けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

AIIB問題をマスコミは何処まで掘り下げているのか?

2015-04-04 00:44:27 | 政治
今日はAIIB不参加問題についてコメントしたい。ただ、今日のブログの趣旨は「参加すべき」か「参加しないべき」かについての答えを出すことではない。この参加/不参加の議論の仕方、マスコミの解説の仕方について振り返ってみたいと思う。

まず、今さらではあるが巷では色々な論点について紹介されている。その点を幾つか整理してみる。

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【積極賛成派】
・いつまでもアメリカ追従外交は卒業すべき
・ASEAN諸国に加えて欧米も雪崩を打って参加しており、どうせ入らなければならないなら、そのバスに乗り遅れるな
・AIIB創設メンバーになるとならないので、その後のインフラ受注に差がでるので、日本国内の経済界の損得を考えれば参加すべき
・アジアの開発途上国のインフラ需要は桁違いで、世界銀行やアジア開発銀行などでは賄いきれないので、AIIBは真に必要な存在であるはず
・AIIBに問題があるならば、その中に入って発言力を確保して改革を進めるべき
【参加慎重派】
・全てのルールが中国主導になる流れを断ち切るためには不参加は当然
・融資に関する審査、融資決定の手続きの透明性が担保されていない
・AIIBを許したらアジア開発銀行がじり貧になる
・融資に際して環境影響評価などの基準があいまいで、世界規模の環境破壊につながりかねない
・AIIBにより現在の基軸通貨ドルの相対的な価値が下がり、中国人民元が基軸通貨に躍り出る契機になりかねない
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まあ、こんなところだろう。テレビを始め、多くの記事を見る限りでは、自らの主張をアピールするためには、上述の論点の中の自分に都合の良い項目だけをつまみ食いし、一方で他の問題を黙殺してあたかも自分の主張が正しいことをアピールするものが多い。しかし、言うまでもなくその様な偏ったコメントは殆ど価値はなく、全体の利点と欠点、メリットとリスクを整然と整理しながら、その中の判断基準とすべきポイントに対する優先度を解説するのが本来の筋であろう。

例えば、積極派の「アメリカ追従ばかりでどうする!!」との主張に対しては、「では、あなた方リベラル系の方は中国追従ばかりだが、中国追従が良くてアメリカ追従がNGな理由は何処にある?」と切り返せばそれで終わりである。慎重派の「融資に関する審査、融資決定の手続きの透明性が担保されていない」に対しては、「ならば、最初から参加して内側から改革を求めた方が良いというイギリスの主張」にはどう反論するのか?とか、さらに言えば、「日本やアメリカが参加すれば、出資金における中国の比率が相対的に下がり、結果的に中国の出資比率を下げて発言力を低下させることができるはず」と言った議論ができるはずである。

実は、TBSラジオの荻上チキSession22の3/31の放送でこの辺の解説が丁寧になされており、ポッドキャストで聞くことができている。

荻上チキSession22 2015年04月01日(ポッドキャスティングで聴く)「アジアインフラ投資銀行、日本の対応は?

ここでは元アジア開発銀行研究所所長で東京大学公共政策大学院・特任教授の河合正弘氏や、元在中国日本大使館経済部参事官で現代中国研究家・経済評論家の津上俊哉氏などをゲストに解説をしていた。その中で分かったことや、それでも新たに疑問に感じることがあったのでそれを整理してみる。

