新聞やネット上の有識者のコメントなどで、オスプレイ問題と原発問題の類似点が指摘されている。多くの人は、「建前上の安全性確認作業」を行い、誰からも信頼されていないのに再稼動を強行した大飯原発問題における野田首相の行動が、今回のオスプレイの岩国基地への搬入とダブって見え、それをもって「原発再稼動もオスプレイ問題も、現政権は駄目だ!」と唱えている。先日のブログでも、私も類似点の存在を指摘したが、しかしその内容はまったく別の視点である。私の指摘は、「論理的な議論の積み重ね」を拒否し、「一方的な安全神話やその間逆の感情論」で問答無用と議論を断ち切ろうとする点で、両者は非常に似ているということである。
この様に扱われ方は色々と異なるが、それらの類似点は多くの人が感じる通りである。しかし、実際には両者の間には決定的な相違点が存在していることをここでは訴えたい。以下に、それを順番に説明させていただく。
まず、対立する議論には論点の切り分けが必要である。具体的には、ひとつの課題が与えられたときにその「メリット」と「デメリット」を整理する必要がある。時として、この「デメリット」とは「確実に発生する負の効果」ではなく、「確率論的に発生の可能性を否定できない負の効果」という「リスク」として現れることも多い。原発問題などは、CO2排出量も少なく(既に原発が存在しているという前提条件の下では)相対的に発電コストも安く、さらには原油価格やLNGなどよりも価格の変動リスクも比較的小さいという「メリット」と、(事故が起きなければまったく問題がないが)ひとたび福島のように事故になるとその被害は世界的な規模といっても良いほど甚大であるという「リスク」とのバランスを議論する必要がある。相反する問題に対処するためには、選択肢としては、(1)「メリット」を享受しながらもその「リスク」を最小化するための方策を議論し、その方策を確実なものに高めることで実効的には「メリット」のみに封じ込めるか、もうひとつの選択肢として(2)「メリット」を完全に手放すことで発生する新たな「リスク」ないしは「デメリット」を覚悟した上で、その「メリット」を放棄する、かである。過去の事例に照らし合わせれば、前者(1)において原発の危険性の「リスク」を過小評価したことが原因で、福島第一原発の事故が発生してしまった。だから過去の対応に瑕疵があったのは明らかだ。しかし、同じ失敗を2度も繰り返さないためには、先ほどの後者(2)においても「メリット」を完全に手放すことで発生する新たな「リスク」に対しても過小評価することなしに、中立的な議論をしなければならない。
大飯原発の再稼動を例に取れば、過去のブログでも触れたように、電力不足による計画停電や過剰な節電のリスク(上述の「新たなリスク」に相当)は少なくとも安全側に立てばかなり厳しいものであり、正攻法でいけば原発の「リスク」の最小化のための最大限の努力が求められる。具体的には、概ね下記のようなプロセスが必要であろう。
「まずは、原子力ムラに属さない中立的な専門家により『これなら安心という明確な(国際的に見ても妥当な)安全基準』を責任の所在を固有名詞で明記した上で作成する。さらに、純粋に規制サイドに属する人たちによる原子力の規制組織を立ち上げ、やはりその責任の所在を固有名詞で明記した上で、先の安全基準に照らし合わせて原子力発電所の評価を行う。政府ないしは行政の最高責任者である内閣総理大臣は、その安全基準の制定、および規制組織の管理監督業務において瑕疵が合った場合には、その結果生ずる責任に関しては国家が保証することを、ある程度の実効性を伴う形で明言する(例えば閣議決定とか・・・)。この結果として、規制組織が『安全』と断定できる原発に関しては再稼動を認める。」
