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何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

妙法寺-(1) (鎌倉)

2025年03月21日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・鎌倉市】鎌倉時代の建長五年(1253)、日蓮が安房から移り住んだ松葉ヶ谷に結んだ草庵が創建とされる。 実質の開山は、後醍醐天皇の子護良親王の遺児である幼名楞厳丸、後の日叡上人(日蓮門下僧)。 日叡上人は室町時代の延文二年(1357)、宗祖日蓮を偲び遺跡を守るため、かつ亡き父・護良親王の菩提を弔うためこの地に堂塔伽藍を建てて中興し、幼名から楞厳山妙法寺と名付けた。 宗旨は日蓮宗で、本尊は一塔両尊四師。

◆住宅街の中を進んで惣門前に着くと、石段上の門前に「松葉谷御小庵霊跡」と彫られた標石が建つ。 室町時代末建立でうっすらと朱色の跡が見える惣門は固く閉じられている。 直ぐ左手の切石敷の参道を進んで入山するが、直ぐの本堂境内はしっとりと緑に包まれていて本堂の全容が見えない。 本堂に近づいても木々の間に向拝部分が見えるだけだ。江戸後期文政年間に建てられた総欅造りで趣のある建物だが、正面全体が撮れず閉口。 向拝の軒下に目をやると、木鼻や水引虹梁上の龍そして兎毛通しの鳳凰など精緻な彫刻が施されている。

△石段の上に総門が建つが閉門されていて、境内へは左手の狭い切石敷の参道から入る

△門前に建つ標石は昭和五十六年(1981)の造立で、「松葉谷御小庵霊跡」と彫られている

△切妻造銅板葺の総門....室町時代末の建立で仁王門、釈迦堂跡との一直線上に建つ

△総門の軒廻りは二軒繁垂木....親柱を繋ぐ頭貫上に何もなく、控柱を繋ぐ頭貫上には2つの平三ツ斗を置く

△狭い本堂境内には植栽が茂り、参道からは唐破風を設けた屋根しか見えない

△入母屋造銅板葺で総欅造りの本堂....文政年間(1818~1830)、肥後細川家の寄進で建立

△本堂前庭には木々が茂っていて、本堂の正面全体がよく見えない

△正面中央間は両折両開の桟唐戸、両脇間には横格子戸の引き違い戸

△向拝に精緻な彫刻が施されている....身舎柱と向拝柱のいずれも角柱で、向拝柱は面取り角柱

△向拝の彫刻は水引虹梁に梅(と思う)、上に3本爪の龍、その上の梁上に鳥(鳩?)、兎毛通しは鳳凰

△唐破風の兎毛通しの鳳凰の彫刻

△中央間の彫刻が施された頭貫の上に「楞厳山」の扁額....中央間の中備は木鼻付き平三ツ斗と2つの本蟇股

△身舎は五間四方で軒廻りは二軒繁垂木、組物は木鼻付き平三ツ斗で脇間の中備は本蟇股

△彫刻が施された海老虹梁....虹梁の持送りにも彫刻

△本堂左前庭の植栽と巨石の間に佇む小さな石燈籠

△本堂に向かって左側に建つ庫裡・寺務所

△本堂と庫裡を繋ぐ銅板葺屋根の高床渡り廊下

△本堂右側前庭の植栽の中にひっそりと佇む石燈籠と多層石塔

△古代善導寺型に類似した石燈籠/初層四方の軸部に仏像を浮彫した十三重石塔

◆本堂と惣門の間の庭の植栽の中に、笠の上に巨大な相輪を乗せた宝篋印塔が建つ。 相輪には本来2つの請花が3つあり、さらに輪数が九輪ではなく六輪なのは不思議だ。 一方、塔身と基礎には輪郭を付け、塔身に「華」、基礎に「経」の文字が彫られていて日蓮宗の寺院らしい。 惣門は禅宗様を基調とした建物で、仁王門と釈迦堂跡とを結ぶ直線上に建つ。 仁王門に向かう参道を進みながら、本堂の妻面を拝観。 妻飾は混成複合式だが、大虹梁と二重虹梁の間に配している巨大な本蟇股に目を奪われた。

△本堂と総門の間の庭に建つ笠に大きな相輪を乗せた宝篋印塔

△請花が3つ(本来は2つ)ある大きな相輪....また、請花の間の輪数は九輪ではなく何故か六輪/反華座の上の塔身と基礎に輪郭を付け,塔身に「華」,基礎に「経」の文字が彫られている

△惣門は禅宗様を基調とした四脚門で、親柱と控柱は木製の礎盤に乗っている

△梁行きは腰貫、控柱の頭貫が通り、棟の近くで海老虹梁で結ばれている(海老虹梁式の様式)

△法華堂への参道から見た本堂....前三間は横格子戸の引き違い戸....後ろ二間は腰高明かり障子窓(と思う)/周囲に擬宝珠高覧付き切目縁....大棟端に鳥衾を乗せ唄鬼板

△妻破風の拝は二重懸魚で妻飾は混成複合式....大虹梁と二重虹梁の間に巨大な蟇股を配している



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大明寺-(3) (横須賀)

2025年01月31日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・横須賀市】江戸時代になると大明寺は三浦半島における”不受不施義”の拠点の一つとなり、これを禁教とした江戸幕府や本山・本圀寺から弾圧を受けた。 大明寺の住持も追放されたが、太田道灌の末裔(遠州浜松藩藩主・太田資宗)の計らいで浜松・宗林寺の日成が大明寺に入って救った。
最盛期には三浦半島を中心に30以上の末寺を擁し、本堂や祖師堂など堂宇26棟から成る伽藍の大寺だったが、明治の廃仏毀釈により寺勢は衰退、さらに明治十九年(1886)に仁王門を除いて焼失、その後に再建された。

◆境内の西側に、鐘楼堂、宝塔、地蔵堂そして日蓮聖人像が青空を背にして建ち並んでいる。 入母屋造り本瓦葺きの鐘楼堂は、禅宗様の二軒扇垂木で支輪がある。 慰霊塔の宝塔は白で珍しいが、石灰岩製なのかな。 地蔵堂には3体の地蔵尊像が鎮座し、中央は稚児を抱いた水子慈母尊。 堂宇に向かって鎮座する合掌日蓮聖人像の台座に、「立正安国」の表記がある。 本堂に向かって右隣に、外壁が全て白壁の七面堂が建つ。 聞きなれない御堂名だが、七面堂には法華経と法華経を信仰する人々の守護神で七面天女とも呼ばれる女神”七面大明神”を祀っている。

△境内の西側に建ち並ぶ鐘楼、宝塔、地蔵堂そして日蓮聖人像

△入母屋造本瓦葺の鐘楼堂....大棟端に鳥衾をのせ、拝は三つ花懸魚

△軒廻りは二軒扇垂木で支輪がある

△白い宝塔は慰霊塔、宝形造りの地蔵堂

△地蔵堂に鎮座する三体の地蔵尊像....台座に「水子慈母尊」/「立正安国」の表記がある台座に鎮座する合掌日蓮聖人

△本堂前から眺めた本堂と奥に七面堂

△七面堂は昭和五十六年(1981)の建立

△入母屋造桟瓦葺の七面堂....法華経及び法華経を信仰する人々の護法神”七面大明神”を祀る

△七面堂....廻縁はなく、白壁に一切窓がない....建物は非対称の造りで、向かって左に突出部がある

△「七面堂」の扁額が掛かる中央間はガラス入りの舞良戸風の扉....向拝階段の左右に身舎から壁を設けている/少し開いた扉から拝観した七面大明神....手前に打ち出の小槌と袋を持つ大黒天が鎮座

△軒廻りは二軒疎垂木で組物は平三つ斗....向拝に鰐口が下がる

◆七面堂の直ぐ前脇の入母屋造りで瓦葺きの覆屋に流造りの稲荷社が鎮座している。 七面堂の南側に高台の墓所への石段があり、石段下の脇に、墓所に向かう参詣者を見守るように円光を背負う六地蔵尊がおられる。 石段の途中から七面堂の背面を見ると、全面白壁なのだが何故か切妻破風を設けている。 また、本堂の南側の妻面にも力神がいて、北側とは異なり左手ではなく右手で梁を支えている。

△七面堂の左前脇に稲荷社、高台の墓所への石段そして六地蔵尊が鎮座

△入母屋造桟瓦葺の覆屋に鎮座する稲荷社

△流造銅板葺の稲荷社....擬宝珠高欄付き縁、脇障子がある....覆屋の天井は格天井

△墓所に向かう参詣者を見守るように鎮座する六地蔵尊像

△平成十年(1998)の造立で、鎮座する円光を背負う六地蔵尊像

△石段の途中から見た稲荷社が鎮座する覆屋/七面堂背面の外壁は白壁のみだが切妻破風を設けている

△七面堂後方の高台途中に建つ題目日蓮大菩薩の石碑

△本堂南側の妻面の大虹梁に鎮座して肩と右手で上の梁を支える力神/.「南無日蓮大菩薩」と彫られた石碑








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大明寺-(2) (横須賀)

2025年01月26日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・横須賀市】大明寺第11世の日遵が室町中期の武将・太田道灌の子という縁から、大明寺は相模国守護の扇谷上杉家を筆頭重臣として補佐した太田氏との関係が深かく、近世に入っても太田道灌の一族との関係が続いていた。 なお、大妙寺が江戸幕府から16石を与えられた際に、朱印状に大明寺と書き誤られて大明寺になったと伝える。

