goo blog サービス終了のお知らせ 

何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

命徳寺-(2) (秦野)

2020年02月09日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・秦野市】茅葺屋根で薬医門形式の山門は江戸時代初期の建立で、市内最古の建造物とされる。 また、境内には、江戸中期の元文元年(1736)造立の宝篋印塔があり、塔身の四方に如来坐像(四方仏)の浮き彫りが施され、塔身内に空間があり日月のような穴が設けられている。

山門の中心から少し右にズレて本堂が建ち、切石敷の境内参道もくの字に曲がっている。
入母屋造りの本堂は、軒が長く、向拝の唐破風が小さいので大きな建物に見える。 向拝の水引虹梁上の龍や兎毛通の鳳凰、そして木鼻の獅子の彫刻はいずれも精緻で見事だ。 調べると本堂は、江戸初期の再建だが創建時の遺構は内陣周辺のみとのこと。
境内西側の竹林の前に3基の石造物があり、真ん中の宝篋印塔に少し違和感を感じたものの、塔身に興味を引かれた。 宝篋印塔は江戸中期の造立だが、違和感は、基礎・塔身と笠・相輪の色(石質)が異なり、笠・相輪はその形状から宝塔のものを乗せているとみられることだ。 特に興味を引かれたのは塔身で、四方に蓮華座に鎮座する如来坐像が厚肉彫りされ、塔身内に空間があって像頭部の左右に日月(?)の穴を設けている。 見慣れた宝篋印塔とはかなり異なる形で、非常に珍しい石塔とは思うが、少し混乱した。

△山門から眺めた本堂....内陣に本尊の不動明王と眷属の矜羯羅童子&制多迦童子とが鎮座

△百日紅越しに眺めた境内....左手の竹藪の前に宝篋印塔が佇む

△入母屋造銅板葺の本堂....慶安四年(1651)頃の再建で、創建当時の遺構は内陣周辺のみとのこと

△「命徳寺」の扁額が掲げられた中央間は上部に硝子を入れた引き戸の桟唐戸で、硝子に輪宝を配す

△卍を入れた鬼板を乗せた流向拝の軒唐破風
 
△兎毛通は鳳凰の彫刻、水引虹梁上の中央に龍の彫刻があり
 
△虹梁の木鼻は正面を見据える獅子、軒廻りは一軒疎垂木、組物は柱上に舟肘木/大棟端に鳥衾を乗せ卍を入れた鬼板、拝は珍しい形の懸魚、妻飾は狐格子

△石燈籠越しに眺めた向拝

△擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす....両脇間三間は全て硝子入り格子戸

△境内の西側に鎮座する石造物越しに眺めた本堂

△宝篋印塔を中心に右に地蔵尊石仏、左に庚申供養塔が鎮座....宝篋印塔の塔身に特徴があり、笠は宝塔のものを乗せているようだ
 
△元文元年(1736)造立の宝篋印塔....塔身の四方厚肉彫りの如来坐像、頭部の左右に丸穴と半月穴、基礎の正面に銘文/基礎左側面に「大乗妙典三千部供養〇」の刻、後方に妙典などを納める穴があるようだ
 
△明和五年(1768)造立の庚申供養塔....上部の種子は胎蔵界大日如来(アーンク)か?/蓮華座に鎮座する錫杖と宝珠を持つ地蔵尊立像

△本堂の右手に連なる庫裡....2体の小坊主石像が参詣者を迎えている
  
△文政四年(1821)造立の供養塔(と思う)....「十萬枚護摩灰〇塔」の刻/本堂前の右手に建つ切妻造銅板葺の手水舎(水汲み場と思う)/手水舎に鎮座する宝冠を頂く観音菩薩像(と思う)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

命徳寺-(1) (秦野)

2020年02月05日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・秦野市】創建年代や縁起は不詳。 茅葺屋根の山門は江戸時代初期の建立で、市内最古の建造物とされる。 本堂は記録から慶安四年(1651)頃の再建で、創建時の遺構は内陣周りに残っているようだ。 宗旨は天台宗で、本尊は鎌倉時代初期作の不動明王像。 関東地蔵百八霊場第92番札所。

秦野駅の近くを流れる水無川に沿って道を南東に進むと、参道前に聳える巨木の下に「照于一隅」と刻まれた寺号標石がある。
緑樹が茂る参道に梅の古木が立ち並び、途中から真ん中に切石が敷かれた参道になる。 直ぐ右手に芝生の境内があり、緑に包まれて丹塗りの柱と白壁の建物が西面で建つ。 鬼子母神を祀っている鬼子母神殿だ。 鬼子母神殿の境内に石燈籠1基が佇むが、火袋や笠が珍しい形をしていて興味を引いた。
参道に戻って山門に向かうと、門前右手の覆屋に鎮座する六地蔵尊像に迎えられる。 目の前に建つ茅葺の山門は、まるで日本昔話にでてきそうな趣だ。 味わいのある茅葺の山門をじっくり眺めた後、山門をくぐって境内に入ると、直ぐ左右に1本ずつ百日紅の古木が立つ。 左の百日紅はかなり朽ちかけているのだが、幹に菰巻きがあり、枯れつつある枝に支え棒が施されていて、手厚く保護されているのが伝わってくる。
 
△参道入り口の前に聳える巨木の根元に最澄の聖句「照于一隅」が刻まれた寺号標石がある

△参道脇のヒバの木越しに眺めた境内

△真ん中に大きな切石が敷かれた参道....参道両側に立ち並ぶ梅の木

△山門前参道の右手にある鬼子母神殿の境内

△入母屋造銅板葺の鬼子母神殿....階段上の親柱に擬宝珠が乗り、周りに組高欄付き廻縁
 
△正面は菱狭間を入れ桟唐戸で、脇間は小脇羽目、側面に花頭窓....古建築風の造りだが、垂木や組物等がない
 
△石燈籠越しに眺めた鬼子母神殿          △飾手水鉢と珍しい形をした石燈籠

△鬼子母神殿境内に置かれた夫婦狸の置物....昔から福を呼ぶ縁起物とされる信楽焼き(と思う)

△山門前の切妻造銅板葺の覆屋に鎮座する六地蔵尊像

△編み笠を背負い、赤い帽子を被り前垂れをして参詣者を迎える六地蔵尊像

△切妻造茅葺の山門....江戸時代初期の建立

△風情が感じられる茅葺の簡素な山門...用材はケヤキで、当初材をほぼ残している市内最古の建築物

△山門は薬医門形式で、冠木上に男梁を組み、先端に出組斗を乗せ妻虹梁を受けている
 
△拝に梅鉢懸魚、妻飾りは虹梁本蟇股/一軒繁垂木で、垂木の反りが大きい

△本堂境内から眺めた山門....北側の茅葺に草が生えている

△手入れが行き届いた境内は清々しい雰囲気
 
△前庭の百日紅の老木(と思う)....幹に巻かれたこも巻き、枝に支えが施され大切に保存されている/古い幹から育つ若木に白い花が咲いている





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宝蓮寺 (秦野)

2019年07月01日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・秦野市】鎌倉時代の正応元年(1288)、後嵯峨天皇の皇子で鎌倉建長寺第十四世・高峰顕日(仏国国師)を開山として創建された薬音寺が前身。 仏国国師は、南宋からの臨済宗の渡来僧で建長寺に住した無学祖元(仏光国師)に師事した。 弟子に夢窓疎石がいる。
大日堂を管理していた薬音寺は、戦国の動乱などで度々堂宇を焼失し、荒廃した。 江戸時代の寛文九年(1669)、蓑毛村の領主の旗本・揖斐与右衛門が、一族の迎接院宝蓮信女の菩提を弔うため、荒廃していた薬音寺を再興し、寺号を宝蓮寺に改称した。 この時、薬音寺荒廃以降百姓の平左衛門が管理していた大日堂などの諸堂は宝蓮寺の預かりとなった。
宗旨は臨済宗(建長寺派)で、臨済宗の本尊は釈迦如来(釈迦牟尼仏)が多いが、薬師如来像。

大日堂仁王門の県道7号線を挟んだ向かい側の少し奥まった所に、大日堂を管理している宝蓮寺の門柱が立ち、門柱傍の県道側の木立の中に、萬霊等と板碑型供養塔がひっそりと佇んでいる。
緑の木立の中の参道の先に六地蔵石仏などが鎮座し、その先に通行止めの看板が立てられ、参道が寸断されている。 境内を南北に横切る金目川の支流の護岸工事が行われているためだ。
地蔵石仏の傍に、隙間なく石が積まれた台座のような石造物があり、台座内に仁王像が鎮座している。 ネット情報によると、正面にある穴から中の仁王像を拝観できるそうだが、残念ながら失念した。
県道7号線に戻って少し上方に歩き、工事会社設置の仮設の通路を通って境内に入る。 修復中とみられる鐘楼の脇を進むと正面に、大きな宝形造屋根の簡素な造りの本堂が樹林を背にして鎮座。 本堂前庭には自然石を粗削りして造ったような石燈籠が佇むが、なかなかバランスのとれた形だ。
境内左に墓所への参道があり、途中に建つ手水舎に置かれた、ほぼ方形の自然石を刳り抜いたような手水鉢とまるで苔の前掛けをしたような龍の水口が目を引く。
 
寺号が刻まれた門柱の先の緑に包まれた参道/真ん中に切石が敷かれた参道は、境内を横切る金目川支流の護岸工事のため寸断されて通行止め

参道入口の木立の中に佇む「萬霊等」と板碑型供養塔と石造物の基台
 
参道脇に鎮座する掃除姿の小坊主....ホウキを消失している/参道脇にある石造物....正面の穴から中に鎮座する仁王像を拝観できるらしいが失念

参道脇に鎮座するオレンジ色の帽子と前垂れをした六地蔵尊像

県道7号線から工事会社の仮設通路を通り、鐘楼脇から境内に....
 
