対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

西周「演繹と帰納」の比喩

2018-08-10 | ノート
「百学連環」(明治3年、1870)で、西周は、演繹を「猫がネズミを食べる場面」に譬えている。帰納は「人が肴を食べること」に譬えている。食べる順序に着目して、猫がネズミを食べる場合、まずその重要な部分である頭から始めること、人が肴を食べる場合は、おいしいところから少しずつ始めていくことに、演繹と帰納の違いを見ようとしているのだが、わかりにくい。
「知説」(明治7年、1874)では、演繹を資本金の使用、帰納を資本金の蓄積に譬えている。こちらはわかりやすくなっている。
(引用はじめ)『日本の名著34』
前篇すでに学を講究するの方法を論じたり。しかしてまたここに輓近(読み・ばんきん、意味・最近、注)の学術においてもっとも要領となすべき方法は、講究の際に演繹(デダクシウンとルビあり、注)の法と帰納(インダクシウンとルビあり、注)の法とを用うるに意をいたすべきことなり。この二法術はたとえば富家の子の資本金を費やすと、貧人の子の資本金を蓄うるとの差のごとく、演繹法はたとえば百万両の資金ありと定め、これを分配区別し各自の費用にあつるがごとく、至善至高なりと定めたる一元理を演繹してこれを万殊に推拡するなり。(中略)
また帰納法は、たとえば一銭二銭を積み、日に蓄え、月に増して、ついに巨万の資を得るがごとく、多少の事実を積み、ついに一貫の真理を得るなり。
(引用おわり)



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