった源頼朝ゆかりの松源寺の本尊だったが、明治時代の神仏分離令により廃寺となった後、鎌倉長谷寺に移された。 その後幾つかの寺院を転々とし、昭和の初めころに横須賀東漸寺に安置されたようだ。

★本堂境内には他に堂宇らしきものはなく、鐘楼堂の基壇、本堂と社務所の間の塀に囲まれた御堂、簡素で小さな地蔵堂(?)、それに稲荷社があるだけだ。 本堂前に朱塗りの鳥居を構えた稲荷社は、神仏混淆時代の面影をとどめていて奇妙なコントラストをなしている。 約8年振りの再訪だが、 建て替えのため鐘楼堂が取り払われていて、梵鐘がブルーシートに包まれて天水桶傍に置かれている。 鐘楼堂の基壇の左隣に左手で幼児を抱く水子観音立像が鎮座しているが、その幼児の姿がまるでお乳を飲んでいるようにみえて微笑ましい....女性のお姿のような観音様に失礼か。 基壇の右手前の小さな地蔵堂に数体の地蔵石仏が鎮座しているが、そのうちの1体は子供を抱く地蔵尊で珍しい。

△堂宇境内の西側から眺めた本堂、稲荷社、東側に水子観音と鐘楼堂の基壇がある

△境内東側にある鐘楼堂の基壇と鎮座する水子観音像、そして右手に小さな地蔵堂がある

△鐘楼堂が建っていた基壇.....2016年の訪問時は建て直しのため解体していた/本堂前に置かれた梵鐘....昭和四十六年(1971)の鋳造

△解体前の切妻造桟瓦葺の鐘楼堂(NETから拝借)

△水子霊追善のために造立された青銅製水子観音像

△大きな円光を背負い慈悲に満ちた表情の水子観音立像....左手に幼児を抱き、足下の5人の幼児が手を差しだして観音様を見上げている/切妻造りの小さな地蔵堂(と思う)....中に数体の地蔵尊像が鎮座

△地蔵堂の格子壁の中に鎮座する三体の地蔵尊石仏

△左は珍しい幼児を抱く子育地蔵尊像     真ん中は右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵尊像

△格子壁の左前に鎮座する前垂れをし赤い帽子を被る地蔵尊像/右前に鎮座する舟光背型地蔵尊像

△合掌廟....屋根上の宝珠に寺紋をあしらっている/合掌廟の祭壇に鎮座する施無畏印と与願印の印相を結ぶ如来坐像石仏

★境内隅の植栽の前に、燦燦と陽をあびている馬頭観音、宝篋印塔そして五輪塔が並んで鎮座している。 馬頭観音はほとんどが明治期の造立だが、宝篋印塔と五輪塔はいずれもかなり摩滅が進んでいて古そう....江戸期以前のものと思う。 印象に残っているのは本堂の東脇に鎮座している供養塔で、正面に宝珠形に掘り窪めた中に半肉彫りの阿弥陀三尊像、側面に六字名号と梵字が刻まれている。 緻に彫られた阿弥陀如来は施無畏印と与願印を、宝冠をかぶる脇侍の両菩薩は胸前で両手を重ねているが....印相は?

△境内の隅に鎮座する石造物群....馬頭観音、宝篋印塔そして五輪塔

△手前四基中の手前三基はいずれも明治期造立の馬頭観世音....一番奥の板碑形は文字が削り取られ判読不能

△摩滅が進んだ二基の宝篋印塔と四基の五輪塔....一番奥は馬頭観世音

△関東型の宝篋印塔....塔身に輪郭をつけ、基礎の下に反花座を加えている/安政六年(1859)造立の箱型馬頭観世音

△箱型の六字名号石塔             苔生した笠の崩れかけた石燈籠

△本堂東脇に鎮座する供養塔....明治十五年(1882)の造立で、側面に六字名号が刻まれている

△正面の宝珠形に掘り窪められた中に彫られた阿弥陀三尊像、側面に六字名号の刻/施無畏印と与願印を結ぶ阿弥陀如来立像、脇侍の観音菩薩(右)と勢至菩薩像(左)の胸前で両手を重ねた印相は?

△近代的な建築の寺務所....平成十四年(2002)の建築....前庭に石造り五重塔が建つ




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東漸寺-(1) (横須賀)

2024年06月26日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・横須賀市】創建は平安時代末期で、性真和尚を開山として三浦大介義明の五男・義秀(長嶋肥後守(長嶋義秀))が創建したとされる。 三浦義秀は鎌倉時代の仁治元年(1240)に仏門に入り、屋敷跡に寺を建て、正室の戒名「東漸院信誉仰秋」から寺号を東漸寺と名付けたよようだ。 宗旨は浄土宗で、ご本尊は阿弥陀如来像。 鎌倉二十四地蔵尊霊場第19番札所だが、霊場の中で唯一鎌倉市外に位置する。

★衣笠から三崎街道を進んで林に向かうと、御影石で造られた横長の大きな寺号標石、そして山門への石段参道がある。 参道脇に鎮座する六地蔵尊像に迎えられて石段を上る。 山門からさらに堂宇境内への石段が続く。 山門が建つ平場の左右に、笠付角柱型と櫛型の六十六部供養塔が対面して立ちが、櫛型の正面には六字名号が刻まれている。

△門前石段下から眺めた御影石の寺号標石、地蔵堂そして山門....寺号標石は平成七年(1995)の造立

△石段参道脇の切妻造桟瓦葺の地蔵堂....昭和六十一年(1986)の建立で、六地蔵尊像と真ん中に三界萬霊地蔵尊(水子地蔵尊?)坐像が鎮座

△石段参道の中段に建つ山門/ひなびた山門に掲げられた山号「松得山」の扁額....芝・増上寺の75代法主野上運海(誉号:竟譽)の筆による

△切妻造本瓦葺の山門(四脚門)....二軒繁垂木で、屋根の鬼瓦の鳥衾と軒丸瓦に「東」の字があしらわれている

△山門を通して眺めた上の石段と、石段上に見える本堂の屋根

△山門から眺めた石段と平場の左右に対面して供養塔が建つ

△笠付角柱型六十六部供養塔....江戸時代宝暦四年(1754)造立、浄土宗寺院なので上部の半肉彫り仏像は阿弥陀如来 .....正面と側面の字の一部が剥離/櫛型六字名号供養塔....江戸時代享保八年(1723)の造立で、側面に「大乗妙典六十六部供養塔」の刻

△石段を上がって直ぐ左手にある社寺形手水鉢....明治十五年(1882)の造立で、側面に「盥漱」と寺紋(下がり藤の中に四つの四角)が彫られている

★石段を上り詰めると狭いが静かで落ち着いた雰囲気の境内があり、正面に本堂が建つ。 左右に一対の石灯籠が立ち、蘇鉄が葉を広げていて南国の寺院の風情だ。 本堂は両脇間の白壁にそれぞれ2つの花頭窓が配された質素な佇まいだが、中央間の現代風の腰高格子戸のガラスに空や堂前風景が映っていて、古刹のイメージが薄れチト残念。 正面に朱地に緑色で「東漸教林」と揮毫された少し派手気味な扁額が掲げられ、また、向拝の水引虹梁、組物そして身舎に繋がる海老虹梁だけが朱塗りになっていて、何か落ち着かない。

△静かで落ち着いた雰囲気の堂宇境内が広がる....本堂前の左右に石灯籠が佇み、蘇鉄が植えられている

△入母屋造桟瓦葺の本堂

△正面五間で中央間はガラス入り腰高格子戸、二間の両脇間には花頭窓を配す....向拝の水引虹梁、組物そして身舎に繋がる朱塗りの海老虹梁

△向拝は二軒繁垂木....虹梁の木鼻は正面が獅子で側面は象(獏?)