堂宇境内の入口に建つ宝形造銅板葺の鐘楼....低い位置に設けた内法貫に床が張られている/修築中のようで梵鐘が外されている

露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の本堂.....寺号は大日堂を管理していた薬音寺を改名

正面は連子を入れた桟唐戸と白壁の小脇羽目....前に切目縁を設けている
 
軒廻りは二軒繁垂木、組物と中備がなく、貫の上は全面小壁/「蓑毛山」の扁額が掲げられている

石燈籠が佇む本堂の前庭....本堂の左は客殿か?
  
本堂前庭に佇む石燈籠....自然石を粗削りして造立したようだ/石燈籠の傍にある礎石のような石造物/本堂前の木立の中に鎮座する宝形造銅板葺の地蔵堂....手前に立つ「福地蔵」の石柱

本堂の左に連なる庫裡

庫裡の左に方丈のような建物があり、奥が墓所への参道がある

墓所への参道入口に建つ切妻造銅板葺の手水舎

龍の水口がある大きな手水鉢は、元々堂宇境内入口の参道脇にあったものだと思う
 
自然石を刳り抜き加工したとみられる手水鉢/苔の前掛けをしたような龍の水口
 
清水が注がれている墓参者用の手水鉢/手水舎の傍に佇む石燈籠....自然石を粗加工して造立したようだ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御嶽神社 (秦野)

2019年06月28日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・秦野市】安土桃山時代の天正十三年(1585)に創立したとの古老の口伝があるとされる(昭和五十六年(1981)発行の「神奈川県神社誌」に記載)。 また、江戸時代天保十二年(1841)に編纂された相模国の地誌「新編相模国風土記稿」には、大日堂の境内に熊野明神を合祀した蔵王社が記されているようで、蔵王権現を祀るこの蔵王社が明治時代に御嶽神社に改称されたとみられる。
神道において、蔵王権現は倭健命等と習合し、同一視された。 明治六年(1873)に村社に列せられ、大正四年(1915)に指定村社に。 祭神は倭健命(日本武尊)、大日孁命(天照大神)、宇迦之御魂命(稲荷神社の祭神)、天児屋根命。

大日堂の右奥に急峻な石段があり、見上げると緑樹が茂る中に鳥居と社殿の屋根が少しだけ見える。
石段を上りつめると、銅板巻きの大きな神明鳥居が立ち、鳥居の間から樹林を背にして社殿が鎮座している。 鳥居の右手に、上部が激しく破損した江戸後期造立の石燈籠が佇んでいるが、左側にはないので壊れて消失したとみられる。
妻入の拝殿は簡素な造りで、中央間に舞良戸風の腰高格子戸、両脇間に蔀戸風の格子戸(と思う)が設けられている。 向拝の屋根がなく、中央間の梁に注連縄が張られ、扁額を乗せている突起に鈴が下がっている。 格子戸のガラス部を通して内部を覗くと、幣殿の奥に本殿の正面の一部が見える。 拝殿の脇に回って本殿を拝観しようとしたが、幣殿と本殿いずれも覆屋で保護されていて叶わなかった。

大日堂の右奥の左の石段上に御嶽神社が鎮座(右は不動堂への階)
 
数十段の急峻な石段の上の木立の中に鳥居と社殿屋根の一部が見える/神明鳥居傍の左手に手水舎、右手に石燈籠が立つ(左側に石燈籠なし)

銅板巻き神明鳥居は昭和六十一年(1986)の造立....昭和天皇御在位六十年記念で建立

樹林を背に鎮座する御嶽神社の社殿....祭神は倭健命、大日孁命、宇迦之御魂命そして天児屋根命
 
切妻造銅板葺(と見られる)手水舎....手水鉢の正面に右三つ巴の紋がある/火袋から上の破損が激しい文化五年(1808)造立の石燈籠

入母屋造銅板葺で妻入の拝殿
 
昭和四十七年(1972)造立の阿形・吽形の獅子の狛犬

正面三間は中央間に舞良戸風の腰高格子戸、脇間に蔀戸風の格子戸(と思う)....小壁は全て羽目板
 
中央扉の上に注連縄が張られ、「御嶽神社」の扁額が掲げられている/軒廻りは一軒繁垂木、柱上に長い束があるだけで組物や中備なし

向拝屋根がない拝殿の前と横一部に切目縁を設けている

拝殿の内部....拝殿と幣殿の間に大きな注連縄が張られている...奥に本殿正面の一部が見える

幣殿と本殿は覆屋の中に鎮座していて拝観できず

拝殿前の左手に建つ寄棟造銅板葺の神楽殿
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大日堂-(2) (秦野)

2019年06月24日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・秦野市】江戸時代の寛文九年(1669)、信仰厚い揖斐氏が宝蓮寺に巨額を寄進し、諸堂が改修された。 現在の大日堂は享保十四年(1729)に再建されたが、宝蓮寺地蔵堂の庵主であった木食光西上人が、全国行脚をして浄財を集め、荒れた大日堂や仏像を修理、また新堂宇を造営した。
享保二十年(1735)、木食光西上人は地下に設けた石室に入り、座して経を唱えながら入寂した。 光西上人の遺言により200年後の昭和十年(1935)に発掘が行われ、遺骨や副葬品などが確認された後、それらは石室に埋め戻された。
現在、大日堂の諸堂宇は、道を挟んだ向かい側に鎮座する臨済宗建長寺派の宝蓮寺により管理されている。

大日堂の右手奥に2つの石の階があり、左は秦野総鎮守の御嶽神社への、右は山内最古の建物である不動堂への石段だ。
不動堂への石段を上りつめ、不動堂を見て驚いた。 向拝の階段がなんと煉瓦造りで、入口の扉がガラス戸なのだ。 また軒下に垂木がないことなどから近年の改造によって大きく変わったようだ。 手のひらで日陰をつくってガラス戸を通して堂内を拝観....直ぐ前に竹杭と注連縄で結界をつくった護摩壇があり、奥には猛煙を背負って憤怒の形相で鎮座する不動明王が、鋭い眼光でこちらを睨でいる。 一つ気になったのが光背の火焔光で、まるで海藻の干し物のようにみえるが、材質は何かな。
不動堂から地蔵堂に向かうと、木立の中の大きな自然石の基壇上に、二重塔式で笠に隅飾突起がない宝篋印塔が鎮座している。 下の塔身の正面に宝篋印陀羅尼経の赤い種子が刻まれ、上の塔身の正面の月輪には阿弥陀如来の種子が刻まれている。
大山への登山道に面して建つ茶湯殿とも呼ばれる地蔵堂は、近年の改造によって変わったようだが、正面から眺めると格子と格狭間を入れた桟唐戸と脇間の白壁に花頭窓がある簡素な造りだが、歴史を感じさせる佇まいだ。 格狭間から堂内を覗くが暗くて諸仏がよく見えずで、格狭間にレンズを当てて撮った写真で鎮座する地蔵菩薩坐像とその左右に居並ぶ冥界の十王像を拝観した。
地蔵堂の右手に「木食光西上人入寂の地」がある。 覆屋に鎮座する六字名号塔の地下の石室に、大日堂や仏像の修復、新たな御堂の造営に尽力した木食光西上人が静かに眠っている....合掌。

大日堂の右手奥に不動堂(右)と御嶽神社への石段がある(御嶽神社は別途投稿)

不動堂への石段....石段下に石柱、右手木立の中に石碑と句碑が佇む
  
宝永三年(1706)造立とみられる石柱....「従是 不動石尊 道」と刻まれているが「道」とあるので道標か/刻字が摩滅していて読めない石碑/「古池....」....句碑と思うが読めず

句碑越しに眺めた緑樹の中に建つ不動堂

石段途中から見上げた不動堂は17世紀後半の創建で境内最古の建物だが、近年の改造で大きく変わったようだ

入母屋造銅板葺で妻入りの不動堂....向拝の階段は煉瓦造り、正面入口は硝子戸、両脇間に硝子入りの花頭風の窓を配す
  
向拝柱に連三斗、水引虹梁の中央に板蟇股が乗る/大棟端に不思議な文様を入れた鬼板、拝はハートが一つの猪目懸魚、妻飾は狐格子/堂内手前に護摩壇、奥に不動明王像が鎮座....護摩壇は護摩炉の四隅に竹杭を立て、その頭部を注連縄でつないで結界としている....中央の梁上に「不動尊」の額が掛る

右手に宝剣、左手に羂索を持つ憤怒の形相の不動明王像....挙身光の火焔光の材質は何かな?