◆本堂に向かって左隣に高床の渡廊下で本堂と繋がった釈迦堂が建つが、屋根に大きな千鳥破風を乗せ小さな軒唐破風を設けた趣のある御堂だ。 大きな千鳥破風の二重虹梁風の妻飾を見ると、本堂と同じように大虹梁に鎮座する力神が上の虹梁を支えている。 しかし、本堂の力神と違って、右手で梁を支え、左手にはヘビが巻きついた太い杖か剣を持っているようみえる。
向拝前の左右に三つ葉葵紋を配した天水桶があり、軒先から鎖樋が下がる。 「常在殿」の額が掛かる中央間の桟唐戸の上部に大きな牡丹の花があしらわれているが、戸板にも彫刻の跡があるように見える....が、確認を失念。 少し開いた腰高明障子から堂内を覗くと、内陣に二重円光を背負う釈迦如来立像が鎮座している。 向拝の各部に様々な彫刻が施されているが、中でも唐破風の兎毛通に配された笛を吹く飛天像がいい。

△本堂に向かって左側(北側)の建つ釈迦堂

△本堂と釈迦堂を繋ぐ高床の渡廊下

△屋根に大きな千鳥破風を乗せた釈迦堂....本尊・釈迦如来像を祀る

△入母屋造銅板葺の釈迦堂(常在殿)....昭和六年(1931)の再建

△向拝の唐破風と千鳥破風に法輪を配した鳥衾付き鬼板を乗せている

△千鳥破風の拝は蕪懸魚、千鳥破風の妻飾は二重虹梁風で、大虹梁に鎮座して上の梁を支える力神....左手にヘビが巻きついた杖を持っているようみえる

△向拝の軒先から鎖樋が下がり、三つ葉葵紋を配した天水桶が置かれている....御堂の前と左右に擬宝珠高欄付切目縁

△水引虹梁の上に龍の彫刻、その両側に組物を置き、2本の梁の上に斗を連ねて向拝桁を支えている

△中央間に掛けられた「常在殿」の額、桟唐戸に大きな一輪のボタンのような彫刻を施している....戸板にも?...少し開いた明障子の間から、内陣に鎮座する釈迦如来立像が見える

△釈迦堂の内陣に鎮座する二重円光を背負う釈迦如来立像

△唐破風の兎毛通は笛を吹く飛天,妻面に2羽の鶴、太陽模様がある水引虹梁の上に霊獣の彫刻

△持送と水引虹梁に一体化した松の彫刻を配す

△向拝柱の木鼻は獅子と龍の彫刻

△向拝の水虹梁の上の組物から垂木に沿って配された4つの動植物彫刻の手挟

△身舎と水引虹梁を繋ぐ虹虹梁と持送に施された彫刻群

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組....正面五間で中央間は桟唐戸、脇間は舞良戸

◆釈迦堂に向かって左手に寺務所とみられる建物があり、釈迦堂との間に手水舎や数体の石仏がいずれも本堂を向いて鎮座している。 手水舎には大きな八角形の手水鉢が置かれ、中央に合掌する浄行菩薩が鎮座し、身を清める参詣者を見守っている。 水口は清水の中から這い出てきたような姿の龍で、3本爪だ。

△釈迦堂に向かって左手に大客殿兼寺務所の建物が建つ....堂宇境内側に手水舎や数体の石仏が鎮座

△近代的な造りの大客殿(大明寺斎場)....釈迦堂側に手水舎が建つ

△宝形造銅板葺の手水舎....浄行菩薩が鎮座する八角形の手水鉢が置かれている

△手水鉢の真ん中に鎮座する合掌する浄行菩薩/這い上がってきたような姿の3本爪の龍の水口

△手水舎の右側に蓮華座に鎮座する2体の仏像....左の頂部が平らな宝髻は観音菩薩か?/化仏を配した宝冠を被った観音菩薩....左手に未開蓮を持ち、右手は与願印(普通は左手だが)







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大明寺-(1) (横須賀)

2025年01月21日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・横須賀市】鎌倉時代の建長五年(1253)、宗祖日蓮上人がいまの横須賀市街の米が浜に上陸する際、助けた石渡左衛門聖が日蓮宗(法華経)に帰依して建てた”御浦法華堂(三浦法華堂)”が龍本寺の草創とされる。 この草庵は室町時代の明徳三年(1392)、第六世大明坊日栄によって現在地(衣笠)に移転され、大妙寺に改称された。 創建当時は広大な敷地に諸堂16棟が建つ大寺院だった。
宗旨は日蓮宗で、本尊は一塔両尊四菩薩。 一塔両尊四菩薩とは、一塔両尊(中央に宝塔、左右に釈迦如来・多宝如来)の下段に上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩の四菩薩を配置した仏像の形式。

◆衣笠通りに面した入り口に寺号標石、少し奥の参道脇に題目塔が建つ。 切石敷の参道が奥まで延び、途中に黒い冠木門が見える。 黒漆塗りの冠木門は両部鳥居のように稚児柱を設けている。 冠木門をくぐって進むと、右手に背の低い題目塔と石燈籠風の仏塔が佇む。 石燈籠風の仏塔は、火袋部分の四方に「金剛五仏」とみられる種子が刻まれている。 
さらに進むと石段の上に仁王門が聳え建つが、明治期の火災で唯一難を逃れた江戸中期の貴重な建物だ。 戸口の左右に金剛力士像が鎮座するが、16年前に訪れた時の迫力ある像と違って、なんだかマンガチックで可愛い面構えだ…失礼か、合掌。

△寺号標石と題目塔が建つ入り口から眺めた切石敷の参道....寺号標石は昭和五十六年(1981)の造立

△安政五年(1858)造立の題目塔/側面に「遠沾妙道」、「後五百歳」と刻まれている

△切石敷参道を跨いで建つ黒漆塗りの冠木門

△参道脇に建つ題目塔と石燈籠....題目塔は享保四年(1719)の造立....石燈籠の見えてる火袋の種子はキリーク(弥陀)と思う/石燈籠の火袋部4面に種子が刻まれている....見えてる種子は不空成就と宝生だと思うので、前の弥陀を入れると「金剛五仏」か?

△参道から見上げた石段上に建つ仁王門

△‏入母屋造桟瓦葺の仁王門(八脚門)....江戸時代の安永四年(1775)の建立で、明治十九年(1886)の火災から唯一難を逃れた建物

△大棟端と隅降棟端に丸大紋を入れた獅子口を配している....戸口左右の金剛柵の奥に仁王像が鎮座

△軒廻りは二軒繁垂木、蛇腹支輪があり組物は木鼻付き出組、柱間に脚間に文字彫刻を配した本蟇股

△仁王門の戸口の梁上に掲げられた山号「金谷山」の扁額

△仁王門に鎮座する阿形・吽形の仁王像....2008年訪問時の迫力ある像と違い、近年の作でマンガチックな面構えだ

△平成二十年(2008)訪問時の吽形仁王像

◆仁王門の後方に堂宇境内への急な石段がある。 石段を上り詰めると境内が広がり、小高い山を背にして釈迦堂・本堂・七面堂が横一列に建ち並んでいる。 真ん中の入母屋造りの本堂は、向拝前が緩やかなグリーンのスロープになっていて高齢者に優しい配慮がなされているが、古刹の風情を損ねるようで少し残念だ。 本堂の正面に「観〇」の扁額が掛かるが、〇字が読めずだ。 調べたら、日蓮上人の書に「観心」というのがあるようなので…これだと思う。 中央間の桟唐戸に透かし彫り彫刻を配しているが、中国の故事に由来する一場面だと思われる。 本堂の入母屋破風の妻飾は二重虹梁風だが、大虹梁の上に鎮座する片膝立ちの力神が肩と左手で上の虹梁を支えていて面白い。

△仁王門後方の急峻な石段を上ると堂宇境内が広がる

△西面で建ち並ぶ諸堂は、左から釈迦堂、本堂そして七面堂

△境内に聳え立つ銀杏の古木とその根元に建つ平成三年(1991)造立の百度石

△入母屋造銅板葺の本堂....明治三十一年(1898)の再建....本尊の木造三宝本尊像を安置

△向拝前に階段がなく、グリーンのスロープに....三つ葉葵紋を配した天水桶に雨水を導くのは鎖樋ではなく金属筒状の樋

△正面五間の中央間は上部に彫刻が配された桟唐戸

△飾金具が施された桟唐戸に配された透かし彫りの彫刻は中国の故事に由来と思う

△中央間に鰐口が下がり、「観心」(と思う)と書された扁額が掛かる/水引虹梁の上に配された3本爪の龍の彫刻

△軒廻りは二軒繁垂木で、組物と中備えは木鼻付平ツ斗.....正面の脇間は舞良戸、長押の上は全て小壁

△北西側から眺めた本堂....大棟に3つの三つ葉葵の紋がは押されている

△本堂北側の妻面....舞良戸と長押の上は小壁、入母屋破風の妻飾は変形の二重虹梁式で大虹梁の上に力神を置いている

△大虹梁の上で肩と左手で上の虹梁を支えている片膝立ての力神像
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龍本寺-(2) (横須賀)