△中央間上の太い梁の上に掲げられた「東漸教林」の扁額

△大棟の瓦に「松得山」の文字があしらわれ、軒丸瓦や樋に「東」を入れている....向拝軒先から鎖樋が寺紋を配した天水桶まで下がっている

△本堂前西側に東面で鎮座する稲荷社

△朱塗りの明神鳥居を構えた稲荷社/流造銅板葺の稲荷社....屋根に千鳥破風を乗せている










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妙光寺 (逗子)

2024年02月26日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・逗子市】室町時代の文明三年(1471)、松岡雅楽助が亡き父母の菩提を弔うため、日蓮上人のお告げで父が掘り起こして祀っていた日蓮坐像を本尊として建立、開山を日圓上人とした。 雅楽助は、鎌倉公方足利持氏の家臣として仕えた父・富永三郎左衛門の次男で、応仁二年(1468)に病死した父(戒名”法久”)に続いて母(戒名”妙光”)も亡くなり、また、長男も夭折した。 富永三郎左衛門は、将軍にしてもらえなかった鎌倉公方足利持氏が第六代将軍足利義教に対して起こした反乱(永享十年(1438)に勃発し10年続いた「永享の乱」)に嫌気が差したため、住んでいた松ヶ岡に閑居。 土着して松岡を名乗って農夫として暮らし、代々名主を勤めた。 宗旨は日蓮宗で、本尊は15世紀中頃に造立とされる日蓮聖人坐像。

★閑静な住宅街を進むと、谷戸のような処に樹林に囲まれて建つ山門に着く。 落ち着いた雰囲気が漂う門前の高い基壇の上に兜巾型の題目碑が参詣者を迎えている。 袖塀前には題目・山号そして寺号が刻まれた櫛型の寺号標石がひっそりと立つ。
山門をくぐると、緑に囲まれ玉砂利が敷かれた境内が広がる。 本堂に向かって延びている切石敷の参道を進んで、まずは本堂へ。 本堂は正面七間で、向拝が三間と広く、向拝屋根の中央一間に小さな唐破風を配しているので、重厚感を感じさせる。 向拝の水引虹梁の上の空間は龍と虎(と思う)の彫刻で埋められ、4本の向拝柱の上部にそれぞれ獅子の木鼻を配している。

△切妻造桟瓦葺で袖塀を設けた山門....「法久山」の扁額が掛けられ、門前に「南無妙法蓮華経」の兜巾型題目碑が立つ

△板扉を備えた四脚門で、本柱に斗栱を乗せた女木....左側の瓦葺袖塀の前に「南無妙法蓮華経 法久山 妙光寺」と刻まれた櫛型寺号標石が立つ

△山門から眺めた緑に包まれた境内....砂利の境内に本堂に続く切石敷の参道

△参道の左手に鐘楼が建つ

△火袋に花頭窓を設けた石燈籠越しに眺めた本堂

△入母屋造桟瓦葺で正面七間の本堂....延宝年間(1673~1681)再建の本堂は、老朽化のため昭和五十一年(1976)に建替

△中央間三間は腰高格子戸、両脇間二間は腰高格子戸と花頭窓

△獅子口を乗せた小さな唐破風を設けた三間の向拝....唐破風の兎毛通は鳳凰彫刻

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備は本蟇股....4本の向拝柱は面取柱で、上部正面に獅子の木鼻、両端の柱には更に象の木鼻を配す

△唐破風の兎毛通しには鳳凰、水引虹梁の上には龍と両側に虎(と思う)の彫刻が施されている

△正面と側面に擬宝珠高欄付き切目縁

△四隅の正面側面各一間の白壁に花頭窓を配し、他間は全て腰高格子戸、正面側面全ての長押の上は連子欄間と白壁の小壁

★境内参道の途中に石造り多層塔が立ち、老木のサルスベリの傍に鐘楼が建つ。 多層塔に近づくと、笠に少し違和感を感じた。 笠の数を数えてみるとなんと十六層もあり、多層塔は奇数につくられるはずなので驚いた。 入母屋造りの鐘楼は二軒繁垂木で、頭貫と木鼻の上に台輪が乗っていて珍しい。 境内の山裾に横穴式納骨窟の「やぐら」があり、その前は一段高くして砂利を敷した平地になっていて墓碑とみられる宝篋印塔などの石造物が立ち並んいる。 石段上の左右に笠に苔を乗せた雪見燈籠が佇んでいるが、雪見燈籠をこのように配置されているのは珍しい。

△本堂に向かって左側の境内に鐘楼と多層石塔が立つ....石塔の初層軸部に仏像の浮彫り、基礎に格狭間が彫られている

△十三重石塔だろうと思ったが、奇数ではなく何故か十六重石塔だ....七層以上は後補かな?/母屋造桟瓦葺の鐘楼....下がる梵鐘は昭和二十七年(1952)の鋳造

△軒廻りは二軒繁垂木....頭貫の上に台輪が乗っている

△鐘楼傍で燃えるように枝を広げたサルスベリ....鐘楼石段下の脇に飾水鉢が置かれている

△境内山裾にある「やぐら(横穴式納骨窟)」の墓前....左右に苔生した笠を乗せた雪見燈籠が佇む

△やぐらに向かって左側に佇む笠に苔を乗せた雪見燈籠/やぐらに向かって右側に丸みを帯びた石燈籠と後方に笠に苔を乗せた雪見燈籠

△宝篋印塔越しに眺めたやぐら/やぐら内に安置されている小さな六基の五輪塔と中央に宝篋印塔....奥の立方体は石棺のように見えるが….