軒廻りは垂木がなく、組物は刳り形を施した舟肘木で中備は蓑束

宝暦十二年(1762)造立の二重塔式の宝篋印塔....下の塔身の正面に宝篋印陀羅尼経の種子、上の塔身の正面の月輪に阿弥陀如来の種子
 
不動堂境内に佇む宝篋印塔だが、笠には隅飾突起や露盤(六段)がない

不動堂境内から眺めた地蔵堂

地蔵堂境内の入口の左右に供養塔と石柱が立つ
 
合掌する石仏が乗る刻像塔の供養塔....石仏は地蔵尊像に見えるが4臂?/享和元年(1801)造立の石柱....「〇〇〇大日如来 三國〇〇不動」の刻....不動明王は大日如来の教令輪身(変身)

大山への登山道(右)に面して東面で建つ地蔵堂....茶湯殿とも呼ばれる

寄棟造鉄板葺の地蔵堂....正面三間の中央間は格子窓と格狭間を入れた桟唐戸、両脇間の白壁に花頭窓....堂内に本尊地蔵菩薩像と木造十王像を安置
 
軒廻りは一軒疎垂木だが板張りの補強が施されている/堂前だけに切目縁を設けている

地蔵堂の内陣に鎮座する円光を背負った地蔵菩薩坐像....その左右に十王像が並んでいる、向かって右隣りの少し大きい像が閻魔大王か

木食光西上人入寂の地....江戸中期に宝蓮寺地蔵堂の庵主だった木食光西上人が覆屋の地下の石室に眠っている
 
光西上人は全国行脚で集めた浄財で大日堂や修理等を行った後、享保二十年(1735)に地下の石室に入り、座って経を唱えながら入寂した/光西上人が眠る石室の上に立つ六字名号塔
 
丸彫りの地蔵尊坐像石仏が乗る供養塔....下の石柱に「地蔵尊」の刻/「南無地蔵菩薩」と刻まれた三界萬霊塔
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大日堂-(1) (秦野)

2019年06月21日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・秦野市】奈良時代の天平十四年(742)、仏教を保護し、東大寺や諸国に国分寺・国分尼寺を建立した聖武天皇(第45代)が、奈良の大仏を造立するときの勅願所として行基に建立させたとされる。
大日堂は「覚王山 安明院 国分寺」とも言われ、聖武天皇の勅願所として建立されたようだ。
平安時代末期から南北朝時代までは寂れていたとされるが、鎌倉時代の正応二年(1288)に仏国国師・高峰顕日(第88代後嵯峨天皇の皇子)が、近隣のいくつかの寺院を統合して宝蓮寺(当時「薬音寺」と称した)を開山した。 第12代住持が入山する室町時代の正長元年(1428)頃までは無住持の状態が続いていたようだ。 大日堂の宗旨は不詳だが、本尊が平安時代作とされる大日如来像を含む五智如来像なので密教(真言宗)系と思う。

バス停「蓑毛」から脇を流れる金目川に架かる蓑毛橋を渡ると、赤い屋根の仁王門が見えてくる。 門前に百番供養塔が佇む朱塗りの仁王門....さほど筋骨隆々ではないが、大きな鋭い眼光の仁王像に迎えられる。 正面の台輪上の3つの中備の彫刻を見て思わず顔がほころんだ。 まるで白い鼻の豚の顔が並んでいるように見えるからだ。
仁王門をくぐると、正面に緑樹に包まれて大日堂が建ち、まさに古い山岳寺院らしい雰囲気が漂っている。 290年前に木食光西上人が修復して以降も何度か修復が行われていると思うが、建物はかなり傷んでいるようで気掛りだ。
とはいえ、向拝と軒下に施された彫刻群が実に素晴らしく、目を見張った。 向拝の彩色された彫刻は、木鼻の獅子と像、水引虹梁上の龍、そして手挟の牡丹、また、軒下では台輪上の蟇股、そして四方の通肘木の上の小壁前面に施された鏝絵のような彫刻が見事だ。 正面の桟唐戸に空いた格狭間から本尊(五智如来像)を拝観.....中央には宝冠をいただき智拳印を結んだ金色の大日如来坐像が鎮座している.....合掌。
大日堂の左手に「金剛水」の案内板が立ち、大山詣の際に清澄な金剛水で身を祓い清めたとある。 しかし、奥の山裾にある不動明王石仏が護る石組で囲まれた源泉を覗いたが、僅かな水も湧き出ていない....枯れたのかな?

道路に面して建つ仁王門....道路脇に銀杏の切株が残っている

入母屋造本瓦葺風鉄板葺で八脚門の仁王門....江戸後期の建立のようで、大棟に葵の紋が配されている
 
門前に置かれた飾手水鉢/門前に佇む文政十二年(1829)造立の「百番供養塔」....西国・坂東・秩父の百観音札所を巡礼した巡拝塔

三間一戸で、中央出入口に扉が無く、左右脇間の金剛柵の中に仁王像が鎮座....台輪上の組物間に豚顔のような彫刻がある
 
鋭い眼光で仏敵の侵入を防いでいる阿形吽形の仁王像....寄木造りで彫眼
 
中央通路の入口の組物間の台輪上に配された彫刻....まるで豚の顔を連想させる形が面白い/本柱間の台輪上に配された彩色装飾を施した牡丹のような花文様彫刻、後方の台輪上には入口と同じ彫刻
 
軒廻りは一軒繁垂木、組物は台輪の上に出三斗で中備は正面と後方のみで側面に無し/大棟端に桔梗紋入りの鬼板、拝に変形の懸魚、妻飾りは虹梁大瓶束

横羽目板の側面の柱間に取り付けた木に沢山の御神札が釘付けされている

仁王門を通して眺めた大日堂

仁王門から眺めた緑樹に覆われた境内は山岳寺院の雰囲気だ

寄棟造桟瓦葺で妻入の大日堂....享保十四年(1729)に光西上人により修復された

正面は中央間に桟唐戸、両脇間に腰高格子戸....入口に「金剛王殿」の扁額が掲げられている

向拝は二軒繁垂木、向拝柱上に連三斗、母屋とは海老虹梁で繋がる....水引虹梁の上に見事な龍の彫刻を配す
 
水引虹梁の上の全体に彩色されて精緻な龍の彫刻/彩色された精緻な獅子と像の木鼻

向拝柱の内側の手挟は見事な牡丹彫刻

軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手目が尾垂木の二手先で中備は脚間に動物彫刻を配した蟇股....通肘木の上の小壁の全てに施されている彫刻は「鏝絵」のようだ
  
角柱の向拝柱を支える木製の礎盤がかなり傷んでいる/周囲の切目縁の床板や床束等がかなり傷んでいる

小棟造りの屋根で正面三間、側面四間、周囲に切目縁を巡らす....御堂はかなり傷んでいるようで、堂前に瓦落下の注意喚起の立札が置かれている

大日堂には本尊の五智如来坐像を安置....五体全て平安時代後期作とみられ、いずれも一木造りで彫眼

大日堂内陣中央に鎮座する大日如来坐像....ヒノキ造りで他の四体より大きく像高175cm(宝髻欠)、宝冠をいただき智拳印を結んでいる

五知如来坐像 (案内板「大日堂の仏像」の写真を拝借)

大日堂の左手に「金剛水」の案内板が立ち、蓑毛は大山詣の西玄関口で金剛水で身を清めたとある....奥の山裾に不動明王石仏が護る石組の源泉があるが、清澄な湧き水はまったく見当たらずだ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最乗寺-(4) (南足柄)

2018年12月14日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・南足柄市】最乗寺は現在、山形県の善宝寺、愛知県の妙厳寺(豊川稲荷)と共に曹洞宗の三大祈祷所といわれる寺院の一つ。 神仏習合の信仰である修験道の色を残しながら、曹洞宗の僧侶を養成する専門道場として禅を修行する場になっている。 堂宇境内から約3キロメートル手前の参道・「天狗の小径」に建つ仁王門に、それを示す「最乗寺専門道場」の聯が掲げられている。