2025年01月06日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・横須賀市】日蓮上人を助けた石渡左衛門聖は日蓮宗(法華経)に帰依し、祈願跡地に建てた草庵が”御浦法華堂(三浦法華堂)”で、龍本寺の草創とされる。 この草庵は南北朝時代の明徳年間(1390~1394)に衣笠に移されて大明寺となった。 龍本寺は、日蓮32歳の像を祀ることから「米ヶ濱のお祖師様」と呼ばれて親しまれている宗門最初の霊場であり、大明寺の奥ノ院だともいわれる。 堂宇は市街地を見下ろす断崖絶壁の上に鎮座、東側の崖下から本堂に至る参道沿いに日蓮が37日間祈願した岩窟がある。

◆本堂に向かって左側に渡り廊下で繋がった鬼子母神堂が建つ。 鬼子母神堂は小棟造りで趣のある御堂だが、正面全面と側面の一部はすりガラス入り腰高格子引き違い戸だが、ガラスに反射する鈍い光が日蓮上人の古跡の風情を損ねていて少し残念だ。 本堂の東側に庫裡が建つが、16年前に訪れた時には庫裡は渡り廊下で本堂と繋がっていた。

△本堂の西側に建つ鬼子母神堂

△鬼子母神堂は桟瓦葺の渡り廊下で本堂と繋がっている

△鬼子母神堂は本堂と同じ江戸時代後期(19世紀前期~中期)の建築....左手に墓所が広がる

△寄棟造桟瓦葺の鬼子母神堂....廻縁はなく、正面三間は全てすりガラス入りの腰高格子戸....中央間は両引き違い戸で脇間は引き違い戸

△水引虹梁に施された彫刻は、虹梁上に龍、木鼻に獅子、持送に亀そして虹梁に鶴か?

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は木鼻付き平三斗で中備は撥束

△廻縁下は全面連子で塞がれ、縁を支える斗栱のような持送を設けた縁束

△本堂前に置かれた宗紋”井筒の橘”を配した鎖樋ない天水桶越しに眺めた庫裡

△入母屋造桟瓦葺の庫裡........2008年の訪問時は、庫裡は本堂とは渡り廊下で繋がっていた

◆境内東側の崖は擁壁で固められていて、擁壁に設けられた急峻な石段を下ると途中に岩窟がある。 そこは日蓮上人が37日間籠もって祈願した所で”お穴さま”と呼ばれている。 ”お穴さま”は日蓮聖人生誕の地に建つ誕生寺を向いて鎮座している。 とはいえ、”お穴さま”の前に建つ大きなマンションが東方を遮り、誕生寺を見護る邪魔をしているかのようだ。 そうそう、16年前に訪れた時にはなかった超高層マンションが本堂の左後方にど~んと建っていてやたら目立ち、古寺の堂宇の景観を残念している。

△東側の擁壁に設けられた急峻な石段参道の途中の岩窟に鎮座する”お穴さま”

△擁壁に埋め込まれた”お穴さま”は、日蓮聖人生誕の地に建つ誕生寺(日蓮宗の大本山)を向いて鎮座している

△岩窟前に佇む3基の石塔....造立年不詳の左の石塔に「南無日蓮大菩薩」の刻

△日蓮聖人が37日間籠もった岩窟

△境内南隅に本堂を向いて立ち並ぶ供養塔(蠟燭の形)と無縁塔と供養石

△「供養」とだけ彫られた大きな供養石

△「無縁塔」と彫られた石碑/本堂を向いて鎮座する左手に乳飲み子を抱く水子観音菩薩像        

△本堂の後方に鎮座する切妻造桟瓦葺の御堂....中に鳥居と社を安置/朱塗りの明神鳥居と水玉や瓶子などが乗る三方が供えられている




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龍本寺-(1) (横須賀)

2025年01月01日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・横須賀市】鎌倉時代建長五年(1253)の創建。 建長五年、法華経を所依として「南無妙法蓮華経」の題目を唱え、清澄山で立教開宗した日蓮上人が布教のため安房(千葉)から出船して鎌倉を目指したが、海難に遭遇して豊島(現在の猿島)に上陸した。 そこから白猿の導きで海路米ガ浜に向かうが、遠浅の浜で難儀しているところを公郷村(現在三春町)石渡家の先祖・石渡左衛門尉により助けられた。 米ガ浜に上陸した日蓮聖人は、海岸にあった恰好な岩窟の中に座を占め、37日間祈願したのち鎌倉へ出立した。 宗旨は日蓮宗で、本尊は日蓮聖人像。

◆背に陽を浴びながら石段を上ると、大きな千鳥破風と軒唐破風とが重なった屋根の本堂が眼に飛び込む。 堂前の両側には基壇上に金銅製燈籠が建ち、本堂に風格を醸している。
向拝に近づいて驚いた。 水引虹梁・木鼻・持送に施された彫刻、そして唐破風軒下の兎毛通。 妻飾に施された彫刻はいずれも精緻で実に見事だ。 特に虹梁上の龍は凄みがあり、まるで生きているような迫力だ。 また、兎毛通は飛龍の彫刻で珍しく、初めて見た。 向拝から少し離れて千鳥破風を見上げると、拝に笛を吹く天女らしき彫刻、そして妻飾にも龍の彫刻があり、流石に寺号に龍がつく寺院らしい。 あまりの素晴らしさに、江戸後期作の彫刻群をしばし堪能した。

△石段下から見上げた大きな千鳥破風を乗せた本堂の屋根

△入母屋造銅瓦葺きの本堂....江戸時代後期(19世紀前期~中期)の建立

△屋根に大きな千鳥破風を乗せ、軒に軒唐破風を設けた本堂

△向拝の水引虹梁、唐破風の兎毛通に妻面、さらに虹梁と持送に施された精緻な彫刻群

△水引虹梁の木鼻は獅子と獏(短い鼻、牙、カールした毛から推)....掛鼻かも?

△彫刻は水引虹梁の上の3つ爪の龍、唐破風の兎毛通は飛龍(応龍)で妻飾には宝船(と思う)

△向かって右側の虹梁と木鼻の彫刻....虹梁には鶴と松、持送に亀、虹梁の上は鳳凰か?

△向拝柱と身舎を繋ぐ海老虹梁と手挟にも彫刻が施されている

△向かって左側の虹梁と木鼻と持送....虹梁に鶴と2羽の兎、持送に亀、虹梁の上はクジャクか?

△獅子口を乗せた千鳥破風と手前の軒唐破風に日蓮宗の宗紋”井筒の橘”を配す/拝の彫刻は横笛を吹く天女か?....妻飾には5つの出組や龍の彫刻が施されている

◆本堂正面は全て桟唐戸で窓が無いが、荘厳さを感じさせる佇まいだ。 「聖人垂跡」の扁額が掛けられた中央間は6枚の桟唐戸だが、そのうちの中4枚に透かし彫りが入っているが、中国の故事に由来する彫刻だろうか? 本堂の東の妻側に移動し、入母屋破風を見上げる。 妻飾りは出組や大瓶束などが組込まれた混成複合式で、真ん中に力神が鎮座し、懸命に肩で梁を担いでいる。

△本堂は江戸時代後期の建立で、正面は全て桟唐戸で窓が無い

△正面五間で中央間は両開きの引き違い戸(と思う)、両脇間二間は両折両開の桟唐戸

△中央間は6枚の桟唐戸....長押上に掛けられた「聖人垂跡」と刻された扁額は明治九年(1876)の作

△中央間の4枚の桟唐戸に施された透かし彫り彫刻は中国の故事に由来するものか?

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手目が尾垂木の二手先、柱間に詰組(禅宗様?)

△本堂の周囲に擬宝珠高覧付き廻縁を巡らす....側面は8間で、内5間に桟唐戸

△大棟端に”井筒の橘”を配した獅子口、拝は三ツ花懸魚の変形、妻飾は混成複合式/中断虹梁の真ん中に鎮座する力神が上段の虹梁を担いで支えている

△本堂前の両側に青銅製燈籠、右手に題目塔が建つ

△昭和三十八年(1963)造立の青銅製燈籠  明治十五年(1882)造立の題目塔

△本堂前参道脇にある手水鉢....水口は水道の蛇口/青銅製燈籠の火袋と天水桶の側面に日蓮宗の宗紋”井形の橘”を配す


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安国論寺-(2) (鎌倉)

2024年12月21日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・鎌倉市】鎌倉時代の文応元年(1260)、日蓮三十九歳の時に御法窟で「立正安国論」を執筆し、前執権北条時頼に奏進した。 しかし、幕府に無視されたばかりか 日蓮聖人の舌鋒の鋭さから他宗教の僧侶や信者の怒りを買い、多くの攻撃や迫害を受けた。 日蓮聖人は、諸法難の内、四大法難の最初の「松葉ヶ谷の法難」だけでなく、「伊豆流罪」の時や「龍口法難」の時にもこの地で捕縛された。

★本堂前の庭にインド調の釈迦如来石仏と仏足石が鎮座し、石仏の後方奥に日蓮聖人が結んだ草案の跡地に御小庵と熊王尊殿が建つ。 御小庵は約180年前に尾張徳川家から寄進されたもので、庵の後方にある「立正安国論」を執筆した御法窟の拝殿。 御小庵の正面に不思議な形の文様を入れた奉納幕が張られ、縁と賽銭箱の間に「脚下照顧」と彫られた木札が置かれている。 御小庵の向拝の水引虹梁に二頭の精緻な龍の彫刻が配されているが、宝珠を奪い合っているような姿で動きを感じさせる。