△やぐらの前に建ち並ぶ墓碑とみられる宝篋印塔などの石造物群

△切妻破風の玄関で切妻造桟瓦葺の寺務所



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岩殿寺-(2) (逗子)

2023年07月01日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・逗子市】平安時代の正暦元年(990)に花山法皇、平安末期の承安四年(1174)に後白河法皇が岩殿寺に行幸された。 鎌倉時代、源頼朝が篤く信仰して何度も参詣し、朱印地(寺領)を寄進したとされる。 承元三年(1209)には鎌倉幕府第3代将軍源実朝が参詣。 その後衰退するが、江戸時代の天正十九年(1591)に徳川家康によって再興された。

■境内参道は途中から石段で、石段が樹林の中に消えている。 石段を上っていくと、左手の木立ちの中に御堂と鐘楼が建ち、鐘楼には縦帯の位置に「吉祥の鐘」と刻された梵鐘が下がる。
石段を上りつめると樹林に囲まれた平場があり、観音堂、熊野権現社、奥の院岩殿観音などが鎮座。 観音堂は約300年前の再建で、水引虹梁と丸桁の間一面に見事な龍の彫刻が施されている。

△観音堂への石段参道の途中に立つ重厚な石燈籠と「観世音」の石塔

△入母屋造桟瓦葺の鐘楼

△軒廻りは二軒繁垂木....内法貫の外側に獅子の木鼻

△梵鐘の縦帯の位置に「吉祥の鐘」の刻....内法貫の中央に客間に鳳凰の彫刻を配した本蟇股が乗る/少し上がった処から見下ろした鐘楼

△鐘楼の脇に建つ露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺の御堂....急峻な渡り廊下はこの御堂に繋がっているようだ

△石段参道を上りつめた樹林の中に建つ桁行三間・梁間五間の観音堂....中世以来の伝統的な密教本堂形式をとる

△寄棟造銅板葺の観音堂....享保十三年(1728)時の住持・萬英和尚により再建

△向拝の水引虹梁と丸桁の間一面に龍の彫刻、虹梁の外側に象と獅子の木鼻....正面の中央間は桟唐戸(内側に腰高格子戸)、両脇間は舞良戸

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手先で柱間に詰組

△観音堂の左手の山裾に歴代住持の墓碑とみられる無縫塔や石造り宝塔などが建ち並ぶ

■観音堂に向かって右側に小説家・泉鏡花が寄進した池(放生池か?)があり、朱色の欄干を設けた石造りの反橋が架かっている。 反橋の先に、崖を背にして仏教の守護神・熊野権現社が鎮座。 「奥の院岩殿観音」の岩窟内には、行基菩薩が岩に彫ったとされる十一面観音尊像が鎮座していると思うが拝観を失念....行基菩薩様に合掌!

△熊野権現社の傍から小説家・泉鏡花が寄進した池に架かる石造りの反橋越しに眺めた観音堂

△堂前に佇む一対の石燈籠....火袋に花頭窓がある....奥の山側に鎮座するのは熊野権現社/金属製手摺りを設けた熊野権現社の参道....手前は小説家泉鏡花寄進の池(放生池?)に架かる石造り反橋

△入母屋造銅板葺の熊野権現社

△崖を掘り窪めて造営された奥の院岩殿観音....院前に佇む装飾性の高い一対の石燈籠/火袋に獅子、基礎に龍の彫刻が施されている....中台の周りにも彫刻

△行基菩薩が岩窟内に十一面観音を彫ったという奥の院岩殿観音....鎮座している観音像の拝観を失念

△岩窟に鎮座する稲荷明神社と道案内にかかわる猿田彦神社

△二基の石祠が鎮座....左が稲荷明神社、右が猿田彦神社

△大蛇が棲む?「蛇や蔵」....古来から大蛇が棲息し、人に危害を加えるとされる
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岩殿寺-(1) (逗子)

2023年06月25日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・逗子市】奈良時代の養老五年(721)、奈良長谷寺の開山徳道上人及び渡来人の高僧行基菩薩を開基として創建され、行基菩薩が岩に十一面観音を感じて石像を彫って安置し、岩殿寺と号した。 往時は七堂伽藍を備えていた寺院だった。
寺伝では、徳道上人がこの地の岩に十一面観音を感じ、熊野権現化身の老翁に逢って霊地であることを知り、仏教の鎮守として熊野権現を祀った。 数年後、この地を訪れた行基菩薩が、十一面観音尊像を岩に彫り、岩窟が自然の殿堂のようであったので「岩殿寺」としたとされる。 宗旨は曹洞宗で、本尊は十一面観世音菩薩立像。坂東三十三観音霊場第二番札所。

■緩やかな坂道の参道を進むと、千社札がびっしりと貼られた古びた山門に着く。 「海雲山」の扁額が掛かる山門をくぐると、山の傾斜地を利用した境内が広がり、正面に境内参道、直ぐ左手に納経所を兼ねた本堂がある。 本堂の境内には妻入・平入・平入の3棟の入母屋造桟瓦葺の御堂が一直線に繋がって建ち、真ん中の御堂だけ起り屋根になっている。

△落ち着いた佇まいの門前....山門左右の瓦葺袖塀に通用口

△切妻造桟瓦葺の山門(四脚門)....木鼻や礎盤など禅宗様の造りで、瓦屋根の袖塀に通用口がある

△「海雲山」の扁額が掲げられている

△山門の板扉に「笹竜胆」の寺紋、植物系の装飾が施された虹梁と木鼻/板扉に配された浮彫り寺紋の「笹竜胆紋」

△山門を入った直ぐ左手に納経所への石段

△石段を上がった参道から眺めた納経所....「岩殿寺」の扁額が掲げられている

△入母屋造桟瓦葺で妻入の納経所....妻側に大きな銅板葺(と思う)の庇を設けた向拝....向拝脇に雪見燈籠が佇む

△傾斜地に一直線に連なる妻入、平入、平入の3棟の入母屋造桟瓦葺の御堂(本堂)....真ん中の建物は起り屋根

■本堂後方に屋根付きの急峻な渡り廊下があり、高台に建つ鐘楼と御堂に向かって延びている。 本堂の境内に七重石塔を従え宝珠光の光背を背負った十一面の慈母観音像と慈父観音像とが並んで鎮座しているが、慈父観音像を拝観する多分初めてだ。 本堂境内から参道を挟んだ向かい側に六角堂が建つ。 腰高格子戸の正面に「利生堂」の扁額が掲げられ、正面両脇の白壁に設けられた大きな花頭窓は趣がある。

△最後部の建物から高台に建つ鐘楼まで急峻な屋根付き渡り廊下がある

△急峻な渡り廊下が高台に建つ御堂と鐘楼に繋がっている/本堂境内に宝珠光の光背を背負って鎮座する慈母観音像と慈父観音像....脇に九重石塔が立つ

△境内参道の脇に建つ納経所への切妻造銅板葺の門....薬医門風の小さな門/納経所への門は薬医門風の造り....右は観音堂への石段参道

△参道を挟んだ向かい側の一段高い処に建つ八角堂/八角堂正面の長押の上に「利生堂」の扁額が掲げられている

△正面に腰高格子戸、両脇に花頭窓を配す....堂前に「南無観世音菩薩」の幟が立つ

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組(中備)

△露盤宝珠を乗せた桟瓦葺の八角堂

△本堂最後部の入母屋造桟瓦葺の御堂....向拝の位置に部屋を設け、庇を長く伸ばしている....拝は梅鉢懸魚で妻飾は白壁の素式

△最後部の仏堂の参道を挟んだ向かい側に鎮座する地蔵尊像(と思う)


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法性寺-(2) (逗子)

