対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

「対立物の相互浸透」のゆくえ

2006-11-26 | 弁証法

 唯物弁証法の三つの法則のうち、対立物の相互浸透は、複合論に関連しているのではないだろうか。二つの対立物(「論理的なもの」)の複合の過程は、選択・混成・統一の三段階をもっているが、このなかで、混成の段階は「対立物の相互浸透」と特徴づけてよいのではないだろうか。このように思いはじめた。

 二つの「論理的なもの」の自己表出と指示表出( a + bi と c + di)から、混成モメント( a + di と c + bi) が形成される過程は、「対立物の相互浸透」と考えてもいいのではないかと思えてきたのである。

 混成は対立物の相互浸透である。

 唯物弁証法において対立物の相互浸透がどのように捉えられてきたかをみていこうと思い、いくつかあたっていた。『『自然の弁証法』――エンゲルスの足跡をたどる』(不破哲三著、新日本出版社、1988年)のなかに引用されていた毛沢東の「哲学の問題についての講話」に目が止まった。そのなかで毛沢東は、エンゲルスの三つの法則に対して違和感を述べていたのである。

 エンゲルスは三つの範疇について話したが、わたしはそのうちの二つの範疇については信じていない。……質と量の相互転化、否定の否定を対立の統一の法則と併行的に並列させることは、三元論であって一元論ではない。対立の統一こそがもっとも根本的なのである。質と量の相互転化は量と質の対立の統一である。否定の否定などというものはない。

 いくつかの思いが浮かんでくる。

 1 「対立物の相互浸透」がない。三つの範疇とは三つの法則のことだろう。「質と量の相互転化」・「否定の否定」はあるが、「対立物の相互浸透」はないのである。「対立物の相互浸透」は「対立の統一」となっている。唯物弁証法では「対立の統一」とは「矛盾」のことである。「対立物の相互浸透」は「対立の統一」なのだろうか。違うのだろうか。いずれにしても、「対立物の相互浸透」ということばは使われていないのである。

 2  「三つの範疇」の信じ方の根拠がわからない。なぜなら、もともと三大法則は一元論として考えられていたのではないかと思うからである。毛沢東はエンゲルスが三つの法則を並列させたと考えている。三つの法則を三元論と考えている。しかし、わたしは、エンゲルスは、三つの法則を、「質と量の相互転化」・「対立物の相互浸透」・「否定の否定」の順序で直列させていたのではないかと考えていた。一元論として考えていたのである。

 3  とくに「否定の否定」を拒否するのはどういうことだろうか。なぜなら、否定の否定と矛盾による発展はエンゲルスにとっては同じことだと考えられていたと思うからである。エンゲルスを見ておこう。

 全体のつながりに関する科学としての弁証法。主法則は、量と質との転化――両極的な対立物の相互浸透と頂点にまで押しやられた際の相互の間の転化――矛盾による発展或は否定の否定――発展の螺旋的な形式。

 おそらく、毛沢東は否定の否定を、エンゲルスが言っていたような矛盾による発展と考えるのでなく、レーニンが弁証法の要素としてあげた「低い段階の一定の特徴、性質、等々の高い段階における反復」や「古いものへの外見上の復帰」を否定の否定を考えたのではないかと思われる。反復や復帰では、たしかに法則としては考えにくい。

 4 毛沢東の並列的な理解は、唯物弁証法の内部でも特異な見解だと思われる。しかし、この並列の考え方は、わたしにとっては心強いのである。エンゲルスの三法則に対する否定の仕方が、わたしと同じだからである。わたしもまた、「質と量の相互転化」・「否定の否定」を否定し、「対立の相互浸透」だけを肯定しているのである。

 しかし、わたしは、対話の弁証法に無関係だから「質と量の相互転化」を否定し、矛盾の論理だから「否定の否定」を否定するのである。
 また、「対立物の相互浸透」を肯定するが、矛盾としてではなく、対話として捉えるところが違っている。複合論では「対立物の相互浸透」と「対立の統一」は違っている。複合論の「対立の統一」は、矛盾ではなく止揚である。

