けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

こんな消費税増税法案は如何だろうか?(毎年1%ずつ増税してみたら・・・)

2012-03-28 23:07:02 | 政治
長い長い議論の末、やっと民主党の消費税増税法案がまとまろうとしている。議論すること自体は民主主義の原則として良いのであるが、どうも方向性が怪しく、無駄に時間を浪費しているようでならない。賛成、反対の両論に潜むお互いが仕掛ける地雷を見つめることで、本来のあるべき姿をあぶりだしてみたらどうだろうか?

報道によれば、法案には付則としており込む景気弾力条項の中に、数値目標を明記する代わりに、その条件を増税実施の必須条件とするのではなく、努力目標とするという如何にも日本の政治家が好みそうな超玉虫色の決着をつけている。増税時期は2014年4月に8%、2015年10月に10%であるから、例えば10%に上げる場合にはその半年前の2015年4月頃の景気が判断材料になる。大分、後ろ伸ばしになっている東日本大震災の本格的な復興は今年から始まり、2年程度は復興特需が続くだろうが、その後は徐々に息切れ状態となることが予想される。しかも、2014年4月の8%への増税に関しては直前の駆け込み需要と直後の買い控えが聞いてくるので、これらのダブルパンチで2015年4月頃の景気はあまり良い状態とは考え難い。8%への増税に関しても、半年前の2013年10月時点での景気状況は、例えばイラン問題やギリシャ問題などがどの様に推移するかに強く依存する。さらには、原発が停止した状況で産業界が海外に流出し、空洞化現象が進めば国内の景気は一気に冷え込むかも知れない。だから、言い訳とも言うべき景気弾力条項は、その時の状況を無視して増税に走る政権の息の根を止める時限爆弾としか機能しない。今の政権で責任を取るのではなく、先の政権に時限爆弾を先送りする法案としか読み取れないのである。

まさに、消費税増税に対する反対派の狙いはそこにあるのである。もし、その時に自分達が政権を取っていれば(「民主党」ではなく「反対派」が政権の中枢にいるという意味)、ちゃぶ台を単純にひっくり返せば痛くも痒くもない、政権を取っていなければその時限爆弾が炸裂するのを待てばよい、・・・と。消費税増税賛成派から見れば、明らかに努力目標でしかなく、法的拘束力はないのだから何とでも出来ると思いがちだが、結果的にはボディブローの様に効いて来るのではないかということを、リアリティを持って感じているようには見えない。というより、どうせ次の選挙では負けるから、そんなことを考えても仕方がないということなのかも知れない。

私が気にするのは、先にも書いた通り、急激に高まる復興特需が徐々にフェードアウトする状況と増税タイミングのシンクロ、および駆け込み需要と後から来る買い控えの不安定な消費者行動をどの様に処理すべきかという問題である。だから、急激な状況変化を回避し、一方で、長期的にみた景気動向への方策を冷静に判断しなければならないと感じている。

そこで提案である。2013年4月(つまり1年後)から2017年4月までの間、1年毎に消費税を1%上げるという法案を政府案に対する対案として国会に提出するのである。今からでは時間的に間に合わないというのは現実的な意見であるが、私もこんなボヤキが現実になるとは思っていないので、そもそも論的な議論として聞いていただきたい。

もし、野田総理が消費税増税と引き換えに話し合い解散をする覚悟があるのであれば、この対案に乗ってくる可能性があるのではないかと考える。もちろん、何らかの景気弾力条項を盛り込んでも良い。この法案のミソは、毎年、1%ずつ変化するという点である。もちろん、消費税を完全外税方式にするとか、納税者番号制度の導入やインボイスの導入などを合わせて行なうことは必要だと思うが、この影響は結果として消費者物価の上昇率が毎年1%以上となることを担保することになる。日銀のインフレターゲット発言だけで為替レートが変動し、株価などにも景気の改善が表れてくる状況を考えれば、緩やかな消費税率の増加は、もともと増税が持つ経済活動へのマイナス効果を抑える働きがあるのではないかと素人ながらに予測する。おりしも復興特需が期待できる状況であり、急激な買い控えを抑えながらも長期的にはインフレに対抗して繰り上げ的な消費活動をした方が有利なため、気が付くと財布の紐が緩むというのが私の予想である。

もちろん、誰もが感じるように「インフレ=経済成長」ではない。原因と結果が逆というべきか、本来であれば経済成長して好景気になると、結果的にインフレになるというのは解りやすい。逆にインフレになると好景気になるかと言えば、そんな単純でないのはその通りなのだろうが、これだけ長期のデフレが続いた国では、藁にもすがる思いでデフレ脱却を感じさせる何かを待ち望んでいる。日銀総裁の如何にも中途半端なインフレターゲット宣言があれだけの効果を挙げたのもその証拠なのだろう。格付け会社は日本の増税を評価するだろうし、その結果、外国人投資家が日本株を買うことで株価が高騰すれば、お金が回って景気が回復する。国債の金利高騰リスクも低減できるから、財政破綻リスクも低減できる。増税が景気にブレーキをかけるとの恐れも、緩やかな増税ではリスクは小さいし、仮に大きなブレーキを体験したら景気弾力条項の発動をすれば、それ以上の経済の失速を防ぐことが出来るかも知れない。開き直って「インフレ=善」とは言わないが、意外に経済音痴の素人の考えの中にも何かのヒントがあるのではないかと専門家に問うてみたい。

もちろん、コロコロと税率が変ってはたまらないという意見はあるだろう。消費税率の変更は、例えばスーパーのレジを取り替えるなど、それなりにインパクトがあることではあるが、今時のレジであれば消費税率など設定で簡単に変更できるように作っているのであろうから、多分、事務的なミスの多発という程度の形でしか表には見えてこないであろう。

また、以前にも提案していることであるが、景気弾力条項のあるべき形は、経済成長率とかの絶対的な値ではなく、時の国会議員の良識に任せるというのが妥当な考え方だと思う。つまり、国会決議があれば、増税時期の延長(後ろ倒し)を1年毎に認めるとすれば良い。具体的には、増税の半年前の時点(つまり、毎年9月か10月頃)で与野党のいずれからでも提案があれば国会の採決にかけ、仮に延期と判断されれば全体が1年ずつ後ろ倒しになりながら、ただし最終的には税率10%までは増税を続けるということである。

細かいところでは考えなければならないことがあるのだろうが、ひとつの考え方としては十分に考慮に値するのではないかと思っている。多分、国会議員さんは私のブログなど読んでいないだろうから現実味はないが、変なテクニカルな議論に終始するのではなく、そもそも論に照らし合わせて考える習慣を国会議員さんには求めたい。

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モラルの低さと中国のリスク

2012-03-27 23:40:36 | 政治
今日は「モラル」というブレーキの重要性について考えてみたいと思う。言いたいことは容易に予想がつくと思うが、隣国、中国のモラルの低さは、今後の世界の中で非常に大きなリスクである。解りやすいところでは、チェルノブイリ、フクシマの次に来る原発事故は、まず間違いなく中国であろう。そこでは、福島第一原発の様に徐々に事態が収束に向かうのではなく、チェルノブイリと同様に行き着くところまで行くことになるだけではなく、石棺による封じ込めもされることもなく、放置される可能性も否めない。原発事故でなくても、その他にも様々な問題が発生する可能性がある。あれだけ強大になった中国を押さえ込むことは不可能だから、そのリスクをどの様に捉えるのかということを、世界規模で考える必要があるのではないかと考えた次第である。

順番に議論することにしよう。まず最初に、福島第一原発の事故の話題から振り返ってみる。菅前総理は飛んだ勘違いをして、2011年3月15日に東電が福島第一原発を放棄して逃げると思い、「撤退したら東電は潰れる!」と恫喝した。

しかし、実はこれは間違いである。ここでの「撤退」とは、実はふたつの意味を持つ。実はこの日、多分、2号機のサブレッションプールの破損が原因なのだろうが、原発事故後、最大の放射性物質を放出することとなった。その影響かどうか知らないが、第1原発の南側5kmほどのところに設置されたオフサイトセンター内での放射線量が上がり、このオフサイトセンターに詰めていた人員を撤退させることになった。所謂「原子力村」の村長と目される東京電力の武藤栄副社長(当事)も、私の記憶では福島から本店(本社)に戻ることになった。これは単に、オフサイトセンターには放射性物質を含んだ塵が屋内に侵入することを防ぐ機密性とフィルターの設定が十分でなく、設計上の致命的な欠陥によるものであり、この撤退は残念ながら妥当な判断である。そして、もうひとつの大きな撤退であるが、福島第1原発でも危険性が高まり、当事の吉田所長が必要最低限の人材(70名前後?)を残して一旦撤退し、時期を見て復帰させることと決断した。もちろん、地震による損傷で様々な制御が出来なくなっていたのは事実ではあるが、ある程度の操作は重要免震棟から行なうことは出来たので、特定の人の被ばく線量を低く抑えるためには人数が欲しいところであるが、この程度の人材があれば必要最低限の操作は可能であると吉田所長は判断したのである。

世界にも「Fukushima 50」という言葉で報道されたが、勇気のある作業員が自らの命を顧みず、原発に残り最悪の事態を回避することが出来た・・・と報じられたが、実は、その数十名以外の人は逃げてしまったのではなく、吉田所長の命令で一旦退避しただけなのである。だから、当事の数百名の原発作業員全員が「英雄」として扱われてしかるべきなのである。

しかし、菅前総理はこれを「逃げた」と勘違いをしたのである。結果的に、この勘違いを民間事故調が評価することになったのは皮肉である。私は納得が出来ないところであるが・・・。

この英雄たちが英雄でいられたのには理由がある。それは「倫理観」「責任感」の高さ故である。もし彼らが無責任で、倫理観の欠片も持ち合わせていたならば、我先にと一目散に逃げ出して、気が付けば機器の操作に必要な最低限の人材すら確保できなくなるところだった。例えば、仮に3人だけが残ったとしよう。この3人で何が出来るだろうか?殆ど出来ることなど限られている。例えば手動でのベント作業を行えば相当量の被爆を覚悟しなければならないが、その被爆量をたった一人で受けたら急性の放射線障害で短時間で死に至ることになる。それでも、福島を救えない可能性は高いから、まさに「犬死」である。私がその3人に残ったら、相談して皆で逃げることにしていただろう。数十人、数百人の人材が残ることが出来たから、あの惨事はこの程度でおさまっていたのである。

このことが何を物語るかは明らかであろう。そう、倫理観のない国では原発を持ってはいけないのである。チェルノブイリ原発事故は旧ソ連で起きた。ソ連の人々の倫理観は良く分からないが、日本ほどではないにしろ、そこそこの倫理観はあったのだろう。格納容器は元々なかった上に圧力容器自体が爆発したのだから、事態は福島の比ではなく、事故処理に当たる際の被爆量は半端ではなかった。しかし、そこはお国柄で、人権感覚の皆無の中で軍人に命令をして対処させたのである。規律の厳しい軍隊では、敵前逃亡は下手をすれば銃殺であろう。だから逃げた人は殆どいなかったのだろうが、その代わり、公の統計には数字は出てこないが、噂では相当数の軍人がその後に放射線障害で亡くなったと言われている。当人にとっては冗談ではないが、ある意味、周辺国からみれば運が良かったと言えるかも知れない。