まず、世の中的に「世界銀行」があるのに何故「アジア開発銀行」があるのかと思うのだが、これはアジア開発銀行だけにとどまらず、「世界」全体を相手にするのではなく、アジアやアフリカなど地域に根差した地域版の「世界銀行」は4つほどあるらしい。それではそれぞれがカブってしまうのではないかと言えば、確かにカブりはしているのだが、それなりに上手く行ってはいる様ではある。ただし、最初がどうだったかと言えば色々紆余曲折はあったようだ。最初に世界銀行がある中で、日本がアジアでのイニシアチブをとってアジア開発銀行を設立しようとしたとき、アメリカは反対したそうである。その結果、出資比率は日本とアメリカで綺麗に15.65%ずつを出資しており、日本が好き勝手には出来ない様に発言権を分け合った形である。総裁こそは毎回日本から選出するが、副総裁職にはアメリカが席を確保し、しかも本部は日本ではなくフィリピンのマニラに置いている。日本とアメリカが突出するのを避けるだけでなく、その他の国に対してもそれなりに配慮していることが感じられる。また、普通の町中の銀行の様な「設けるビジネスのための銀行」とは一線を画したもので、その設立の理念なるものが重要視されているらしい。世界銀行にしてもアジア開発銀行にしても、例えばその設立の目的は「貧困の撲滅」といった崇高なもので、「儲かれば良い」という様なものではないらしい。だから、融資の申請をしても環境審査や住民の合意などの厳しい審査などを時間をかけて行うため、融資実行までは5年近くかかるのは普通だという。そのスピード感のなさが、アジアの発展を妨げているというのが中国の主張で、だからこそAIIBが必要なのだという。世界銀行やアジア開発銀行が扱う融資額に比べてアジアの需要は圧倒的に大きいから、もっと融資のハードルの低い銀行がジャブジャブの融資を行うことこそが、アジアの発展に繋がると中国は暗黙に主張している。ただ、中国もAIIBを失敗させたくはないので、そんな無茶なやり方は考えておらず、人材としてその道のスペシャリストを雇い入れて、少なくとも設立当初から傍若無人なやんちゃ坊主を演じることはなさそうである。

さて、この様な背景を知った上で、素朴な疑問が湧いてくる。まず、AIIB云々以前の話として、アジア開発銀行ですら本当に必要であるのか?という問題である。世界銀行という公の組織があるのであれば、その組織の規模を拡大し、統一的な基準でより多くの国々に広く融資を行えるようにすれば良かったのではないかと・・・。例えば、国際連合という世界的機関が存在するのに、それとバッティングするポジションで第2国際連合の様な国際組織が出来上がったら混乱するはずである。しかし、一方でヨーロッパのEUの様な地域限定の組織が出来るのであれば、その地域内に根差した課題を扱う上で、その必要性は国際連合とはバッティングしない。それは東南アジアではASEANとか、アフリカやアラブ諸国にはそれなりの組織であったり、やはり地域や民族、文化特有の地域性というのは考慮されて、国際規模の組織の地域版があるのはそれなりに妥当なことは理解できる。更に地域を絞った連合体などがあるなら、それはそれでまた許容できる。しかし、類似の既存の組織がある中に追加の組織を立ち上げるとなると、それは常識的に背景に政治的な要素が付きまとう。言わば、第2国際連合の様な完全に既存組織とバッティングする存在として、AIIBが急に浮上したのである。もし仮に、第2国際連合の様な組織を立ち上げようとする国がいたとしたら、それは既存の世界秩序をリセットすることが目的であることは明らかである。AIIBは国際秩序ではなく、金融秩序であるからもう少し穏やかかも知れないが、経済力と政治力(外交力)は表裏一体だから、金融秩序のリセット狙いは即ち国際秩序のリセットをスコープに入れていると見るのが自然である。下記の記事で長谷川幸洋氏が主張しているのは、即ち安全保障の秩序のリセットという視点でAIIB問題を捉えるならば、多くのリベラルなマスメディアの論調とは全く異なる議論が本来はなされるべきということになる。

現代ビジネス ニュースの深層2015年4月3日「AIIB不参加を批判するリベラル派マスコミは、大勢順応、軍国主義時代と同根

つまり、純粋な経済問題としての参加・不参加の議論と、安全保障の観点からの参加・不参加の議論は全く別である。当然、結論は真逆となることは容易に想像できる訳で、その時に「経済問題」として捉えるべきか、「安全保障問題」として捉えるべきかは2者択一ではなく、双方を俯瞰的に眺めて総合的な結論を出さなければならない。当然、それぞれの視点には優先度があり、その様な優先度や対処療法の有無などを議論しなければならない。その議論の深さは、その何処までを丁寧に考慮に入れているかで評価されるべきである。

