対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

ミネルヴァの梟

2014-12-22 | ノート
 『法の哲学』序文の結びにあるミネルヴァの梟、『世界の名著44ヘーゲル』(藤野渉訳)では、次のように訳されている。
 哲学がその理論の灰色に灰色をかさねてえがくとき、生の一つのすがたはすでに老いたものとなっているのであって、灰色に灰色ではその生のすがたは若返らされはせず、ただ認識されるだけである。ミネルヴァのふくろうは、たそがれがやってくるとはじめて飛びはじめる。
 「えがくとき」には次のような注が付いている。
ゲーテ『ファウスト』第一部「書斎」の場でメフィストフェレスがファウストに扮して学生に向かい、「いいかい、きみ。すべての理論は灰いろで緑に茂るのは生命の黄金の樹だ」(手塚富雄訳)というセリフがヘーゲルの念頭にあったと解される。
 訳文に「その理論の灰色」とあるのはこれを考慮したものだろう。ヘーゲルはihrと書いているだけである。また英訳はitsと訳しているだけである。
 ヘーゲル
Wenn die Philosophie ihr Grau in Grau malt, dann ist eine Gestalt des Lebens alt geworden, und mit Grau in Grau läßt sie sich nicht verjüngen, sondern nur erkennen; die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Dämmerung ihren Flug.
 英訳
When philosophy paints its grey in grey, one form of life has become old, and by means of grey it cannot be rejuvenated, but only known. The owl of Minerva, takes its flight only when the shades of night are gathering.

 だから、「その理論の灰色」はわかりやすくするための工夫である。しかし、これが、リズムを乱しているように思える。「すでに老いたものとなっているのであって」、「若返らされはせず」、だらだら、だらだら、少しも、高揚してこないのである。

 私がミネルヴァの梟を初めて知ったのは、梯明秀『ヘーゲル哲学と資本論』のなかであった。こんなふうに紹介してあった。
哲学が、その灰色を灰色に描くとき、生の姿は、すでに老いている。そして、灰色を灰色に描くことによっては、生の姿は若がえらされるのではなく、ただ認識されるのみである。ミネルヴァの梟は、迫りくる黄昏とともに、ようやく飛びはじめるのである。
 「その」で十分なのである。セマリクルタソガレトトモニ、ヨウヤクトビハジメルノデアル。とてもよいと思う。

 ミネルヴァの梟は、ヘーゲルが考える哲学を象徴したものである。梯は次のように見ていた。
ヘーゲルは、哲学をもって「世界が如何にあるべきかWie die Welt sein sollの教説」ではないとする。しかし、「現実的なもの」すなわち「有るところのものDas was istを、概念的に把握する」ことを、課題とする彼の哲学は、彼自身の諦観したかのごとく、彼の時代の「黄昏」を意味する思想ではなかったであろうか。冒頭に引用した「序文」の結びは、まことに、ヘーゲル哲学にとって運命的な哀調をただよわしているのである。



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