しかし、中国はどうであろうか?先日も、暴漢に襲われた女子高生が倒れていたところに村民と警察官が駆けつけたのに、警察官はその被害者を別の場所に移動して放置し、翌日保護されたというニュースがあった。その女子高生は命こそ取り留めたが、凍傷で手足を全て失う可能性があるという。薄々、生きていることに気が付きながら、しかも警察官という立場でその様なことをするというのは本当に信じ難い。その前にも、2歳の女児が車にひき逃げされたのに少なくとも18人の人が無視して立ち去った事件もあった。検索をかけると映像を見ることができるので私もその映像を見てみた。そのサイトには、あまりにも映像がショッキングなことを忠告するコメントがあったが、はっきり言って、その映像を見た後で私は吐き気をもよおすほど酷いものだった。まず、徐行した車がまず女児を引いてしまった。車は何かを引いたことを確認し停車する。その時点で、前輪と後輪の間に女児が横たわっていたのであるが、車の運転手はゆっくりと車を動かし、後輪がその女児の上に乗り上げた。少々勢いをつけないと乗り越えられないのでアクセルを踏んで、後輪が女児を乗り越えた。そしてそのまま車から降りることなく逃げていくのである。その動作はゆっくりとしたもので、勢い余ってやってしまったことではなく、明らかに本人は「なんか、やばいぞ!」と十分に気が付きながらも救助を行なわなかったのである。その後、道路で横たわるその大怪我をした女児を通行人は助けもしないし気に留めもしない。更に後から来た車は、平気でこの女児に乗り上げ引いてそのまま行ってしまった。とてもでないが、私は気持ちが悪くて最後まで映像を見ることが出来なかった。この女児はその後に死亡が確認された。

もちろん、日本でも幼い子供を家に残して50日以上も家を空けて遊びまわり、子供を餓死させた信じ難い母親の事件があった。「なんて酷い奴だ、信じられん!」と思ったが、周りの人はその事実を知らなかったのだから、誰一人それを助けることは出来なかった。もし、その事実を知った人がいれば、日本であればまず間違いなく救いの手が差し伸べられたであろう。それが良いかどうかは微妙かもしれないが、日本は「恥の文化」ともいわれ、周りの人の目がある中では無茶なことができないというブレーキが働き、集団的には常識的な行動を取ることが期待できる。どの世界でも、中には常軌を逸した犯罪者がいるもので、その様な犯罪者を事前に排除することは不可能であるが、その異常な犯罪者の周りには多数の良識がある一般人がいるのが普通であり、悲惨な事件が起きてもそれを目撃した人の多くが被害を最小にするための行動を取ることで、日本では多くの惨事を乗り越えてきた。

しかし、先の中国の事例はそれとは全く異なる事態である。多数の一般人が可愛そうな被害者の状況を把握しながら、誰一人、何もしなかったのである。これは、特異なごく一部の異常者のみに責任があるといえる状況ではなく、殆ど一般の人に良識を期待することができないことを指し示している。この様なお国柄の中で、原発事故が起きたらどうなることかと思うと背筋がゾッとする。しかし、その様な事態はかなりの確率で起こるものと思わなければならない。ここ数年の石油価格の乱高下は、日本でなくてもどこの国でも深刻である。所謂「オイルピーク」を今度こそ本当に超えたのではないかとの説もあり、火力発電所による安定的な電力供給はますます厳しくなる。地球温暖化防止を目的とした二酸化炭素排出量の規制を強めれば、中国は間違いなく原発の道を選択するであろう。かの国では、地元地域の了解など不要であろうから、国が「お国にために、ここに原発を作りますよ!」と言えば、多少の反対はあっても幾らでも建設できるであろう。特にここ数年内に建設開始された原発の数は数十を数え、今後もこの数は増えるであろう。大きな地震も有りうるが、それ以外にもヒューマンファクターに起因した事故ということも十分に考えられる。その様な事故が起きたときに、本当にこの国で事態を収束させることが出来るのだろうか?中国と日本とは距離は800km以上確保されているが、偏西風に流された放射性物質を含んだチリは、日本海や日本国土に流れてきて、雨が降った段階でそこに落下する。チェルノブイリでは、避難が好ましい高濃度汚染地域は半径600km以上にまで及ぶため、事故の規模と風向き次第では日本も危ない。韓国などは首都ソウル全体が強制避難地域に指定されてしまうリスクすらあるだろう。

流石にそんなことはないだろう・・・という期待がこれまではあったかも知れないが、もはやそんな楽観論は通用しないことが色々な意味で明らかになっている。やはり、この様なリスクを低減するためには「倫理観」「責任感」を中国に植え付けるしかないが、誰もそのための答えを持ち合わせていない。

もはや、この国は滅亡に向かうしかないのであろうか?

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「それみたことか!」と思った時は既に遅いのである

2012-03-26 23:24:08 | 政治
「それみたことか!」と思った人は多いと思う。北朝鮮のミサイル(北は人工衛星と主張)発射予告と、それに対応した田中防衛相の「国民の心配がないように近々準備命令を出したい。その後速やかに破壊措置命令を出すことを決断したい」との発言である。

以前から、自民党を中心に田中防衛相の任命に関する異論が国会でも注目を集めていた。色々と細かな質問に対し、一部のマスコミからお遊びでクイズごっこをやっている場合ではないとのお叱りも受けたが、あの一連のやり取りで少なくとも明らかになったのは、「今の北朝鮮を相手に、この人が防衛大臣で本当に大丈夫か?」という国民の90%以上(私の勝手な推測であるが)の人が感じるであろう不安である。

確かに、北朝鮮に対して断固とした態度を取る必要があるのは明らかであるが、問題はその決断のリスクとメリットの関係である。朝鮮日報による報道の中で、「韓国政府消息筋の話として、北朝鮮で年明けに公開処刑されたと伝えられた人民武力部の副部長は、迫撃砲の着弾地点に立たせるという残虐な方法で処刑が行われた」というものがあったそうだ。ことの真偽は明らかでないが、父親(キムジョンイル)の喪中に不適切な行動をとったというだけで、「髪の毛一本も残すな!」という常軌を逸した行動をとるのだから、強がりでどう暴発するかは全く読めない。

大統領選を控えたアメリカや韓国などでは、選挙に絡んだ思惑が対北朝鮮への適切な判断を鈍らせて、そこにしっかり北朝鮮は付け込んでいる。残念なことであるが、ここ数年の対北朝鮮に関する国際的な駆け引きの中では、北朝鮮の圧勝ともいうべき結果となっている。一時期、バンコデルタアジアとの取引停止を判断した時点では米国側がポイントを上げたが、結局、制裁が解除されてもとに戻ってしまった。何も手を打たないでいる訳には行かないという判断もあるが、先日の米朝協議の結果も、双方で微妙に解釈が異なっていたり、今回のミサイル発射であっさりと約束が反古にされたりと、完全に手玉に取られた感がある。多分、北朝鮮の幹部の中には、戦略にたけた人材がいるのであろう。素人でも分かることであるが、現在のアメリカは対イラン対応で、とてもではないが2正面作戦などできない状況にある。それも、アメリカ対イランではなく、イスラエルの存在が事態を更にややこしくしている。イランが本格的に核を手にしたと判断されるときには、アメリカがどんなに自制を求めても、イスラエルは核の引き金を引くことに躊躇しない可能性が大きい。中東での本格的核戦争は世界経済にトドメを刺すことになるだろうから、それを避けるためにもアメリカは最大の迫力でイランに脅しをかけざるを得ない。北朝鮮など相手にする余裕など1ミリもないのは明らかである。こんな状況で選挙を前にすれば、「大目に見てやるから、頼むから言うことを聞いてくれ!」となるのは仕方がない。北朝鮮に足元を見られた背景は明らかである。

中国はアメリカほどではないが、10年ぶりの権力移譲のタイミングでドロドロした権力闘争が明らかになっている。ロシアですら、プーチンが大統領に返り咲くことが確定しながらも、選挙で票があくまでは楽勝ムードではなかった。選挙に勝って目に涙を浮かべたのは単なる演技だろうが、その様な演技をしなければならない様な背景があるのだろう。その中国とロシアは、今回、本気で北朝鮮に自制を求めているようであるが、それはドスの聞いた脅しではなく、「もー、いい加減にしろよな!」という諦めに似たニュアンスであろう。エスカレートさせればさせただけ、自分のカードの価値が高まるのである。本来ならば、日米韓で9手ぐらい先を読んだ詰め将棋の様な王手で迫らなければならないが、1手先の選択肢が殆どないのが現状である。

そんな中での日本である。どうしても後手後手に回ってしまうのは分かるのであるが、後手に回って、しかも誤った判断をされたのではたまらない。屈辱的ではあるが、色々な意味で、発射されたミサイルを傍観せざるを得ないのが現実であろう。田中防衛相には変な欲を出させないように、良識ある人にお守りをして頂きたい。

キムジョンウンは常軌を逸した処刑や韓国の哨戒艇を撃沈するぐらいだから、爆弾テロなどでの北によるゲリラ的な報復は容易である。例えば、原発施設でのテロが起これば、それが成功しようとしまいと、政権が吹っ飛ぶぐらいのインパクトがある。北の策略という明確な証拠さえ残さなければ、北朝鮮への軍事的な制裁などは発動できないであろうから、日本としては地団太を踏むしか手はない。一方で、キムジョンウンも足元は盤石でないから、調子づいてやりすぎると寝首を掻かれる恐怖がつきまとう。暴発は予測できないが、「やられたらやり返せ」的な言い訳を与えないことが最低限でも重要である。「ブラフ」が「ブラフ」として成立するためには、最後の引き金を引かずに相手を追い詰めるのが重要である。だから、田中防衛相が何かの勘違いでトンチンカンな命令を発動したら、それは取り返しがつかない。その責任を誰が取るのかと思うとぞっとする。

この状況で、田中防衛相の問責決議を参院で可決してしまうというのもひとつの手ではあるが、如何せん、そんなことで国会が紛糾する事態も望ましくはない。結局、八方ふさがりで「何でもっと早く手を打たなかったのか?」「何であんな人事を行なったのか?」という話になってくる。

やはり、日本は平和ボケしているのは間違いないらしい。アメリカ頼みなのは良いが、今回はアメリカにあまり多くを期待しない方が良いのも事実である。八方塞がりな現実だからこそ、せめて、閣僚にはプロ中のプロを任命して欲しいと、当然のことを改めて思い知らされた。

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政治主導のわかり易いモデルがあるじゃないか!

2012-03-25 23:23:51 | 政治
先日のブログ「絶好のチャンスをみすみす見逃す愚かさ」の中でも元経産省官僚の古賀茂明氏の活躍の話に少し触れたが、関西電力とのやり取りのニュース映像を見て、誰もが思ったはずである。「何で、民主党は彼を活用しなかったの?」・・・と。

言うまでもないことであるが、これまでにも少なからぬ改革派官僚が存在し、改革の重要性を理解した大臣が上司となると、改革派の彼らは活躍をすることができた。古賀茂明氏の他にも、元財務官僚の高橋洋一氏(現嘉悦大学教授)や元経産官僚の岸博幸氏(現慶応大学大学院教授)などは有名である。そして、自民党の橋本政権時代に橋下元首相に通産官僚から一本釣りされた江田憲司氏は、現在では政治家に転身してみんなの党の幹事長をしている。テレビの討論番組などで、相手がどのような人でも理路整然と議論が出来る政治家は意外に少ない中で、彼は少なくとも5本指に入る有能な政治家だと信じている。

この様に、実は有能な官僚は沢山いて、天下り先の確保に奔走する無能な事務次官や局長連中が目立ってしまうが、その様な出世レースの先頭を走っている人間をよけて人材発掘すれば、必ず、日本のためになる人材を見つけることは出来るはずである。そして、旗振り役の総理や官房長官が強権をもって官僚に命令を下せば、身をわきまえた官僚は嫌嫌ながらも従わざるを得ないのである。しかし、そうはなりたくない官僚は策を弄し、所謂「過去官僚」という切り札を使い、総理や官房長官などを牛耳ろうとするのである。

民主党政権で言えば、仙石元官房長官は古賀茂明氏を登用しようとしていたし、実際、その一歩手前まで事は運んでいた。しかし、それを阻止したのは当時の内閣官房副長官である経済産業省出身の松井孝治官氏と旧大蔵官僚の古川元久氏である。古賀茂明氏が仙石元官房長官に呼ばれて部屋に行ったらこの二人がいて、場の雰囲気がよどんでいて何が起きたかを理解した(古賀氏の徴用の話がお流れになったこと)と古賀氏が何処かで語っていた。

