対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

悟性の二重性

2007-01-07 | ノート

 上山春平は、問題解決の過程と「論理的なものの三側面」を次のように対応させていた。

 問題のない段階 悟性的モメント(正)
 問題をもつ段階 否定的理性的モメント(正と反)
 問題の解決した段階 肯定的理性的モメント(合)

 これに対して、わたしは次のような対応を対置した。

 問題のない段階 悟性的モメント
 問題をもつ段階 否定的理性的モメント
肯定的理性的モメント
 問題の解決した段階 悟性的モメント

 対置の要点は二つあった。一つは、問題の解決した段階は悟性的モメントでなければならないことである。もう一つは、否定的理性的モメントと肯定的理性的モメントは二つの段階として区別できるものではなく、否定的理性的モメントと肯定的理性的モメントは一体となって一つの理性的段階を構成していると考えたことである。

 また、「対立物の統一」における認識の進行形式を次の図式で表現した。
 
     悟性―理性……理性―悟性

 「悟性―理性」が問題の発生、「理性……理性」は問題を解いている段階、「理性―悟性」は問題の解決である。

 「悟性―理性」の過程では理性が悟性よりも優位にある。ここでは矛盾は許容される。しかし、「理性―悟性」の過程では、悟性が理性より優位にあり、矛盾は許容されない。ここでは規定に普遍性の形式を与えなければならないからである。

 「理性―悟性」の関係は、弁証法と矛盾律の関係を明確にする上で重要だと考えた。ヘーゲルは悟性に対する理性の優位を指摘するだけにとどまっているようにみえたからである。これは問題の発生に対応する見方であって、問題の解決に対応していないと考えたのである。理性に対して悟性が優位になる局面を設定することによって、弁証法が矛盾律の上で流動していることを明確に図式化しようと考えたのである。

      第5章  対立物の統一と対話

 「論理的なものの三側面」は悟性的・否定的理性的・肯定的理性的という表現のほかに、抽象的・弁証法的・思弁的という表現がある。また、悟性・弁証法・思弁という表現もある。

 ヘーゲルは、論理的なものの最高の段階を思弁的(シュペクラティーフ)と特徴づけているのである。

 牧野紀之の『小論理学』(鶏鳴出版 1989年)を読んでいて、興味ある注解を見つけた。かれは、「思弁」という訳語は正しいのかと疑問を表明していたのである。また、「シュペクラチオーン」(Spekulation)の訳語の「思弁」と「フェアシュタント」(Verstand)の訳語の「悟性」は、逆の方がふさわしいのではないかと指摘していたのである。  

「シュペクラチオーン」の訳語として「思弁」という訳語は、誰が考え出したのか知らないが、正しいのかどうかということである。この場合の「思」は思考であり、「弁」は弁別の弁で、「区別してはっきりさせる」ということだろうから、むしろ「フェアシュタント」の訳語にふさわしい。逆に、「フェアシュタント」の訳語となっている「悟性」は、了解、分かる、つまり「事の核心をつかむ」というところからきているのだろうし、「イッヒ・フェアシュテーエ」という場合はたしかにそうだろうが、ヘーゲルの「フェアシュタント」の訳語としては「思弁」の方がふさわしく、「シュペクラチオーン」こそ「全体を一度に見る」つまり「悟る」のだから、「悟性」とした方がよいように思われる。定着している訳語を変えるのは大変だが、実際には変えないまでも、時々反省してみることは必要である。(『小論理学』訳者による注解)

 「シュペクラチオーン」こそ「全体を一度に見る」つまり「悟る」。よいではないか。「悟性」が、「フェアシュタント」(Verstand)と「シュペクラチオーン」(Spekulation)の間で流動化する。抽象と思弁に二重化する。「悟性」がはじめとおわりに出てくるのは、「論理的なもの」の進行形式としてふさわしいのかもしれない。

       悟性―理性……理性―悟性
 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