△本堂前の庭に鎮座する石仏と仏足石....奥に御小庵(拝殿)と熊王尊殿が建つ

△2体の飛天(?)を配した円光の豪華な背もたれ付きの台座に鎮座するインド調の釈迦如来石仏....衣が体にぴったりフィットしていて肉体美を誇るような表現だ/足下安平立相の仏足石(跡)....足が平らで土踏まずがない、また古い形式のようで何も模様がない

△日蓮聖人は修行道場とした御小庵(奥に渡り廊下で繋がる御法窟)で「立正安国論」を執筆

△露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の御小庵....弘化二年(1845)再建の総欅造りで、尾張徳川家よる寄進

△側面二面だが正面は三間(と思う)で中央間に桟唐戸(内側に腰高格子戸)、脇間には格子窓があるようで、窓下の腰壁は縦羽目板....周囲に切目縁

△向拝の水引虹梁に施された精緻な彫刻群

△水引虹梁の上に3本爪の大小二頭の龍像....大きい龍は如意宝珠を持つ

△水引虹梁の左側の木鼻は正面獅子像で、側面は丸い目、小さい耳、カールした体毛から獏像と思う

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で柱間に詰組....上部に粽のある四隅の身舎柱に2頭の獅子の木鼻

△正面に不思議な文様を入れた奉納幕が張られている....扁額は「御小庵」か?/縁前に置かれた「脚下照顧」の木札

△御小庵(拝殿)後方の渡り廊下で繋がった奥に御法窟(岩屋)があり、日蓮聖人が住んだ草庵跡....ここで『立正安国論』を執筆

△御小庵に向かって右手に建つ熊王尊殿....日蓮聖人に従った熊王丸が勧請した熊王大善神を祀る....右手の急峻な石段は鐘楼「平和の鐘」への参道

△入母屋造銅板葺で妻入の熊王尊殿....平成六年(1994)の再建で、岩肌に半分隠れるように建つ

△軒廻りは一軒半繁垂木で組物は舟肘木....「熊王殿」の扁額

★本堂の右奥に墓所が広がり、南面窟への参道入り口に第二祖で六老僧中の一人の日朗上人の御荼毘所が建つ。 比較的緩やかな参道を登って裏山の中腹にある南面窟に向かう。 参道を上りつめると崖にコンクリートでアーチ型に固めた南面窟(化生窟)がある。 窟内に入ると石造りの小さな日蓮聖人像と猿像が鎮座している。 猿は法難に遭った日蓮聖人をこの洞窟に導いた白猿で、日蓮に差し出した御難おむすびを乗せた三方を抱えている。
南面窟から山の尾根道沿いに延びる獣道ような狭い参道を進むと、ちょうど御法窟の後方の裏山の上に鐘楼が建つ。 鐘楼すぐ近くに鎌倉市内と海岸が一望できる富士見台がある。 日蓮聖人は毎日、ここから富士山に向かって法華経を読誦していたとのこと…合掌。

△露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の日朗上人御荼毘所....第二祖の日朗上人は六老僧中の一人

△日朗上人御荼毘所は昭和五十七年(1982)の建立....堂前に建つ「日朗上人御荼毘所」と彫られた標石は寛延三年(1750)の造立....右手の緩い階段は南面窟への参道

△「師孝第一」の扁額が掛かる日朗上人御荼毘所の軒廻りは珍しい二軒吹寄垂木

△南面窟への参道の途中に石燈籠、右手に宝塔そして奥に多層石塔が佇む

△大きな四角の屋根を乗せた宝塔....屋根は明らかに石造りだが、首部から下の開いた扉がある軸部は金属(銅)製のように見えるが/十五重石塔....初層軸部の浅く掘られた宝珠の中に仏像が浮き彫り、台座各面に格狭間が線彫りされている

△裏山の中腹にある南面窟(化生窟).... 松葉ヶ谷法難で焼討ちに遭った日蓮聖人が山王権現の使いの白猿に導かれて難を逃れ、ここで一夜を明かした

△南面窟内に鎮座する日蓮上人立像と三方を抱えた猿像

△巻物と羂索を持つ石造日蓮聖人立像      御難おむすびが乗る三方を抱えた石造猿像

△墓所後方の山の尾根道沿いに建つ鐘楼

△入母屋造銅板葺の鐘楼....軒廻りは二軒繁垂木で、補強のため四方の頭貫に2本の支柱を配し、計12本の柱で屋根を支えている

△頭貫の上に「丸に桜」と「丸に牡丹」と思われる紋を配した意匠物が乗っている....梵鐘は「立正安国の鐘」や「平和の鐘」と呼ばれ、日蓮聖人が執筆した題目と「立正安国」の文字を写して鋳造されている

△鐘楼近くの富士見台....鎌倉市内と海岸が一望できる....日蓮聖人は毎日ここから富士山に向かって法華経を読誦したと伝える




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安国論寺-(1) (鎌倉)

2024年12月16日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・鎌倉市】鎌倉時代の建長五年(1253)、安房国の清澄山上で立教開宗した日蓮聖人が、当時の政治の中心の鎌倉に入り、名越松葉ヶ谷の岩窟に庵を結んだのが創建とされる。 日蓮宗第二祖で六老僧中の一人の日朗上人が、岩窟のそばに建てた「安国論窟寺」が始まりで、のちに安国論寺とよばれるようになったとされる。
日蓮聖人は修行道場とした御小庵と奥に連なる御法窟(日蓮岩屋)で32歳から約20年間過ごし、ここを拠点にして布教活動を行った。 宗旨は日蓮宗、本尊は南無久遠実成本師釈迦牟尼仏。

★門前の石段の上に「松葉谷根本道場」と彫られた標石と大きな石灯籠が建つ。 石灯籠の火袋に”三つ葉葵紋”が彫られているのは、増上寺の徳川家御霊屋から移されたものだからで、山内に九基あるそうだ。 山内最古の木造建築で、「安國法窟」の扁額が掛かる山門をくぐると、切石敷の参道が奥まで延びている。 参道を進むと左側に火袋に”三つ葉葵紋”を配した大きな石燈籠が建ち並び、右側に建つ手水舎には合掌地蔵菩薩像が水口に鎮座して参詣者を見守っている。

△安国論寺の門前.....山門は山内最古の木造建築物

△「松葉谷根本霊場」と彫られた標石は天保十年(1839)の造立....側面に「南無安國日蓮大菩薩」とある/石燈籠の火袋には三つ葉葵紋が彫られている

△切妻造桟瓦葺の山門....延享三年(1746)、尾張徳川家によって再建された唐様の四脚門

△控柱間に乗せた頭貫・台輪の上に2つの出三ツ斗が置かれている

△親柱間の梁の上の扁額「安國法窟」は、元禄四年(1691)佐々木文山の揮毫による

△親柱・控柱及び両柱を繋ぐ全ての頭貫に木鼻....頭貫に乗る台輪、また、組物を乗せた棟木と台輪にも木鼻を設けている/軒廻りは二軒半繁垂木

△山門付近から眺めた境内....切石敷参道脇の左側に日蓮の讃迎者である正岡子規の歌碑が、また、建ち並ぶ数基の石燈籠は東京増上寺から移されたもの

△参道右手に建つ切妻造桟瓦葺の手水舎

△寺社型手水鉢/身を清める参詣者を見守る合掌地蔵菩薩像....足元の台座が水口

★参道を進んだ先に、正面に「井桁に橘紋」を入れた奉納幕が張られた本堂が建つ。 本堂は昭和期の再建で簡素な造りで、外観を一見すると、外壁はガラスを入れた引き違い戸、菱格子欄間そして白壁の小壁だけのようだ。 堂内に入ると、柱が1本もなく広々とした空間になっている。 本堂に向かって右手に小庭があり、火袋に”三つ葉葵紋”が彫られた大きな石灯籠、各笠の軒下に垂木を設けた九重石塔、そして柱の下に据えて建物の重量を地面に伝える装飾化された礎石と思われるものなどの石造物がある。

△参道に枝を延ばすのは樹齢350年以上の山茶花....奥の本堂の前左右に青銅製天水盤が置かれている

△本堂手前の左前庭にある猿像を乗せた石塔....右手に棗形手水鉢がある

△石造猿像が四脚台座の上に鎮座/御難おむすびを乗せた三方を抱えた猿像....日蓮上人が鎌倉を目指して安房から船出し、海難に遭遇した際に助けてくれた白猿に由来か

△熊王尊殿前から本堂の前庭越しに眺めた本堂....本堂前に芝生の前庭があって正面から撮影できず

△入母屋造桟瓦葺の本堂....昭和三十七年(1962)の再建....本尊の十界未曾有大曼荼羅や日蓮聖人像などを安置

△中央間に「立正安国」の扁額,向拝に鰐口が下がり、正面に「井桁に橘紋」を入れた奉納幕(紋幕)が張られている

△本堂側面は全て腰高引き違い戸と上に菱格子欄間を設けている/鰐口が下がる向拝は彫刻等装飾性の意匠のものが無く簡素な造り

△軒廻りは二軒半繁垂木、組物は雲肘木で中備なし....菱格子欄間の上は全て白壁の小壁

△正面五間側面五間で、一見すると外壁は引き違い戸、菱格子欄間そして小壁だけのように見え、周囲に擬宝珠高覧付き切目縁を巡らす....堂内には柱が1本もない

△大棟端に「井桁に橘紋」を入れた獅子口、拝は変形の猪の目懸魚、妻飾は混成複合式

△本堂に向かって右手にある小庭に佇む大きな石灯籠と九重石塔、他に礎石(と思う)などがある....大きな石燈籠は境内に9基あり、東京増上寺の徳川家御霊屋から移されたもので火袋に”三つ葉葵紋”が彫られている