この様に、総理ないしは官房長官が覚悟を決めて、改革派の官僚を一品釣りして徴用すれば、事態は画期的に前進していく。それを阻止する官僚ないしは過去官僚に取り込まれれば、改革は頓挫するのである。一時期の民主党内での「政治主導」とは、「官僚を排除すること」であった。そして、政治家が何でもかんでも思いつきで口出しすることも「政治主導」と呼ばれていたこともあった。現在の野田政権では振り子の重りが逆に振れ官僚を重用しており、何処が政治主導なのかが全く見えない。

私は枝野経産相の能力を高く買っている方だが、彼は結局、古賀茂明氏を使いこなすチャンスを逃してしまった。その結果、彼は大阪で黙々と仕事をこなし、国民・市民に分かり易い多大な成果をあげようとしている。民主党としては、名誉挽回の大きなチャンスをみすみす棒に振った格好になってしまった。

思い起こせば、小泉政権時代とそれに続く安倍政権時代は、有能な改革派官僚にとっては恵まれた時代であった。竹中平蔵氏という超有能な学者が小泉元首相の側近となり、自らも閣僚として活動し、多くの成果を残すことができた。失われた10年と呼ばれる長い長い不況のトンネルの中から、増税もしないで膨大な財政赤字を黒字化する直前まで改善させ、あまり実感がわかずパッとしないながらも「いざなみ景気」とも呼ばれる長い好景気を演出した。つまり、この時代が有能な官僚を効果的に活用できた、それこそ政治主導の時代なのである。そして「改革」とは経済を回転させるためのエンジンであり、セーフティネットの問題に注意を払えば、規制緩和が景気回復への近道なのである。

今、橋下大阪市長の周りには有能な人材が次々と集まってきている。多くは大阪市・大阪府の改革のために集まってきているが、当然、流れはその後の国政につながっているのだろう。多分、古賀茂明氏は国民に求められる官僚のあるべき姿の象徴として位置づけられている。中央で手足を縛られていた時代から開放され、今の彼は生き活きと自由な活動を行い、そしてその情報を発信している。

橋下大阪市長が国政に参加するのはまだまだ先であるが、マスコミには古賀茂明氏を浮き上がらせることで真の意味での政治主導の何たるかを示して欲しい。

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信頼を回復するためのメカニズム作りを考えよう!

2012-03-24 23:50:14 | 政治
突然であるが、人間関係というものは、お互いの信頼を勝ち得るまでは様々な物事が中々上手く運ばないが、一旦、信頼関係を築いてしまうと、その後は全てのことが上手く行くようになる。逆に、一旦信頼関係が崩れてしまうと、それを元の状態に戻すのは困難であり、この状態では中々物事が上手く行かない。

これは誰もが知っている当たり前のことであるが、今の政府にはこの常識が通じないようだ。人によっては「誠意」を持って対応していると言うかもしれないが、誠意などは主観的なものであって決して客観的なものではない。そんな自己満足では信頼を失った国民からは評価されないのである。

3.11以前にも、反原発と原発推進派の争いはあったのだが、国民は消極的ながらも政府および電力会社の言うことを何となく信じていた。だから物事は上手く行っていたのである。しかし、ひとたび事が起きると、目の前の世界は真逆に変わってしまった。多分、明らかに正しいことを言っても、少なからぬ人たちが強硬な態度を示すようになってしまった。だから、この様な状況では政治的な駆け引きや下手な小細工ではなく、普通にやったら何も信用してもらえないことを前提とした行動が必要なのである。
例えば、ガレキ問題などは普通にやれば、何も問題となる訳がない案件であるが、それが普通に機能しないのが現状である。「何となく、安心であることは分かるが、しかし、何か騙されているのではないかと心配になってしまう」という住民の声は、まさに信頼できるか出来ないが故に、本来は安全係数を例えば1.5倍見込めば良いようなことを、現在は10倍でも足りないという事態に陥っている。

しかし、この問題は何も原発問題だけではない。年金問題では、若者の多くは「どうせ将来、年金などもらえないのだ・・・」と思うようになり、真面目に年金を納めるのがバカバカしく感じるようになっている。官僚にしても、多分、大多数の官僚は有能で真面目なのだろうが、天下りで甘い汁を吸うシロアリの様な姿を見せつけられると、「こいつらのやることは全て信用できない」とか、政治主導のもとに「言われたことだけやっていればよい、余計なことはやるな!」というようになってしまう。その結果、有能な官僚を使いこなせれば出来たことが、全く出来ずに機能不全に陥ったりする。政治家に関しても同じである。結局、美味い話ばかりをして、自分の身を削ることなど何もできないと分かってしまった。しまいには、警察にストーカー被害を訴えた市民に対し、忙しくて被害届を受理できないと言いながら署内レクで北海道旅行に出かけてしまい、警察も信用できないことになってしまった。

この様な流れには全て相関がある。結論を言えば、責任の所在が曖昧な点、そしてちゃんと責任が追求されていない点にある。つまり、現在のシステムが信頼を失わせる様なシステムになっていることが原因であり、この問題を解決するためにはシステムを変えなければ信頼は取り戻せないのである。

具体的には、物事の責任の所在が何処にあるかを明確にするルールと、結果に対する罰則規定を設けるのである。そして、問題が発覚したときにはその問題の責任者が適切に罰せられたか否かを外部機関が評価し、明らかに対処が不適切であった場合には、その処理の責任者に対しても重いペナルティを与える罰則規定も合わせて設けるのである。重要なのは、問題が発覚した時点での責任者の責任を問うのではなく、問題の原因を作った時の責任者に最も重い罪を負わせ、その問題に対処せずに先送りした責任者にも同様に罰則を与える。逆に、問題に気がついてそれを追求した責任者は責任を問われずに、寧ろ評価される制度にすればよい。現在の一般的な社会のルールは、(信じられないと思う人もいるかもしれないが)問題が発覚した際の責任者の責任が問われることになっている。だから問題を隠蔽するメリットが非常に大きく、逆に問題を告発するリスクは非常に大きい。信頼されなくて当然という気がしてくる。

また、責任を問われるべき人が「私は知らなかった」では済まないようにするために、上司に問題を報告しなかった部下に対しては、責任者に代わり責任を負わせる仕組みも必要であろう。とにかく、下から上に報告が上がるルールを作り、その報告が途中で止まったら、その報告を止めた人が最大の責任を負うことにする。報告した人は、「自分は報告を上げた」という履歴を残すことが保身につながるから、誰もが正式な手順で履歴を残して報告をしようとする。上司は、履歴を残されては責任を逃れられないと観念するから、適切な対処をせざるを得なくなる。人によっては、「そんなことまで俺に報告するな!」と言う無責任な上司もいるから、報告が途中で止まった場合には、その様な背景があるかどうかを調べることも必要である。

そして、最後が一番難しいのであるが、政治に関しては「不作為の責任」についても責任の所在を明確にする必要があるだろう。例えば、最近話題の原発の再稼働については、「再稼働の決断」の責任と共に、「再稼働を決断せずに放置した無作為」の責任いついても追求対象にするのである。この様な書き方をすると、政治家に「再稼働を強制する足かせ」と誤解されるかも知れないが、それは誤解である。この手の判断は、どちらに判断しても誤った判断となるリスクはある。本当の答えを誰も知らないのである。だから、結果として誤っていたことの責任を問われてはたまったものではない。だから、判断をするための適切な行動を取ったか否かが判断の対象となる。

原発再稼働に関しては、まずは、電力が足りるか足りないかの判断をするための情報を集めるための指示を適切に行なったか否かが重要である。例えば、全国の発電設備を把握するためには、関係部所に適切な命令を行い精度の高い情報を収集し、それをネット上で一般に公開して漏れがあるかないかの照会をかける。電力使用料に関しても、例えば気温(天気)と時間と曜日などの条件ごとに、産業界と一般家庭の消費電力のデータも公開し、統計的な解析によりどの様な条件で電力消費量がどの程度になるかの相関を評価できるようにする。ここまで来ると純粋な数学的統計的な議論になるので、脱原発とか原発推進などの先入観が入り込みにくくなる。もちろん、今年の天気に関する不確定要因(猛暑か冷夏か)はどうしようもないので、この部分のリスクをどう処理するかが腕の見せ所である。少なくとも、気象庁に記録が残る範囲での最も暑かった日(つまり電力消費量が最大であったと思われる日)の気温データで見たときに、現在の電力消費条件で供給が足りるか足りないか、すなわち電力使用率が100%以内になるか超えるかを判断する。さらに、節電効果についても不確定要因はあるので、電力使用制限令を出すか出さないか、また何%に設定するかもモデル化する必要がある。一般家庭の節電に関しては、多分、昨年以上の節電を期待するのは不可能だから、昨年以上の節電係数を想定してはいけない。かなり難しい話ではあるが、この程度であれば、データさえ適切に公開すれば、後は勝手に多くの研究者がやってくれる。最後はそれらの結果を比較し、信頼性の高いと思われる結論を引き出せばよい。

そして、やはりリスクが無視できないとなれば、計画停電でも電力使用制限令でも原発再開(もちろん、安全確認に関する責任も同時に問われるが)でもすれば良い。

この様な適切な手順を踏んだ上で政治判断を行なったのであれば、仮に判断を誤ったとしても責任は問えないだろう。

そして、その責任の追求の仕方は、多分、証人喚問から入ればよい。「私は、この様な手順でこの様なデータを集め、それをこの様に解析をして、その結果としてリスクをこの様に判断し、最終的にこの様な判断に至った・・・」と弁解させ、そこに嘘があれば偽証罪に問えば良い。正直に受け答えをするのであれば、責任を問えるか否かは判断しやすいので、その内容次第で罪に問える法律を整備すればよい。また、政党の力関係で証人喚問ができないことがないように、証人喚問のハードルを下げるルールも必要だろう。

細かいところで抜けがあるのは認めるが、ここが第一歩である。信頼が失墜しきった現在の日本の全てのことに対し、信頼を回復するための制度作り、法律作りを真剣に考えるときが来たのだと思う。

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議論の中の悪意(消費税増税議論の不毛さ)

2012-03-23 23:53:11 | 政治
以前のブログの中で、南京事件を引き合いに出し、悪意の或ことを前提としなければならない問題があることを説いた。もちろん、彼ら(中国人)にしてみれば国益に叶う行動をしているのであるから、国内向けには決して悪意ではなく、善意を前提としていることになる。しかし、それが悪意か善意かという問題は、当人の主観的な判断ではなく、第3者が客観的に見た場合の評価がもっとも説得力がある評価となる。

現在、民主党内では消費税の増税についての議論が戦わされている。先週から延々と議論し続けたが、結局、今週になっても決着がつきそうな気配はない。というのも、前原政調会長が「お尻を切らない」と宣言してしまっているから、昔々、消費税の増税に絡み社会党が牛歩戦術を取った時以上に事態は悪い状態だと言わざるを得ない。何故なら、所謂「慎重派」と呼ばれる(というか、自分たちで名乗っているが実際は「反対派」)小沢派を中心とした面々は、親分である小沢元代表が採決時の造反を宣言している位だから、ハナから議論をするつもりなどない。如何にして法案を骨抜きにするか、実効的には意味の無い法案にするか、という点についてだけ議論するつもりなのだから・・・。

この様に考えると、これは第3者から見れば悪意のある行動と評価せざるを得ない。現時点での妥協案は、低所得者層を救済するために定額の現金を給付する案や、食品などの生活必需品に対する軽減税率の適用など、結果として税収を下げるため、ないしは選挙で票を取るための人気取り政策に傾いている。もちろん、複数税率を設定して生活必需品の税率を下げることはあっても良いが、それは欧州のように平均の税率が20%近い極端な負担増に対し、生活必需品には現行税率を維持するというような案なら良いが、一般税率は10%で食品は5%よりも税率を下げるという条件では、複数税率という消費税の煩雑さのコストをまかなえば寧ろマイナスになり、世界のマーケットが財政再建に対する前向きな対応をしたと評価できない事態になりかねない。その様な条件での消費税増税は愚の骨頂であり、だったらやらない方が良いということにもなる。