結界門に戻り、77段ある少し急な石段を登って山腹に建つ御真殿に....。 本尊道了大薩埵と了庵慧明禅師の化身とされる大小天狗が脇侍として祀られている御真殿は、寺院最大のパワースポットとされ、御真殿の左手には奉納された大小の赤い高下駄がずらりと並んでいる。 その中に、ひときわでかい高下駄がある。 「和合下駄」と称され、重さ3.8トンもあって世界一の大きさとされる。
御真殿から奥之院に向かうと、参道わきに道了尊が化身した天狗像が、頭上に兜巾を乗せた白狐の背中に勇ましい出で立ちで鎮座している。 奥之院への石段参道の入り口に冠木門と棟門が立ち、ここで参拝できるように賽銭箱が置かれている。
冠木門越しに石段を見上げると杉林の中に急な石段が続く....あまりにも急峻なので一瞬ためらったが、354段ある石段を息を切らせながら一気に駆け上がり、冠木門を構えた奥之院に着く。 標高429メートルの山腹に鎮座する奥之院は、御真殿と同じように拝殿・幣殿・本殿が連なる社殿風の造りだが、本殿にあたる建物が鉄筋コンクリート製だ。
奥之院の建物が鉄筋コンクリート製なのと、少し下の平地にある手水鉢の水口が水道の蛇口なのは、聖地の佇まいを損なっているようで残念な気がした。 とはいえ、樹齢400~500年とされる鬱蒼とした杉の樹林の中に鎮座する大寺院....神奈川県にこれほど山深い山岳寺院があるとは思わなかった。

結界門をくぐると「道了大薩埵」の浄域で、右手の77段の石段の上に御真殿が建つ

入母屋造本瓦風銅板葺の御真殿....本尊の道了大薩埵と了庵慧明禅師の化身とされる大小天狗を脇侍として安置

寺紋を入れた鳥衾付鬼板が乗る大きな唐破風の向拝....母屋正面の三間は腰高格子戸、両脇間に大きな連子窓
 
柱上に出組、三間の虹梁に板蟇股と脚付の間斗束を配す/入口に「妙覚宝殿」の扁額が掲げられている....大きな鰐口と釣燈篭が下がる

軒周りは二軒繁垂木、組物は出組で中央間のみ中備の蟇股を配す....周囲に組高欄を巡らす

御真殿は拝殿、幣殿、本殿が連なる社殿のような造り....本殿にあたる建物は宝形造本瓦風銅板葺で二軒繁垂木、組物は二手先で中備は蟇股

御真殿の左手に並ぶ奉納された大小の高下駄....赤い高下駄は修験者や天狗の履物だが、左右一対で役割をなすことから夫婦和合の信仰が生まれた
 
御真殿から奥の院へ向かう参道脇に高下駄、十一面観世音菩薩像、天狗化身像が鎮座/世界一の大きさとされる二代目の「和合下駄」、重さは3.8トン(初代は「碧落門」の門前にある)
 
左手に水瓶を持つ十一面観世音菩薩像/道了尊天狗化身像....火焔を背負い、縄を持ち、両手両足に幸運の使いの蛇を従え、頭上に兜巾を乗せた白狐の背に立つ

御真殿から奥之院への参道脇で参詣者を見守る天狗化身像

「奥之院」の石段参道の入口に冠木門と棟門が立ち、獅子の狛犬が鎮座
 
狛犬はいずれも阿形でしかも角があるように見え、雌雄がわからない
  
石段参道脇に鎮座する切妻造銅板葺の社と流造りの祠....社には格狭間を入れた桟唐戸を設けている/参道途中にある苔生した巨石
 
「奥之院」への石段参道の途中に鎮座する2体の天狗像....小天狗(烏天狗)は烏のような嘴、黒い羽毛に覆われた体で、自在に飛翔できる/大天狗....強力な神通力を持つとされる山伏姿の鼻高天狗像

354段の石段を上った標高429メートルの山腹に鎮座する「奥之院」....道了大薩埵の本地仏十一面観世音菩薩を祀っている

石段参道から外れた平地に手水鉢がある....なんと水口は水道の蛇口だ!

冠木門を構えた入母屋造本瓦風銅板葺の「奥之院(慈雲閣)」

向拝の水引虹梁の中央に蟇股が乗る....周囲に切目縁を巡らす

軒周りは一軒繁垂木、組物と中備は舟肘木....正面は菱狭間を入れた桟唐戸で引き戸、脇間に格子窓
 
向拝柱に唐戸面らしき面取りを施している/「奥の院」は御真殿と同じ社殿のような造りで、本殿にあたる建物は鉄筋コンクリート製で花頭窓を設けている
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最乗寺-(3) (南足柄)

2018年12月12日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・南足柄市】戦国時代に武将・北条氏康から堂塔の寄進を受け、その後、豊臣家・徳川家の外護を受けた。 境内には家康の孫・松平大和守直基の墓がある。 当初は独住制であったが、康正二年(1456)から明治七年(1874)までは1年毎に住持が交替する輪住制が採られ、関東曹洞宗発展の中心的寺院だった。

鐘楼の近くに、徳川家康の孫・松平大和守直基の大きな駒形墓碑が多宝塔を背にしてたたずんでいる。
鐘楼の傍の数段の階を上がるとすぐ右手に手水舎があり、杉林の奥の山腹に深緑を背にして多宝塔が建っている。 江戸末期建立の神奈川県下唯一の多宝塔だ。 多宝塔左の苔生した岩肌の傾斜地の上に清瀧不動尊を祀る不動堂が建ち、その下から流れ落ちる「洗心の滝」がある。 「洗心の滝」は明神ヶ岳山麓から引いた湧水だが、滝傍に足を踏み入れると空気が一変する感じだ。
不動堂が鎮座する山腹から、鬱蒼と茂る杉木立の間に道了尊の浄域への結界門とその前の反橋が見える。 反橋に4つの擬宝珠欄干が設けられ、中2つの親柱に「御供橋」、両脇の親柱に「圓通橋」と刻まれ、「御供橋」は通行禁止になっている。 門前で大天狗と小天狗が守護する向唐門をくぐって道了尊の浄域へ....三面殿、御真殿そして奥の院がある境内だ。
まずは、樹齢600年とされる「三本杉」が聳え立つ境内に鎮座する三面殿に向かう。 鉄筋コンクリート製の白亜の三面殿に安置され、米俵に鎮座する三面大黒天像に参拝した後、御真殿に向かった。

「松平大和守直基の墓」がある境内

「松平大和守直基の墓」....駒形墓碑は高さ4m、幅1.35m....松平大和守直基は徳川家康の孫で、4度目の移封で姫路城主となり、慶安元年(1648)に江戸で病死した
  
松平大和守直基の墓がある境内に佇む造立年不明の頂部が欠落した七重塔(?)と十三重塔....初層軸部に四方仏が浮き彫り/松平大和守直基の墓がある境内に佇む2種の石燈籠....奥の蕨手がなく角竿のものは慶安三年(1650)造立、手前の丸竿は明暦三年(1657)造立

多宝塔石段下にある手水舎....軒下の組物が目につく
 
切妻造銅板葺の手水舎....台座に乗る手水鉢の正面に2つの羽団扇が彫られている/手水鉢は明治二年(1869)造立

杉林の中に鎮座する神奈川県下唯一の多宝塔

文久三年(1863)建立の多宝塔.....上層は二軒扇垂木で組物は四手先、尾垂木の先に龍の彫刻を施している
 
下層は二軒繁垂木で組物は二手先、中備の蟇股に十二支の彫刻....高欄無し切目縁を巡らし、中央間に桟唐戸、両脇間に連子窓/本瓦風銅板葺の屋根で、塔の高さは19.6m

樹林内にひっそりと建つ多宝塔の塔内に多宝如来像を安置している
 
不動堂の傍から流れ落ちる「洗心の滝」....明神ヶ岳山麓から湧水を引いているとか/「洗心の滝」傍に水神を祀る宝形造銅板葺の祠....祠は二軒繁垂木、組物は二手先で2つの詰組を配す
 
「洗心の滝」の上に建つ不動堂....滝川(左側)が正面で、堂内には「清瀧不動」の額が掲げられた側面から入る/不動堂の石段下に建つ宝形造本瓦風銅板葺の納経堂....「関東三十六不動霊場2番札所」の聯が下がる