△九重石塔....各笠の軒下に垂木を設けている/石塔は禅宗様高欄を設けた台座の上に立ち、初層の軸部は空洞になっていて四方の各面に2ずつの小さなアーチ型窓がある






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常楽寺 (鎌倉)

2024年12月11日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・鎌倉市】創建は鎌倉時代の嘉禎三年(1237)、三代執権北条泰時が義母の追善供養のため粟船御堂に建て、退耕行勇が供養の導師をつとめたのが始まりとされる。 退耕行勇は粟船御堂の初代住持。 創建当時は密教系の寺院だったが、後に、五代執権北条時頼により鎌倉に招かれた宋の禅僧・蘭渓道隆(後に建長寺開山大覚禅師)が常楽寺の住持となり、建長寺を開山する5年前まで、常楽寺で宋の禅宗を広めたことから臨済宗の寺となった。
常楽寺の寺号は、泰時没後、その法名(常楽院殿観阿)からつけられ、開基を北条泰時、開山は高僧・退耕行勇。 建長寺創建後も常楽寺は、鎌倉臨済禅の根本・起源として在りつづけ、「常楽は建長の根本なり」としてあつく尊崇された。 宗旨は臨済宗(建長寺派)で、本尊は室町時代作の阿弥陀三尊像(脇侍は観音菩薩像・勢至菩薩像)、また、蘭渓道隆像も安置。(写真は2010年4月撮影)

★県道沿いの参道入口に「粟船山 常楽禅寺」と彫られた寺号標石が建ち、真っ直ぐな参道の奥に樹林を背にした山門が小さく見える。 銅板葺板張の脇塀を設えた山門は茅葺で味わいがある。 「粟船山」の扁額が掲げられた山門の戸口と門前に通行止めの柵が置かれている。 屋根を支える梁組をみると、本柱間に渡した頭貫と冠木を通して長く腕を延ばした2本の男梁が目を引く。
脇塀の潜り戸から木々に囲まれた境内に入る。 山門から切石敷の参道が延び、こんもりと茂る木々の先に仏殿が見え隠れしている。 基壇上に建つ小棟造り仏殿は方三間禅宗様の建物で、正面の小さな連子窓を配した桟唐戸と両脇間の花頭窓は趣がある。 殿内を覗くと内陣に上品下生の来迎印を結ぶ阿弥陀如来坐像を中心に、阿弥陀三尊像が鎮座している。 また、鏡天井には如意宝珠を握っている3本爪の迫力ある雲龍が描かれている。

△参道入り口に建つ「粟船山常楽禅寺」と刻まれた寺号標石....参道奥に樹林を背にした山門が小さく見える

△切妻造茅葺の山門....17世紀(1600年代)頃の建立

△通用口のある銅板葺脇塀を設けた山門....山号の「粟船山」の扁額が掲げられている

△山門は四脚門で、本柱間に渡した頭貫と冠木に直角に配した4本の男梁で軒桁を支えている

△前後の控柱と本柱に男梁を渡し、本柱に設けた女梁で男梁を支えている....本柱間の頭貫に木鼻を設けている

△本柱間に渡した頭貫と冠木を通した長く腕を延ばした2本の男梁

△山門から眺めた緑が茂る境内....切石敷の参道が山門から仏殿まで真っすぐ延びている

△仏殿手前の参道脇の老木の大銀杏(石碑あり)は開山禅師・退耕行勇が植えたとされる

△基壇の上に建つ禅宗様で小棟造りの仏殿

△寄棟造銅板葺の仏殿....元禄四年(1691)の建立で、方三間禅宗様式

△三間四方の仏殿の軒廻りは二軒繁垂木、台輪上の組物は平三ツ戸、中備は中央が詰組で左右に板蟇股を配す

△中央間は連子窓を設けた桟唐戸、両脇間は花頭窓....正面のみに連子欄間を設けている

△内陣に鎮座する本尊の阿弥陀如来坐像(上品下生の来迎印を結ぶ)、脇侍に観音菩薩像と勢至菩薩像....他に室町時代作の宋の禅僧・蘭渓道隆の像を安置

△仏殿鏡天井に描かれている狩野雪信画の「雲龍図」....如意宝珠を握る3本爪の龍は眼に光がない....昔、夜になると動き出したためという

★仏殿に向かって直ぐ左隣に入母屋造茅葺の文殊堂が建つ。 文殊堂は鎌倉英勝寺から移築された太子堂で、鎌倉時代作の文殊菩薩坐像を安置しているが、毎年1月25日の文殊堂祭の時にのみご開帳とのこと。 仏殿に向かって右側の境内に客殿を兼ねた本堂が建ち、大棟と鬼板に「三つ鱗」紋が配されていて北条家ゆかりの寺院であることが分かるが、正面は簡素な造りで意匠には装飾性のものが一切施されていない。 本堂の北側には色天無熱池という池と禅風庭園が広がる。 仏殿の裏側には開基北條泰時公と二人の臨済宗僧(圓通大應國師と龍淵胤和尚)が眠るとされる墓所があり、三基の石塔がひっそりと建つ....合掌。

△仏殿に向かって左隣に茅葺の文殊堂が建つ

△入母屋造茅葺で妻入の文殊堂....英勝寺から明治初期に移築された17世紀末頃建立の太子堂で、蘭渓道隆ゆかりの文殊菩薩坐像(鎌倉時代作)を安置

△文殊堂は三間四方で、向拝は瓦葺で身舎の正面と側面に切目縁

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は平三ツ戸、中備は中央間に蟇股....正面中央間は上部に狭間を設けた桟唐戸、両脇間は格子窓、腰壁は一枚板(と思う)

△閉じられた文殊堂の扉は、上部に狭間を配した桟唐戸/堂内に安置されている文殊菩薩坐像(NETから拝借))....毎年1月25日のみ御開帳

△文殊堂の右側面....中央に舞良戸風引き違い戸で、左右は横羽目板と腰壁は一枚板(と思う)....後方の下屋は内陣の一部か?

△仏殿に向かって右手に本堂兼客殿が建つ

△入母屋造銅板葺の本堂兼客殿(方丈)....大棟に北条家の家紋の「三つ鱗」が3つ配されている

△大棟端に鳥衾を乗せ「三つ鱗」紋を配した鬼板、拝なしで珍しい、妻飾は狐格子....柱むき出しの真壁造り

△仏殿に向かって右奥(本堂北側)に”色天無熱池”という池と禅風庭園が広がる

△本堂の正面は簡素な造りで、向拝の意匠などに装飾性のものが施されていない

△仏殿の裏手にある北條泰時公と二人の臨済宗僧(圓通大應國師、龍淵胤和尚)が眠る墓所

△三基の墓石は手前から建長寺十三世(住持)の圓通大應國師、中興開基の龍淵胤和尚そして北條泰時公の墓(三基いずれも伝)

△左は建長寺十三世(住職)圓通大應國師(南浦紹明)の墓、右は再中興龍淵胤和尚の墓/開基北條泰時公の墓

△切石敷の境内参道からみた庫裡(寺務所)






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大山寺-(2) (伊勢原)

2024年11月06日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・伊勢原市】中世には修験道が盛んになり、戦国時代には小田原を中心に栄えた大名・後北条氏に与し、大山寺の山伏は僧兵として活躍した。 明治維新に至るまでは朝廷・幕府より寺領を安堵された。 江戸時代以降の大山寺は寺領100石に加えて碩学料57石を賜り、住持である別当八大坊は大名相当の待遇を受け、高野山を頂点とする真言宗の学問の山として再整備された。
幕末の大火と明治政府の廃仏毀釈(神仏分離)により堂塔が破壊され数多くの寺宝が失われて廃寺となった。 その後、熱心な全国の信者によって明治十八年(1885)、現大山阿夫利神社下社の場所から現在の地に本堂が再建され、地元民に守られて難を逃れた本尊・鐵不動明王像が安置された。 再建時は明王寺と称していたが、大正時代になって大山寺として再興された。

★本堂に向かって右手に93体の大師像を安置する弘法大師堂が建ち、側面の横羽目板壁にある小さな花頭窓が印象的だ。 向かって左手には手水舎があり、頭貫に幾つかの流れ旗が下がるが、その中に「め組」の旗があり驚いた。
手水舎から少し左に進むと、大きな青銅製の宝篋印塔そして鐘楼がある。 高さ11メートルの宝篋印塔は極めて装飾性に富んだ造りで、二段の塔身部の外観の素晴らしさに唖然たる面持ちになった。 現在に鐘楼の梵鐘は昭和の鋳造で、旧梵鐘は第三代将軍徳川家光によって奉納されたらしく、梵鐘の銘文「大檀那従一位左大臣源家光公」の部分のみが阿夫利神社に保存されているようだ。

△本堂の直ぐ前に建つ弘法大師堂....明治四十年(1907)、東京浅草の不動講&本浅睦会の発願で当初は本堂向かって左側に建立....大正三年(1914)の宝篋印塔の再建に伴い右側に移築された

△露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺きの弘法大師堂....堂内に93体の大師小像を安置