これは、日本人の悪いところである。世界的にもその様な傾向は強いのかも知れないが、Aという判断とBという判断があった場合、それぞれに長所や短所があったとして、(A+B)/2という決断はAよりもBよりも遥かに悪い決断であることが多い。政治的な判断として、Aというゴールを設定した際に、少しでもAに近い解として(A+B)/2を捉え、将来的にはAに徐々に切り替えようという割り切りなのだろうが、政治というのは少しづつでも改善していくのが原則であり、変な妥協をしてはいけないのである。

これは「そもそも論」的な考え方をすれば明らかなのだが、悪意のある人には「そもそも論」が通じない。そして悪意のある人は、結論が現状よりも良くなっているか悪くなっているかが重要なのではなく、差し当ってAという決断を阻止したことに意義を認めるのである。現状を考えれば、このままでは国家財政が破綻し、年金制度も崩壊し、国民生活がボロボロになるのは目に見えているのであるが、問題はそれが明日起きるのか、数年後か、数十年後かが分からないために、その日が来るまでは楽観論を吹聴し続けることができてしまう。そして、いつの日か天の恵みで大好景気がやってきて、全てがリセットされたらラッキーと思うのである。先の中国人の例ではないが、多分、本人たちは本気でそれを「善意」と信じているのかも知れないが、世間一般ではそれを「悪意」と呼ぶのである。

しかし、自民党の中でも小さな「悪意」が沸ふつと湧いてきて、その悪意の誤りを正せずにいる。自民党も(3A+B)/4あたりの着地を目指してしまいそうで怖い。

こんな時、求められるのは決断力である。多分、橋下大阪市長のやり方では、変な妥協で現状よりも悪くなる道を選択したりはしない。Aという選択肢を強行するか、AでもBでも駄目なら、それと独立な第3の選択肢Cを示して強行突破するのかも知れない。民主主義として議論を尽くせば最良の選択肢にたどり着けるというのは幻想である。その命題自体は決して悪いものではないが、それが「真」と成り得るためには全員の「善意」が前提となる。今はその条件が満たされてはいない。

しかし、この「悪意」を当人達に認めさせることは不可能である。というか、「政治とはそういうものだ」という暗黙の了解があるのに、それに言及する方がルール違反なのかも知れない。だから、何処かでバッサリ切り捨てて決断する必要があるのだが、それを「独裁」「ファシズム」と呼ぶのか「英断」と呼ぶのかは歴史が決めることである。歴史の判断より前に「独裁」「ファシズム」と呼ぶのは、これこそ「ファシズム」的な行動なのだと思う。

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絶好のチャンスをみすみす見逃す愚かさ

2012-03-22 23:46:16 | 政治
少し前になるが先日のニュースの中で、元経産省官僚の古賀茂明氏などにより構成される大阪府市エネルギー戦略会議と関西電力のやりとりが報じられた。

まず第1弾は社長等の役員報酬や、政治家のパーティ券の購入額、天下りの人数などの様々な関電が公開していない情報に対する質問を行い、その多くの不都合な質問に対して「開示は差し控えたい」と答え、如何に「本当は電力が足りるのか足りないのか?」を判断するための情報を電力会社から引き出すことが困難なのかを白日のもとにさらした。さらに、第2弾は、関西電力大飯原発を視察し、様々な防災対策の現状を確認した。その中で様々な問題点を指摘し、例えば全外部電源損失時の対応策として設けた発電機が地震で崩れる恐れのある崖の横に設置されている点など、詰めの甘さを明らかにした。もちろん関西電力は、「この崖は700ガルの地震の揺れに耐えられる計算だ」と安全性を主張するが、計算が如何に当てにならないかを1年前に目の当たりにした今、その様な議論を平気で行うあたりの説得力のなさが、これまた問題になっている。実際、阪神淡路大震災時の震度7での加速度は600〜800ガルというのだから、全然、マージンが取れていな。技術者の良心として如何なものか・・・。

結論から言えば、私は一部ではあるが原発の再稼働は避けられないのではないかと予想している。しかし、1年前の悲惨な経験をした今となっては、その失敗から多くのことを学び、2度と失敗を繰り返さないための手続きが必要であることは、多分、国民の99.9%以上の人が同意するものだと確信している。だから、一刻も早く原発を再稼働したい、ないしは一刻も早く再稼働しなければならないと感じている人たちは、せめてその99.9%の人の半数以上が2度と失敗を繰り返さないための手続きを行なったと認めてくれる何かをしなければならないと痛感すべきはずである。しかし、電力会社側の行動・言動を見る限りは、2度と失敗を繰り返さないための手続きなどあまり重要ではないという確信をもって行動しているようにしか見えない。

もし、私が関西電力の社長であるならば、3.11後の早い段階から、以下のような内容を顧客(つまり国民)に対して訴えていただろう。

「原発に対して危機感を持つ方々に是非お集まり頂き、一部のセキュリティ上お見せできない箇所を除き、地震(ないしはテロも含めて)を中心とした災害に対する対策の現状を公開しますから、心配な点、改善すべき点を是非とも列挙してください。私どもではそのご意見を踏まえて更なる対策を講じます。もちろん、大きな費用がかかる部分については電気料金の値上げを含めたご相談を将来的にはさせて頂くことになるかも知れませんが、その費用の見積もりを含めて検討結果をご報告させて頂きますので、その追加対策の優先順位などについても、後日、議論させて下さい。」・・・と。

更には、この様な内容も付け加えるだろう。
「我々の試算では、全原発が停止した状態では、夏のピーク時においては電力受給量に見合う電力供給はできなくなると考えている。『足りる』と予測する人もいるので実際のところは分からないが、原発の再稼働が認められない場合の対応について、皆さんで議論をして頂きたい。例えば、天気予報で猛暑が予想された場合には前日のうちにその予告をすることを前提に、「電力使用率99%を超えた時点で計画停電予定区域への電力供給を停止する」こともひとつの選択肢である。無計画状態での電力不足は不慮の大停電による惨事を招く恐れがあるので、当然ながらその時を見据えた準備をしておかなければならない。その責任を全て私ども電力会社に負わすのであれば、我々は原発の再稼働を求めざるを得ない。安全確保ができなければ再稼働は認めないという正論は認めるので、その代わり、安全確保のための改善提案のご協力と、電力不足時の対応策のご議論を、重ね重ねお願いするところであります。」・・・と。

つまり、ポイントは2点ある。ひとつは、最大限に安全性を確保する(ないしは、住民の安心感を最大化する)ための努力を行うこと、もうひとつは、原発が再稼働できずに電力不足になった場合に困らないための準備を明確にしておくこと、である。さらには、これらを住民と一体となって議論することである。

確かに、今の制度では電力の供給責任は電力会社にはあるのであろう。しかし、それは平時においてのルールである。今は非常時(戦時)である。電力会社に全て任せきるなら、「じゃあ、再稼働します。責任もって、安全を確保しますから・・・。」という結論を電力会社に導かれても文句は言えない。だから、原発の再稼働を認めずに「ない袖は振れない」状態にしておきながら、やはり供給不足で停電になったら「馬鹿やろー!ふざけるな!」では余りにも無責任である。安全性の確認を真の意味で徹底したら、多分、1年やそこらでは終わらない。お金も相当かかるに違いない。資金調達だけでも相当時間がかかるかも知れない。だから、今年の夏前の再稼働には間に合わなかっただろう。

だから、その場合には二つ目のポイントが重要になる。住民への計画停電を許容するのか、それとも産業界に電力削減の足枷を履かせるのか、(先日のブログに書きましたが・・・)明らかな効果が期待できるほど極端に電気料金を上げて節電を促すのか、などなど、ありとあらゆる選択肢を皆で考えながら、マスコミなどを介して国民的な議論を進めるのである。もちろん、様々な選択肢にはそれぞれリスクもあるから、議論の中ではそれらのリスクも定量的に評価しなければならない。それらのリスクを、なるべくバイアスがかかっていない(極端な反原発派でもなければ、産業界を代表する原発再稼働派でもない)人たちに評価してもらうのである。それらを全て明らかにして、電力不足時の覚悟を今から決めておく。準備だけしておいて、運が良く電力が足りたら何もしなくて済むが、その時はラッキー!とひと言いって終わりで良い。

話が少々逸れてしまったが、何を言いたいかと言えば、本来は古賀さんたちの行動は、関西電力の方々にとっては「ウザイこと」ではなく「渡りに舟」の話であるはずである。原発事故以前には、原発賛成派と反対派の議論がかみ合わず、全く生産的な前向きな安全対策が取られなかった。失礼な言い方だが、事故が起きた今は、安全対策を見直して世界最高の安全水準に原発技術を高めるチャンスですらあるかも知れない。しかし、明らかに関西電力は「臭いものには蓋」「寝た子を起こすな」というスタンスを崩さない。結果として、2度と失敗を繰り返さないための手続きに目をつむることを選択しようとしている。世界最高の安全対策に挑む努力も行なっていない。一見努力しているようにも見えるが、単に自己中心的、自己満足での対策だから、世界はそれを認めたりはしないのである。

しかし、もはや日本国民は誰もその様な手抜きの安全確保を許しはしない。結果的に関電はそれなりの権益(例えば高給であったり、天下り子会社の存在、福利厚生などの施設・資産の温存、高い料金体系など)を失うことになるかも知れないが、再度の事故が起きて第2の東電になるよりはマシである。

繰り返すが、このチャンスをみすみす見逃してはいけない。そのことに早く電力会社の幹部、ないしは原子力村の重鎮には気がついて欲しい。

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無責任さの撲滅のためのルール作り

2012-03-21 20:55:45 | 政治
これまでも折に触れて言及しているが、昨日のブログの中でも政治家や官僚の責任論について問題点を指摘した。昨日の例では、経済産業省原子力安全保安院の広瀬研吉元保安院長が内閣府原子力安全委員会からの原発事故の防災対策強化検討の提案を潰した件を引き合いに出して、法律に照らし合わせて責任を取らせることの困難さを痛感させられた。しかし、物事の本質がここにあるならば、この問題を解決しなければ先に進めない。

そこで、ひとつの提案をしてみたい。それは、司法の世界と同様に「会議の可視化」(厳密にはビジュアル的な情報は不要であるので透明化と言うべきか)の提案である。

過去のブログ「録音専用のライフ・ログ・レコーダについて」の中でも、政治家や重要官僚にはライフログレコーダを24時間持たせ、活動の記録を義務化するという案を提案していた。もう少し厳密に言えば、あまりにも多くの人の発言を記録するのも問題なので、真に必要な責任者に限定して義務化すべきとしていた。例えば義務化の範囲は、総理大臣と主要閣僚(官房長官、外務、財務、防衛等)および各省庁の事務次官程度である。また、明らかにプライベートな時間は記録の対象外としても仕方がない。

ただ、プライベートな時間か否かの線引きの判断は難しい(都合の悪いことは全てプライベートだと言って逃げられてしまえば意味がない)から、その制度に先行して、当然記録されてしかるべき様々な会議に限定して音声データを記録に残すことの義務化を図るのである。そして、所定の年月の後に公開するという公開原則を設定するのである。