例えば、上述の議論でイギリスが主張したような「AIIBに問題があるならば、その中に入って発言力を確保して改革を進めるべき」という論点を例に取ってみよう。上述の荻上チキSession22での解説では、現時点での中国の出資比率は1/3程度だそうである。ここに日本が加わると、その出資比率を1/4程度まで低減できるそうだ。そうなれば、少なくとも現状よりは中国の発言権は弱まるから、十分に参加の意義は大きいということになる。しかし、それはそう単純ではなさそうだ。アジア開発銀行の設立においては、アメリカに相当、嫌な顔をされたそうだが、それでも日本の出資比率は15.65%という低いレベルである。しかも、総裁は確保するが本部はマニラであるから、相当、日本の権限は制限を受けてバランスが保たれている。しかし、仮に日本が加わったとしても中国が25%強の出資比率を抑え、総裁と共に本部を北京に設置することになれば、アジア開発銀行における日本のポジションなどと比較にならない強大な権力を中国が握ることになる。この様な状況で、AIIBの内部からの改革がどれだけ実現できるかは相当怪しい。一方で、日本とアメリカが不参加を決めたことで、AIIBの格付けは世界銀行やアジア開発銀行と比べて格段の低さになることは容易に予想が出来る。ちなみに、AIIBはインフラ投資の銀行であるが、ここで「銀行」とあるように、別に参加国の出資金を貸し出してビジネスをする訳ではない。出資金を担保に信用を確保し、大雑把に言えばそこで債券を発行して国際マーケットからお金を調達し、それを発展途上国に融資してビジネスが成り立つのである。ここでの格付けは、債権の金利に直結するから、信用が低ければ高い利率でなければ債権の買い手はいない。当然、高い金利を発展途上国は払わなければならないから、信頼の高いアジア開発銀行の低い利率とは競争関係になる。金利が高いAIIBからお金を借りる発展途上国というのは、真っ当な審査基準では融資が受けられない国々の案件だろうから、それは環境問題を引き起こしたり、貸し倒れとなるリスクが高い訳である。しかし、その様な無理筋でのビジネスを強行すると、イギリスやドイツなどが離脱する可能性もあるから、更に雪崩を打って格付けを下げる危険がある。だから、その様な中で中国はAIIBの格付けを高めたいだろうから、そのためにはアメリカや日本に対して何らかの譲歩を提示して見たり、アジア開発銀行との協調関係を意識するようになるかも知れない。こうなると、日本やアメリカのAIIB参加は安直なAIIBの格付けアップにつながり、中国側が譲歩の必要性を感じない事態を生じさせかねない。全くの裏目である。その様な解説も、殆ど聞いたことがない。

多くのメディアの解説は、これらの視点のほんの上辺だけをなぞった程度のモノが本当に多く、中々、本当の意味での正しい判断がいづれかを理解するのが難しい。これらは全て、最初に「結論ありき」の様な感じで、取ってつけたような解説だらけである。しかし、エイヤで決めることが許されるほど、今回の問題は軽い話ではなさそうである。長谷川氏の記事でも解説がある通り、政府の判断の説明の中で「安全保障」の話を口にするのは中国に喧嘩を売るようなもので決して口には出来ないが、その様に陽には言えないことも含めて、何処まで深く掘り下げたかが全く見えないマスコミの不真面目さは相変わらず困ったものである。

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ブロガー・かさこ氏の秀逸なブログに思う(古賀暴走事件の続き)

2015-04-02 00:59:00 | 政治
昨日のブログで「報道ステーション古賀暴走事件」について記事を書いたが、その関係でブログを読み漁っていた中で非常に面白い記事に辿り着いた。正直、久しぶりに心が洗われる思いでブログを読んだ。それは「かさこ」という名前(男性)方のブログであり、例えば下記の2件が報道ステーションネタと関連のある興味深い記事である。

ブロガーかさこの「好きを仕事に」2015年3月31日「報ステ古賀騒動&映画『A2-B-C』に思う。履き違えた言論の自由は弾圧を招く
ブロガーかさこの「好きを仕事に」2015年3月26日「反原発カルト教団映画『A2-B-C』の上映中止は当然