△擬宝珠高欄付切目縁を巡らした一間四方の弘法大師堂....軒廻りは一軒繁垂木で、正面は桟唐戸と両側に小脇羽目、側面の横羽目板に小さな花頭窓がある

△大師堂前の標石「関東三十六不動札所 第一番霊場大山寺」は昭和六年(1931)の造立....古びた高札は判読不能

△本堂前の狭い境内に建つ切妻造銅板葺の手水舎

△大棟端に鬼板、拝は蕪懸魚....頭貫に幾つかの流れ旗が下がり「め組」のものもある

△側面に「浄心」と彫られた手水鉢               3本爪の龍の水口 

△青銅製の宝篋印塔....寛政七年(1795)に旧大山寺境内(現・阿夫利神社下社)に建立、大正三年(1914)に現在地に再建

△装飾性の高い宝篋印塔の塔高は11メートル....笠部は仏堂の屋根のような造りで、二軒繁垂木と支輪そして二手先の組物を配し、柱に木鼻/塔身は二段で、上の塔身の月輪に梵字、縁四隅に擬宝珠高欄、腰組に軒下と同じ組物そして飛天像を配す....下の塔身は桟唐戸と小脇羽目に登り龍と下り龍、縁四隅に四天王像を配す

△入母屋造銅板葺の鐘楼

△軒廻りは一軒繁垂木、頭貫に台輪を重ねその上の中央に蟇股を置く

△格子天井から下がる梵鐘は昭和の鋳造....旧梵鐘は徳川家光によって奉納されたが、明治初年に破壊されくずとして払い下げられた

△「稲荷大明神」の額が掛かる朱塗りの稲荷鳥居(と思う)....笠木と鳥木が一体化した変形の鳥居で、台輪部から金属製とみられる

△切妻造銅板葺きで妻入りの稲荷社....正面と左右の薄い朱塗りの玉垣に囲まれて基壇上に鎮座....両開き扉は腰高格子戸、扉上の小壁に連子欄間

△基壇と玉垣の間に鎮座する眷属の狐像/稲荷社の傍にひっそりと立つ笠部が苔生した石燈籠

★境内左奥に放生池と思われる池があり、石造りの祠と倶利伽羅の滝(見えないが祠あたりか?)そして剣に絡みついた倶利伽羅龍像が鎮座。 その右隣に「青難陀龍王神」と彫られた石碑が建つが、”青”の意味が分からずだ。 さらにその右隣に不動明王の使いとされる八大童子像が雑然と鎮座しているが、なぜか六体しかない。
本堂前の急峻な石段を下り、さらに一段下の境内に大山寺子院の来迎院がある。 石段を下りた直ぐ左手に大山で最古の倶利伽羅堂が建つ。 本尊の大山龍神を祀る倶利伽羅堂は大山唯一の朱塗りの御堂で、青紅葉とコラボしていて趣がある。 来迎院は倶利伽羅堂、前不動堂(本堂)そして庫裡で構成されているが、前不動堂と庫裡はかなり傷んでいる。 前不動堂には仏像は祀られておらず、庫裡も荒れていて人が住める状態ではなく、まさに廃寺の一歩手前のようだ。

△境内の左側にある池(放生池?)に流れ落ちる倶利伽羅の滝(見えないが祠あたりか?)....右手に不動明王の化身とされる剣に絡みついた倶利伽羅龍(龍王)像が鎮座

△岩崖を背に鎮座する左に倶利伽羅龍(龍王)と右に八大童子像....間に立つ石には「青難陀龍王神」と彫られているが、”青”の意味が不明

△密教で不動明王の眷属とされる八大童子....青銅製と見られる/猛炎を背負う舟光背型不動明王坐像....右手に利剣、左手に羂索を持つ

△本堂に向かって右側の少し奥に建つ現代的な建物は庫裡(と思う)

△本堂前の急峻な石段を下り、さらに一段下の境内に大山寺子院の来迎院が建つ

△露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の来迎院倶利伽羅堂(龍神堂)....本尊大山龍神(八大龍王)を祀る....大山最古(19世紀前半の建立)の御堂で,当初は二重滝の傍に建っていたが,明治の神仏分離により現在地に移転

△両開きの扉は上部に格狭間を配した桟唐戸、正面のみに切目縁....堂前の高札のような説明板に「龍神堂(八大堂) 元は二重滝にあり、寛永十八年(1641)に再建、三代将軍の徳川家光公により寄進」とある

△一間四方で軒廻りは一軒繁垂木、柱に禅宗様の木鼻、中備は間斗束

△倶利伽羅堂と並んで立つ前不動堂(来迎院本堂)....安政二年(1855)の大火後の建築で、明治に現在地に移築

△寄棟造鋼板葺の前不動堂....大山全山で二番目に古い本尊が祀られていた(現在御堂には仏像は祀られていない)

△正面三間で中央間はガラス入り腰高格子戸(両引き違い戸)、脇間は格子窓、腰壁は格子板張....中央間にかなり古そうな「前不動明王」の扁額が掲げられている

△回縁がなく、階段を上って直ぐ堂内に入る造り....向拝に虹梁はなく、屋根は細い2本の柱で支えている....向拝柱に「寶珠山来迎院」の木札が掛かる

△軒廻りは一軒疎垂木、組物は出組で中備はない

△切妻造鋼板葺(と思う)の二階建て庫裡....玄関前は雑草に覆われ、まさに廃寺の雰囲気が漂う

△かなり傷みが激しい唐破風銅板葺の庫裡玄関

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大山寺-(1) (伊勢原)

2024年11月01日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・伊勢原市】大山縁起では、奈良時代の天平勝宝七年(755)、東大寺初代別当(住持の最高位、のち僧正)の良弁(日本華厳宗の第二祖)が、自刻の木造不動明王像を本尊に聖武天皇(第45代)の勅願寺として開創したと伝える。 奈良時代の天平宝字五年(761)、行基菩薩の命を受けた高弟の光増和尚が不動明王像を製作して奉納したとされ、良弁僧正を継いで大山寺第二世となり、山の中腹に諸堂を建てて大山全域を整備した。
その後、徳一菩薩の招きで入山した弘法大師・空海が大山寺第三世を勤め、数々の霊所を開いて霊地信仰を確立した。 平安時代の元慶八年(884)、天台宗の慈覚大師・最澄の高弟・安然が大山寺第五世として入山し、伽藍を再興して華厳・真言・天台の八宗兼学の道場とした。 宗旨は真言宗(大覚寺派)で、本尊は鉄造不動明王像。

★終点のバス停から大山ケーブル駅に向かう。 少し先のところから延々と石段が続き、両側に土産物屋や飲食店が軒を並べているが、意外に閑散としていた。 山岳寺院の日向薬師を参拝したばかりで足腰が疲労していたので、足元に視線を落としたまま黙々と歩を進めてどうにか大山ケーブル駅に。
大山寺駅で下車し、参道を外れた駅近くに鎮座する十一面観音菩薩立像を参拝してから参道に降り、谷川に沿った鬱蒼とした参道を進む。本堂境内への急峻な石段の下に着く。 石段の両側は石壁で強固に固められ、石壁の上には参詣者を迎えるように石仏や五輪塔や石燈籠などの石造物が並んでいる。 中央に下段から上段まで現代風の石燈籠が整然と立ち並ぶ石段を上って本堂境内に向かう。

△大山ケーブルカーの窓から眺めた伊勢原市遠望

△大山寺駅ですれ違うケーブルカー

△大山駅近くに鎮座する十一面観音菩薩立像....右手に天衣、左手に3本の蓮花(2本は未開蓮)を持つ

△大山駅から約200メートル参道の途中の谷川に架かる朱塗りの平橋の”菊川橋”

△参道に鎮座する苔生した地蔵石仏群

△本堂境内への石段参道の下の参道....石壁の上に石仏、五輪塔、石燈籠などの石造物がある

△石壁裾に五輪塔の一部(塔身の水輪や地輪等)とみられる石造物が並ぶ

△梵字が彫られた水輪越しに眺めた急峻な石段参道

△本堂前の急峻な石段参道....石段の真ん中に下段から上段まで現代風の石燈籠が整然と立ち並ぶ

★石段を上り詰めると威風堂々とした本堂が眼前に迫る。 まずは埋め尽くすほどに施された向拝の彫刻群に目を奪われる。 本堂は明治十八年の再建だが、精緻な彫刻群を眺めていると当時の職人の意気込みが感じられる。 水引虹梁の木鼻は向拝柱に巻き付いたような巨大で勇ましい姿の龍で、向拝柱に巻き付いたような迫力に圧倒される。 また、水引虹梁の中央の上に、楓や松や波に囲まれて力神らしき像が鎮座し、唐破風の梁を支えている。
手挟や持送の彫刻も素晴らしいが、さらに驚いたのが海老虹梁で、虹梁の真ん中の上にどこかで見たことがある彫刻が置かれ向拝の軒桁を支えている。 その彫刻は、中国の故事に由来するもので、水瓶を割った司馬温公(童子?)と割れた瓶から水とともに流れでる童子の姿だ。 狭い境内とはいえ、本堂前に超接近して下見板張り壁の建物が建ち、さらに向拝柱の前に金属製の物置が置かれていて違和感を覚える残念な光景だ。