もちろん、情報には重要度によるクラス分けが必要であろう。公開までの期間として、軽微な案件は即時公開、一般的には5年、重要な案件は10年、防衛に係わる機密案件は30年などというところか。さらには、公開対象についても一般案件以下は全国民への公開を原則、重要案件以上の情報は(公開の期間を少しばかり短縮する代わりに)この情報へのアクセス権を国会議員(厳密には、少人数限定で公設秘書まで含めても良い)に限定としても良い。国会議員に公開が限定される情報は、もちろんインターネットに接続されていない物理的に孤立したローカルなネットワーク上(例えば、国会議事堂内(別の建物でも良いが)の所定の部屋に設置された端末)でのみ、情報にアクセスできるようにすれば良い。その部屋への入退室記録や、電子情報の持ち出しがないことを確保する。ただし、コピーが出来ない特殊な用紙へのプリントアウトは、プリント記録を残して紙ベースでの持ち出しを許可する。ちなみに、音声データは自動音声認識アプリで全てテキストに起こされて、簡易に検索をかけられるデータベースシステムも合わせて導入する。

このルールの運用については、それなりの工夫が必要である。例えば最初の話題の原子力安全保安院と原子力安全委員会の打ち合わせは「意見交換をするための昼食会」という位置づけだったそうだから、単純に考えれば録音対象とはならないだろう。だから、下手に記録の残らないところでネゴろうと考えると、その記録を残すことができない。しかし、敢えて公の会議で議案として出せば、記録は残らざるを得ない。後は、残した記録が紛失しないように、明確な管理体制と記録を紛失した時の罰則規定を設ければ良い。

また、省庁や政府機関の公式な会議は無条件で記録を義務化するが、その他の非公式と位置づけられる会議についても、出席者の誰かの発案があれば記録を拒めないという制度にする。それ以外にも、各党内でも役職を有する議員の出席する(準)公式な会合も記録の対象とする。だから、最近の民主党の消費税増税に関連した党内協議なども記録に残せば良い。マスコミが取材に入った会議はテレビに流されたりするが、都合の良いように編集されずに残すことも、逆の意味で議員の身の潔白を保証するのに役立つかも知れない。民主党の消費税増税に関連した党内協議の様な会議は機密性が低いから、3年を待たずに即日に全国民に公開しても良いかも知れない。

この様にすることで、全ての政治家や官僚などが、将来的に自分の発言内容に対して責任を問われるかも知れないという緊張感をもって発言・行動を行なう土壌が生まれる。野田総理が以前の辻立ち説法で「(マニュフェストに)書いてないことはやらないんです!」と明言した映像がYou Tubeに流れて話題になったが、運が悪ければ・・・ではなく、確実にこの様な発言内容が後で掘り起こせるようにしてしまうのである。

多分、菅前総理が昨年の3月15日に東電を恫喝した映像がまもなく公開されるであろう。場合によっては、その他の映像もまとめて公開されるかも知れない。その姿を見れば、如何に菅前総理が無責任な発言をしたか、如何に理性的な判断力を失わせるような雰囲気を作り上げてきたか、如何に専門家の意見を無視して独善的な判断をしたか、逆に曖昧な表現で無責任に判断をしなかった(先延ばし)か、などが明らかになるだろう。そうなれば、多分、彼は次の選挙では生き残れまい。否応なく、政界からの「退場」の審判が下るに違いない。

そうなれば、政治家の無責任な言動にひとつの歯止めをかけることができるかも知れない。やはり、無責任さの撲滅がこの世界には必要なのである。

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無責任な楽観論の責任は誰が取る

2012-03-20 23:19:47 | 政治
民主党内の消費増税に関連した党内協議が長引いている。23日の閣議決定は絶望的で、特に慎重派と自らを呼ぶところの反対派を中心に、テレビに出演して反対のアピールを繰り返している。

確かに、この不景気での増税が何を意味しているかは良く分かるのであるが、それでも反対派の多くの人々の主張は無責任この上ない内容だ。例えば、名目経済成長率3%、実質成長率2%を超えるまで増税をしないという表現で「景気弾力条項」を明記すべしという主張は明らかに「増税はしない」という「反対派」であることを宣言することに等しい。しかし、この様な人々が決して語ろうとしない話題がある。それは、「では、このままで良いのか?」という問いに対する答えである。

全く異なる話題のニュースだが、先週、次のような話題があった。
「原発事故の防災対策強化に経済産業省原子力安全・保安院が06年に反対した問題で、当時の広瀬研吉保安院長(現内閣府参与)が強化に着手した内閣府原子力安全委員会の委員に対し、「寝た子を起こすな」と反対していたことが16日、安全委への取材で分かった。保安院の組織的な関与が明らかになった。」(2012年3月16日毎日新聞より)

このニュースを受けて、巷では当時の広瀬研吉保安院長の責任を問う声がある。等の本人に取材を申し込んだ新聞社によれば、本人は「覚えていない、記憶にない」としらを切り通しているという。これは、楽観論に経てば幾らでも無責任な発言・行動ができるが、その様な無責任な発言の責任を誰が取るのかという問題を提起したニュースだと私は感じた。言うまでもなく、原子力安全・保安院の任務は、原子力の規制および安全確保を徹底することである。しかし、原子力村を中心とする原子力推進派と一体化して安全神話を歌い上げ、規制や安全確保を骨抜きにしながら、国民に「安全だ、安心しろ!」と洗脳していた。しかも、原子力安全委員会からの国際基準に合わせた高いレベルでの安全確保の要請に対し、「寝た子を起こすな!」として検討すら中止するように詰め寄ったというのだから、殆ど万死に値する。法的には彼の財産を差し押さえて責任を取らせるようなことはできないのだろうし、牢屋に入れることもできない。せいぜいできるのは、国会での証人喚問ぐらいで、嘘をついた時の偽証罪ぐらいしか手がない状況だ。どうせ「記憶にない」と逃げおうせるだろうから、楽観論は言ったモン勝ちというのが現実である。

ところで消費税の増税であるが、反対派の人たちは、「日本ではギリシャ化(財政破綻)しない。条件が違うから安心してよい!」と口を揃えて言う。政権与党の国会議員として、彼らはこの問題に対してどの様な責任感を持って臨んでいるのであろうか?言ってみれば、上述の例に合わせれば、原子力安全委員会と同様なスタンスで国家破綻の危機に向き合い真剣に対策を打たなければならないと主張する野田総理率いる増税賛成派に対し、原子力安全・保安院のごとく「世間では日本はギリシャとは違うという考えがあるのだから、寝た子を起こすように増税増税と言うな!」と後ろから一生懸命足を引っ張っている。しかも、「今やるべきことはデフレ脱却、景気回復だ!景気が回復すれば税収も上がり増税など必要ない!」といったことまで言っている。しかし、それなら私は聞きたい。「それができるなら、何故、政権を取って直ぐにやらないのか!ここまでの2年でできないことが、どうしてこの先、出来ると言うのか!」・・・と。

多分、彼らはこう答えるだろう。「私が担当大臣になれば、直ぐに、景気なんか回復させてみせる。しかし、残念ながら私は与党内では非主流派だから、その権限がない。」こんな無責任な話はない。ちょっと前までは、「民主党が政権を取れば何でも出来る。」と言っていたのが、政権を取ったら言い訳する。だから、本当に担当閣僚になったら、今度は「衆参捻れが解決したら何でも出来る」と別の言い訳をして、更に選挙で議席をくれと求めるのであろう。この手の無責任な人は、何処まで行っても言い訳だけが続くのである。

どうせ、ここまでの2年間で効果的な景気対策を打てなかったのであるから、それを前提にどうすれば良いか、どうすべきかの議論をするのが責任ある人の取るべき行動である。

ちなみに、一昨日の報道ステーションSundayでは、竹中平蔵さんと五十嵐文彦財務副大臣が出演して議論していた。面白いことに、五十嵐氏が賛成派で竹中氏は慎重派という位置づけであった。ここまでの記述では「慎重派」とは「反対派」としてきたが、私は日本の中で一人だけ例外が竹中平蔵さんだと思っている。これはどういう意味かと言えば、私が消費税増税に賛成する理由は、世界が日本のギリシャ化をどの程度現実的なものと捉えるかという視点で考えている。民主党の偉そうな顔をした国会議員さんは、いとも簡単にデフレ脱却と言うが、誰もその道筋を示せずにいる。日銀総裁がインフレターゲットに言及して少しばかり状況が好転したが、根本的な解決ではない。だから、税収が増えるかどうかではなく、長期的には避けて通れない増税をどの段階で決断できるかという点で、ギリシャ化度を評価しているのだと思う。だから、極端な話、税収アップに繋がらなくても消費税増税には意味があると思っている。しかし、国際的なマーケットでギリシャ化度を低めに思い込ませる術が他にあれば、増税は急を要する課題ではない。それは何か?

「失われた10年」を受けて誕生した小泉政権下で不良債権問題を解決し、プライマリーバランスの黒字化の一歩手前まで状態を改善できたのは、ひとえに、竹中平蔵さんの手柄である。それだけの実績が伴う彼だから、世界のマーケットは彼が政権の中枢に返り咲けば、きっと日本経済の復活を信じるだろう。その様なことを考えれば、彼だけは「今はデフレ脱却に専念すべし!」という言葉を吐ける例外の人物なのだと思う。だから、民主党も全ての邪念を捨てて彼を政権に取り込めれば話は変わるのであるが、あくまでも民主党は竹中氏を「格差拡大の諸悪の根源」、ないしは郵政解散で多くの同士を落選に陥れた憎っくき小泉政権の最重要人物であるから、何とか彼の評価を悪くなるように陥れようかと必死である。この番組の中でも、五十嵐氏は小泉政権時代に「たまたま、あの時は運が良く景気が好転したからプライマリーバランスが改善した」と言っていたが、国際的なマーケット関係者は決してその様な評価はしないだろう。例えば、米国の財務関係者に、歴代の日本の閣僚で最も評価の高い財務・金融関係の担当者は誰かと問えば、圧倒的に「竹中平蔵」という答えが多く返ってくるだろう。まあ、竹中さんが再登板する可能性は低そうだから、その例外の議論をするのはナンセンスであり、だから私は消費税増税に賛成する。

多分、この後も責任感のない政治家が自分の都合で楽観論を語り続けるだろう。その様な政治家に責任を背負わせることは難しい。さし当たっては、選挙で落とすぐらいしか手はない。しかし、その様な甘い言葉を巧みに操る政治家は、少なくとも特定の団体の指示を受けて選挙には強かったりする。

厳しいことでも平気で言える、橋下大阪市長に対する国民の期待は、多分、この様なところにあるのだろう。

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AIJ破綻問題の背後の深い闇

2012-03-19 22:25:29 | 政治
先週の土曜日の朝、日テレの「ウェークアップ!ぷらす」にて興味深い話題を取り上げていた。ベースとなる話題はAIJの破綻問題であるが、その背景こそが問題であるという内容だった。竹中平蔵さんと片山善博さんの、ふたりの総務大臣経験者が出演していた。

もちろん、AIJの問題は詐欺そのものであるから、その手口や消えたお金の流れは当然追及すべきであるし、あれだけ被害が拡大した背景の一つには、厚労省を中心とした天下りネットワークが関係した話題などもマスコミを賑わせている。しかし、それ以上に深刻な問題があるということに気が付かせられた。私はこの関連の話は十分に理解できていない部分もあるので、間違っているところもあるかも知れないが、自分なりにポイントを整理してまとめてみた。

今回ここで注目するのは、厚生年金基金の運用実績である。多くの企業においては、目標とする運用利回りを定め、その利回りを前提として退職者に対して年金を支払っている状況である。しかし、信じ難いことであるがこの目標運用利回りをバブルの時代の負の遺産として5%以上に設定したままの企業が多いという。当然ながら運用は赤字が続き、本来であればこの状況を早期に改善しなければならないが、中小企業にとっては中々これをリセットできないでいるという。その際のキーワードが、「厚生年金の代行返上」である。