しかし、現実は原子力規制庁も出来ておらず、安全基準もとてもではないがまともなものが出来てはいない。今年の夏の電力不足は最初から分かっていた話で、これは政府の不作為として徹底的に糾弾されてしかるべきものだが、しかしその糾弾を開始したところで事態が解決するわけではない。したがって、本来のふたつの選択肢のいずれも選択できない緊急事態に陥っている。少々大袈裟にいえば、刑法の世界でも、正当防衛と緊急避難という殺人が罪に問われない例外規定を定めているように、どちらの選択肢も国の存亡(産業空洞化による日本経済の破綻)や国民の生命に危険(過剰な節電による熱中症死者の増大)が及ぶリスクが少なからずあれば、政府も緊急避難的な判断が許される場合がある。しかし、その緊急事態的な判断は必要最小限の場合に限定されるべきであり、原発を例にとれば具体的には、大飯原発限定、且つ夏季限定の再稼動とすべきである。にもかかわらず、これらのプロセスを全てすっ飛ばし、緊急避難的判断であることも否定して、エイヤとばかりに専門性を持ち合わせない政治家による政治的な判断でお茶を濁してしまった。だから、一連の野田総理の判断は後世の歴史家において、適切に批判されるであろうことは容易に予測できる。
狼少年ではないが、一度信頼を失うとその後の行動は何をやっても信じてもらえない。国民は半ば、諦めの境地にも達しようとしている。しかし、諦めずに現状を変えようと思うのであれば、ひとつひとつの判断・行動に対し、是々非々の立場で臨み、論理的な議論で正しいか間違っているかの判断をひとつずつ積み上げていく必要がある。感情に流された思い込みで全てを判断するのは間違いである。
このようなことを意識して、オスプレイ問題を再度考えてみる。既に専門化が言っているように、現行の輸送機は50年前の機材であり、能力的にも安全面で見ても、このまま使い続けるという選択肢はない。新型の機材は言うまでもなくメリットは計り知れない。だから、選択肢は「オスプレイのリスクを最小化する努力」か「オスプレイの配備を拒否することで新たに生ずるリスクを許容する」の何れかである。しかし、オスプレイの配備に慎重な立場をとる人の中で、後者のオスプレイを拒否して生ずる新たなリスクの重大性を冷静に吟味している人は非常に少ない。一方のオスプレイ墜落のリスクを過大評価すると共に、もう一方の極東の軍事的なリスクを過小評価するのは原子力ムラのとってきた態度と酷似している。「だから無条件でアメリカの言うことを聞け!」とは絶対にならないが、現在の日本を取り巻く世界情勢の中ではオスプレイの配備を拒否した場合のリスクは計り知れない。だから、「オスプレイのリスクを最小化する努力」に如何にまじめに取り組めるかが本来は問われるはずである。
話は少しそれるが、オスプレイ問題を非難している人の声を聞くと、そもそもオスプレイが岩国基地に搬入された時点で、既に運用開始が決まっている「出来レース」であると批判する人もいる。これが真実であれば、確かに非難を受けても仕方がない。野田総理や藤村官房長官にとっては、その様な「出来レース」を強く期待しているであろうことを私は否定しない。しかし、少なくともオスプレイの運用開始の判断の最終権限を持つのは森本防衛大臣である。だから、野田総理や藤村官房長官がどの様なシナリオを考えているかよりも、森本防衛大臣のシナリオの方が重要性は高い。ではBestなシナリオは何であろうか?オスプレイの安全性を担保した上で、早期に運用を開始し極東の歪んだ軍事バランスを速やかに補正し、同時に日米同盟の深化をも実現する・・・、そんなシナリオがBestと思われる。であれば、運用開始へのブレーキを握りながらも、岩国基地への搬入のタイミングは寧ろ早い方がよい。
そして最も重要なのは、「オスプレイのリスクを最小化する努力」を最大限に行うことである。そして森本防衛大臣は、思いつく限りの「オスプレイのリスクを最小化する努力」を実直に実行しているように見える。どうやらオスプレイへの試乗も予定されているようだが、それはどこかの誰かのようにカイワレ大根を食べれば安全性をアピールできるとの勘違いから来るものではない。そこが浅はかな政治家と真のスペシャリストとの違いである。もちろん仲井眞沖縄県知事が指摘する通り、多分、沖縄県内でオスプレイの墜落事故があれば、県内の全ての米軍基地の閉鎖につながるリスクは無視できない。オスプレイの安全性確認に加えて、森本防衛大臣がこの沖縄リスクにどの様な答えを出すのかが次なる見所なのだろう。
話が長くなってしまったが、やるべきことをやらずにエイヤで無責任な決断を行う大飯原発の再稼動問題と、やるべきことを淡々とやり責任ある判断を下そうとするオスプレイ問題は、根本的に決定的な相違点があると言わざるを得ない。しかし、多分、それが評価されるのは数十年先の歴史家によってなのだろう。