△入母屋造銅板葺の本堂(不動堂)....明治初年の廃仏毀釈によって破壊されたが、全国の 熱心な信者の寄進により明治十八年(1885)に再建

△小さな唐破風がある向拝軒下の精緻な彫刻群に目を奪われる

△向拝の水引虹梁に施された大きく見事な彫刻群

△水引虹梁の向かって右側の3本爪の龍の木鼻....梁に飛翔する多くの鶴(と思う)、持送にも四足動物が

△向かって左側の木鼻....持送りがないが、取り付けた痕跡が柱と虹梁にみられる

△水引虹梁の中央上に唐破風の梁を支えるように力神(と思うが、文覚上人瀧行図?)彫刻が鎮座....力神は楓や松や波に囲まれている

△唐破風の兎毛通は鳳凰の彫刻....直ぐ上の破風に法輪を配した装飾金具

△向拝柱と身舎柱を繋ぐ海老虹梁の中央に彫刻を配し、向拝の軒桁を支えている

△手挟には龍の彫刻、太い海老虹梁の両側の持送には鳥の彫刻が

△海老虹梁の上の彫刻は中国の故事で、水瓶を割った司馬温公(童子?)と、割れた瓶から水とともに流れでる童子の姿

△向拝に張られた注連縄越しに眺めた扁額と入口に張られた法輪を配した寺院幕(奉納幕)

△「大山寺」の扁額が掲げられた中央間の扉は装飾金具を施した両折両開の桟唐戸....戸上部に彫刻を配しているが金網が被されていてよく見えない

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手目が尾垂木の二手先で中備に4つの間斗束を配す....丸桁下の小壁部に鶴の彫刻

△すべての身舎柱の上部に獅子の木鼻を配す

△鳥衾を乗せ法輪を配した鬼板、破風の拝はなく、妻飾は二重虹梁巻斗式/下側の虹梁の真ん中に力神(と思う)が鎮座し、上の梁を肩で支えている

△向拝柱の亀が浮き出た青銅製根巻金具/向拝柱の四方面に施されている花(牡丹?)の彫刻

△狭い境内とはいえ本堂前に下見板張の建物が建ち、物置(と思う)が置かれている....とくに物置は金属製で違和感を覚える








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日向薬師-(3) (伊勢原)

2024年10月26日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・伊勢原市】明治政府の神道国教化政策により起こった廃仏希釈(神仏分離)の波が霊山寺にも押し寄せた。 別当であった宝城坊以外の坊は廃絶し、いくつかの貴重な文化財が消滅したものの、歴史を物語る多くの貴重な仏像・宝物が残されている。 現在は霊山寺の別当坊であった宝城坊が寺籍を継いでいて、正式名称は日向山宝城坊というが、中世以来薬師如来の霊場として信仰を集めていることから日向薬師の名で親しまれている。

★堂宇境内の東側に修行大師立像、虚空蔵菩薩を祀る御堂、茅葺の鐘堂、そして数基の歌碑がある。 虚空蔵菩薩は参拝しやすいよう日向山の奥ノ院から遷座されたそうで、小さな御堂が霊樹の空洞の中にひっそりと鎮座している。
苔生した茅葺屋根の鐘堂は、「幡かけつ杉」とも呼ばれる推定樹齢850年の二本杉の傍に建つ。 鐘堂の屋根は薬師如来を守護する十二神将を表すとされる12本の柱で支えられ、梵鐘が下がるが、なぜか柱傍の床上にも梵鐘が置かれている。 「銅製の梵鐘は南北朝時代の改鋳で、国の重要文化財に指定されている」とあるが、どちらがその梵鐘なのか....混乱した。

△宝城坊境内の東側の「南無大師遍照金剛」の幟が立ち並ぶ奥に、弘法大師立像が鎮座

△行脚姿の修行大師像....右手に錫杖、左手に鉄鉢を持つ

△修行大師像の右手に建つ平安時代の女流歌人・相模の歌碑....眼病平癒を祈って参詣し、薬師堂の柱に書きつけた歌

△「南無虚空蔵菩薩」の黄色い幟が立ち並ぶ参道奥に鎮座する虚空蔵菩薩

△霊樹(シラカシの木)の空洞の中にある虚空蔵菩薩を祀る御堂/虚空蔵菩薩は日向山の奥の院に鎮座していたが参詣しやすいようこの処に移された/鬼板を乗せた切妻造鋼板葺で妻入りの御堂

△虚空蔵菩薩の右手に建つ二基の歌碑

△堂宇境内の東側に建つ鐘堂(楼)と聳え立つ二本杉

△宝城坊の二本杉....推定樹齢850年で、関東公方・足利基氏寄進の「宝城坊の錦幡」を掲げられた「幡かけ杉」とも呼ばれる/鐘堂は12本(一隅3本)の柱で屋根を支えている....薬師如来を守護し、12の刻を守る十二神将を表すようだ

△露盤宝珠を乗せた宝形造茅葺の鐘堂....江戸時代宝暦十三年(1763)頃の再建

△鐘堂に下がる梵鐘(銅鐘・国重文)....現在の鐘は南北朝時代の暦応三年(1340)の改鋳

△軒廻りは二軒繁垂木、四方の柱上の組物間の台輪上に2つの平三ツ斗と蓑束とを配す

△鐘堂の柱脇の床に置かれている梵鐘は?

△銅鐘の銘文から最初の鐘堂は銅鐘とともに平安時代の建立とされる

★堂宇境内の周囲には先の歌碑の他に、「鳥獣供養碑」など幾つかの石碑が建つ。 本堂に向かって左隣にある宝城坊宝物館(宝殿)へのスロープの参道があり、その脇に宝篋印塔などの石造物が並んでいる。 宝殿には平安時代中期から鎌倉時代にかけて造立された鉈彫の薬師三尊像(秘仏・厨子)、十二神将など数体の仏像が安置されている。 厨子と仏像はいずれも国指定重要文化財だ。

△堂宇境内に建つ「鳥獣供養碑」       「日向薬師」と彫られた石碑

△本堂に向かって左側に隣接する寄棟造桟瓦葺の宝城坊宝物館(宝殿)

△宝城坊宝物館へのスロープ脇に鎮座する石造物群....子育て地蔵と地蔵菩薩の他、二基の宝篋印塔など

△一基は古そうな宝篋印塔....塔身は異なる石質で後補か?....塔身四方には蓮華座上の月輪に梵字が彫られている/舟光背型十一面観音像....右手は与願印で左手は水瓶か蓮花を持っているようだ

△宝城坊宝物館(宝殿)には平安時代から鎌倉時代に造立された仏像を安置....鉈彫り薬師三尊をはじめ丈六薬師如来坐像、阿弥陀如来坐像、四天王立像、十二神将立像など

△秘仏の薬師三尊を安置する旧本堂内厨子(国重文)と左右に居並ぶ守護神の十二神将像(NETから拝借)....厨子は入母屋造檜皮葺(と思う)で、組物は二手目と三手目が尾垂木の三手先、柱間に2つの詰組







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日向薬師-(2) (伊勢原)

2024年10月21日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・伊勢原市】江戸時代の天正十九年(1591)、霊山寺は家康から小田原北条氏の頃と同様の寺領60 石の朱印状を受けた。 薬師堂と呼ばれている本堂は、万治三 年(1660)に旧本堂の部材を利用して再建されたが、最古の部材は鎌倉時代初期(12世紀)に伐採された木材で、源頼朝と北条政子が参詣した時期に当たる。 このことから、薬師堂は鎌倉時代初期の建立で、江戸時代中期まで改修と再建が繰り返された。 薬師堂は宝城坊本堂の名称で国の重要文化財に指定されている。

★急な石段を上りつめると、樹林に囲まれたさほど広くない堂宇境内が広がり、正面に荘厳な本堂が南面で鎮座している。 薬師堂と呼ばれる茅葺の本堂は優雅で、軒下の組物等と向拝は鮮やかな弁柄の朱色、外壁の羽目板や桟唐戸は墨の黒に彩色されていて趣がある。 ただ、正面縁の高欄に多くの「南無薬師如来」の幟が括りつけられていて、壮麗さと風格とを損ねているようで残念だ。
三間の向拝の屋根は独立した鋼板葺で、3つの水引虹梁それぞれの上に彩色された龍の彫刻が配されている....が、あまり精緻さを感じさせない。桁行七間の内の中央間五間が桟唐戸で、両脇間の一間には横羽目板が張られていて窓がない。 また、頭貫の上の全ての小壁には縦羽目板がはられていて、全体的にシンプルな造りだ。

△石段を上り詰めた所から眺めた緑の樹林に囲まれた日向薬師境内

△寄棟造茅葺の本堂(薬師堂・国重文)....江戸時代万治三年(1660)、旧本堂の部材を利用して再建された

△三間の向拝の庇のような屋根は鋼板葺(と思)....堂内部の前二間は土間床の外陣、後三間は内陣で、両陣は引き違い格子戸で仕切られている....外壁は墨の黒と弁柄の朱で彩色されている

△本堂は七間堂といわれ、桁行七間で向拝は三間、梁間五間で棟の高さ は約17.7メートル

△桁行七間の中央間五間に桟唐戸、両脇間一間は横羽目板で窓なし

△四本の向拝柱全てには、彩色された獅子の木鼻

△四つの水引虹梁の上に3本爪の龍の彫刻....中央の龍は正面を、側の龍は斜め下を睨んでいる

△頭貫の上の小壁は全て縦羽目板....桟唐戸の入口すべてに五色幕が下がる

△中央の桟唐戸の上の小壁に小さな「霊山寺」の扁額が掛かる

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は木鼻付き出組で中備は撥束....正面のみに蛇腹支輪

★本堂に向かって右側に芝生の庭があり、白と赤の彼岸花が咲き誇っている。 石段を上がったすぐの所に手水舎が建ち、対面する坪庭の中に巨大な雪見燈籠が佇んでいる。 本堂近くに一基の石燈籠が建ち、堂前の切石敷参道に回向柱が立つ。