ご存知の方にとっては常識なのだろうが、順番に説明すると以下の通りである。まず、「厚生年金基金とは何ぞや?」というところから入るのであるが、Wikipediaを引くと「厚生年金保険法を根拠法とする、企業年金の一種の給付を行う基金とする組織の認可法人」とある。つまり、企業毎の年金である企業年金を運用し給付することが基本であるが、しかし、これ以外にも本来は国が行なうべき厚生年金の一部を運用する業務を代行することが可能であった。「バブル」の時代であれば、国に厚生年金として収めるべきお金を手元に残し、それを運用すれば厚生年金の想定運用利回りを超える利回りにより収益を得ることができた。だから、この「代行」業務は非常にうま味のある業務であった。しかし、バブルが崩壊し、当初の利回りを大幅に下回る状況が長く続いた。始めのうちは、いつか景気が回復してバブルが再来すれば、その赤字は埋められると思ったのであろうが、結果は周知の通り間逆となった。だから、当初の高い利率での運用を宿命付けられる「代行」業務は次第に企業では重荷になり、既に膨大な赤字となっていた年金の基金を補填してでも「代行返上」した方が企業としてもメリットが大きい。私の会社でも何年か前に「代行返上」に関連して承認を求められたことを覚えている。その当時は、「代行返上」にどういうメリットがあるのかに興味がなかったが、今思えば所謂「損切り」を早期に行なうことで傷口を最小に止める狙いがある。だから、赤字を補填できる体力のある大企業の多くは2002年から2004年にかけて一気に「代行返上」を行なった。

しかし、厚生年金基金数の推移を見ると、同業の中小企業が設立した厚生年金基金は一向に減る気配はない。これは別にその方が得だから「代行返上」を行なわないのではなく、「代行返上」するためには、それまで代行を行なって管理していた年金を国に返上する必要があるからだ。このお金が不足した場合、現金(厳密には株の現物支給で行なっても良い)で赤字を補填しなければ「代行返上」ができないことになる。当然ながら、業績の苦しい中小企業にその様なお金を捻出する余力は残されておらず、「代行」業務を嫌々ながらも続けざるを得なかった。もし、責任感のある良心的な方が企業の年金管理担当になれば、その赤字状況を白日のもとにさらし、年金給付額の切り下げなどの抜本的な改革を進言し、破綻する前に早期に根本的な改革を図ることを試みるであろう。しかし、どこの世界でも責任が問われるのは「問題を起こした人」ではなく、「問題が発覚したときの責任者」であることが常識化している。であれば、仮に自分達の首を絞めることになっても、積み上がった赤字に目を瞑り、自転車操業を継続して行けるところまで行くしかないと考えてしまう。

そんな中で目の前に「AIJ」の悪魔の誘惑が待ち受けていた訳である。

厚労省からの天下り官僚らは、多分、天下った会社の年金が破綻しても殆ど痛くも痒くもない人達である。天下った先には、そう長くは所属しない。とりあえず、自分達がその企業に所属している間だけ辻褄を合わせることができればそれでOKである。何度目かの退職金を貰ってしまえば「勝ち逃げ」なのだから、自分の経歴にケチがつくような根本的な解決をする訳がない。

AIJの謳い文句は「リーマンショックが起こった2008年でさえ利回り7%!勝率100%、過去10年間でマイナス運用だった年度は無い。累積収益率は、247%!」だったという。冷静になれば、世界的な不景気の中でそんな旨い話がある訳がないが、その旨い話に乗っかると得をする人は多かったことになる。自転車操業の現状を隠すためには、その旨い話に飛び付けば見かけ上は解決するのである。騙す側と騙される側の利益が旨くマッチしたのである。

「たられば」の議論をしても意味はないが、もし仮に、早期に「代行返上」出来ていれば多くの中小企業がAIJに走らなくても済んだはずだ。もし仮に、年金業務の担当者が天下り官僚ではなく、その会社の生え抜きの社員ならば、自分達の年金が破綻するようなリスクには近づかなかっただろう。仮に手を出しても、リスクを分散するために、ハイリスクの運用のウエイトを減らしていたであろう。そしてもし仮に、AIJの業務を管理監督する人達が、「王様は裸だ!」と叫んだ時に自分達の元上司が困るのではと思わなければ、もっと早く「王様は裸だ!」と叫べたのかも知れない。

結局、この「たられば」は実現せず、2000億もの損失を出してしまった。一義的な責任はAIJに、その次は各企業にも責任があることは明らかなのだが、本当はもう少し深刻なのである。そして、今回もその責任は誰も取らずに終わるのだろう。

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議事録問題をこのまま終わらせてはいけない!

2012-03-16 21:54:42 | 政治
以前より、原発事故に係わる議事録が残っていないことが話題となっており、先日も、議事録の代わりの議事概要が76ページ分公開された。アメリカの核規制委員会NRCの作成した議事録は3,000ページ以上あり、その対比から如何に日本の対応がずさんであったかが話題となった。今日はこの件について少し触れてみたい。

私の住んでいる場所では見ることはできないが、関西テレビ「アンカー」で毎週水曜日に放送されている「青山繁晴の“ニュースDEズバリ”」の内容は、色々な方がテキスト起こしをされていて、その内容を詳細に知ることができる。この青山繁晴さんの話題は過去のブログでも何度か扱ったが、全国的にもTVタックルへの出演で有名だし、彼を最も有名にしたのは昨年4月に、誰よりも早く福島第一原発に入り現状を外部に公開したことだろう。その際の彼の心意気に前福島第一原発の吉田所長も応える形で、青山さんに色々とメッセージを残しているようだ。その経緯が下記のURLでご覧になれるので、是非、読まれることをお薦めする。


「ぼやきくっくり」さんのブログ
■関西テレビ「アンカー」青山繁晴の“ニュースDEズバリ”テキスト起こし
3/15付:「アンカー」原発事故議事概要…権力側は“保身どろどろ”吉田前所長は“決意清らか”

このテキスト起こしを読めば、大きく分けて3つのことが述べられている。ひとつは福島第一原発の吉田前所長が如何に誠実に頑張ってこられたか(さらには、病気療養後の活動も含めて)、ふたつ目には如何に議事概要が政治家(および官僚)の保身が酷いものであるか、そして最後に如何に政府側が青山さんの様な事実をありのままに公開する人を排除し事実を闇に葬り去ろうとしているか・・・が読み取れる。最後の件は、平野復興相が国家権力を使って罪のない青山さんを不当に逮捕しようとした怨み辛みが含まれるので、かなり感情的な批判となっている部分もあるが、この平野復興相が被災者に寄り添い復興のために私心を捨てて行動できる人か否かを判断する上で、重要な意味を持つと思う。ただ、今日はそれは本題ではなく、またひとつ目の吉田前所長への応援の気持ちも抑えながら、ふたつ目の議題に焦点を絞ろうと思う。

私が議事概要について思ったのは、何処かのニュースで「関係者の間に残る細かなメモを寄せ集め、それらをひとつの議事録にまとめ上げ、その発言者ないしは同席者に対して内容の確認・修整をお願いした上で、議事概要としてまとめる」という内容の発言を聞いて、やはりこの議事概要には期待できないのではないか・・・という気持ちが沸いて来たということだ。通常の議事録作成手順では、当然ながら発言者に内容確認をお願いし、その人の意図に反した記述は訂正されるのであるから、上述の議事概要の手順は如何にも尤もな話なのであるが、私はこれには問題があると思っている。通常、議事録は会議の直後に確認を行なうから、自分の発言がどの様な内容かは自分も同席者も全て覚えているし、誰かが間違えたことを言った場合には発言内容を残した上で、補足書きで訂正内容を列挙したりする。つまり、議事そのものの内容は事実として残されるべきである。当然、頭に血が上った状態であれば、その後も暫くは自分の発言が「まずい」とは気が付かないから、誤った発言はそのまま残る。しかし、1年近く経って世間の評価もある程度落ち着いた状態では、本当の自分の発言は横に置いて、「これが公になってはまずい」という保身が働くのは当然である。だから、その様な場所を徹底的に削除するように求める政治家・官僚が出てくるのは容易に予想できる。同様に、言ってもいないのに「こんなことを、ここで言ったはずなんだが・・・」とねじ込むこともあるだろう。証拠がないのであれば、如何様にでもできるのである。

実際、青山さんがご指摘の様に、絶対、これで議論が終わっているはずはないという内容なのに、いきなり議論が終わっていることになっていたり、相当主観を盛り込んだ記録も残っている。だから、今回の議事概要とは「本当は、これを公開されても痛くも痒くもないですよ!という部分を抜粋するとこうなる」という資料になっている。しかし、私も過去のブログでも指摘していた通り、青山さんも良心的な経産省の幹部から『それなりの議事録はありますよ』という言葉を引き出しているという。官僚は、良くも悪くも頭の良い人が多いから、あまり議事録に残して困る発言はしていないだろうから、その議事録が表に出せないのは政治家が「待った!」をかけているからに他ならないであろう。だから、いつの日か政権交代が起きて、その議事録を表に出すための命令を担当大臣が指示するのを待つのみである。

しかし、今日、この命令に似た面白い話題が新聞に載っていた。先日から原発事故当事に菅前総理が東電幹部に対して恫喝していた内容が明らかになっているが、その映像が残っていて、現在も東電が保管しているという。今日のニュースでは、枝野経産相がその映像を東電が公開していないことについて、「なぜ公開しないのか意味不明だ」と述べ、公開を求めたという。さらに枝野氏は「東電が持っているのだから、東電が公開すれば済む話だ」と、東電の対応を批判した。具体的な内容は、「60(歳)になる幹部連中は現地に行って死んだっていいんだ。俺も行く」「撤退したら東電は百パーセントつぶれる。逃げてみたって逃げ切れないぞ」などと怒鳴り散らし恫喝していたというものだ。

ここから先はあくまでも予測だが、東電はこの様な映像証拠を何かの時のための切り札に残そうと思っているのではないか。例えば、東電国有化を進めようとした際に、この様な映像が公開されたら民主党政権にとって痛手ではないですか?という恐喝に使えるネタなのである。困るのは多分、菅前総理と海江田元経産相だろう。このふたりは、失言や不適切な行動が多くあることで有名である。その他にも、本音としては正しいが、責任ある立場の発言としては不適切という内容もあるかも知れない。このレベルになると、相当な数の政治家が係わってくる。面白く感じたのは、その様な脅迫を早い段階でシャットアウトするための逆襲として枝野経産相が先んじて攻撃を仕掛けた点である。多分、細かく見れば枝野経産相にも不適切発言はあるのであろうが、彼は彼なりに菅前総理の責任を正等に追及しなければ、今後の日本のためにならないという気持ちを持っているのであろう。というか、そう信じている。

今回の映像をきっかけに、その他の多くの会議の録音情報や議事メモ、場合によっては映像情報が堰を切って流れ出し、真相究明に役立つことを期待する。


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電気使用税の創設と税金還付のインセンティブ

2012-03-15 22:56:33 | 政治
まもなく日本国内の全ての原発が安全点検のために稼動を停止することになる。この時期は比較的電力の消費量が少なく、直ぐに無計画停電に陥るような緊急事態にはならないが、夏になればまた受給が逼迫する事態に陥る。

様々な機関から、「この夏は乗り切れない」とか「いや、計算すれば十分に足りるという結果が出ている」という主張がなされている。ただ、誰もが指摘している通り東電ないしは経産省が評価に必要な十分なデータを出していないし、計算する側もその計算の前提条件を明らかにはしていない。だから、誰が言っていることが最も信頼できる評価なのかは藪の中だ。

言うまでもないことだが、この問題の焦点は「ピークカット」にある。多分、年間で20~30時間程度の消費電力のピークを除外すれば、残りの99%以上はあまり問題にする必要がないレベルであろう。しかし、そのピークがいつ発生するのかが分からないから、いつ起きても困らない体制が求められることになる。昨夏は、企業や業種毎に休日を変更したり、昼間の勤務を深夜に変更したりなどの対応が行なわれ、何とか乗り切ることができた。一部の企業では、東電管内から他の電力会社の管内に拠点を移動して対処したが、今年は日本全国が逼迫する状況だから、避難するには国外に逃げるしかない。この様な状況が続くと、大企業は電力供給が不安定な国内から国外に拠点を移し、国内産業の空洞化に突き進むことになる。これだけは何とか阻止しなければならない。