 毛沢東の「講話」に、エンゲルスの「対立物の相互浸透」はなかった。同じようにレーニンの『哲学ノート』にも「対立物の相互浸透」ということばは見当たらないのである。

 レーニンは『哲学ノート』で、主要法則としてではないが、弁証法の諸要素として、16の要素を数えあげている。「量と質」、「否定の否定」はあるが、「対立物の相互浸透」はないのである。

 1 考察の客観性(実例ではなく、枝葉末節ではなく、事物それ自身)。
 2 この事物の他の事物にたいする多種多様な関係の全総体。
 3 この事物(あるいは現象)の発展、この事物に固有の運動、それに固有の生命。
 4 この事物のうちにある内的に矛盾した諸傾向(および諸側面)。
 5 対立物の総和および統一としての事物(現象、等々)。
 6 これらの対立物の、矛盾した諸傾向、等々の、闘争あるいは展開。
 7 分析と綜合との結合、――個々の部分の分解とこれらの部分の総体、総計。
 8 各々の事物(現象、等々)の諸関係はたんに多種多様であるばかりでなく、全般的であり、普遍的である。各々の事物(現象、過程、等々)は各々の事物と結びついている。
 9 たんに対立物の統一ばかりでなく、各々の規定、質、特徴、側面、性質のそれぞれの他のものへの(その対立物への?)移行。
10 新しい諸側面、諸関係、等々を開いていく無限の過程。
11 事物、現象、過程、等々にかんする人間の認識を、現象から本質へ、それほど深くない本質からいっそう深い本質へと深まっていく無限の過程。
12 並存から因果性へ、そして連関と相互依存との一つの形式から他のいっそう深い、いっそう普遍的な形式へ。
13 低い段階の一定の特徴、性質、等々の高い段階における反復、および
14 古いものへの外見上の復帰(否定の否定)
15 内容の形式との闘争およびその逆の闘争。形式の廃棄、内容の改造。
16 量の質への移行およびその逆の移行(15と16とは9の実例である)。

 「対立物の相互浸透」ということばは見当たらないが、関連するのは、6、9、12、15だろう。特に12の「並存から因果性へ、そして連関と相互依存との一つの形式から他のいっそう深い、いっそう普遍的な形式へ」は対立物の相互浸透の魅力的な定式にみえる。

 「対立物の相互浸透」は、どこへ行ったのだろう。

 不破哲三は、『『自然の弁証法』――エンゲルスの足跡をたどる』のなかで、エンゲルスが『自然の弁証法』でノートした弁証法の三つの法則は、固定的なものではないことを主張している。また、唯物弁証法そのものも、不確定で流動的であると考えている。

 なお、弁証法の法則のエンゲルスによる定式についていえば、エンゲルス自身、さきのプランでは、主要法則として、四つの内容をあげていた。この手稿では、それを三つにしぼっているが、それも、「だいたいにおいて三つの法則に帰着する」と多少幅のある言い方をしている。いずれにしても、弁証法の諸法則については、どれだけのものを「主要法則」とみなすのかという点でも、それぞれの内容の定式化の点でもここでの展開を固定した到達点として扱うのは、妥当ではないだろう。レーニンは、論文『カール・マルクス』や『哲学ノート』で、弁証法の諸要素について多面的な探究をやっている。この点で、レーニンとは反対に、弁証法の単純化をもっとも極端までおしすすめ、最後には、エンゲルスが三つの法則をあげたことまで「多すぎる」といって批判し、弁証法を矛盾の法則一本に帰着させるにいたったのが、毛沢東である。

 毛沢東の「講話」は、これに付いていたものである。

 エンゲルスは、弁証法の法則の一つとして「対立物の相互浸透」という考え方を提示した。プランの「両極的な対立物の相互浸透と頂点にまで押しやられた際の相互の間の転化」が「対立物の相互浸透」の始まりである。手稿では、次のようになっている。