2022年05月07日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・逗子市】法難を逃れた日蓮聖人は、これを山王権現の加護によるものとし、弟子の日朗や朗慶たちに此の地に一寺を建てての報恩を託した。 日蓮聖人の志を継いだのは日朗上人(日蓮六老僧の一人)と朗慶上人だが、日朗上人は元応二年(1320)に入寂、翌年の元亨元年(1321)、朗慶上人によって法性寺が建立された。
南北朝時代の貞和元年(興国六年/1345)に勅命で、京都に移転。江戸時代の延宝三年(1675)そして元禄四年(1691)の2度の火災に遭ったが、元禄六年(1693)に現在地へ移転した。

●左手に岩肌の崖が迫る芝生境内の奥に、奥之院の本堂である祖師堂が建つ。 祖師堂の直ぐ左手の岩崖に、「松葉ヶ谷法難」の際に日蓮聖人が避難したとされる岩窟(法窟)がある。 岩窟は観音開きの腰高格子戸で塞がれているが、格子の間から中を覗くと日蓮聖人供養塔の五輪塔が安置されている。 各輪に「妙法蓮華経」の一字が刻まれているようだが、笠石の火輪の「蓮」しか確認できない。

△奥之院の境内....祖師堂、日朗菩薩御廟所、日蓮の法岩そして山王大権現がある....案内板に「池上本門寺・比企谷妙本寺両山の奥之院と称す」とある

△日朗菩薩御廟所越しに眺めた奥之院本堂の祖師堂

△入母屋造桟瓦葺の祖師堂....大正十三年(1924)の再建で、身舎に銅板葺の庇(裳腰)を設けている

△祖師堂には法華経勧持品第13を読経する等身大の日蓮聖人坐像を安置

△「両山奥之院」の扁額が掛かる向拝....水引虹梁上の龍、木鼻の獅子と象の彫刻いずれも素晴らしい

△正面の中央間は腰高格子戸、脇間は舞良戸....正面に擬宝珠高欄付き切目縁/床下の亀腹

△祖師堂に向かって左側の岩山の崖に日蓮避難の岩窟(法窟)がある

△観音開きの腰高格子戸の中が日蓮避難の岩窟(法窟)....「松葉ヶ谷法難」の際に日蓮が避難した場所/岩窟内に安置された日蓮聖人供養塔の五輪塔....各輪に題目が刻まれているようだがよく見えない(笠石は「蓮」のようだ)

●祖師堂の手前左に「山王大権現」の額が掲げられた石造り明神鳥居が立ち、直ぐ奥に急峻な石段がある。 石段を上っていくと、裏山の山頂に山王権現を祀る祠と五重層塔の多宝塔が鎮座している。 唐破風を設けた石造りの小さな祠から両手で笏を持つ山王権現石像が顔をだし、法性寺を静かに見守っている。 山頂からの景色は素晴らしく、逗子の街並みが遠望できる。

△「山王大権現」の額が掛かる石造明神鳥居....右手に朗慶上人の石碑が立つ.....鳥居の奥に裏山への急峻な石段がある

△「山王大権現」と彫られた明神鳥居の額/亀甲積基壇の上に立つ「開山越中阿闍梨朗慶上人」と刻まれた石碑

△裏山の山頂から望む逗子の街の遠景....手前の屋根は左祖師堂、右は日朗菩薩御廟所

△裏山の頂上に鎮座する法性寺鎮守の山王権現祠と多宝塔

△四脚を備えた形態の多宝塔(五重層塔)....基壇に刻まれた説明では「万世を貫ぬき永遠不磨の妙法の宝果を具現したもの」とある/初層の周囲に擬宝珠高欄、全ての笠の軒下に垂木を設けている....各層の軸部の四方は菱狭間になっている

△多宝塔と並んで鎮座する山王権現を祀る祠

唐破風を設けた石造り山王権現の祠/祠の中に鎮座する笏を持つ権現様石像

△奥之院にある墓所....手前の五輪塔が朗慶聖人墓碑(と思う)

△住持の墓碑は一般に無縫塔が多いが、法性寺では五輪塔


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法性寺-(1) (逗子)

2022年05月01日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・逗子市】鎌倉時代の元亨元年(1321)、日蓮宗の開祖・日蓮聖人の弟子・朗慶上人によって創建された。 鎌倉葉ヶ谷に草庵を構えて布教活動を行っていた日蓮聖人は、鎌倉時代文応元年(1260)に「立正安国論」を鎌倉幕府五代執権北条時頼に献じたことがきっかけで浄土教信者らの暴徒により草庵が襲撃され焼打に遭った(松葉ヶ谷法難)。
暴徒に襲われる前、日蓮聖人の前に3匹の白猿が現れ、此の地の岩窟(祖師堂横)に隠れて難を逃れたと伝わる。 宗旨は日蓮宗で、本尊は一塔両尊(題目塔・釈迦多宝如来)。

●門前の道沿いに「日蓮大聖人焼打御避難ノ霊跡」と刻まれた石柱が立つ。 参道の入り口に高麗門形式の山門が建ち、掲げられた「猿畠山」の扁額を護る姿のようにあしらわれた2匹の白猿が参詣者を迎えてくれる。
山門をくぐって暫く参道を進むと、植栽に隠れるように建つ堂宇に着く。 白い門柱から本堂境内に入ると、民家風の雰囲気が漂う佇まいの建物が建つ。 建物は幾つかの堂宇を一塊にしたような造りで、日蓮聖人ゆかりの寺院にしては寂しい気持ちに。 門柱の正面の入母屋破風の玄関が本堂の向拝と思うが、水引虹梁の上に配された精緻な彫刻の2頭の龍がまるで生きているようで目を奪われた。 向拝柱の木鼻の耳の大きな獅子と持送の猿の彫刻も素晴らしい。

△参道入り口の道沿いに立つ「日蓮大聖人焼打御避難ノ霊跡」と刻まれた大正十年(1921)造立の標石/参道に建つ簡素な山門....門前の寺号標石に七字の題目が彫られている

△山門左右に瓦屋根を乗せた袖塀....右側の袖塀には直角方向に切妻造桟瓦葺の板張りの塀を設けている

△切妻造桟瓦葺の山門....控え柱上に切妻屋根を乗せた高麗門形式

△「猿畠山」の扁額が掲げられ、額の両側に日蓮を導いた白猿があしらわれている

△入母屋造桟瓦葺の建物は本堂と庫裡(と思う)の一体構造....繋がった左隣の建物にかけて長い庇が設けられ、明かり障子窓が設けられているようだ

△小さな「法性寺」の表札がある門柱の間から眺めた本堂側

△本堂向拝に入母屋破風の玄関、奥の庫裡に唐破風の玄関....向拝右側のみに天水桶が置かれている

△庫裡の玄関の唐破風は獅子口を乗せ、拝に兎毛通しはなく、妻飾は素式で大瓶束を配す/本堂向拝の玄関の入母屋破風は獅子口を乗せ、拝の懸魚に鳳凰の陽刻を配し、妻飾は豕扠首(と思う)