多くの反原発派は電力供給は「足りる」と言っているが、では足りなかった時の責任をどの様に感じているのであろうか?例えば、今年の夏が冷夏であり、たまにある猛暑日が偶然週末やお盆休みに重なれば、多分、多くの研究者が「足りる」と認めるであろう。しかし、仮にこの夏が30年に1度の猛暑になり、お盆休みでもなければ休日でもない日に最高気温が全国的に38度以上にも昇るようなことがあれば、多分、多くの人が「足りない」と予測するであろう。昨年は震災の記憶が鮮明で、誰もが「協力しよう!」という強い意思を持って臨んだが、今年はそうは行かない。週休日の変更も、実際やってみた経験ではボディーブローの様なインパクトがあった。政府は電力使用制限令を今年は出さない方向で検討していると言うことだから、昨年度の様にピークカットが上手く働くかどうかは微妙である。大企業が海外に逃げ出さないように、何か手を打たなければならない。

そこで提案がある。ベースとなる考え方(電気料金の値上げ)は東京新聞の長谷川幸洋論説副主幹の発言をヒントにしている。多分、他にも同様のことを考えている人は多いと思う。まず、電気料金の基本料金を除く重量制課金の単価に50%の税金を付加するのである。つまり、電気使用税の創設であり、結果的に電気料金の値上げになる。ただし、この税金の徴収は1年単位とし、電力会社では1年分の累積額を毎年、所定の月に徴収する。一方、国はこの徴収額の総額に対して、それを所定のルールで国民や企業に還付するのである。例えば、企業が消費する電力による電気使用税と一般家庭の電気使用税が70%対30%だったとする。この場合、税収総額の30%を国民に対する還付額とし、大人子供に関係なく単純に人数割りで一人当たりの還付額を計算し、これを国民に還付する。企業に勤めるサラリーマンであれば年末調整の際に扶養家族の分も合わせて還付すれば良いし、自営業などで確定申告を行なう者は、その確定申告に合わせて還付すれば良い。年金受給者は年金に合わせて還付しても良い。あくまでも、その他の還付方法と重複しなければ如何なる方法で還付しても構わない。上記のいずれにも属さない人は、仕方がないので確定申告をしてもらうことになる。確定申告の面倒さは理解できるが、本来は国民全員の納税意識を高める必要があり、大阪維新の会の船中八策では国民全員の確定申告を盛り込んでいるほどであり、これは諦めて従ってもらうしかない。

先ほど延べた電力会社からの税金の徴収月が例えば5月であれば、確定申告後の税金の還付が税金の徴収に先行することになる。貧困により経済的に苦しい家庭であっても困ることはないし、もともとその様な家庭は電気使用量が少ないので、税金の徴収額よりも還付額が大きくなり、多分、苦情は出ないだろう。つまり、電気を使っただけ増税となるが、逆に節電すれば還付金が上回るので減税となるかも知れない。LED電球や省電力の電化製品に買い換える際のインセンティブとしても働き、電化製品などの買い替え需要を生み出す経済効果も期待できる。太陽光発電導入のメリットも大きくなるので、普及促進にも役に立つかも知れない。電気料金の値上げと言えば悪いイメージがあるが、この様な形での値上げであれば不満も少ないだろう。

問題は企業側の電力使用に対する課税と還付であるが、こちらは少々ややこしいので、知恵のある方々のアイデアを募れば良いと思う。例えば、事業内容によって電力使用量が違うので、単純に従業員数に比例した還付とする訳にはいかない。前年度を電力使用量を基準とした節電率で還付すると、昨年頑張った企業が損をするのでこれも駄目である。しかし、例えば電気使用量が大きい小さな町工場などには増税になると経営に直結するので、その様な会社に対しては十分に考慮されるべきである。なんなら、企業は非課税としても良い。ただし、国民感情として一般市民に対しては増税し、大企業には増税なしだと流石に文句のひとつも言いたくなるのは人情である。だから一例として方法を考えてみた。この案では電気使用量の管理が複雑になるのが難点であるが、ピーク時間帯(例えば平日の13時~19時)だけ電気使用税を課税し、その課税総額を企業の総使用電力で除算し、還付単価を各企業の電力使用量に乗算して徴収額と還付額を相殺する調整を年に一度行なうという方法は如何だろうか。当然ながらピークカットに協力した企業は税の徴収額よりも還付額が多くなり、それを社員に還元したり企業の収益とすればピークカット制度導入のインセンティブになる。

ちなみに、それでもピークカットが不十分な場合もある。その場合には、1時間前に通告が行なわれると言う前提で、積極的にピークカット時に給電停止を受け入れる企業を募るのである。そして、実際のピークカット時の給電停止総電力量(停止累積時間×平均の電力消費量)に比例した別枠の税金還付をすることで、損失補てんを行えば良い。例えば工場によっては、たった1時間でも一度電気を止めるとなると、その日一日を棒に振るという会社もあるだろう。鋳物工場の電気炉などは、高温になるまでに十分に時間をかけなければならないとか、その様な話は良く聞く。だから、その様な会社ではなくて、例えば自動車工場の様に1時間前に電力停止が分かれば何とかなる会社は、無駄になった時間の従業員の給料の補填がなされれば、それほど不満は大きくはならないだろう。強制的な停電ではなくて、企業側が自分で運転を停止するだけだから、地域単位で行なう計画停電の様にとばっちりを受ける人も少ない。

この様に、節電やピークカットを個人や企業の良心に頼るのではなく、努力した人が報われる制度に変えることで、大きく流れを変えていく必要がある。その様なアイデアは、他にも出せると思う。如何だろうか?

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韓国憲法裁判所の判断と日本政府への質問主意書

2012-03-14 23:33:29 | 政治
12日、テレ朝のTVタックルの番組の最後の方で、慰安婦問題についての議論があった。慰安婦問題の様々な議論の幾つかは過去のブログでも取り上げた。個人(民間)レベルでは法的な問題を超越した主張がまかり通ると信じる人がいるのは理解できるが、何故国家レベルで認識の相違が生まれるのかが疑問であったが、その主張の一部を理解することができた。既にご存知の方も多いのかも知れないが、一応、ここに整理しておく。

日本に対して韓国政府が慰安婦問題の補償を日本に要求する根拠は、「日韓請求権並びに経済協力協定」の第3条にあるということだ。この協定の全文は以下のサイトにあるので興味のある方は読んでみると良い。

東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室 データベース
日韓請求権並びに経済協力協定(財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定)

有名なのは第2条第1項で、以下の記述がある。

「1 両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。」

ここに「完全かつ最終的に解決」とあるように、明らかにこれ以降の請求権は存在しないことを確認している。しかし、韓国政府は第3条に目をつけたのである。この第3条第1項には以下の様な記載がある。

「1 この協定の解釈及び実施に関する両締約国の紛争は、まず、外交上の経路を通じて解決するものとする。」

つまり、この協定には解釈が分かれる部分があるかも知れず、その場合には白黒決着をつけるための手続きを第3条第2項以降で規定している。この「解釈」が曲者で、韓国の言い分はこの第2条に記述される「完全かつ最終的に解決」とは本当は完全でも最終的でもなく、実は様々な例外がいっぱい存在することを明示した条項であるというものである。しかし、私はこの様な主張が一例として韓国国内の裁判で「通じる」レベルのものであるのかを韓国政府に問いたい。この協定の第1条には、請求権に関連して補償金額が明確に定められている。その金額は「米ドル」および「円」表示でなされており「韓国ウォン」ではない。さらに「(その金額に)等しい円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務」の供与を規定しており、「韓国ウォンの現金で支払う」という分かり易い規定ではない取り決めになっている。

一般に、ビジネスでの取引において様々な契約を取り交わすが、単純な売買やお金の授受と言うようなケースを除けば、多くの場合、些細な解釈の違いなどが発生する可能性を秘めており、その様な場合には後々の裁判等の紛争の解決のための手引きとなる条項を盛り込むのが普通である。私はあまり経験はないが、企業間の技術契約の締結の際の契約書を読むと、その様なことが書かれていたことを記憶している。だから、この第3条に記載される内容はあくまでも紛争の解決の手引きを示すものであり、この条約の根本である「完全かつ最終的に解決」自体に疑念を抱くことを許容する内容ではなく、根本とは一線を画した「細部」の規定に関する調整のための条項と理解するのが日本国および韓国の国内裁判における一般的な理解だと思う。

例えば、(私は直接見たことはないが)交通事故の示談書などの記載には、「今後の請求権を放棄する」といった「完全かつ最終的に解決」を示す記述と、示談書に記載の内容が実行されない場合などを想定した「その後の紛争の解決のための手引き」が併記されているのではないかと思う。もし違っていたらご指摘をお願いしたい。例えば、交通事故で足の骨を骨折したとする。治療が終わり示談書を交わし、一件落着したと思ったら5年後に腰が痛くなった。足の怪我に関しては請求権を放棄したが、その時から腰にも違和感があり、その腰の治療の請求権は放棄していない。5年後に腰の痛みが本格的になりだしたところで、「今後の請求権」とは書いてあるが、「腰の治療も含む」と明記されておらず、この点の解釈が相互で食い違うのであるから「腰の治療費を払え!」と言ってダダをこねられたらどう思うだろうか?多分、裁判所では示談書に記載の「その後の紛争の解決のための手引き」とは、その後に因縁をふっかければ相談に応じることを保証する記述ではないので、「完全かつ最終的に解決」されている原則を優先した判断となるのは常識だと思う。しかし、これが認められないとなれば、「今後は例外なく如何なる紛争も認めない」という表現を示談書に盛り込まなければならない。しかし、被害者側がこの様な記述を認めるためには、最後の1円までの支払いが完了しなければ怖くてしょうがない。つまり、いつまで経っても示談書が交わせない事態になり、何処まで行っても解決にたどり着けなくなる。こうなると、後から後から体の節々に異常を来せば、際限なく請求し続けるという事態にもなりかねない。裁判所は紛争を解決してナンボであるから、この様な事態にならないようにサポートする役割を持ち、だから示談書を「常識」的に解釈する代わりに早期に示談を進めましょうということになる。

最近の韓国政府の強気の反応は、(本来は政府に対する「お叱り」の判決なので望ましいことではなかったであろうが)昨年8月30日の韓国の憲法裁判所の判決を逆手に取った日本に対する開き直りである。だから、憲法裁判所が事の発端になった訳である。当時の日本政府の補償額は時の韓国の国家予算の10年分以上の額である。しかも、(慰安婦問題などを含むであろう)韓国国民に対する直接的な補償を日本政府が直接行うことを申し出たのに対し、これを韓国政府が拒否し、韓国政府が補償金を全額受取りそれを国民に補償するというやり方を主張したのだという。

誰か詳しい人がいれば教えて欲しい。ないしは政府の公式なルートで、韓国政府に対して問い合わせて欲しい。昨年の憲法裁判所の判決は、『日韓請求権並びに経済協力協定』の第3条が第2条の『完全かつ最終的に解決』の例外を認める内容だと解釈した結果なのか否かを・・・。仮にこの答えが「その様な解釈はしていない」というのであれば、何故、日本に対して請求権を法的に放棄し既に請求権を持たない韓国政府が日本政府に対して請求しない事態を「無作為」とみなしたのか、その理由を問い合わせて欲しい。また、憲法裁判所の判決にあたっては、どれだけ『日韓請求権並びに経済協力協定』の背景を調べ、どの様な認識であの様な判決を下したのかを確認して欲しい。

ひょっとすれば、判決文などにその詳細が書かれているのかも知れない。日本政府は、その内容をどれだけ分析したのか、今度はそれを日本政府にも聞いてみたい。誰でも良いから何処かの国会議員が質問主意書を政府に出してくれないだろうか?