入母屋造銅板葺の不動堂....軒廻りは二軒扇垂木、組物は二手目が尾垂木の二手先と詰組....裳階は一軒扇垂木、組物は平三斗で詰組
  
大棟に鬼板、拝みは蕪懸魚、妻飾は虹梁大瓶束/不動堂内には本尊清瀧不動尊と脇侍に天佑不動明王と愛染明王を安置

不動堂が建つ山腹から眺めた「結界門」と「御供橋」と「圓通橋」

擬宝珠欄干を設けた太鼓橋(反橋)....親柱に刻まれているように中央が御供橋で両脇に並行するのが圓通橋

御供橋は白装束を身に纏った修行僧が道了尊へお供えをする際に通る

結界門は正面前後に唐破風がある向唐門....門前左右に浄域を守る大天狗と小天狗が鎮座

二軒繁垂木、鬼板と破風板に寺紋の羽団扇を配す
 
左側の剣を持つ小天狗(カラス天狗)....頭部が烏の迦楼羅天(八部衆)が変化したもの/右側の山伏装束で羽団扇を持つ大天狗....強力な神通力を持つ天狗とされる

門の左右に連子窓を設けた袖塀が延びる....結界門より奥は道了尊の浄域とされる

境内側から眺めた結界門....四脚門なので「四脚向唐門」ともいう、扉は連子入りの桟唐戸で連子に寺紋の羽団扇を配す
 
三面殿境内に建つ切妻造銅板葺の納札所/納札所に祀られている僧形の天狗(道了尊かな)

三面殿境内に聳え立つ樹齢600年とされる古木で巨木の「三本杉」
 
鉄筋コンクリート製の宝形造銅板葺の三面殿             三面殿に鎮座する三面大黒天像
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最乗寺-(2) (南足柄)

2018年12月08日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・南足柄市】伽藍建立に貢献したのは了庵慧明禅師の弟子・道了薩埵だが、元は京都聖護院に学び、金峰山、大峰山、熊野三山で修行した修験道の僧。 滋賀園城寺(三井寺)で勧学の座にあった道了は、同郷の了庵慧明禅師の最乗寺開創を聞いて馳せ参じた。 神通力を持っていたとされる道了は、了庵没後、仏法の守護を誓って天狗に化身し、山中奥深くに身を隠したという伝説から「道了尊」として祀られ、広く信仰を集めている。 天狗になった道了にちなんで、境内には多くの高下駄や羽団扇が奉納されている。

「碧落門」から「瑠璃門」に進み、樹林を背に陽を燦燦と浴びている書院を眺める。 書院前左手の放生池と思われる池に、六注造柿葺の光明亭が浮かんでいるように建っている。
覆屋の常香炉越しに、石段上の堂々たる本堂を眺める。 石段を上がると本堂と開山堂とが並んで鎮座している。 いずれも昭和の建立だが、和様を主体とした細部の形や様式を観察すると、古い時代の建築と思わせるように丁寧に建造された感がある。
開山堂の石段下の玉垣の中に「一擲石」と呼ばれる苔生した石がある。 力持ちの道了が石を運んでいる途中で了庵に呼ばれたため投げ捨てた石と伝わるが、大き過ぎでは....と言ったら、道了薩埵に叱られるかな?
開山堂前の参道の向かいに鐘鼓楼と金剛水堂があり、金剛水堂には600年前に道了尊者が掘った井戸があり、諸病を癒すとされる霊泉(金剛水)がいまでも湧き出ている。
参道を少し進み6段の階を上がると、直ぐ右手の苔生した石垣の上に重厚な鐘楼が建つ。 見ると、四方の柱と内法貫を支える補助柱との間に見事な「上り龍・下り龍」の彫刻が施されている。 また、内法貫の木鼻の力強い獅子と像の彫刻も実に素晴らしい。

瑠璃門の正面奥に建つ入母屋造桟瓦葺の書院....両脇間の白壁に花頭形格子窓が並ぶ

書院の右手の回廊の先に照心閣、回廊の後方に宝蔵が建つ
 
軒廻りは二軒繁垂木で、柱上に舟肘木が乗る....鳥衾付鬼板が乗る唐破風の向拝、懸魚は兎毛通、妻飾は虹梁大瓶束/大棟端に鳥衾付鬼板、拝の懸魚は二重懸魚、妻飾は虹梁大瓶束・笈形の複合式

入母屋造銅板葺の二階建て白雲閣....寺務所で二階は照心閣と渡廊で繋がっている

白雲閣入り口から眺めた本堂境内....右手の山裾側には書院、光明亭、本堂、左手には瑠璃門、尚宝殿、碧落門、正面奥に僧堂、光明軒が建ち並ぶ

山裾側に並び建つ書院、本堂、開山堂そして鐘鼓楼が見える

書院左手前の池に浮かぶ露盤宝珠を乗せた六注造柿葺の光明亭

常香炉越しに眺めた本堂....常香炉は、照り起り屋根で四隅軒に蕨手を設けた覆屋に置かれている

入母屋造本瓦風銅板葺の本堂....昭和二十九年(1954)の再建で、本尊釈迦牟尼仏像と脇侍に文殊と普賢の両菩薩を安置
 
間口15間、奥行12間の本堂....三間の向拝だが柱間が広く、向拝柱上に出組、水引虹梁の中備に脚間に彫刻を施した本蟇股

本堂の軒周りは二軒重垂木、組物は出三斗で中備は間斗束

金剛水堂前から眺めた開山堂と手前に「一擲石」....左奥は鐘楼

開山堂前にある「一擲石」....力持ちの道了が石を運んでいる途中で了庵に呼ばれたため投げ捨てた石と伝わる

入母屋造本瓦風銅板葺の開山堂(金剛壽院)....昭和三十六年(1961)再建....了庵慧明禅師や各祖師の尊像、歴代住持の霊牌を祀る

和様主体で建立された総檜造りの開山堂....鳥衾付鬼板が乗る唐破風向拝の兎毛通は猪の目、水引虹梁に本蟇股、丸桁虹梁に笈形付大瓶束が乗る
 
軒周りは二軒繁垂木、組物は出三斗、中備は撥束、蛇腹の軒支輪

擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす....扉は舞良戸風腰高格子戸で、上に菱狭間の欄間、窓は全て連子窓

開山堂前に建つ鐘鼓楼と金剛水堂

入母屋造本瓦風銅板葺で楼造りの鐘鼓楼....昭和五十八年(1933)の建立、上下層に連子を入れた桟唐戸と脇間に連子窓
 
軒周りは二軒繁垂木で組物は出組、上層正面を除いて中備に間斗束を配している/上層に擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす、縁を支える腰組は出三斗

六注造本瓦風銅板葺の金剛水堂....昭和二十八年(1953)の再建、正面扉は連子を入れた桟唐戸、他の5面は連子窓
 
桟唐戸の連子に寺紋を配している....寺紋は天狗の持ち物の羽団扇/天井の中央に古い滑車が残っている

僧堂の後方に建つ入母屋造本瓦風銅板葺で妻入りの御供堂....大棟に鳥衾付鬼板、拝に蕪県魚、妻飾りは小壁、桟唐戸に羽団扇の寺紋を配す

入母屋造本瓦風銅板葺の重厚な鐘楼

柱と内法貫を支える補助柱の間に施された見事な龍の彫刻

軒周りは二軒繁垂木、組物は出組で台輪上の柱間に詰組と2つの本蟇股...頭貫の木鼻に花の彫刻が施されている
 
柱脇の精緻な上り龍と下り龍の彫刻、内法貫の獅子と像の木鼻も素晴らしい
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最乗寺-(1) (南足柄)

2018年12月06日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・南足柄市】室町時代の応永元年(1394)、了庵慧明禅師により草創されたと伝えられ、越前永平寺、鶴見総持寺に次ぐ格式のある曹洞宗の古刹。
了庵慧明は臨済宗を学んで諸国行脚したのち、丹波・永沢寺の通幻寂霊の門下となって曹洞宗に改宗した。 その後、通幻寂霊の法を継いで曹洞宗大本山の総持寺や丹波永沢寺などの住持を務めた後、故郷の相模国に帰り、応永元年、一羽の大鷹に導かれて箱根明神ケ岳の東麓に大雄山最乗寺を開いた。 宗旨は曹洞宗で、本尊は釈迦牟尼仏。 その他、文殊菩薩、普賢菩薩、道了尊、十一面観世音菩薩、三面大黒天、不動明王、弁才天などを祀っている。 関東三十六不動霊場第2番札所。

伊豆箱根鉄道大雄山線の終点・大雄山駅からバスで最乗寺に向かうが、堂宇境内から約3km手前の参道に建つ仁王門前で一旦下車。 苔に覆われた参道の少し先の石段上に、丹塗りの仁王門がひっそりと建つ。 門前に「道了大薩埵」と刻まれた2基の標石が立ち、標石の頂上に乗る天狗の持ち物の羽団扇の彫刻は、幽玄な天狗伝説の世界へ誘っているようだ。
仁王門前から次のバスで、「天狗の小径」と呼ばれる杉並木の参道を進み、約3km山奥の終点・道了尊に着く。 鬱蒼とした樹林の中に続く緩やかな石段の参道を暫く進むと、近年に建てられた三門が現れる。 禅宗様建築の二重門だ。 二重門をくぐってさらに参道を進むと、左側を流れる渓流の大雄川に架かる太鼓橋の先の山裾に、了庵慧明禅師が坐禅を行った苔生した「坐禅石」がある。
廻廊で囲まれた堂宇境内に入る門は2つあり、参道奥の本堂正面に建つ「碧落門」と手前にある書院正面の「瑠璃門」だ。 石段を登って「碧落門」から堂宇境内に....正面奥の石段上に本堂、直ぐ左手に四阿があり、その奥に「選佛場」の額が掲げられた花頭窓が並ぶ僧堂が建つ。 四阿の前に、大きな石板に固定された丸い掛け時計があるが、荘厳さが漂う古刹の境内に全く馴染まない光景で、残念に思う。
 