この記事の著者は、カメラマンであり物書き(ライター)であり、「シロウオ~原発立地を断念させた町~」というドキュメンタリー映画の監督でもある方だそうで、最後の映画のタイトルを見ても分かる通り、バリバリの反原発派の方だそうである。この映画も見たことがないし、この方の作品も読んだことはないが、このブログの記事は幾つか読ませて頂いた。ある種の感動と言うか、清々しい気分になる。上記の2件の記事の1件目のタイトルにもある通り、外国人監督が福島の現状をドキュメンタリーと位置付けて製作した「A2-B-C」という映画作品と、古賀騒動を関連付けてコメントしている。この1件目の記事を見る前に、2件目の記事を先に読むとこの著者の主張が見えて来る。

実は、この「A2-B-C」という映画の公式サイトを見ると、例えばピーター・バラカン氏などの批評コメントなども記載されていて、グアム国際映画祭では賞を受賞したと書かれている。結構な称賛なのだが、福島に関する誤った報道を繰り返し目にしている我々からすると、何ともステレオタイプな盲目的な人々の思い込みに、どれだけ福島の人が迷惑を受けているかを訴えたくなる。まさに反原発の映画なのだが、その反原発派の急先鋒と自負する著者自身が、この映画のことを「反原発カルト教団映画」と切って捨てている。まず、書き出しの部分の一部を引用させて頂く。

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私は反原発の急先鋒といっても過言ではないが、
福島原発事故による福島の放射能汚染被害を描いた、
自称ドキュメンタリーと称している映画「A2-B-C」の上映委員会が、
突如、解散することになり、
やれ検閲だの、甲状腺問題はタブーなのか、といった声が出ているが、
私から見ればこのクソ映画はドキュメンタリーでも何でもなく、
反原発派の私でさえ、目を覆いたくなるような恥ずかしい映画で、
むしろこんなクソみたいな映画を作っちゃうから、
原発推進派や原発容認派に反原発がバカにされ、
どんどん原発再稼働が推進される結果になっていると思う。
・・・中略・・・
福島県の人は生命保険に入れない「らしい」。
福島県の若い人に中絶が増えている「らしい」。
福島県の子どもに発疹が出ている人が多い「らしい」。
らしいをいくら集めても何の説得力もない。
「らしい」が事実なのか確かめるのがドキュメンタリー映画じゃないのか。
らしいを集めて不安を煽ってセンセーショナルに反原発と叫ぶなんて、
安全でも何でもないのに安全だと豪語して、
無理やり原発再稼働をする原発推進派のクソと何ら変わりない。
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以下の記述のどれを取っても瀬得力のある内容である。しかも、これだけケチョンケチョンに非難しているのに、ホンの数分の評価できる映像には称賛を送っている。それは小さな子どもが放射線バッジを付けて遊ぶ姿のシーンなのだが、「こっちは線量が高いからダメなの!」と分かっていながら、遊び始めたら理性などなく線量の高い自分の遊びたい場所で遊んでしまう子供の本能を表すストレートなシーンがあるらしい。駄目なものは駄目だが、それでも僅かながら残る称賛すべき点を称賛するその潔さが何とも清々しい。

この様な流れの中で古賀氏の暴走を振り替えると、古賀氏は言論の自由や表現の自由を盾に、自分が狂信的に信じるデマや事実無根の話を拡散していた訳で、それにより政府が言論統制に走る口実を与えかねないと説いている。こちらも少し引用してみたい。

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事実かどうかもわからない「デマ」を垂れ流せば、
社会に実害が出るわけで、実害が出れば、
政府にとって言論の自由や表現の自由を弾圧する、絶好の口実になる。
自由には責任が伴うわけで、
責任のない作り方をしていれば、
自由が取り上げられることになりかねない。
自由っていうのはなんでもいいってことじゃない。
そこを履き違えている人がいるから、
国民はバカにされ、政府からあらゆることを管理されるようになる。
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ここでのキーワードは「自由」と「責任」であり、これは「権利」と「義務」と置き換えても良い。私の知る多くの「権利」を主張する輩は、「義務を放棄する権利」を主張しがちである。言い換えれば、「責任を放棄する自由」があると彼らは言いたいのだろうが、そんな訳はない。