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『絆』は失われたのか?

2012-03-13 23:58:56 | 政治
今日の産経新聞によれば、「米紙ワシントン・ポストは11日までに、『昨年の悲劇は日本を停滞から目覚めさせるのに失敗した』と題した元同紙東京特派員の寄稿を掲載し、自治体ががれき受け入れを拒否している問題に触れながら、東日本大震災直後に世界から称賛された日本国民の連帯意識が失われかけていると警鐘を鳴らした。」と報じている。

震災瓦礫の話題は先日のブログ「ブースターロケットへ点火せよ!(野田総理の情報発信力)」でも取り上げたが、これはやはり政府側の対応のまずさに起因する。統計的には約17%程度の方ががれきの受け入れに反対だそうだが、多分、実際にはさらにその中の数%の強硬派の行動が問題を複雑にしており、政府の適切な対応で「生理的な嫌悪感から来る反対派」と「単なる不安から来る比較的消極的な反対派」を切り分ける必要がある。現状はその辺ができていないところに一番の問題があるが、しかしもう一点、忘れてはいけない問題を指摘しなければならない。それは、復興庁の機能不全の問題である。

先日の日曜朝の「新報道2001」には、復興相の平野大臣と宮城県の村井知事が出演していた。村井知事は防衛大学校から自衛隊に進んだ経験がある方で、礼節を重んじるところがある。初代復興相の松本龍氏との例のゴタゴタの映像の中でも、悔しさを噛み締めて、お客様に失礼がないように立てていた姿が痛々しかった。実は3月6日に村井知事は復興庁を訪れ、平野復興相に緊急要望書を提出している。40分程度の会談だったそうだが、震災復興のための復興交付金の申請に対し、宮城県県への初回配分額が申請額の57%にとどまったことを抗議したと言う。岩手県が95%であったというから、如何に酷いかがうかがい知れる。平野大臣は「今回は住まいと仕事に関わる事業を最優先とした。残りは継続的に対処する・・・」という趣旨の発言をし、村井知事も継続的な配算を約束されて矛を収めた。日曜日の番組内では終始穏やかな表情であったが、しかし、全自治体一律で住宅を優先して残りは後回しと判断するのか、全ての優先順位を自治体が判断するのかは、議論するまでもなく答えは見えている。本当に困っている人の顔が見えないところで、本当に必要なものを仕分けることはできない。実際、道路、堤防、学校、下水道などにはほとんど配算されなかったという。石巻市では、復興庁が示したガイドラインに沿って要望した防災無線の設置にすら交付金がつかなかった。平野復興相は「不要・不急の案件は後回しにした」とテレビで語っていたが、殆ど足を引っ張るための省庁と化していることを宣言したようなものである。

誰もが異論がないはずであるが、今回の震災復興に対しては「平時」のルールではなく「戦時(非常時)」のルールを適用すべきである。復興庁の第1の仕事は、この「戦時(非常時)」のルール作りを行い、各省庁を超越した旗振り役に徹しなければいけない。実際、番組に同席していた細野環境相は復興庁の位置づけを「各省庁に方向性を示す旗振り役」としているのに対し、平野復興相は「各省庁間の調整役」と位置づけていた。つまり、能動的に各省庁に指示する役か、受動的に各省庁からの要望を受けて調整する役かの違いである。言うまでもなく、被災者に寄り添い、必要な予算を組み、そのお金を被災地に割り当てる。その指示を各省庁に伝え、戦時ルールを徹底するのが復興庁の仕事のはずである。戦時ルールとは、例えば「事前査定」ではなく「事後査定」などのルールである。もし仮に不要不急の無駄な予算を上げてきたら、現時点では割り当てはするが3年後、5年後に事後査定して、その後の交付金の配算にフィードバックするというようにすれば良い。また、年度単位の決算を3年単位の決算に変えるなどして、過年度での計画を円滑に行なえるような土台作りでも良い。こうでなければ、年度末に残ったお金を無駄遣いしたり、逆にその様な事態にならないように、確実に使いきれるお金だけを要望するようなことになりかねない。

しかし、聞こえてくるのは平時のルールを振りかざして、自治体の主体性を削ぐようなことばかりしている。これは明らかに、リーダーシップの欠如である。政府としての公の位置づけがどうなっているのかは知らないが、本来であれば指揮命令系統としては復興庁は他の省庁に対して上位に位置づけられるべき存在だと思う。関東大震災の時の後藤新平帝都復興院総裁や、阪神淡路大震災の時の小里貞利震災対策担当大臣などは、その辺を理解した行動をとってきたのだと思う。しかし、概して民主党の閣僚は、総理を含めて大臣になった喜びが強く、その権力の大きさを弄ぶきらいがある。だから、その権力を誇示できる何かがあると、それをついつい無用に誇示してしまい、やらなければならないことが滞る。松本前復興相の辞任の顛末は有名であるが、平野現復興相もこの様な権力の誇示を感じさせる話題が幾つか聞かれる。リーダーシップの意味を誤解しているのではないかと疑らざるを得ない。

私の持論は、自民党の小野寺五典さんに復興大臣をやって頂くことである。何ならば、道州制を被災した東北3県に限定して広域特区的に適用し、緊急避難的に初代州長は選挙を行なわずに小野寺さんを任命するという形でも良い。あくまでも自治体の首長という位置づけであれば、政権与党と一線を画さなければならない自民党員としての立場とも両立できる。一方で、震災対応には与野党一体で取り込むと言うモデルの象徴にもなりうる。この様に思っていたが、当然の如く、そうはならなかった。

こうすれば良いのに、ああすれば良いのに・・・、ということが滞る状態を見て、外国の知日派記者が「『絆』は失われた・・・」と感じたのには納得できる。このままではいけない。

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やはり情報の差が結果を分けていた

2012-03-12 23:21:21 | 政治
昨日は3.11の追悼番組が朝から晩まで続いていた。色々思うところはあったが、感慨深い思いで見ていたものの一つに「トモダチ作戦」について扱った部分であった。

最初に蛇足から入るが、この「トモダチ作戦」というネーミングは如何にもダサい。だから私はこの名前は好きではなかった。同じく、「絆」という言葉が多用されるのも嫌いだった。如何にも取って付けた様な言葉で真実味が感じられない。しかし、追悼番組の中で津波被害を受けて工場が完全に流された自動車部品の金型工場の社長の話題を見て気持ちが変わった。この社長の周りに集まった同業者が、ちょっとづつ彼のために協力をし合い、工場を再開することができたという。言葉で書くとそれだけの話だが、映像から伝わる絶望の中で掴んだ希望の光はとても印象的だった。その彼を助けた同業者が「絆を大切に」というようなことを語っていた。非常に自然に口から発した言葉だった。「これが絆か・・・」と感じることができた。どこかの政党の人気低迷に嫌気を出した政治集団が同じ名前の政党名を名乗っているが、受け狙いの震災の政治利用については吐き気がする。しかし、この日の映像を見た後では、この「トモダチ作戦」という言葉には(実際にはそれなりの色気はあるのだろうが)純粋な心意気を感じることができた。

さて、少々横道にそれたので本題に戻る。番組の中でアメリカ側の軍の責任者が語っていたが、「トモダチ作戦」の発令は日本側からの正式な依頼がある前に動き出したのだという。しかも、東北地方を中心とする東日本が相当な被害を受けているらしいとの情報を受けて、韓国から高度2万mの成層圏を飛行する偵察機U2を即座に東北に向けて飛ばし、その映像を解析してその壊滅状況が想像を絶するレベルであることを早期に把握していたという。さらには中東に向かいつつあった空母ロナルド・レーガンを急遽呼び戻し、その他にも海軍や海兵隊の軍艦を東北沖に集結させたという。東北地方の港が壊滅状態にあったため、大型船舶が接岸できないことを知った上で、地上の救援で手一杯であった自衛隊が救助に向かえなかった地域に、揚陸艦などを使って大々的に救助を行った。空母を起点にして、ヘリコプターにより陸の孤島となった場所も多く救っている。これらは、適切な情報収集が行われたことで、適切な判断を早期に下すことができた良い例である。

しかし、これらの事実はこの1年の間に日本で起きた事態とは対極的である。日本の場合、圧倒的に情報が不足していた。本来であれば、ありとあらゆる情報を収集する部署があり、その収集した情報を解析する部署もあり、舵取りをすべき中枢にはこれらの精査された情報が適切に提供されなければならなかった。しかし、例えば有名なのはSPEEDIなどの情報も、時の首相官邸にはその存在を知る人がいなかった。SPEEDIなどで放射線の危険性が予想される地域には、数多くの実態調査を行うための完全防備の白装束の人達が入っていて、それらの人が住民に「危ないから逃げろ」と伝えていたが、その状況を時の首相官邸が把握していたという情報も聞いていない。福島の福島原発への海水注入などの重要な情報も、Faxで送ったきりになって情報の山に埋もれてしまった。こんなのはほんの一握りで、情報の収集能力、解析能力がしっかりしていれば、その後のその情報の取り扱いは適切に行われるはずである。

しかし、福島原発の民間事故調の報告にもあったが、例えば原発の全電源喪失を受けて、バッテリーや発電機を手配する際に、秘書官が「警察にやらせますから」と伝えてもそれを無視して菅前総理がそのバッテリーのサイズの詳細を報告することを求めていたのを聞いて、周辺の側近が「総理がこんなことを気にすると思うとぞっとした」という発言もしている。つまり、本来ならば情報収集とその交通整理を担うべき人を信頼せず、だからその仕事をそれらの人に任せず、情報が交通渋滞を起こして重要な情報が上がってこない。首相官邸の地下にあった危機管理センターは情報の保全を目的としたようだが元々携帯電話が利用できず、それが理由かどうか分からないが菅前総理は首相官邸5階の執務室にごく一部の人を集めて、そこですべての処理を行っていた。当然ながら、本来ならば全ての情報が集約されるはずの危機管理センターには責任者が不在になるし、その情報を執務室に上げようとすれば怒鳴られるしで、完全に情報は交通マヒ状態に陥った。情報を制していないのであるから、当然ながら適切な判断は期待できない。誤った判断の元で行動を起こすと、その行動の基の判断が間違っていたことを認めることができないから、その方向性を修正することもできない。完全に負のスパイラル状態に陥ってしまった。

その他にも、素人の私でも水素爆発が起きたときに原発周辺の風向き情報を気にして天気予報を見ていたのを記憶している。時間により風向きは変わったと思うが、爆発後の最初の12日、13日ごろは東向きの風で、放射性物質を含んだ空気は海上に流れており安心したように覚えている。テレビでも、暗黙の了解として、そのようなことを考えて天気予報で風向き情報を流していたのだと思う。しかし、2号炉のサプレッションプールが破損した15日あたりに放射線量が急激に上がり、その時の風向きが北西であった。その方向の被害が今回特に問題視されている。もし、情報収集とその解析が適切に行える体制を引いていれば、その様な被害は完全に防ぐことはできた。

この様な例を引き合いに出すまでもなく、情報が全てを決することは多々ある。今回のこの様なお粗末な事態の責任の多くは官僚にあるのは事実である。どんなに愚かな政権であっても、そのせいで国家が滅びてはいけないから、総理や閣僚とは異なり継続性のある官僚は責任感と強い意思を持ってことにあたる必要がある。しかし、彼らは一方でエリートであるから、それなりの常識を持った人種である。その常識の通じないほど、想定外に愚かな指導者が時の政権を構成してしまうと、これはどうしようもないのかも知れない。しかし、今後も引き続きこの様なリスクと隣り合わせであり続けることは耐えられない。その様なリスクを排除するためには、そのためのシステム作りが必要である。今は東日本大震災の後遺症に対するリハビリ中なのかも知れないが、膿を出し切った後にはちゃんとしたシステム作りをして欲しい。その設計図を描くのは政治家なのだろうが・・・。

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