△本堂の内陣をコの字に囲むように擬宝珠高欄付き切目縁が設けられている....右側の芝生の庭に咲く白と赤の彼岸花群

△彼岸花は弁柄塗りの本堂に添えるようにひっそりと咲き誇っている

△石段を上り詰めた直ぐ右手に建つ手水舎

△切妻造桟瓦葺の手水舎

△側面に「洗心」と彫られた社寺型手水鉢           3本爪の龍の水口

△境内に建つ巨大な雪見燈籠越しに眺めた壮麗な本堂(薬師堂)

△本堂前に一基の石燈籠と堂前の切石敷参道に回向柱が立つ
















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日向薬師-(1) (伊勢原)

2024年10月16日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・伊勢原市】元正天皇御代の霊亀二年(716)、奈良時代の僧・行基により開創されたと伝える。 開創以来、歴代天皇の帰依深く勅願寺としての時代を経て、鎌倉時代になると源頼朝・北条政子夫妻や三代将軍源実朝夫人といった将軍家の信仰を集めた。 江戸時代末期までは日向山霊山寺と称し 、子院12坊を擁する大寺院で、日向修験の拠点として栄えていた。 宗旨は真言宗。本尊は鉈彫の薬師如来像・両脇侍像で、平安時代中期の作とされる。

★終点のバス停「日向薬師」の近くに一般道に面して門柱が立つ。 門柱から参道を少し入ったところに三体の石仏と一基の石塔が並んで参詣者を迎えている。 石仏は不動明王坐像、ショケラ(女性)をぶら下げている青面金剛像の庚申塔、そして尊名不明の像。
一般道の参道の突き当りに境内への石段があり、この付近は「いしば(衣裳場)」と呼ばれ、参詣に訪れた源頼朝公が旅装から白装束に正装したところらしい。 石段を上っていくと、鬱蒼と茂る寺林の中に仁王門が見えてくる。

△表参道の入り口に立つ門柱....傍に二基の石碑が建つ

△二基の石碑は、右は「新道供養塔」、左は「日向薬師参道改修記念塔」

△参道脇に鎮座して参詣者を迎えている四基の石造物

△不動明王坐像と青面金剛庚申塔....青面金剛像(供養塔)は文政十年(1827)造立で、左手にショケラ(女性)をぶら下げている

△参詣者を見守る不動明王坐像/右端は上部に不動明王の梵字”カーン”が彫られている石塔....途中で破損したようだが”奉”と”建”の字があるので、奉納された何かの記念碑(と思う)....左は石仏と思うが尊名は不明(地蔵尊立像か?)

△「日本三大薬師 宝城坊日向薬師 参道入口」の看板が建つ石段

△仁王門下の石段付近は「いしば(衣裳場)」と呼ばれる....鎌倉幕府征夷大将軍・源頼朝が建久五年(1194)、娘の病気平癒祈願の為、武士52騎を従えて日向薬師参詣した時、ここで旅装から白装束に正装した

△鬱蒼と茂る寺林の中に鎮座する仁王門

△寄棟造銅板葺の仁王門(国重文)....仁王像の造立と同じ天保四年(1833)頃の再建

★仁王門の両側の金剛柵の中に鎮座する朱色の仁王像は、筋骨隆々で、憤怒の形相で仏敵の侵入を防いでいる。 仁王門からは幽玄な景観の寺林の中に、不規則に組まれた磨り減った石段が続いていて、山岳寺院らしい雰囲気を醸し出している。 参道の突き当りに、両側に赤い幟が立ち並ぶ本堂境内への石段が見えてくる。

△仁王門両側の金剛柵の奥に鎮座する仁王像....仏敵の侵入を防いでいる

△初期の仁王像は天保元年(1830)の火災で焼失、現存の像は天保四年(1833)の造立で、鎌倉の仏師・後藤真慶による作

△右側に鎮座する阿形仁王像....天衣を身に着け、左手に金剛杵を持つ

△左側に鎮座する吽形仁王像....像高は両像共約3.5mで市内唯一の貴重な金剛力士像

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は木鼻付き平三ツ戸で中備は本蟇股

△仁王門の背面

△境内参道側から眺めた仁王門の背面

△寺林に囲まれた参道は磨り減った石段が続く/参道途中の山裾に建つ歌碑....歌碑は参道に二基、境内に四基ある

△参道途中の山裾に石垣に護られて建つ古寺巡礼の歌仙・坂本凱二の歌碑....昭和六十年(1985)の建立

△幽玄な景観の寺林の中の参道....奥の赤い幟が立ち並ぶのは本堂境内への石段





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西来寺-(2) (横須賀)

2024年09月16日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・横須賀市】北条氏の弾圧から逃れるため時の住持六世頓乗は本尊を裏山の岩窟に隠し、長浦の長願寺に逃れて5年間身を隠した。 この間、光明寺の僧が寺号を宝立寺に改めて住持したことを悲観した頓乗は、天正十六年(1588)、京都伏見に草堂を建てて住んだ。
北条氏滅亡の後の天正十八年(1590)、元の西来寺に帰住し、江戸時代慶長七年(1602)の東西本願寺分派の際、東本願寺に帰属して現在に至る。 近年二度の火災に遭い、古い文献を焼失した。

★山門からさらに石段を上がると砂利敷の境内が大きく開け、本堂と鐘楼が建つ。 本堂の裏山に頂上に向かって墓碑が立ち並ぶ墓所が見える。 堂々たる構えの本堂だが、正面はほぼ全面が現代風のガラス入り腰高格子戸と格子窓で光が反射し外の様子が映り込んでいて、歴史あるお寺にしては風情を損なっていて残念だ。 とはいえ、向拝や組物に目を見張るものがある。 向拝柱は几帳面の面取角柱で、下部四方に獅子を浮き出させた装飾の根巻金具を施している。 また、初めて見る身舎の組物も気になった。 柱上に組物があるが、よく見ると柱が丸桁を直接支える構造なので、組物はどうみても飾りだろう。

△石段を上りつめると開けた砂利敷の境内に本堂と鐘楼が建つ....本堂の裏山に墓所があり、山頂に向かって墓碑が立ち並ぶ

△入母屋造本瓦葺の本堂

△正面は十間に見えるが七間(と思う)で、中央間はガラス入りの4枚引き違い腰高格子戸、両脇間は狭い一間が片開き桟唐戸、二間は腰高引き違い戸と格子窓(いずれもガラス入り)

△向拝水引虹梁の獏の木鼻....木鼻は頭貫(虹梁)が柱を貫いた側のみで正面に無し/木鼻は短い鼻、牙が生えている、,毛がカールしている特徴から獏と思う....目はまるで玉眼を嵌め込んだような感じがする

△長押の上は全て白壁の小壁....柱が直接丸桁を支える構造のように見えるが柱頂部に組物がある

△柱が直接丸桁を支える構造なので組物は装飾性が高い....柱の左右から肘木を乗せた小斗を出し、正面に梁から突き出た木鼻を配す

△礎盤に立つ向拝柱は几帳面の面取角柱で、足元四方に獅子像を浮き出させた装飾を配した根巻金具が施されている

★向拝前の天水桶の直ぐ傍に石組井戸があるが、こんなところにと感じるくらい珍しい。 本堂の軒廻りは繁垂木なのだが、なんと正面は二軒なのだが側面は一軒だ。 入母屋屋根の拝は三ツ花懸魚の変形のような意匠、また、妻飾は混成複合式で興味を引く。
本堂境内の南西側に平成二年再建の宝形造りの鐘楼が建つが、吊り下がっている梵鐘は約330年前の元禄九年の鋳造で市内に残る最古のものだという。 鐘楼の墓所寄りに、基部の壁一面に墓碑の石仏を埋め込んだ玉垣の中に、阿弥陀の誓願を表す「諸上善人俱会一處」と彫られた合葬墓が石仏に囲まれてたつ....合掌。

△向拝軒先に箱状樋が下がり、左三つ巴の紋が浮き彫りされた天水桶が置かれている/本堂前にある石組井戸....坪庭に石燈籠が佇む

△側面は十間に見えるが七間(と思う)で、軒廻りは正面が二軒繁垂木なのに対し側面は一軒繁垂木....正面と側面前三間に擬宝珠高欄付廻縁を設けている

△本堂の大棟端に獅子口、拝は三ツ花懸魚の変形のよう、妻飾は混成複合式

△鐘楼越しに眺めた本堂

△基壇上に建つ露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の鐘楼....現鐘楼は平成二年(1990)の再建

△鐘楼に下がる梵鐘は元禄九年(1696)の鋳造で、市内に残る最古のもの

△本堂に向かって右側に鉄筋コンクリートと造りの白壁の庫裡が建つ....昭和五十四年(1979)の竣工で、まるで白亜の館のようだ

△庫裡の屋根は入母屋造りと思う....周囲に裳腰を設け、切妻屋根の玄関など少々複雑な造りのようだ

△昭和八年(1933)建立の墓碑(合葬墓)....阿弥陀経にある「諸上善人俱会一處」が彫られている/墓碑の足元だけでなく玉垣の基部の壁一面に石仏が埋め込まれている....まさに阿弥陀の浄土に往生して上善人と倶に一処に会同してる様子だ

△本堂境内から桜を通して見下ろした山門

△本堂境内から見下ろした山門






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