本来なら思想信条的には異なる民主党政権で、自ら進んで渦中の栗を拾うのだから、彼には変な下心などない。実際、マスコミの間でもその様な点を指摘する声は聞かない。だから、そんな歴史家の評価を待たずに早く評価されるようになって欲しいと切に願う。
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この様に扱われ方は色々と異なるが、それらの類似点は多くの人が感じる通りである。しかし、実際には両者の間には決定的な相違点が存在していることをここでは訴えたい。以下に、それを順番に説明させていただく。
まず、対立する議論には論点の切り分けが必要である。具体的には、ひとつの課題が与えられたときにその「メリット」と「デメリット」を整理する必要がある。時として、この「デメリット」とは「確実に発生する負の効果」ではなく、「確率論的に発生の可能性を否定できない負の効果」という「リスク」として現れることも多い。原発問題などは、CO2排出量も少なく(既に原発が存在しているという前提条件の下では)相対的に発電コストも安く、さらには原油価格やLNGなどよりも価格の変動リスクも比較的小さいという「メリット」と、(事故が起きなければまったく問題がないが)ひとたび福島のように事故になるとその被害は世界的な規模といっても良いほど甚大であるという「リスク」とのバランスを議論する必要がある。相反する問題に対処するためには、選択肢としては、(1)「メリット」を享受しながらもその「リスク」を最小化するための方策を議論し、その方策を確実なものに高めることで実効的には「メリット」のみに封じ込めるか、もうひとつの選択肢として(2)「メリット」を完全に手放すことで発生する新たな「リスク」ないしは「デメリット」を覚悟した上で、その「メリット」を放棄する、かである。過去の事例に照らし合わせれば、前者(1)において原発の危険性の「リスク」を過小評価したことが原因で、福島第一原発の事故が発生してしまった。だから過去の対応に瑕疵があったのは明らかだ。しかし、同じ失敗を2度も繰り返さないためには、先ほどの後者(2)においても「メリット」を完全に手放すことで発生する新たな「リスク」に対しても過小評価することなしに、中立的な議論をしなければならない。
大飯原発の再稼動を例に取れば、過去のブログでも触れたように、電力不足による計画停電や過剰な節電のリスク(上述の「新たなリスク」に相当)は少なくとも安全側に立てばかなり厳しいものであり、正攻法でいけば原発の「リスク」の最小化のための最大限の努力が求められる。具体的には、概ね下記のようなプロセスが必要であろう。
「まずは、原子力ムラに属さない中立的な専門家により『これなら安心という明確な(国際的に見ても妥当な)安全基準』を責任の所在を固有名詞で明記した上で作成する。さらに、純粋に規制サイドに属する人たちによる原子力の規制組織を立ち上げ、やはりその責任の所在を固有名詞で明記した上で、先の安全基準に照らし合わせて原子力発電所の評価を行う。政府ないしは行政の最高責任者である内閣総理大臣は、その安全基準の制定、および規制組織の管理監督業務において瑕疵が合った場合には、その結果生ずる責任に関しては国家が保証することを、ある程度の実効性を伴う形で明言する(例えば閣議決定とか・・・)。この結果として、規制組織が『安全』と断定できる原発に関しては再稼動を認める。」
しかし、現実は原子力規制庁も出来ておらず、安全基準もとてもではないがまともなものが出来てはいない。今年の夏の電力不足は最初から分かっていた話で、これは政府の不作為として徹底的に糾弾されてしかるべきものだが、しかしその糾弾を開始したところで事態が解決するわけではない。したがって、本来のふたつの選択肢のいずれも選択できない緊急事態に陥っている。少々大袈裟にいえば、刑法の世界でも、正当防衛と緊急避難という殺人が罪に問われない例外規定を定めているように、どちらの選択肢も国の存亡(産業空洞化による日本経済の破綻)や国民の生命に危険(過剰な節電による熱中症死者の増大)が及ぶリスクが少なからずあれば、政府も緊急避難的な判断が許される場合がある。しかし、その緊急事態的な判断は必要最小限の場合に限定されるべきであり、原発を例にとれば具体的には、大飯原発限定、且つ夏季限定の再稼動とすべきである。にもかかわらず、これらのプロセスを全てすっ飛ばし、緊急避難的判断であることも否定して、エイヤとばかりに専門性を持ち合わせない政治家による政治的な判断でお茶を濁してしまった。だから、一連の野田総理の判断は後世の歴史家において、適切に批判されるであろうことは容易に予測できる。