△向拝の扉は中央がガラス張り引戸、左右には格子を入れた桟唐戸風の戸....引き戸の上に「日朗菩薩墳墓霊場」の扁額が掲げられ、向拝右側の白壁に花頭窓がある

△彫刻が彫られた水引虹梁の上に精緻な2頭の龍の彫刻....木鼻(大きな耳の獅子)と持送(猿?)の彫刻も見事....天井は格天井

●本堂境内右脇の急坂の参道を進んで奥之院に向かう。 鬱蒼と繁る樹林の中に続く参道を上りつめると、彩色され子猿を抱いた白猿の石像が迎えてくれる。 そこから石階を上がると祖師堂、日朗菩薩御廟所そして法窟がある芝生境内の奥之院だ。
正面に日蓮上人坐像を祀る祖師堂、手前右手に四面堂である日朗菩薩御廟所が建ち、四面堂内に日朗上人の宝篋印塔形墓石が納められている。 宝篋印塔は約700年前の鎌倉末期の造立で、塔身に「七字の題目」、基礎に「南無日朗菩薩」の銘が彫られている。 宝篋印塔は、笠が通常と異なる造りで、露盤(六段)がなく相輪ではなく大きな宝珠が乗っていて珍しい。

△裏山の奥之院への石段途中に建つ切妻造銅板葺の手水舎

△石段途中の手水舎から眺めた入り組んだ瓦屋根の堂宇群

△奥之院への参道途中の基壇上に鎮座する切妻造銅板葺の木造の祠/基壇上に鎮座する大きな唐破風を設けた入母屋造の石造り祠

△奥之院境内への石段下に置かれた彩色され子猿を抱いた白猿石像....石段の左手に建つ手水舎/奥之院への石段途中に建つ切妻造銅板葺の手水舎

△奥之院境内入口の切石敷の参道....右の建物は日朗菩薩御廟所

△基壇上に建つ真壁羽目板造りの日朗菩薩御廟所....側面二間の一間に連子窓がある

△露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺で真壁造りの日朗菩薩御廟所....正面に「日朗菩薩墳墓霊場」の扁額が掲げられている

△正面は三間で一軒繁垂木で軒天井がある、組物はなく、台輪の上に3基の板蟇股がある(中央間は蟇股形の小壁の中に本蟇股?)....中央間は格子を入れた桟唐戸風、脇間は内法貫と上の腰貫の間に花頭窓

△日朗菩薩御廟(四面堂と呼ばれる)内に日蓮六老僧の一人である日朗上人の墓碑を安置/御廟内の日朗上人の宝篋印塔形墓石....鎌倉末期元応二年(1320)造立で、塔身に七字の題目、輪郭を巻いた基礎に「南無日朗菩薩」の銘....笠に六段の露盤がなく、相輪ではなく宝珠を乗せている



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長福寺 (横浜)

2021年11月01日 | 寺社巡り-神奈川

【横浜・港北区】境内石碑から、戦国時代末期の文禄元年(1592)の頃、西国の落武者「綱島十八騎」の中の首魁・児島賀典(後佐々木に改姓)が出家して僧となり、浄土真宗綱島山長福寺を開山したと伝えている。
江戸初期の寛永元年(1624)、落雷により堂宇や文書を全て焼失したが、第二世言了により中興され本願寺の直末寺となった。 第十世典海の代の江戸時代天保五年(1834)、再び火災に罹災したが、4年後の天保九年(1838)に堂宇が再建され今日に至る。 寺には、法然上人の御親筆(直筆)の「六字名号(南無阿弥陀仏の文字)」が代々受け継がれているが、二度の火災による焼失を奇跡的に免れたという。 宗旨は浄土真宗(東本願寺派)で、本尊は阿弥陀如来立像。

◆東横線網島駅から網島街道を進む。 確か三叉路の路傍に道祖神が鎮座するところを通り、東横線の高架下をくぐると高いコンクリート擁壁の上に白壁の築地塀で囲まれた長福寺がある。 擁壁に張り付くように取り付けられた階段を上ると、直ぐ正面に山門が建ち、両側に白壁の袖塀がハの字に設けられている。 門前があまりにも狭く、外から山門全体の撮影ができず閉口。
山門の連子入りの扉が閉じられているので、袖瓶に設けられた通用口から境内に入り、中から山門を撮影した。 山門の直ぐ脇の少し高めの基壇の上に、軒を大きく広げた鐘楼が建つ。 境内参道脇に建つ手水舎をみて驚いた....防犯カメラを取り付けた防犯灯のポールが屋根を貫いているのだ。 手水舎の方が古くからあると思うので、防犯灯のポールを立てる位置を間違えたのかな?
墓所に向かう本堂傍の参道に、蓮如上人像と菅笠を深く被った親鸞聖人修行像が並んで鎮座している。 境内の西側の樹林の中に、聖徳太子像を祀る太子堂がひっそりと建っている。 本堂手前の右手に金属柵で囲まれた坪庭があり、形の異なる3基の石燈籠が佇んでいる。 1つは五重の塔燈籠だ。 拝観後、防犯灯のポールが屋根を貫いている理由をあれこれ想像しながら帰路に。

参道脇の覆屋に鎮座する道祖神/自然石に「道祖神」と彫られている陽石

△高いコンクリート擁壁の上に白壁の築地塀があり、山門と鐘楼が少しだけ見える

△階段を上ると直ぐ正面に山門が建ち、ハの字に設けられた袖塀は白壁の築地塀

△門前が狭く、正面から山門全体の撮影ができない....袖塀である築地塀に通用口がある/扉は框に辻金具や飾金具を施した連子入り桟唐戸

△堂宇境内から見た切妻造銅板葺の山門

△山門の直ぐ左脇の高い基壇のに鐘楼が建つ.....手前は手水舎

△入母屋造銅板葺の鐘楼....六字名号が刻まれた梵鐘が下がる

△切妻造銅板葺の手水舎....防犯カメラを取り付た防犯灯のポ-ルが屋根を貫いている/3つ爪の龍の水口がある手水鉢は文久三年(1863)の創建で、平成五年(1993)に改修

△山門から眺めた境内

△入母屋造銅板葺の本堂....天保九年(1838)頃の建立で、柱は欅

△軒廻りは二軒疎垂木、組物は舟肘木(と思う)....正面の内法長押の上は全て小壁

△身舎柱と向拝柱を繋ぐ見事な海老虹梁....身舎周囲に擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす/堂前に立つ青銅製燈籠は平成六年(1994)の造立....脇に寺号を入れた蓮花形の天水桶

△向拝の水引虹梁の上の龍の彫刻と木鼻の精緻な龍(横から体をまげて正面を向いている)の彫刻はいずれも見事

△本堂の左手の樹林の中に建つ太子堂と墓所への参道脇に鎮座する蓮如上人像と親鸞聖人像

△境内参道脇で墓参者を見守る蓮如上人像(左)と菅笠を深く被った親鸞聖人修行像(右)が並んで鎮座

△樹林の中に建つ太子堂....本堂と同じ天保九年(1838)頃の建立か....佐々木賀典法師が西国で戦いに敗れ落ち延びるとき背負ってきた聖徳太子像を祀る

△殆んど宝形造りに近い小棟造銅板葺の太子堂....向拝水引虹梁の上に獅子の彫刻を配す

△中央間に腰高格子戸、脇間は舞良戸風板壁の羽目小壁/太子堂前に佇む石燈籠

△本堂前右手の柵に囲まれた坪庭に3基の石造物が佇む

△坪庭に佇む五重の塔燈籠....笠の軒下に垂木を施している/火袋や中台に彫刻を施している石燈籠/庭燈籠として造立されたとみられるる石燈籠....円盤型の中台や変わった形の火窓の火袋など装飾性がある

