
【神奈川・鎌倉市】鎌倉時代の建長五年(1253)、日蓮が安房から移り住んだ松葉ヶ谷に結んだ草庵が創建とされる。 実質の開山は、後醍醐天皇の子護良親王の遺児である幼名楞厳丸、後の日叡上人(日蓮門下僧)。 日叡上人は室町時代の延文二年(1357)、宗祖日蓮を偲び遺跡を守るため、かつ亡き父・護良親王の菩提を弔うためこの地に堂塔伽藍を建てて中興し、幼名から楞厳山妙法寺と名付けた。 宗旨は日蓮宗で、本尊は一塔両尊四師。
◆住宅街の中を進んで惣門前に着くと、石段上の門前に「松葉谷御小庵霊跡」と彫られた標石が建つ。 室町時代末建立でうっすらと朱色の跡が見える惣門は固く閉じられている。 直ぐ左手の切石敷の参道を進んで入山するが、直ぐの本堂境内はしっとりと緑に包まれていて本堂の全容が見えない。 本堂に近づいても木々の間に向拝部分が見えるだけだ。江戸後期文政年間に建てられた総欅造りで趣のある建物だが、正面全体が撮れず閉口。 向拝の軒下に目をやると、木鼻や水引虹梁上の龍そして兎毛通しの鳳凰など精緻な彫刻が施されている。

△石段の上に総門が建つが閉門されていて、境内へは左手の狭い切石敷の参道から入る

△門前に建つ標石は昭和五十六年(1981)の造立で、「松葉谷御小庵霊跡」と彫られている

△切妻造銅板葺の総門....室町時代末の建立で仁王門、釈迦堂跡との一直線上に建つ

△総門の軒廻りは二軒繁垂木....親柱を繋ぐ頭貫上に何もなく、控柱を繋ぐ頭貫上には2つの平三ツ斗を置く

△狭い本堂境内には植栽が茂り、参道からは唐破風を設けた屋根しか見えない

△入母屋造銅板葺で総欅造りの本堂....文政年間(1818~1830)、肥後細川家の寄進で建立

△本堂前庭には木々が茂っていて、本堂の正面全体がよく見えない

△正面中央間は両折両開の桟唐戸、両脇間には横格子戸の引き違い戸

△向拝に精緻な彫刻が施されている....身舎柱と向拝柱のいずれも角柱で、向拝柱は面取り角柱

△向拝の彫刻は水引虹梁に梅(と思う)、上に3本爪の龍、その上の梁上に鳥(鳩?)、兎毛通しは鳳凰

△唐破風の兎毛通しの鳳凰の彫刻

△中央間の彫刻が施された頭貫の上に「楞厳山」の扁額....中央間の中備は木鼻付き平三ツ斗と2つの本蟇股

△身舎は五間四方で軒廻りは二軒繁垂木、組物は木鼻付き平三ツ斗で脇間の中備は本蟇股

△彫刻が施された海老虹梁....虹梁の持送りにも彫刻

△本堂左前庭の植栽と巨石の間に佇む小さな石燈籠

△本堂に向かって左側に建つ庫裡・寺務所

△本堂と庫裡を繋ぐ銅板葺屋根の高床渡り廊下

△本堂右側前庭の植栽の中にひっそりと佇む石燈籠と多層石塔


△古代善導寺型に類似した石燈籠/初層四方の軸部に仏像を浮彫した十三重石塔
◆本堂と惣門の間の庭の植栽の中に、笠の上に巨大な相輪を乗せた宝篋印塔が建つ。 相輪には本来2つの請花が3つあり、さらに輪数が九輪ではなく六輪なのは不思議だ。 一方、塔身と基礎には輪郭を付け、塔身に「華」、基礎に「経」の文字が彫られていて日蓮宗の寺院らしい。 惣門は禅宗様を基調とした建物で、仁王門と釈迦堂跡とを結ぶ直線上に建つ。 仁王門に向かう参道を進みながら、本堂の妻面を拝観。 妻飾は混成複合式だが、大虹梁と二重虹梁の間に配している巨大な本蟇股に目を奪われた。

△本堂と総門の間の庭に建つ笠に大きな相輪を乗せた宝篋印塔


△請花が3つ(本来は2つ)ある大きな相輪....また、請花の間の輪数は九輪ではなく何故か六輪/反華座の上の塔身と基礎に輪郭を付け,塔身に「華」,基礎に「経」の文字が彫られている

△惣門は禅宗様を基調とした四脚門で、親柱と控柱は木製の礎盤に乗っている

△梁行きは腰貫、控柱の頭貫が通り、棟の近くで海老虹梁で結ばれている(海老虹梁式の様式)


△法華堂への参道から見た本堂....前三間は横格子戸の引き違い戸....後ろ二間は腰高明かり障子窓(と思う)/周囲に擬宝珠高覧付き切目縁....大棟端に鳥衾を乗せ唄鬼板

△妻破風の拝は二重懸魚で妻飾は混成複合式....大虹梁と二重虹梁の間に巨大な蟇股を配している