対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

「濁り」と「論述あいまいの虚偽」

2007-09-15 | 堀江忠男

 ヘーゲルとマルクス主義の弁証法を「濁った弁証法」と名付けた。そして、マルクスの「逆立と転倒」に対して、「混濁と透析」という図式を提出した。

  濁った弁証法

 弁証法はヘーゲルとマルクス主義にあっては濁っている。誤った外皮のなかに合理的な核心を発見するためには、それを透析しなければならない。

 濁りの原因は矛盾の肯定(矛盾律の否定)にある。濁りがどこで発生するのかといえば、推論の過程の歪みにしか求められないのである。

 堀江忠男は、マルクス主義に引き継がれたヘーゲル弁証法の核心は「矛盾律否定と錯覚された論述あいまいの虚偽」だと主張している。ここで「虚偽」( fallacy )とは「うそいつわりとかペテンとかいう意味ではなく、論理学上の誤り、議論の妥当性を失わせる欠陥」ということである。

 『マルクス経済学と現実 ――否定的役割を演じた弁証法』(学文社 1979年)と『弁証法経済学批判――ヘーゲル・マルクス・宇野の「虚偽」』「早稲田大学出版部1975年)を読みながら、これまで「濁り」といっていたものは「論述あいまいの虚偽」に起因していると考えればよいのだと思った。堀江は弁証法の新しい考え方を模索することには関心はなかったようだが、ヘーゲルやマルクス主義の弁証法に対する批判は正確で徹底しているように思える。とくに、『資本論』を取り上げ、マルクスの弁証法を批判しているところは、興味深い。

 ヘーゲルとマルクスから、2つの「虚偽」を取り上げておこう。

 1 ヘーゲルの「虚偽」

 「相関諸規定においては、矛盾は直接に姿を現わす。上と下、右と左、父と子などと無限にあるが、これらのごく平凡な例は、すべて一方のうちにその対立をふくんでいる。上とは下でないものである。上は下でないと規定されているにすぎないが、しかも下があるかぎりにおいてのみある。そしてまたその逆である。」(『大論理学』第2巻本質論)

 こういう「対立」を、ヘーゲルは矛盾律否定であるかのように、説明する。「〔対立物の〕おのおのは、第一に他者があるかぎりにおいてある。……第二に、それは他者がないかぎりにおいてある。」対立物の一方は、他方があるからあるのだし、同時に、ないからあるのだ、というのだから、文面だけみれば、明らかに矛盾律否定の論理によってでなければ、対立は理解できない、という意味になる。しかし、ヘーゲルがいおうとしていることの内容は、他方があるからある、という場合には、たとえば、上は下があるからあるのだということであり、他方がないからある、という場合には、下は上のなかにはないのだ、上とは別物だ、ということなのである。
 同一主語にかんして「上は下があるからあり、同時に下がないからある」といえば、明白な矛盾律侵犯の、内容的に意味をなさない命題である。しかし、ヘーゲルの話の内容は、上、下という二つの主語に分け、矛盾律を守って論述すれば、よくわかることである。だが、ヘーゲルは、この区別をはっきりつけず、したがって、単なる相関関係を矛盾律の否定と混同してしまうのである。これはむしろ論述あいまいの虚偽(fallacy of amphiboly)にもとづく「見せかけの矛盾」とでも呼ぷべきものであろう。

 これは、基本的に、松村一人の指摘と同じものである。(弁証法試論 第4章  新しい弁証法の基礎 3 松村一人の矛盾論参照)

 2 マルクスの「虚偽」

 「資本は流通から発生しえないのと同様に、流通において発生しえないのでもない。それは流通において発生しなければならぬと同様に、流通において発生してはならぬ。……ここがロードス島だ、ここで踊れ!」
「彼の貨幣の資本への転化は、流通部面においておこなわれるのであり、しかも流通部面においておこなわれるのではない。流通の媒介によっておこなわれる。――というのは、商品市場で労働力を購買によって条件づけられているからである。流通においておこなわれるのではない。――というのは、流通は生産部面でおこる価値増殖過程を準備するにすぎぬからである。」

 マルクスのいおうとする内容は、――価値増殖は流通部面で(労働力の購買によって)準備され、生産部面で(労働者が剰余価値を生みだすことによって)おこなわれる――ということにすぎない。ここには、矛盾律否定の論理の入りこむ余地はない。ところが彼は、流通部面で準備されることを、「流通の媒介によっておこなわれる」から「流通部面でおこなわれる」という。つまり、準備と実行とを言葉の魔術で等置してしまったのである。それならば、私は東京駅で新大阪行の超特急の切符を買ったら、私は切符購入という行為の媒介によって新大阪へいくのだから、切符を買ったことは、(まだ私が東京にいるのに)新大阪へ着いたことだ、といってもよいことになろう。
 マルクスのここの議論は、主語にかんするあいまいさがあるために、いっそう混乱してくる。「貨幣の資本への転化」は、流通(購買)―生産―流通(販売)の全過程にわたることがらであり、価値増殖は、生産過程のみでおこることがらであって、はっきり区別されなければならない。右の引用文には、事実、この二つの主語が出ている。ところがマルクスは、「貨幣の資本への転化」という一つの主語しか出ていないかのように取りあつかって、「貨幣の資本への転化」は流通部面ではおこなわれないという。しかし、「貨幣の資本への転化」が主語ならば、それは、流通(購買および販売)、生産の全過程を通じておこなわれるのである。ここにも、矛盾律否定の論理を適用する余地はない。マルクスは「手品はついに成功した」というが、内容を調べてみれば、あるものは、彼自身の議論があいまいなために生まれたみせかけの「矛盾の論理」だけなのである。

 これは、堀江忠男がはじめて指摘したのではないだろうか。たいへん新鮮に感じられる。補充しておけば、「貨幣の資本への転化」の「独自の・内的な・不可避的な弁証法」なるものの実態は、〈第一に、「あることの前提条件=そのこと自体」という誤り、第二に、「貨幣の資本のへの転化」(全運動)および「価値増殖過程」(その一部)という二つのことがらを、言葉の定義をはっきりさせないで、一つのことがらのように論ずるという誤り、この二重の誤りによって、「行なわれるのであり、行なわれるのではない」という言い方が正しいかのような錯覚を与えているだけのことである。〉
 
 ヘーゲルの場合もマルクスの場合も、矛盾律の否定は原理的にありえない。もしも矛盾律が否定されているように見えるならば、「論述あいまいの虚偽」に起因する錯覚なのだという主張である。

 矛盾律を前提にした弁証法。これがわたしが求めている「澄んだ弁証法」である。これをヘーゲルの「論理的なものの三側面」を再構成することによって、実現しようとしている。

 わたしは「論理的なものの構造」として自己表出と指示表出を想定した。これは直接には、吉本隆明の「言語」の構造(自己表出と指示表出)に基づいているが、マルクスの「商品」の構造(価値と使用価値)と対応させているものである。また、対話のモデルを作るとき、「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」で出てくるリンネルと上着の関係を参考にしている。リンネルと上着の価値関係から出現する関係に対話のモデルを求めたのである。

   弁証法試論 第6章 複合論

 新しい弁証法のモデルを、『資本論』に求めていて、きわどいのである。わたしの試みは濁っているのだろうか。わたしはいま足下を点検しているところである。


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