△本堂右手に連なって建つ庫裏/庫裡前の坪庭の小さな池に佇む装飾性の高い雪見燈籠
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陽林寺 (横浜)

2021年10月25日 | 寺社巡り-神奈川

【横浜・港北区】戦国時代の大永年間(1521~1527)、綱島に移り住んだ城田氏の初代兵庫之守弥三郎(藤原秀忠と名乗る歴代武士)が一族の繁栄と安全を祈願して結んだ草庵が陽林寺の始まりと伝える。 草庵には城田氏の守本尊の十一面観世音菩薩が祀られたとされる。 歴代亡僧は不詳だが、代々の城田家一族が約4百年間追善供養を行って御堂を守ってきた。
昭和二年(1927)、それまで無住であったが尼僧の東秀全が開山となって山号をとり、水月山陽林庵と称した。 その後の昭和五十年(1975)、第二世住持東喆臣により寺域が整備され、本堂を再建して陽林寺となり現在に至る。 宗旨は曹洞宗で、本尊は十一面観世音菩薩像。 本尊は秘仏であるため、代わりに釈迦牟尼如来像を本堂須弥壇に安置。 准秩父三十四ヶ所観音霊場の第二十五番札所。

◆門前に着くが山門や門柱が見当たらない。 巨石で固められた斜面に紅葉が覆いかぶさる急峻な石造りの階があり、左側の傾斜地に自然石を用いて造られた横長の大きな寺号標石があるが、周りの石と同化しているのと、その上にある鮮やかに彩色された霊場標石に目を奪われて見逃しそうだ。 霊場標石には火焔が描かれた石板の光背を背負う十一面観世音菩薩像が漫画チックに描かれ、「准秩父廿五番霊場」と刻まれている。
石段を上りつめると、右側の傾斜地に巨大な銀杏の古木が聳え、狭い境内の正面に本堂が建つ。 本堂は向拝がない簡素で造りで、腰高格子戸と脇間の花頭窓にはシャッター式の雨戸が設けられていて驚いた。 境内の左隅に2体の舟光背型石仏と2基の供養塔が鎮座している。 石仏2体はいずれも江戸初期の造立で、合掌する地蔵尊と、左手に開蓮で右手が与願印の聖観音像が厚肉彫りされている。 供養塔は、一基は明治期の造立の上に子を抱く観音像を乗せた巡拝供養塔で、西國・秩父・坂東が刻まれているので観音霊場百か所巡拝完結碑と思う。 もう一基は江戸末期造立の読誦塔とみられる供養塔で、「大乗妙典 二千三百五十部供養塔」と刻まれている。
山号「水月山」の由来は境内の池に映る月にちなむらしいが、探したが池は見つけられなかった。

門前から眺めた急峻な階と紅葉に覆われた境内....といっても山門や門柱がない

△階の左側傾斜地にある自然石で造られた横長の寺号標石

△寺号標石の傍に佇む錫杖と如意宝珠を持つ丸彫りの地蔵石仏/十一面観世音菩薩像が描かれ「准秩父廿五番霊場」の刻がある霊場標石....火焔が描かれた石板の光背を背負う

△右手の墓所入口の傾斜地に鎮座する宝剣をもって佇む不動明王像/傾斜地に聳える銀杏の落ち葉の中に佇む天保十一年(1840)造立の石碑....銘文の最初に天保十年と刻まれているのでこの年に起こった何かを刻んでいるようだ

△境内の傾斜地に聳える巨大な銀杏の古木/階の途中から眺めた本堂....向拝がない簡素な造り

△本堂正面は白い小壁と羽目板、腰高格子戸と花頭窓で構成された簡素な造り....格子戸と花頭窓にシャッター式の雨戸が設けられている

△入母屋造銅板葺の本堂....軒廻りは二軒疎垂木で組物は舟肘木、小壁に「陽林寺」の扁額

△扉は腰高格子戸で上に連子欄間があり、小さな脇間に菱格子入りの花頭窓

△本堂の右前に建つ鬼板と留蓋瓦を乗せた唐破風屋根の玄関....兎毛通は猪目懸魚、妻飾は素式に大瓶束を配している(と思う)

△唐破風屋根の玄関の右奥に寄棟造桟瓦葺の御堂が連なって建つ

△唐破風の木鼻のある頭貫の上中央に装飾性のある透蟇股を配す/玄関と隣の御堂の間に佇む自然石を利用した石燈籠

△本堂に連なって右側に建つ庫裡

△広くない境内の左隅に鎮座する2体の石仏と2基の供養石塔

△寛文二年((1662)造立の合掌する舟光背型地蔵尊像/寛文三年(1663)造立の舟光背型聖観音菩薩像....右手が与願印で左手に開蓮を持つ

△明治二十四年(1891)造立で上部に子を抱く観音像が乗る巡拝供養塔....西國・秩父・坂東が刻まれているので観音霊場百か所巡拝完結碑と思う....宝冠に化仏が彫られている/慶応四年(1868)造立の笠付供養塔(読誦塔か)....中央に「大乗妙典 二千三百五十部供養塔」と刻まれている

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大善寺 (横須賀)

2021年01月11日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・横須賀市】奈良時代の天平元年(729)、諸国行脚中の僧・行基が不動堂の別当として創建したと伝える。 奈良吉野山から分祀された金峯蔵王権現を祀って古代信仰の修験道場とし、また自作の不動明王を祀った際、不動堂の別当として大善寺が建立された。
平安時代の康平六年(1063)、源頼義から「前九年の役」(永承六年(1051)~康平五年(1062)の戦役)の戦功により三浦の地を与えられた村岡為通(三浦氏の祖)が、この地に衣笠城を築城してから、大善寺は三浦氏の学問、仏教信仰の中心的な役割を果たしてきた。 大善寺は正式には「金峯山不動院大善寺」と称し、明治維新までは不動堂の別当寺だった。
現在、蔵王権社と不動堂はいずれも残っていないが、不動寺本尊の不動明王像が大善寺の本尊として祀られている。 宗旨は曹洞宗で、本尊は不動明王(脇侍に矜羯羅童子と制咜迦童子)。 本尊の脇に阿弥陀三尊が祀られ、中尊と脇侍・観音菩薩は平安末期の造立とされる(脇侍・勢至菩薩は江戸前期の補造)。