狼少年ではないが、一度信頼を失うとその後の行動は何をやっても信じてもらえない。国民は半ば、諦めの境地にも達しようとしている。しかし、諦めずに現状を変えようと思うのであれば、ひとつひとつの判断・行動に対し、是々非々の立場で臨み、論理的な議論で正しいか間違っているかの判断をひとつずつ積み上げていく必要がある。感情に流された思い込みで全てを判断するのは間違いである。
このようなことを意識して、オスプレイ問題を再度考えてみる。既に専門化が言っているように、現行の輸送機は50年前の機材であり、能力的にも安全面で見ても、このまま使い続けるという選択肢はない。新型の機材は言うまでもなくメリットは計り知れない。だから、選択肢は「オスプレイのリスクを最小化する努力」か「オスプレイの配備を拒否することで新たに生ずるリスクを許容する」の何れかである。しかし、オスプレイの配備に慎重な立場をとる人の中で、後者のオスプレイを拒否して生ずる新たなリスクの重大性を冷静に吟味している人は非常に少ない。一方のオスプレイ墜落のリスクを過大評価すると共に、もう一方の極東の軍事的なリスクを過小評価するのは原子力ムラのとってきた態度と酷似している。「だから無条件でアメリカの言うことを聞け!」とは絶対にならないが、現在の日本を取り巻く世界情勢の中ではオスプレイの配備を拒否した場合のリスクは計り知れない。だから、「オスプレイのリスクを最小化する努力」に如何にまじめに取り組めるかが本来は問われるはずである。
話は少しそれるが、オスプレイ問題を非難している人の声を聞くと、そもそもオスプレイが岩国基地に搬入された時点で、既に運用開始が決まっている「出来レース」であると批判する人もいる。これが真実であれば、確かに非難を受けても仕方がない。野田総理や藤村官房長官にとっては、その様な「出来レース」を強く期待しているであろうことを私は否定しない。しかし、少なくともオスプレイの運用開始の判断の最終権限を持つのは森本防衛大臣である。だから、野田総理や藤村官房長官がどの様なシナリオを考えているかよりも、森本防衛大臣のシナリオの方が重要性は高い。ではBestなシナリオは何であろうか?オスプレイの安全性を担保した上で、早期に運用を開始し極東の歪んだ軍事バランスを速やかに補正し、同時に日米同盟の深化をも実現する・・・、そんなシナリオがBestと思われる。であれば、運用開始へのブレーキを握りながらも、岩国基地への搬入のタイミングは寧ろ早い方がよい。
そして最も重要なのは、「オスプレイのリスクを最小化する努力」を最大限に行うことである。そして森本防衛大臣は、思いつく限りの「オスプレイのリスクを最小化する努力」を実直に実行しているように見える。どうやらオスプレイへの試乗も予定されているようだが、それはどこかの誰かのようにカイワレ大根を食べれば安全性をアピールできるとの勘違いから来るものではない。そこが浅はかな政治家と真のスペシャリストとの違いである。もちろん仲井眞沖縄県知事が指摘する通り、多分、沖縄県内でオスプレイの墜落事故があれば、県内の全ての米軍基地の閉鎖につながるリスクは無視できない。オスプレイの安全性確認に加えて、森本防衛大臣がこの沖縄リスクにどの様な答えを出すのかが次なる見所なのだろう。
話が長くなってしまったが、やるべきことをやらずにエイヤで無責任な決断を行う大飯原発の再稼動問題と、やるべきことを淡々とやり責任ある判断を下そうとするオスプレイ問題は、根本的に決定的な相違点があると言わざるを得ない。しかし、多分、それが評価されるのは数十年先の歴史家によってなのだろう。
本来なら思想信条的には異なる民主党政権で、自ら進んで渦中の栗を拾うのだから、彼には変な下心などない。実際、マスコミの間でもその様な点を指摘する声は聞かない。だから、そんな歴史家の評価を待たずに早く評価されるようになって欲しいと切に願う。
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