堂宇境内から約3km手前の苔に覆われた参道(天狗の小径)に建つ仁王門と寺号標石

入母屋造本瓦風銅板葺で朱色の仁王門....門前の石灯籠は天保十五年(1844)の造立

門前の道標は天明二年(1782)造立で、正面に「道了大薩埵」、側面に「大雄山最乗寺道」の刻、また、頂上に天狗の持物の羽団扇が乗る

仁王門の軒周りは二軒繁垂木で、組物は大斗肘木(刳り形の肘木)....「東海法窟」の額と本柱に「最乗寺専門僧堂」の聯が掲げられている
 
仁王門の金剛柵の中に鎮座する阿形・吽形の金剛力士像

境内の入り口に立つ石燈籠と右手に大慈院....石灯籠は昭和十一年(1936)の造立

境内入り口に建つ安気地蔵尊像を祀る宝形造本瓦風銅板葺の大慈院本堂....一軒疎垂木で柱上に舟肘木、唐破風向拝の頭貫の中備の板蟇股に羽団扇の彫り物

「下乗」の碑が立つ堂宇境内への長い石段参道の入り口

樹林の参道に建つ入母屋造銅板葺の三門は禅宗様の二重門....平成十五年(2003)、了庵慧明禅師没後600年を記念して建立、高さ22m、上重に22体の仏像を安置

軒廻りは二軒で上層扇垂木、下層繁垂木、組物はいずれも三手先だが上層は二手目と三手目が尾垂木、柱間の台輪上に詰組を配す

上層に逆蓮頭親柱高欄付回縁、縁を支える腰組は二手先

「洗心の滝」から流れてくる渓流の大雄川に架かる太鼓橋の「相生橋」を渡った山裾にある「坐禅石」
 
了庵慧明禅師が坐禅を行った「坐禅石」.....坐禅中、観世音菩薩が現れこの地に寺を建てよとの啓示を受けた場所/苔生した坐禅石と未開蓮をもつ舟光背形観世音菩薩像
 
瑠璃門前の石段下の参道に立ち並ぶ石灯籠は明治期の造立のようだ/瑠璃門近くの参道脇に佇む「張 二十六丁目」と刻まれた道標の石燈籠....参道には28本の宿道標が立つ

瑠璃門前石段下の石灯籠は明治二十年(1887)の造立

参道を上り詰めると手前と奥の石段上に2つの山門がある....手前は書院の正面、奥には本堂の正面に建つ
 
書院の正面に建つ切妻造本瓦風銅板葺の山門は「瑠璃門」....左右に回廊が延び、袖塀白壁に花頭窓/瑠璃門は薬医門で、豕扠首の妻飾があり、屋根の軒隅に宝珠の留蓋瓦が乗る
 
碧落門の門前に置かれた朱塗りの初代の「和合下駄」....傍に「和合下駄」の碑が立つ/本堂正面に建つ碧落門....門前の右手に建つ尚宝殿

本堂の正面に建つ切妻造本瓦風銅板葺の「碧落門」....「瑠璃門」と同じ造りで、左右に回廊が延びる
 
瑠璃門と碧落門の間の回廊にある尚宝殿への入り口/回廊の外に建つ寄棟造本瓦風銅板葺の尚宝殿....大棟端に鴟尾が乗り、外壁は校倉造り

「碧落門」の近くに立つ四阿の光明軒と僧堂....手前に奉納された大きな掛け時計がある
 
光明軒脇に植えられている鉄拳梅/小棟造桟瓦葺の光明軒の四阿

「碧落門」の傍に建つ入母屋造本瓦風銅板葺の僧堂....聖僧文殊菩薩を安置....「選仏堂」の額が掲げられた坐禅の根本道場

中央に桟唐戸、左右に花頭窓が並び上に連子欄間....軒廻りは二軒繁垂木、組物は大斗肘木で、肘木は繰形付き
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

称名寺-(2) (横浜)

2018年11月07日 | 寺社巡り-神奈川

【横浜・金沢区】金沢北条氏一族の菩提寺として発展したが、元弘三年(1333)、鎌倉幕府滅亡とともに金沢北条氏も滅んだため、伽藍の維持が困難となり、衰退した。
江戸時代に入って創建当時の堂塔の姿を失ったが、まもなく復興が始まり、金堂は天和元年(1681)、惣門(赤門)は明和八年(1771)、仁王門は文政元年(1818)にそれぞれ再建され、その後、釈迦堂が文久二年(1862)に建立され、いずれも現在に至る。
堂宇背後の金沢三山の一つの日向山の山中に開基・北条実時の墓、そして境内に七堂伽藍を整えた実時の子・顕時と顕時の子・貞顕の供養塔がある。

金沢三山を背に南面で建つ金堂に着く。 金堂は江戸初期に建てられた禅宗様建築で、正面に桟唐戸や花頭窓が並び、荘厳な雰囲気を醸し出している。
金堂の右隣に、江戸末期に建てられた茅葺の釈迦堂が優雅に構えている。 茅葺で起り屋根の仏堂は優美で、山寺の風情を漂わせるたたずまいだ。 釈迦堂の前に宝号石碑が立ち、また、高い台座上の大きな蓮華座に地蔵尊像が鎮座して参詣者を見守っている。 丸彫りの地蔵尊坐像は、左手に宝珠を持ち、右手は衆生の畏れを去らせる施無畏印だ。
阿字ヶ池に架かる朱塗りの太鼓橋の上から境内をぐるりと眺めるのを楽しみに再訪したが....。 とはいえ、古都鎌倉ではみられない美しい浄土庭園の景観を楽しめたので、満足して帰路についた。

境内背後の金沢三山(金沢山、稲荷山、日向山)を背に建つ金堂・釈迦堂・鐘楼

入母屋造本瓦葺の金堂....江戸初期の天和元年(1681)の再建

桁行五間、梁間五間の金堂は禅宗様建築....向拝屋根がなく、周囲に切目縁を巡らす
 
風格が漂う禅宗様建築の金堂....正面の縁に鰐口が下がる/堂前に置かれた露盤宝珠を乗せた宝形屋根の常香炉....正面に「三つ鱗」の寺紋
 
軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手目が尾垂木の二手先、柱間の台輪上に詰組を配す/正面三間に両折両開で上部に格狭間を入れた桟唐戸、両脇間に花頭窓

大棟端に鳥衾付鬼板、拝みに蕪懸魚、妻飾りは良く見えないが二重虹梁大瓶束か(?)....身舎側面の五間は桟唐戸、花頭窓、二間の蔀戸風板窓(かな)、そして羽目板壁

金沢三山を背に建つ南面の金堂と釈迦堂....釈迦堂の屋根頂上に「三つ鱗」の寺紋付露盤が乗る

宝形造茅葺で起り屋根の釈迦堂....文久二年(1862)の建立

方三間の釈迦堂は金堂と同様、禅宗建築様式....周囲に擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす

軒廻りは二軒繁垂木、組物は三手目が尾垂木の三手先、中備は台輪上に脚間に「三つ鱗」の寺紋を入れた板蟇股
 
軒天井と二手目と三手目の間に軒支輪がある...正面中央間に両折両開の桟唐戸(内側は腰高格子戸)、両脇間に花頭窓....側面は中央に桟唐戸で、正面側に1つの花頭窓
 
釈迦堂前に立つ御宝号石碑と高い台座と大きな蓮華座に鎮座する丸彫りの地蔵石仏/釈迦堂前の境内に佇む石塔....頂部に宝珠を乗せ笠の形が違うが変形の宝篋印塔と思う

入母屋造銅板葺の鐘楼(2009年撮影)

格天井から梵鐘が下がる(2009年撮影)
 
金沢山(観音公園)に鎮座する3体の石仏と五輪塔(2009年撮影)/台座の上に鎮座する童児を抱いた観音菩薩坐像(2009年撮影)

金沢山(観音公園)の壇上積の基壇に建つ八注造屋根の八角堂....今はないらしいが、堂内には地下に通じる秘密?の階があったとか....(2009年撮影)

金沢山(観音公園)の石造り基壇上に鎮座する入母屋造屋根の石祠(2009年撮影)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

称名寺-(1) (横浜)