◆衣笠城址に向かう途中、大善寺に立ち寄った。 道に面して切込はぎ積の高い石垣があり、石垣の上に庚申塔などの石造物が陽を浴びて並んでいる。 石垣の間に急な石段があり、石段下に「箭執不動尊」と刻まれた小さな標石が立つ。
石段を上がるとそこは中段の境内で、覆屋にピンクの前垂れをした11体の地蔵石仏が鎮座、その後方に墓所が広がる。 さらに城壁のような高い石垣がL字状にあり、石段の上に本堂が見える。
石垣には二段の雛壇があり、左側面の雛壇に巡拝塔の六十六部供養碑と2体の地藏石仏が鎮座し、正面石段の両側の二段の雛壇には4基の石燈籠が立っている。 正面の下の雛壇に立つ江戸中期造立の石燈籠を見て驚いた。 一般に、笠の上には「請花・宝珠」が乗っているのだが、この石燈籠の笠には、方形状の2つの石が積み重ねられている。 初めてみる珍しい形の宝珠(?)だ。 上の雛壇には、火袋が消失した石灯籠と壊れた石燈籠がある。 壊れた石燈籠は、基礎の上に中台と笠と請花が積み重ねられている。

△衣笠城址への参道脇に建つ大善寺....石段左側の高い石垣の上に十数基の庚申塔が鎮座

△切込はぎ積の石垣の上に鎮座する庚申塔越しに眺めた本堂

△石段下に「箭執不動尊」と刻まれた小さな標石が立つ/石段右側の石垣にある石造物....石燈籠や石祠のようだ

△中段の境内に建つ覆屋に鎮座する地蔵尊石仏

△中央に蓮華座に鎮座する前掛けをした地蔵坐像/右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵尊坐像

△地蔵石仏が鎮座する中段の境内から眺めた本堂....石垣の雛壇に石仏や石燈籠などがある

△左側の石垣の雛壇に鎮座する六十六部供養碑と2基の舟光背形石仏....供養碑には「大乗妙典廻國」の刻、石仏は像容から地蔵尊像のようだ

△正面石垣の石段両側の二段の雛壇に4基の石燈籠が立つ

△下の雛壇に立つ2基の石燈籠....宝暦七年(1757)の造立で、笠の上に異形の請花と宝珠が乗っている

△上の雛壇に立つ壊れた石燈籠

△火袋が消失し、粗い造りの竿の石燈籠/壊れた石燈籠....基礎の上に中台、笠、請花が積み重ねられている

◆石段を上りつめると、銀杏の巨木があり直ぐ正面に本堂が建ち、向拝の床に鎮座する小さな狛犬が参詣者を迎えている。 台座の銘から天明八年(1788)の造立とみられるが、一般的な阿形吽形の位置とは逆で、向かって右に阿形像ではなく吽形像が鎮座。 狛犬が互いに睨み合っている姿なので、もしかしたら置き間違いでは? 
本堂は簡素な造りで、正面と側面はいずれも全て引き戸の腰高格子戸になっているので、古民家を思わせる雰囲気だ。 広くない大善寺の境内は、衣笠城の二の丸が建っていた所らしく、切込はぎ積のしっかりとした造りの石垣がその面影を感じさせる。

△石段途中から見上げた境内の本堂、垂乳根のある銀杏が聳え、傍らに石燈籠が立つ

△切妻造板葺の手水舎....手水鉢に漱盤と彫られ、柱に「嗽盤堂」とある

△入母屋造本瓦葺風銅板葺の本堂、手前に切妻造板葺の手水舎....本堂は昭和十年(1935)の再建

△本堂の軒廻りは一軒繁垂木で組物は舟肘木....側面五間は全て引き戸の腰高格子戸....正面と側面の一部に切目縁がある

△大棟端に鬼板、拝が無く、妻飾は羽目板で格子窓が設けられている/古井戸越しに眺めた本堂....正面五間の脇間は引き戸の腰高格子戸

△「太聖殿」の扁額が掲げられ、鰐口が下がる広い中央間は舞良戸と腰高格子戸

△大善寺は衣笠城の二之丸跡に鎮座している

△向拝に鎮座する狛犬....通常は向かって右が阿形だが、逆に鎮座している....台座に天明八年の銘があるので天明八年(1788)造立とみられる/向かって右の吽形の狛犬







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天嶽院-(2) (藤沢)

2020年06月17日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・藤沢市】江戸初期の天正十九年(1591)、徳川家康から三十石の朱印地を賜った。 江戸末期の安政二年(1855)、再び火災に遭って七堂伽藍が灰燼に帰したが、水戸光圀の寄進と伝わる総門(現山門)だけが焼失を逃れた。
昭和五十一年(1976)から伽藍復興に着手され、二十年余を経て平成十年(1998)に室町時代の様式にて伽藍を復興、現在に至る。

切石敷の参道を進んで中雀門に....左右に白壁の築地塀のような回廊を設けた中雀門を通して本堂が見える。 中雀門の真ん中に常香炉が置かれ、香炉に乗っている鞠を踏む唐獅子と、左右の取っ手部に取り付けられた阿形吽形の龍が参拝者を迎えてくれる。 ここで参拝後、中雀門から砂利が敷かれ回向柱が立つ桝形の境内を眺めると、正面に中央間に桟唐戸、両脇間に腰高格子戸と格子窓を配した白壁のシンプルな本堂が建ち、本堂の右端に唐破風の玄関を設けている。
右手には回廊と繋がっている白壁の僧堂が建ち、中央間に菱狭間を入れた桟唐戸、両脇間に花頭窓を設けている。 本堂の左手にも御堂が建つが堂名は....。 白壁に変形の花頭窓が5つ連続して設けられているが、上部の花頭曲線の形が特異で面白い。
中雀門から狛犬まで戻り、庫裡に向かう。 途中、飛貫を8本の支柱で支えた重厚な屋根の鐘楼が建ち、何故か書院の縁先に置かれる蹲踞手水鉢があり、その傍に小さな石燈籠がひっそりと佇んでいる。 築地塀を利用した覆屋に六地蔵尊像が鎮座....そこから大きな庫裡などの建物が並んで建っている。
茅葺の山門の前が広い駐車場になっていて、左手の奥にかわいい六地蔵尊像、右手の大きな台座の上に開蓮と未開蓮を持つ聖観音菩薩像が鎮座....参詣者の帰路の安全を祈りながら見送ってくれているようだ。

△切妻造銅板葺の中雀門....両側に連なる白壁の築地塀(筋塀?)のように見える回廊

△軒廻り二軒繁垂木の中雀門.....「湘中早雲禅寺」の扁額が掲げられ、中央に小さな常香炉が置かれている
 
△中雀門前の庭隅に佇む石造宝塔/上下の軸部に輪郭を巻き、下の軸部に「南無大師釈迦牟尼佛」、上の軸部に「卍」の刻

△中雀門に置かれた常香炉越しに眺めた本堂....常香炉が置かれた本堂側に花狭間を入れた桟唐戸を設けている

△本堂前の砂利敷に回向柱が立ち、上部に「妙観察智」の表記....常香炉に設けた像がシルエットのように見える
 
△常香炉の胴部に「三つ鱗」の紋を入れ、鞠を踏む唐獅子を乗せ、左右の取っ手部に阿形吽形の2体の龍を取り付けている/中雀門の右側の廻廊....回廊は僧堂に繋がる

△入母屋造本瓦葺の本堂....内陣に一仏両祖(釈迦牟尼仏、道元禅師、蛍山禅師)を祀る

△軒廻りは二軒繁垂木で、組物は大斗肘木....正面九間で五間のみに切目縁、左右脇間は二間に腰高格子戸、一軒に格子窓で全てに連子欄間がある
 
△中央間は連子を入れた桟唐戸、上には中央に宝珠を配した波連子欄間/本堂右手にある獅子口を乗せた唐破風の大玄関....板唐戸で、側面に花頭窓

△右側回廊から眺めた僧堂、左側に唐破風の大玄関がみえる

△本堂に向かっての右手に建つ入母屋造桟瓦葺の僧堂(座禅堂)....寺号の早雲禅寺から扁額の書は「雲堂」の書(と思う)
 