ただ、全てのこの著者の意見に賛同するかと言えば、少し意見の異なる部分もある。私の昨日のブログでも引用した長谷川豊氏のブログについて、この著者は「古賀氏は妄言を吐いているから降板は当然」というのはおかしな話で、「事実」と「意見」は別物で、古賀氏はコメンテータであり「意見」を求められたのだから、古賀氏の勝手な思い込みを意見として番組内で主張するのはアリだとしている。これは、「事実」と「意見」が明確に区別されていれば私は大いに賛成する。例えば、コメンテータがキャピキャピのアイドルで、全くもって専門性がない人が好き勝手な短絡的なことを言っていれば、誰もがそれは「個人的な意見」であると了解する。しかし、まかりなりにも日本と言う国家を切り盛りしてきた優秀な官僚OBとなれば、それが例えば(宇佐美典也氏が指摘するように)中東問題や原発問題に関しては古賀氏がど素人であったとしても、見ている人は「コメンテーターって専門家だよね?」と誤解してしまうのである。だから、そこで語られる「意見」が「事実」であるかの様な誤解を与えてしまう訳で、そこが問題なのである。昨日のブログでも引用した古館&古賀バトル全文を読んでも、安倍総理が戦争をしたがっているとかいう妄言が、単なる個人的な解釈(思い込み)であるとは言っておらず、それが事実化の様な断定形で発言している。それなりのリテラシーがあればすぐわかる話だが、リテラシーに欠ける視聴者にはこれが分からない。別に予定調和のみが良いとは言わないが、視聴者のミスリードを誘う様なアプローチは卑怯であり、放送法の縛りを受ける公共の電波での発言には適さないと言っている。

少し話が逸れるが、著者のかしこ氏の主張である、極端な無茶で無責任な発言は、逆に相手に付け入る隙を与えるから逆効果というのは大いに賛成できる点である。例えば、最近の産経新聞では慰安婦問題に続き、南京大虐殺の特集を行っていた。ここでの産経新聞のスタンスが最も明確に表れているのは下記の記事である。

産経ニュース2014年12月28日「【歴史戦 第8部 南京『30万人』の虚妄(4)前半】騒動に巻き込まれた英国人
産経ニュース2014年12月28日「【歴史戦 第8部 南京「30万人」の虚妄(4)後半】『責任は敵前逃亡した蒋介石に』NYタイムズ元東京支局長に聞く

ここでは日本への滞在歴が50年に及ぶNYタイムズ元東京支局長の英国人記者、ヘンリー・ストークス氏の主張を引用しているのだが、ここではあくまでもナチス・ドイツのホロコーストの様な「人道に対する罪」として糾弾されるようなことがあった訳ではないと否定しているだけで、中国兵が軍服を脱ぎ、民間人に偽装したゲリラとして活動するのを見つけ出して(数?)千人規模で殺害したかも知れないことまでは否定していない。これは軍服を着た捕虜とゲリラは国際法上での扱いが異なり、ゲリラに関しては捕虜として裁判を受ける権利も認められておらず、その場で銃殺されても当然というルールであった。それがケシカランと言うのであれば、その点について議論すれば良い。しかし、産経新聞の残念なことは、リテラシーの不足する読者に対して、短絡的な「南京大虐殺はなかった!」と言う印象を与える様な記事内容になっていて、これが「歴史修正主義者!」とのレッテルを張る人々に対して付け入る隙を与えてしまっている。

原発にしても古館&古賀バトルにしても南京大虐殺にしても慰安婦問題にしても、相手の付け入る隙を与えない丁寧な議論が本来は求められるのだが、その様な点を過剰と言われるまでに注意深く扱わないと、逆にそれが裏目になるリスクを伴うのだ。古賀氏の様なアプローチを取る人は、その様なリスクなど屁とも思っていないのでそれで平気なのだろうが、産経新聞などは絶対にそれは彼らの主張を世界的に認知させるためにはマイナスに働くために、より一層の慎重さが求められる。それが彼らに課せられた「責任」であり「義務」なのである。

今回は色々と論点の多い出来事であった。他人の振りを見て、我が振りを直す良い機会なのかも知れないと感じた。最後に、かしこ氏の様な方と丁寧な原発再稼働容認派の方の議論を聞いてみたい。それはきっと、驚くほどに有益な議論になるだろう。その結論がどうなろうとも・・・。

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