2018年11月04日 | 寺社巡り-神奈川

【横浜・金沢区】鎌倉時代の正嘉二年(1258)、金沢氏の祖で幕府の執権を補佐した武将・北条実時が六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂(阿弥陀堂)が始まりとされる。
文永四年(1267)、北条実時が下野薬師寺の僧・審海を開山に招いて寺院を建立、称名寺と号した。 その後、伽藍の整備に着手、実時の子の顕時の時代に弥勒堂、護摩堂、三重塔などが建立された。 更に、顕時の子の貞顕が伽藍の再造営を行い、鎌倉末期の元亨三年(1332)には苑池を中心に浄土式庭園を配し、周りに金堂、講堂、仁王門など七堂伽藍を備えた壮麗な浄土曼荼羅に基づく伽藍が形成された。 宗旨は真言律宗(別格本山)で、本尊は弥勒菩薩像。 新四国東国八十八所霊場75番札所。(最初の写真は2009年撮影)

薄曇り空だった先日、9年振りに称名寺を訪れた。 2009年9月に京急線の駅舎やホームに貼られていた称名寺のPRポスターをみて訪問して以来で、当時は「寺社めぐり」を始めてまだ日が浅く、境内の景観や伽藍、堂塔の外観を撮影するだけだった。 今回は、関心が薄くて見過ごしていた古建築の様式や細部意匠をあらためて鑑賞、また、境内の隅に佇む石仏などをじっくり拝観した。 (称名寺の石仏については別途投稿)
朱塗りの赤門をくぐり、桜並木の石畳の参道を進むと、左手に塔頭の光明院があり、約350年前の江戸初期に建てられた趣がある茅葺の門がひっそりと佇み、門前に赤い前垂れをした地蔵石仏が鎮座。
参道の突き当りに禅宗様式建築の仁王門が聳え建ち、鎌倉時代造立の貴重な木造金剛力士像が安置されている。 力強い姿をした憤怒の相の金剛力士像に迎えられて、堂宇境内に入る。 阿字ヶ池に架かる反橋と平橋を渡って仏堂に向かおうとしたが、残念ながら、両橋は改修工事のため通行止めに....。 
阿字ヶ池の左側を進み、阿字ヶ池・太鼓橋・仏堂が美しく織り成すお馴染みの景観を眺めながら仏堂に向かう。 境内の左隅に、北条実時が設けた日本最古の武家文庫である「金沢文庫」に通じるトンネルがあり、その前に広がる平地では、中高年女性10名ほどがヨーガのような健康体操に汗を流していた。

切妻造本瓦葺の惣門(赤門・四脚門)は明和八年(1771)の再建....袖塀前に立つ2基の石柱、左は天明三年(1783)、右の霊場標石は昭和十年(1935)の造立
 
天明三年(1783)造立の笠付き石柱....側面に「金澤文庫〇跡」の刻/惣門に「称名寺」の額と「真言律宗別格本山」の聯が掲げられている

塔頭光明院の切妻造茅葺の袖塀付き表門(四脚門)....寛文五年(1665)建立、門前には赤い前掛けをした丸彫りの地蔵菩薩像が鎮座

石畳参道の突き当りに聳え立つ三間一戸の楼門の仁王門....鎌倉時代元亨三年(1323)造立の金剛力士像を安置

入母屋造銅板葺の仁王門(楼門)....文政元年(1818)の再建、獅子口を乗せた軒唐破風付きで兎毛通は鳳凰の彫刻
 
禅宗様建築の仁王門....軒廻りは二軒扇垂木、組物は二手目が尾垂木の二手先、柱間の台輪上に詰組と2つの間斗束が配されている....上層正面は桟唐戸、両脇間に異形の花頭窓/上層に擬宝珠高欄付き廻縁...腰組は三手先で、上層と同じ柱間の台輪上に詰組と2つの撥束が配されている
   
仁王門で仏敵の侵入を防ぐ憤怒の形相の阿形吽形の金剛力士像....像高は約4m(2009年撮影)

仁王門を通して眺めた反橋と金堂(2009年撮影)
 
仁王門前の台座に整然と鎮座する12基の石仏...庚申塔3基(青面金剛庚2基&三猿)、六字名号塔4基、札所標石2基など/中央に鎮座する寛保三年(1743)造立の駒形青面金剛庚申塔(日月瑞雲、2鶏、邪鬼、3猿)

阿字ヶ池の中之島に架かる反橋と平橋(訪問時は両橋修復中)そして奥に金堂

お馴染みの称名寺の景色

池の辺の木立の中に鎮座する石祠越しに眺めた阿字ヶ池を中心とする浄土式庭園

「新宮古址」の標石と流造銅板葺の新宮社殿....寛政二年(1790)再建で、正面板扉に側面は羽目板壁、切目縁を巡らす

金澤文庫に通じるトンネル傍の植栽前の10基の石仏と5基の五輪塔....殆どの下半分または下部の一部が地中に埋もれている

3基の青面金剛庚申塔....左から元文元年(1736)造立の舟光背型、造立年不明の唐破風笠(欠落)付型、宝暦五年(1755)造立の笠付

阿字ヶ池の西側から眺めた金堂、釈迦堂、鐘楼、左隅に朱印所
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本覚寺 (鎌倉)

2018年07月30日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・鎌倉市】室町時代の永享八年(1436)、日蓮宗の僧・一乗院日出上人が武将・足利持氏から寄進を受けた天台宗寺院を日蓮宗に改め、本覚寺として創建した。
元の天台宗寺院は、鎌倉公方・足利持氏が、源頼朝が鎌倉幕府の裏鬼門(南西)にあたる方向の鎮守として建てた天台宗系の夷堂があった地に建てた。 相模の戦国大名・後北条氏歴代の外護を受け、徳川家康より朱印状を拝領した。 佐渡流罪となっていた日蓮上人(後に身延山に隠棲)は、文永十一年(1274)に流罪を解かれて鎌倉に戻り、一時この夷堂に滞在し、辻説法や布教活動の拠点としていた。
身延山を再興した二代目住持日朝が身延山への参詣が困難な人たちのために、身延山より日蓮上人の遺骨を分骨して本覚寺に納めたことから「東身延」あるいは「日朝さま」と呼ばれた。 宗旨は日蓮宗(本山)で、本尊は釈迦三尊像。 鎌倉十三仏霊場第3番札所(文殊菩薩)、鎌倉江ノ島七福神札所(恵比寿)。

滑川に架かる夷堂橋を渡って門前に着くと、改修中(2008年拝観時)の仁王門に鎮座する少しくたびれたようなお姿の仁王像に迎えられる。
仁王門をくぐると直ぐ右手に、珍しい形をした夷堂が建つ。 源頼朝が建てた「夷堂」を復元したもので、宝形造りだが各降棟の軒先に小さな破風を設け、その下に入口を設けた初めて見る造りの仏堂だ。
夷堂の近くに、二頭の龍が絡み合う姿の珍しい水口を設けた手水舎がある。 中央が切石敷の参道の先に、正面七間全てが両折両開の桟唐戸の本堂、その右手には「東身延」と呼ばれている由来の祖師分骨堂が建つ。 本堂の向拝には大きな鰐口が下がる。 祖師分骨堂は重層の禅宗様で、正面に桟唐戸と花頭窓があり両層の軒隅に風鐸が下がっている。 堂内に日蓮上人の分骨が納められているためか、神聖な雰囲気が漂っている感じがする....合掌。
境内には刀工として有名な正宗の墓と宝篋印塔があるが失念した。
 
小町大路に面して建つ楼門....手前は滑川に架かる夷堂橋/門前に「髭題目」が刻まれた題目塔が立つ

入母屋造桟瓦葺の楼門(仁王門)....江戸時代の建立で、明治初期に三浦半島の寺院から移されたとされる....上層に擬宝珠勾欄
 
楼門に鎮座する阿形吽形の木造仁王像....仏敵の侵入を防いでいる

二頭の龍の水口がある切妻造銅板葺の手水舎の傍から眺めた境内と本堂

入母屋造桟瓦葺の本堂....大正八年(1919)の建立で、壇上積基壇上に建つ....本堂前の境内に蕨手に風鐸を下げた1基の金属製灯籠が立つ

軒廻は二軒繁垂木、向拝は柱上に出三斗、中備は実肘木を乗せた蟇股....向拝の軒唐破風に鳥衾を乗せた鬼瓦、兎の毛通しは猪の目縣魚
 
正面七間全てに両折両開で上に連子を入れた桟唐戸....内側に腰高格子戸と菱格子欄間/向拝に大きな鰐口、縁に釣灯籠が下がる

主屋の組物は実肘木を乗せた出組で中備は蟇股、蛇腹支輪を設けている....扁額「〇〇閣」は読めず!