△僧堂の軒廻りは一軒繁垂木、組物は大斗肘木....正面五間で、中央間は菱狭間を入れた桟唐戸、両脇間の白壁に各2つの花頭窓

△本堂に向かって左手に建つ変形の寄棟造桟瓦葺で一軒疎垂木のお堂....白壁に上部が花頭曲線の5つの花頭窓が連なる

△中雀門の前、淨聖殿の対面に建つ入母屋造銅板葺の寺務所
 
△社務所の軒廻りは一軒繁垂木、組物は舟肘木....窓枠上部が波打った形の窓(花頭窓の変形?)が6つ連なる/寺務所の玄関傍に佇む異形の石燈籠(と思う)

△基壇上に建つ入母屋造本瓦葺の鐘楼....軒下は二軒繁垂木で、頭貫上に出組の詰組を配す
  
△重厚な屋根に対して柱が細いためか飛貫を8本の支柱が支えられている/梵鐘/鐘楼傍にある蹲踞手水鉢(と思う)と小さな石燈籠

△切妻造本瓦葺と入母屋造本瓦葺で裳腰付きの建物が並ぶ庫裏....築地塀を利用した覆屋に六地蔵尊像が鎮座
 
△庫裏の左奥の建物は鶴夢楼/大棟に鬼瓦、拝に蕪懸魚、妻飾は虹梁蟇股で蟇股の脚間に「三つ鱗」の門....身舎の妻に桟瓦葺屋根の入口

△寄棟造桟瓦葺の早雲閣
 
△山門左手の駐車場脇に鎮座する六地蔵尊像(「温顔和楽」の石柱が立つ)と円光を背負う観音菩薩像/山門右手の大きな台座に鎮座する聖観音菩薩像....右手に開蓮と未開蓮を刺した水瓶(と思う)を持つ




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天嶽院-(1) (藤沢)

2020年06月13日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・藤沢市】室町時代の明応四年(1495)、後北条氏の祖の武将北条早雲によって伽藍の一寺「不動院」が建立され、不動院を改めて曹洞宗の禅寺とし、虚堂玄白禅師を迎えて開創された。
安土桃山時代の天正四年(1576)、四世住持の代に伽藍焼失の災難に遭うが、北条早雲菩提の為に発願した玉縄城主北条綱成・氏繁父子によって伽藍が復興された。 更に、紀伊大納言徳川光貞卿の帰依を受けた六世住持・月洲尊海禅師の代に七堂伽藍が完成した。 宗派は曹洞宗で、本尊は千手千眼観世音菩薩像。

杉林を背にして趣のある茅葺の山門が建ち、門前に、プロレスラーのような体型の一対の仁王像が陽を燦々と浴びて立っている。 「不許葷酒入山門」と刻まれた戒壇石が、仁王像に隠れるように袖塀前にひっそりと佇んでいる。
山門をくぐると深緑のトンネルの参道が真っ直ぐ延びている。 手入れが行き届いた参道は、切石敷石畳の左右に敷き詰められた苔が鮮やかな緑の絨毯のようで美しい。
石段を上ると、獅子の狛犬に護られた深緑に囲まれた明るい堂宇境内が広がり、ツツジが咲き誇る参道の左右と正面奥に堂宇が立ち並んでいる。 直ぐ左手の塀際に巨大な手水鉢があり、鉢の真ん中で二人の童子が支える蓮華座に、左手で開蓮を持つ聖観音菩薩坐像が鎮座している。
手水鉢に対面して不動殿が建ち、覗くと内陣に燃えるような火焔を背負った濃い青色の不動明王が鎮座している。 不動殿の左手に、道元禅師御道詠の碑を挟んで浄聖殿が建つ。 不動殿そして浄聖殿はいずれも「殿」の呼称だが、曹洞宗禅宗寺院ならではか....。

△杉林を背にして建つ茅葺の山門、門前は手入れが行き届いている

△水戸光圀公寄進の茅葺の山門は、江戸後期の火災を逃れた由一の建物....門前に「天嶽院」の寺号標石が立つ

△江戸中期建立の切妻造茅葺の山門....2段になって瓦葺の袖塀を設けている
  
△門前に阿形吽形の仁王像が露座し、仏敵の侵入を防いでいる/袖塀の前に立つ「不許葷酒入山門」と刻まれた石標(戒壇石)
 
△山門は薬医門の造り、袖塀は本瓦葺の築地塀/照り屋根、二軒繁垂木で拝は蕪懸魚

△山門を通して眺めた深緑に覆われた境内

△深緑のトンネルに続く切石敷の参道....石畳とその左右に敷き詰められた苔の緑が絨毯のようで美しい
 
△深緑のトンネルの中から眺めた石段上の堂宇境内/堂宇境内から眺めた手入れが行き届いた参道

△堂宇境内....右から不動殿、淨聖殿、中雀門、僧堂の屋根、法堂の屋根、そして寺務所が見える

△魔除けの力を持つ獅子の狛犬が護る堂宇境内

△左手の塀際にある巨大な手水鉢....後方は庫裡の屋根

△鉢に「感応」の刻....仏語で「感応」とは ”信心が神仏に通じること”
 
△二人の童子が支える蓮華座に結跏趺坐で鎮座する聖観音菩薩像....二重円光を背負い、左手に開蓮を持つ、右手の印相は来迎印

△左の吽形狛犬越しに眺めた正面の中雀門と右手に淨聖殿

△右の阿形狛犬越しに眺めた中雀門

△右側に建つ不動殿と奥に淨聖殿

△露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の不動殿....身舎正面に庇を設けた向拝
  
△不動殿には不動明王像、大黒天像、愛染明王像を安置/火焔を背負って鎮座する宝剣と羂索を持つ濃い青色の不動明王像/八角青銅石燈籠

△「道元禅師御道詠の碑」越しにながめた中雀門と淨聖殿

△入母屋造銅板葺で妻入の淨聖殿....本尊の千手千眼観世音菩薩坐像を安置

△大棟と向拝の唐破風に獅子口、軒廻りは一軒繁垂木で組物は舟肘木、拝は猪目懸魚で唐破風の兎毛通も猪目懸魚、妻飾は狐格子....両開きの桟唐戸と上に菱格子欄間、脇間に花頭窓





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