これら諸法則は主要な点からすれば三つのものに帰着する。すなわち、
  量から質への転化、およびその逆の法則
  対立物の浸透の法則、
  否定の否定の法則。
 この三者全部はヘーゲルによって彼の観念論的なやり方で単なる思考法則として展開されている。すなわち第一番目の法則は彼の『論理学』第一部、有論、のうちで。第二番目の法則は彼の『論理学』の格段に最も重要な第二部、本質論の全体を占めている。最後に第三番目の法則は全体系の構築に対する基本法則として現われている。

 プランの「相互の間の転化」が消えている。また「相互浸透」の「相互」がなくなり、「対立物の浸透」になっている。「矛盾による発展」が削られ、「否定の否定」だけになっている。「発展の螺旋的な形式」が抜けている。プランの記述より、三つの法則の独立性が強く印象づけられる。プランが直列なら手稿は並列の印象である。
 ヘーゲル論理学と対応させることによって、三つの法則の関連のアウトラインを示している。すなわち、量と質の転化は有論の「移行の論理」に、対立物の相互浸透は本質論の「反省の論理」に、また「否定の否定」は概念論の「発展の論理」にそれぞれ対応していると想定している。

 20世紀に弁証法は多面化と単純化の二つの方向に分枝したが、いずれの場合も、「対立物の相互浸透」ということばは見当らないのである。レーニンも毛沢東も「対立物の相互浸透」ということばを使っていないのである。

 毛沢東は対立物の相互浸透を対立の統一と考えていた。対立物の相互浸透と対立物の統一を同じと考えるのは、毛沢東だけではなかった。許萬元は『弁証法の理論』で次のように述べている。

 周知のように、エンゲルスは弁証法の根本法則として三大法則をあげた。第一法則は量から質への転化の(またはその逆の転化の)法則であり、第二法則は対立物の相互浸透の法則であり、第三法則は否定の否定の法則である。このうち、第二法則が一般に「対立物の統一の法則」として呼びならされている法則であることはいうまでもない。エンゲルスはあの三大法則をヘーゲル『論理学』から抽出したのであるが、しかしそれらの三大法則間の連関の問題にたちいる機会をもたず、ただ三法則の客観的実在性を示すために自然や社会から多くの例証を試みるにとどまった。その後、三法則の連関を説く多くの弁証法論者たちは、レーニン的段階の名のもとに「対立物の統一の法則」をもっとも重視し、三法則の連関をそれによって説こうと試みた。つまり、量と質の法則も否定の否定の法則も「対立物の統一の法則」の一例だというわけである。こうした見解は今日にいたってもなお多く見うけられるのである。だが、これによっては、実際には、三法則が統一的に把握されるかわりに、むしろ「対立物の統一の法則」以外の他の二法則が根本法則から除外されるという結果となる。なぜなら、それらは矛盾の単なる例証と化せられるからである。

 許萬元は〈第二法則が一般に「対立物の統一の法則」として呼びならされている法則〉だといっているのである。許萬元は「対立物の統一の法則」を唯一の核心的法則として見る見方、すなわち「対立物の統一の法則」以外の他の二法則を根本法則から除外する方向に否定的である。しかし、かれは「対立物の相互浸透」と「対立の統一」を同一視することには疑問をもっていない。
 
 許萬元はマルクス主義のなかにあっては異端である。しかし、正統派と同じように、「対立物の相互浸透」と「対立の統一」を同一視しているのである。

 いったい、唯物弁証法では「対立物の相互浸透」はどうなっているのだろうか。「対立の統一」へと格上げになっているのだろうか。それとも「対立の統一」の下に見捨てられ、無視されているのだろうか。

 もし格上げになっているのなら、それは矛盾の論理としてである。わたしはそれを対話の論理として変換していくだろう。もし見捨てられているのなら、「対立物の相互浸透」を拾い上げ、対話の論理として鍛えていくだろう。

 「対立物の相互浸透」はヘーゲル弁証法の合理的核心である。それは「反省の論理」にもとづいた法則である。また、「対立物の相互浸透」は唯物弁証法の合理的核心でもあるだろう。唯物弁証法はヘーゲル弁証法の合理的核心をつかまえてはいないのである。 

 


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