周囲に擬宝珠高勾欄を設けた七間四方の本堂、正面の流向拝に鳥衾付鬼瓦を乗せた軒唐破風

変形の宝形造銅板葺の夷堂....昭和五十六年(1981に復元....源頼朝が建てた天台宗系の夷堂は本覚寺創建時に境内に移築された
 
各降棟の軒部に小さな破風を造っていて軒先は八角....身舎の角部に入口を設け、引戸の腰高菱格子戸で上に「夷尊堂」の扁額が掲げられている

基壇に建つ重層の宝形造桟瓦葺の祖師分骨堂....二代目住持日朝のときに身延山より移した日蓮上人の分骨を納めている

祖師分骨堂は正面三間、側面四間で正面中央間は両折両開の連子入の桟唐戸、両脇間に花頭窓

上層一間の組物は平三斗で中備は蟇股のようだ....裳腰側面に二間の花頭窓と二間の羽目板、上層・裳腰いずれも一軒繁疎垂木、よく見えないが裳腰の組物は大斗雲肘木に見える、扉上の虹梁に蟇股が乗る

入母屋造桟瓦葺の鐘楼....転びの柱、四方の頭貫と内法貫との間に精緻な彫刻
 
軒廻りは二軒繁垂木、大棟に獅子口、拝みに猪の目縣魚が下がる/応永十七年(1410)鋳造の梵鐘が下がる

切妻造桟瓦葺で山門....大きな頭貫と木鼻,透かしのある木製袖塀を備えている....祖師分骨堂近くにある薬医門

境内に立ち並ぶ石碑群
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長壽寺 (鎌倉)

2018年07月28日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・鎌倉市】室町時代初期の元亨三年(1323)~延元元年(1336)の間、初代鎌倉公方の足利基氏(尊氏の四男)が、父の菩提を弔うため古先印元を開山として尊氏の屋敷跡に創建した。
創建当時は七堂伽藍の大寺だったが、文安五年(1448)の火災に遭った以降、規模が縮小した。 境内奥のやぐらには、足利尊氏の遺髪を埋めたとされる変形の五輪塔がある。 建長寺の境外塔頭。 宗旨は臨済宗(建長寺派)で、本尊は観音菩薩像。

鎌倉街道に面して建つ長寿寺には2008年12月の訪問だったが、非公開だったので2つの門から境内を拝観した。 階上の茅葺の山門を見上げながら急な石段を上り詰めると、大きな蓮花の台座に半跏趺坐で鎮座する地蔵菩薩像が迎えてくれる。 地蔵尊像に対面して石塔があり、五重に笠を乗せた層塔が亀跌の上に立つ珍しい石造物だ。
石塔の前で少し背伸びすると、築地塀と垣根の上の紅葉の木々の間に観音堂の茅葺屋根が見える。 山門から境内を眺めると石畳参道の先に簡素な構えの本堂、その右手に書院が連なって建つ。 本堂の正面扉が少し開いていたので、ズームアップで法界定印を結ぶ釈迦如来坐像を撮影させて頂いた。
亀ヶ谷坂側にある通用門に回って再び境内を眺める....山門から眺めたのとは一味違う光景が広がっている。 松や紅葉した木立がある苔生した庭園は、手入れが行き届いていて美しい。
近年は春と秋に週末限定で公開されているようなので、機会をみつけて再訪したいものだ。
 
鎌倉街道に面した急峻な石段の上に建つ茅葺の山門....柵に「一般拝観出来ません」の木札が下がる/門前で亀趺上に立つ石造の五重層塔

切妻造茅葺の山門(四脚門)....江戸後期(18世紀後期)建立の禅宗様建築で、柱が少し転びになっている....左右に続く塀は瓦屋根で白壁の築地塀

軒廻は二軒平行垂木、妻飾は虹梁大瓶束で両側に笈形付き、台輪上に出三つ斗(正面二組、側面一組)
 
門前で大きな花弁の蓮華座に半跏で鎮座する地蔵菩薩像....地蔵尊像と向かい合わせで五重の笠を載せた石造り層塔が立つ/亀趺上に立つ大きな初重軸部を有す石造五重層塔....初重軸部の正面に「佛頂尊勝陀羅尼」の刻

塀越しに眺めた宝形造茅葺の観音堂の屋根....観音堂は室町時代創建という奈良県円成寺の多宝塔を大正時代に移築・改築したもの

山門から眺めた石畳の参道と本堂

入母屋造桟瓦葺の本堂..平成十八年(2006)新築....山門から本堂に延びる四半敷の美しい参道

軒廻りは二軒疎垂木、柱上に舟肘木、三間の扉は腰高舞良戸風、扉上に連子欄間....向拝がない
 
本堂に祀られている法界定印を結ぶ舟形光背の釈迦如来坐像/参道正面に本堂、右手に寄棟造桟瓦葺の書院が建つ

亀ヶ谷坂側の切妻造桟瓦葺の門(薬医門だったか)....通用口を設けた簡素な木造りの袖塀
 
亀ヶ谷坂側の門を通して見えるのは玄関と書院
 
本堂は向拝がなく正面に縁を設けた古民家風の建物....右手に玄関を設け、前縁に半鐘が下がる

亀ヶ谷坂側の門から眺めた山門と手入れが行き届いた前庭

本堂、書院、観音堂に囲まれた庭園....木立の奥に茅葺の観音堂が建ち、堂内に観音像、足利尊氏像、古先印元像が祀られている

松や紅葉した木々がある苔生した美しい前園....中央奥の建物は銅板葺の庇を設けた桟瓦葺の書院
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

円応寺 (鎌倉)

2018年07月27日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・鎌倉市】鎌倉時代の建長二年(1250)、智覚禅師(桑田道海)を開山として創建された。 建長寺の塔頭。 もとは滑川の河口近くにあった新居(荒井)閻魔堂と呼ばれる小堂が起源とされるが、元禄十六年(1703)の大地震と津波で倒壊したため、建長寺門前の現在地に移されたとされる。
本堂は別名「閻魔堂」や「十王堂」と呼ばれ、鎌倉時代に流行した十王思想に基づいた十王像が安置されている。 宗旨は臨済宗(建長寺派)で、本尊は運慶作とされる木造閻魔王坐像。

急峻な石段の上に建つ山門をくぐって境内に....境内の奥に本堂「閻魔堂」が建つ。 正面五間の閻魔堂は腰羽目板と白壁だけの簡素な造りで、両折両開の桟唐戸と脇間に大きな花頭窓があるだけだ。
堂内に置かれた賽銭箱の直ぐ傍の柱の間に、十王像を隠すように少し長目の五色幕が垂れ下がっている。 身を屈めて五色幕をくぐると、正面に鎮座する憤怒の形相の閻魔王と目が合う。 眼をカッと開き口を大きく開けた閻魔王は、まさに鬼の形相で迫力満点だ。 閻魔王を中心にずらりと居並ぶ十王像の鋭い視線を浴び、まるで煩悩を見透かされているような感覚になったので、合掌して早々に閻魔堂を出た。
こじんまりとした境内のほぼ真ん中に茅葺の鐘楼や幾つかの石仏・石造物が佇むが、特に小棟造りの鐘楼は「日本むかし話」に出てくるような佇まいで、すごく味わいがあっていい。
 
急峻な石段の上に建つ山門/門前に立つ元禄四年(1691)造立の「閻魔王」の石碑

切妻造本瓦葺の山門(薬医門)....通用口のある瓦屋根白壁の袖塀がある

山門を通して眺めた草木に覆われた境内

石燈籠が立つ石段の先に本堂、右手に鐘楼、左手に庫裡が建つ....本堂前には小さな覆屋に常香炉

参道脇に立つ2基の石燈籠越しに眺めた茅葺の鐘楼

露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺の本堂....江戸初期(17世紀後半)創建で、昭和期に古材で再建された

桁行五間で梁間五間、軒廻は一軒疏垂木、柱上に大斗肘木、中央間は両折両開の桟唐戸、脇間二軒には大きな花頭窓と小壁
 
本堂内の五色幕の奥に運慶作と伝える本尊の閻魔大王像(重文)を中心に地獄で亡者の審判を行う十王像がずらりと鎮座....運慶が笑いながら彫ったので閻魔大王も笑っているようにみえるという伝説から「笑い閻魔」ともいわれ親しまれている

寄棟造茅葺の鐘楼....江戸後期(18世紀末)の建立

丸桁を支える斗栱は雲肘木が乗る出三斗、頭貫上の台輪の中央に刳抜蟇股が乗る

前庭の松の老木と小棟造りの茅葺鐘楼は山岳寺院のような風情が感じられる

本堂前の参道脇に鎮座する地蔵尊像と笠付逆修塔(造立年を失念)
 
蓮華座に鎮座する地蔵尊像....錫杖と如意宝珠を持つ

境内に鎮座する2体の舟光背型墓碑石仏..左は享保十四年(1729)、右は延享二年(1745)造立のよう
 
庭園に立つ2基の石燈籠と鎮座する数体の小さな石仏
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする