けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

オスプレイ問題と原発問題の類似点、そして「相違点!」

2012-07-26 22:33:42 | 政治
新聞やネット上の有識者のコメントなどで、オスプレイ問題と原発問題の類似点が指摘されている。多くの人は、「建前上の安全性確認作業」を行い、誰からも信頼されていないのに再稼動を強行した大飯原発問題における野田首相の行動が、今回のオスプレイの岩国基地への搬入とダブって見え、それをもって「原発再稼動もオスプレイ問題も、現政権は駄目だ!」と唱えている。先日のブログでも、私も類似点の存在を指摘したが、しかしその内容はまったく別の視点である。私の指摘は、「論理的な議論の積み重ね」を拒否し、「一方的な安全神話やその間逆の感情論」で問答無用と議論を断ち切ろうとする点で、両者は非常に似ているということである。

この様に扱われ方は色々と異なるが、それらの類似点は多くの人が感じる通りである。しかし、実際には両者の間には決定的な相違点が存在していることをここでは訴えたい。以下に、それを順番に説明させていただく。

まず、対立する議論には論点の切り分けが必要である。具体的には、ひとつの課題が与えられたときにその「メリット」と「デメリット」を整理する必要がある。時として、この「デメリット」とは「確実に発生する負の効果」ではなく、「確率論的に発生の可能性を否定できない負の効果」という「リスク」として現れることも多い。原発問題などは、CO2排出量も少なく(既に原発が存在しているという前提条件の下では)相対的に発電コストも安く、さらには原油価格やLNGなどよりも価格の変動リスクも比較的小さいという「メリット」と、(事故が起きなければまったく問題がないが)ひとたび福島のように事故になるとその被害は世界的な規模といっても良いほど甚大であるという「リスク」とのバランスを議論する必要がある。相反する問題に対処するためには、選択肢としては、(1)「メリット」を享受しながらもその「リスク」を最小化するための方策を議論し、その方策を確実なものに高めることで実効的には「メリット」のみに封じ込めるか、もうひとつの選択肢として(2)「メリット」を完全に手放すことで発生する新たな「リスク」ないしは「デメリット」を覚悟した上で、その「メリット」を放棄する、かである。過去の事例に照らし合わせれば、前者(1)において原発の危険性の「リスク」を過小評価したことが原因で、福島第一原発の事故が発生してしまった。だから過去の対応に瑕疵があったのは明らかだ。しかし、同じ失敗を2度も繰り返さないためには、先ほどの後者(2)においても「メリット」を完全に手放すことで発生する新たな「リスク」に対しても過小評価することなしに、中立的な議論をしなければならない。

大飯原発の再稼動を例に取れば、過去のブログでも触れたように、電力不足による計画停電や過剰な節電のリスク(上述の「新たなリスク」に相当)は少なくとも安全側に立てばかなり厳しいものであり、正攻法でいけば原発の「リスク」の最小化のための最大限の努力が求められる。具体的には、概ね下記のようなプロセスが必要であろう。

「まずは、原子力ムラに属さない中立的な専門家により『これなら安心という明確な(国際的に見ても妥当な)安全基準』を責任の所在を固有名詞で明記した上で作成する。さらに、純粋に規制サイドに属する人たちによる原子力の規制組織を立ち上げ、やはりその責任の所在を固有名詞で明記した上で、先の安全基準に照らし合わせて原子力発電所の評価を行う。政府ないしは行政の最高責任者である内閣総理大臣は、その安全基準の制定、および規制組織の管理監督業務において瑕疵が合った場合には、その結果生ずる責任に関しては国家が保証することを、ある程度の実効性を伴う形で明言する(例えば閣議決定とか・・・)。この結果として、規制組織が『安全』と断定できる原発に関しては再稼動を認める。」

しかし、現実は原子力規制庁も出来ておらず、安全基準もとてもではないがまともなものが出来てはいない。今年の夏の電力不足は最初から分かっていた話で、これは政府の不作為として徹底的に糾弾されてしかるべきものだが、しかしその糾弾を開始したところで事態が解決するわけではない。したがって、本来のふたつの選択肢のいずれも選択できない緊急事態に陥っている。少々大袈裟にいえば、刑法の世界でも、正当防衛と緊急避難という殺人が罪に問われない例外規定を定めているように、どちらの選択肢も国の存亡(産業空洞化による日本経済の破綻)や国民の生命に危険(過剰な節電による熱中症死者の増大)が及ぶリスクが少なからずあれば、政府も緊急避難的な判断が許される場合がある。しかし、その緊急事態的な判断は必要最小限の場合に限定されるべきであり、原発を例にとれば具体的には、大飯原発限定、且つ夏季限定の再稼動とすべきである。にもかかわらず、これらのプロセスを全てすっ飛ばし、緊急避難的判断であることも否定して、エイヤとばかりに専門性を持ち合わせない政治家による政治的な判断でお茶を濁してしまった。だから、一連の野田総理の判断は後世の歴史家において、適切に批判されるであろうことは容易に予測できる。

狼少年ではないが、一度信頼を失うとその後の行動は何をやっても信じてもらえない。国民は半ば、諦めの境地にも達しようとしている。しかし、諦めずに現状を変えようと思うのであれば、ひとつひとつの判断・行動に対し、是々非々の立場で臨み、論理的な議論で正しいか間違っているかの判断をひとつずつ積み上げていく必要がある。感情に流された思い込みで全てを判断するのは間違いである。

このようなことを意識して、オスプレイ問題を再度考えてみる。既に専門化が言っているように、現行の輸送機は50年前の機材であり、能力的にも安全面で見ても、このまま使い続けるという選択肢はない。新型の機材は言うまでもなくメリットは計り知れない。だから、選択肢は「オスプレイのリスクを最小化する努力」か「オスプレイの配備を拒否することで新たに生ずるリスクを許容する」の何れかである。しかし、オスプレイの配備に慎重な立場をとる人の中で、後者のオスプレイを拒否して生ずる新たなリスクの重大性を冷静に吟味している人は非常に少ない。一方のオスプレイ墜落のリスクを過大評価すると共に、もう一方の極東の軍事的なリスクを過小評価するのは原子力ムラのとってきた態度と酷似している。「だから無条件でアメリカの言うことを聞け!」とは絶対にならないが、現在の日本を取り巻く世界情勢の中ではオスプレイの配備を拒否した場合のリスクは計り知れない。だから、「オスプレイのリスクを最小化する努力」に如何にまじめに取り組めるかが本来は問われるはずである。

話は少しそれるが、オスプレイ問題を非難している人の声を聞くと、そもそもオスプレイが岩国基地に搬入された時点で、既に運用開始が決まっている「出来レース」であると批判する人もいる。これが真実であれば、確かに非難を受けても仕方がない。野田総理や藤村官房長官にとっては、その様な「出来レース」を強く期待しているであろうことを私は否定しない。しかし、少なくともオスプレイの運用開始の判断の最終権限を持つのは森本防衛大臣である。だから、野田総理や藤村官房長官がどの様なシナリオを考えているかよりも、森本防衛大臣のシナリオの方が重要性は高い。ではBestなシナリオは何であろうか?オスプレイの安全性を担保した上で、早期に運用を開始し極東の歪んだ軍事バランスを速やかに補正し、同時に日米同盟の深化をも実現する・・・、そんなシナリオがBestと思われる。であれば、運用開始へのブレーキを握りながらも、岩国基地への搬入のタイミングは寧ろ早い方がよい。

そして最も重要なのは、「オスプレイのリスクを最小化する努力」を最大限に行うことである。そして森本防衛大臣は、思いつく限りの「オスプレイのリスクを最小化する努力」を実直に実行しているように見える。どうやらオスプレイへの試乗も予定されているようだが、それはどこかの誰かのようにカイワレ大根を食べれば安全性をアピールできるとの勘違いから来るものではない。そこが浅はかな政治家と真のスペシャリストとの違いである。もちろん仲井眞沖縄県知事が指摘する通り、多分、沖縄県内でオスプレイの墜落事故があれば、県内の全ての米軍基地の閉鎖につながるリスクは無視できない。オスプレイの安全性確認に加えて、森本防衛大臣がこの沖縄リスクにどの様な答えを出すのかが次なる見所なのだろう。

話が長くなってしまったが、やるべきことをやらずにエイヤで無責任な決断を行う大飯原発の再稼動問題と、やるべきことを淡々とやり責任ある判断を下そうとするオスプレイ問題は、根本的に決定的な相違点があると言わざるを得ない。しかし、多分、それが評価されるのは数十年先の歴史家によってなのだろう。

本来なら思想信条的には異なる民主党政権で、自ら進んで渦中の栗を拾うのだから、彼には変な下心などない。実際、マスコミの間でもその様な点を指摘する声は聞かない。だから、そんな歴史家の評価を待たずに早く評価されるようになって欲しいと切に願う。

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「論理的」ではなく「感情的」な議論しかできない国民性

2012-07-24 23:58:26 | 政治
先日のブログ「責任の所在を明確にできないなら、真実を隠せない環境を作るしかない!」の中で、福島第1原発の事故は日本文化に根ざした日本人の特殊性に起因して発生した事故であるとの外国の報道についてコメントしたが、実は最近になって、この日本文化の困った点をまざまざと見せ付けられた気がした。

7月23日の産経ニュースにて以下の記事があった。
『迷彩服を区民に見せるな』自衛隊の防災演習、東京の11の区が庁舎立ち入り拒否

実は、数日前にテレビでこの映像を見たとき、私は目を疑ってしまった。真の防災訓練のために自衛隊は、16日の夜から17日の未明にかけて、交通機関が麻痺したことを想定し、練馬駐屯地から各区役所に向けて徒歩で移動し、区役所からの通信訓練などを実施した。最も遠い区役所では、9時間も歩きづめの後に区役所にたどり着いた。そして幾つかの区役所に到着したときの映像として、区役所に多くの人たちが駆けつけていた映像が流れたため、私はてっきり「ご苦労さん!」と労をねぎらうために自然発生的に人が集まったのかと勘違いした。しかし、実際には迷彩服での庁舎への立ち入りを区役所側が拒否したのだと後から知った。当然、自衛隊側からは事前の訓練協力への要請をしていたが、11の区役所で立ち入りが拒否された。この時、私が思った言葉は「なんてこの人たちは幸せな人なんだろう?」である。もちろん、ここでの「幸せ」とは「おめでたい」とか「ノー天気」という言葉に置き換えられるものである。

思い返せば、まだ高校生の頃の私は、「日本に軍隊などなくても大丈夫、憲法9条を守り、長期的には世界に率先して自衛隊すらいらない平和国家を築くべき」といった潔癖症的な思いを胸にしていた。しかし、年をとるに従い、世の中は性善説では動かないことを知り、さらには「戦争のある世界」に対して「戦争のない世界」は歴史の中では非常に特殊であり、規模の大小はあるにせよ100年程度のスパンで見れば、どの国も戦争がない方がおかしいという現状を目の当たりにする。

しかし、どうも日本人の中には「平和と空気と水はタダ」と確信している「幸せな」人達がいて、些細なことにも「タダ」ではない何らかの代償を払うことにアレルギー反応を示している。少なくとも東日本大震災の後には、被害を受けた大多数の人々が、迷彩服を着た自衛隊の隊員に助けられた姿をテレビや新聞で目の当たりにしていたはずである。津波が押し寄せて泥だらけの廃墟の中で、犠牲者が何処かに埋もれていないかと、地道に隊員たちが探し回る姿も見ていたはずだ。米軍だって、(名前のセンスは知らないが)「トモダチ作戦」と称して、自衛隊ですら手をつけられなかった場所に駆けつけ、寒さで凍える被災者に救援物資を提供していた。軍隊(自衛隊)というのは確かに平和的な観点からは、なくて済めばこれに越したことはないが、実際にはそれがなかったら私たちの生活がもっと悲惨な状態に陥ることが避けられない存在なのであることを、我々は1年半前に思い知ったのである。にもかかわらず、災害時の訓練を行う自衛隊を許せないという区役所職員と市民とは「いったい何者か?」と思ってしまう。

同様のことはオスプレイ配備に関しても言える。先日から面白いことが起きている。政権与党の民主党内からは、例えば前原政調会長などがオスプレイの配備に後ろ向きな発言をしている。確かに、米軍の言われるがままの配備は厳禁であるが、森本防衛大臣は「我が方の独自の検証で安全が確認されるまで運用は認めない」という発言をしており、本来であればこの森本発言を忠実に実行するためのアシストをするのが政権与党の政調会長たる人の役割である。しかし、選挙のことを考えれば、現在の空気を読んで、配備に後ろ向きな発言をした方が得策なのである。実際、今週末には山口県での知事選があり、その選挙をこのオスプレイ問題が直撃している。しかし、相対する野党自民党の石破前政調会長は、自身のブログでもこのオスプレイ問題を取り上げると共に、テレビ番組に積極的に出演してオスプレイ配備の必要性と、安全の検証の重要性を訴えている。本来ならば政権の足を引っ張るのであれば、政府の行動の弁護ともとられかねないこの時期の発言は損なはずである。しかし、それでもその様な発言をせざるを得ないのは、彼の政治家としての良心に拠るところだろう。

私が今日のブログで言及している「日本の文化」とは、「論理的」な思考よりも「感情的」な思考を重視するという点である。この感情的な思考は、全体の中の都合の良い一部しか見ないで、都合の悪い見たくない部分にフィルターをかけるという、無責任な行動を誘発する。以前、英会話学校で英語ネイティブの人と雑談していたときに、面白いことを指摘されたことを覚えている。「論理的(Logical)」の反対語は何?と聞かれて、多くの日本人が「感情的(Emotional)」と答えた。答えは「非論理的(Illogical)」である。「なんだ、そんなことか・・・」と言われそうだが、感情的とは論理的とは全く軸を異にする概念であり、決して反対語ではない。しかし、日本人がこの様に強く誤解する背景には、特に日本人にとっては諸外国以上に、感情的になると論理的な思考が出来なくなるという特徴が強く備わっているというという事実があるのだと思う。そして、自民党の安部政権時代に「K・Y(空気が読めない)」という言葉が流行ったが、それは「感情」によって支配される「空気」というものを、日本人が非常に重要視するということを示しており、最近のオスプレイや原発問題においても、論理的な思考の重要性よりも感情的な思考の方が重要であるという風潮が強く表れている。

話は変わるが、昨日のTBSお昼の「ひるおび」で弁護士の八代さんが面白い発言をしていた。2000年当初、米国に在住していた八代さんは、事故を頻繁に引き起こすオスプレイに対し、米国内でも「未亡人製造機」という呼び名をつけて、配備に反対する動きが大きかったと記憶しているという。しかし、そんなオスプレイの配備に対する反対の声が、ある時に急に消えたのだという。そう、「9.11」である。短絡的に見れば危険なように見えるオスプレイも、テロとの戦いを意識した際に「それでも、配備しない方が本当に良いのか?」と自問自答し、「ベストな選択では決してないが、それでも敢えて選択せざるを得ない」とアメリカ国民は覚悟を決めたのである。それは、見方によっては「好戦的」な機運の高まりとも取れなくともないが、「リスク」と「メリット」という相反する基準に対し、どの様に折り合いをつけるべきかは、単に感情論で片付けられるものではなく、論理的な思考の結果として結論を得なければならないことを示したものだと私は理解した。

では、感情的な議論と論理的な議論の決定的な差は何であるか?それは議論の切り分けである。3段論法的な思考をするならば、細かい課題をひとつずつ切り分け、その課題ごとに地道に解決策を見出す努力をしなければならない。しかし、感情的な議論においては、何か目に付いた課題を問題の100%にすり替え、その課題だけを解決すれば全ての問題に対する答えが見つかったかのように思い込んでしまう。しかし、非常に複雑に絡まった事態を解決するためには、その絡まった糸を一本一本ほぐし、そのひとつひとつの切り分けられた課題に個別に取り組む地道さが求められる。しかし、その様な面倒な地道な行為は誰かの「感情」に訴えかけてもあまり心には響かない。心に響かないものは価値がないとなると、政治はますますポピュリズムの世界に走りこむ。最近の民主党の動きに、それが顕著に現れている。

日本人には難しいのかも知れないが、そろそろ成熟した「論理的な思考」を再評価する時代が来ても良いのではないかと思うのだが、中々そうはなりそうもない。

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エネルギー政策を議論するなら定量データに基づく議論をしよう!

2012-07-22 23:58:45 | 政治
今朝の産経新聞の「日曜経済講座」に「経済本部部長・長谷川秀行 原発比率の3シナリオ」というものがあった。定量的なデータの伴わないエネルギー議論が多い中、ここでは具体的に原発依存度を下げることの意味が示されている。この中で、私も思わず膝を打つご指摘があったので簡単に触れておく。

最近の政府主催の意見聴取会では、原発依存度をパーセンテージで示して議論している。エネルギー政策を議論する専門家が公開する選択肢が、この依存度として0%、15%、25-30%という表現を用いているので、この様な議論の仕方をするのはその専門家に問題があるとしか言いようがないが、この切り口は非常に中途半端な議論である。というのは、「景気動向」と「必要な電力量」には当然ながら相関があり、国民にとって非常に喜ばしい経済成長のシナリオを描けば、それに見合う発電量が求められ、計画通りに再生可能エネルギーの発電量を増やすことができても、景気が良くなると再生可能エネルギーの比率が目指すべき値に達しない。同様のことは、原発の発電量を固定したとき、好景気になり火力発電を増やして対応すれば、結果的に原発依存度は下がることになるし、不景気になって火力発電を動かさなくて済むようになれば原発依存度が高まる。

専門家が素人にわかりやすく説明するためには、この様な景気の影響をパラメータとして見せないため、ひとつの評価モデルとして今後のGDP成長率が10年代が1.1%、20年代が0.8%という「慎重シナリオ」を導入して単純化している。先程も説明したように、「どうせ今後景気など良くなる訳ないじゃん!」という諦めに似た感覚からすると非常に現実的な議論とも取れるが、「じゃあ、景気が(運悪く?)良くなっちゃたらどうするんだよ!」という政治家として絶対に考えなければならないシナリオを無視し、経済成長率が低いことを期待するようなエネルギー政策は決して許されない。

また、単純に電気料金だけに絞っても、仮に現在の月額電気料金が1万円の家庭を例にとった場合、2030年の原発0%シナリオでの電気料金は、4つの機関による予測が1.4万円、1.5万円、2万円、2.1万円と出ている。細かな効果を見込んだ複雑な資産なのだろうが、素人でも当たりを付けることはできる。本来であれば原発が再生可能エネルギーに切り替わるので、両者の発電コストで比較しなければならないが、原発の発電コストについては評価が分かれるので、火力発電の発電コストを参考にして(大雑把にキロワット当たり約10円と仮定)それが買取り価格である42円の再生可能エネルギーに切り替わるとして評価すると、2010年の原発依存度26%を0%にするためには、1万円×0.74+1万円×0.26×(42/10)=18320円という価格が出てくる。もちろん、再生可能エネルギーも発電方法で買取価格が変わるので、非常にラフな評価であるが、月額で7〜8000円程度の値上げを覚悟せざるを得ないというのは現実として受け止めるべき値なのだと思う。

ただ、節電技術の普及も期待できる部分があるので、電気料金が1.4万円、1.5万円と評価した機関にもそれなりの妥当性はあるのだろう。しかし、各家庭の太陽光発電普及のための補助金や、省電力技術推進のための税金の投入額も半端ではなく、それらの財源を補うためには社会保障対策の消費税増税に加えて、さらにエネルギー政策の財源確保のための増税も予想される。先程の電気料金に加えて、大幅な増税に耐えてなお国民は納得できるのかと言えば、そんなはずはある訳ない。たかだか、10%という世界的に見れば低水準の消費税率にこれだけ敏感に反応する国民なのだから、政府に「打出の小槌」で財源を何とかしろ!と求めるようになるのは目に見えている。ちなみに、脱原発に伴う景気押し下げ効果はさらに深刻で、これを帳消しにしようとすると大幅な公共事業への財政投入が下げられないだろうが、これは更なる赤字国債を生むだろうから、ギリシャ化の危機の度合いも深刻化するだろう。こんなことまで考えると、「打出の小槌」と言われても答えなどある訳がない。

話は変わって最近の反原発デモには、一般の主婦も多く参加していると聞く。「子供たちのために!」という大義名分から参加するのは理解できるが、この様な試算を聞いたときに彼女たちが何と答えるのかを聞いてみたい。話題の意見聴取会にしても、7月18日付の東京新聞の社説では「電力会社の幹部といえば、意見を聞いて参考にする立場である。それが、真顔で『会社の考え』を述べるとは、考え違いも甚だしい。」と書かれていたが、私の理解ではこの意見聴取会は国が将来のエネルギー政策を決めるための会合であり、電力会社が意見を聞くための会合ではないと思っていた。もちろん、参考にするのは大いに構わないが、多分、多くの原発依存度0%論者は「高い価格で電力を買取り、電気料金の値上げをせずに我々に安定供給しろ!」という意見だろうから、反論せずに参考にせよと言うのはフェアではない。

どうも私には、この政府の対応は、この意見聴取会を「反原発派に思うようにさせてやるガス抜きの場」と位置づけているように思えてきた。産経新聞の様な本当は議論すべきことを議題に上げると、多分、反原発派の反発が激しくなるのだろう。「今は耐える時期」という、野田総理のこれまでと同様の戦略通りにことを進めているような気がする。消費税の顛末を見れば、その後の収集不可能な事態は大いに予想できる。収集のシナリオを頼むから考えて欲しい。

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オスプレイの危険性(安全性?)を炙り出す妙案がある!

2012-07-21 22:48:45 | 政治
今日のBS朝日の「激論!クロスファイア」に、森本防衛大臣が出演していた。番組としてはオスプレイ配備の話題が中心であり、司会の田原さんの厳しい突っ込みに対し、これまで通りの誠実かつ論理的に受け答えをしていた。その内容は首尾一貫したものであり、以前からの内容そのままなので敢えてここでは紹介もしないが、オスプレイの配備に反対の人に対しては、ひとつだけ提案があるので最後に紹介させて頂きたい。

まず、オスプレイについての私のスタンスを、(以前のブログの繰り返しにもなるが)順番に説明させて頂く。既に配備されてから50年近く経った旧式の現行ヘリに対し、オスプレイのポテンシャルは圧倒的なものであることは疑いもない。一方で、理由と発生頻度はともかくとして、事故は実際に何度か起きているので、その配備に対して心配に感じる人がいるのは認めざるを得ない。また、仮にオスプレイには欠陥がなく、完成度120%の機材であったとしても、ヒューマンエラーは絶対に避けられないので、重大な事故が今後発生する可能性はゼロではない。そのため、特に普天間の様に象徴的且つリスクの大きな場所で(原因の如何に関わらず)事故が発生し、日本人の被害者を出そうものなら、途端に日米安保にとって致命的な事態に陥る可能性も否定できない。だから、仮に事故が起きたとしても、死者を出したり民家や学校を破壊するかの様な重大な事態に至らないような、細心の注意を払った運用方法を考えるべきである。以前のブログで取り上げたとき、私はオスプレイの低空での飛行訓練を日本各地で行う予定であったことは知らなかったので、単に配備されるだけなら何とでもなると思っていたが、実際には実戦を想定して高度150m程度の超低空でのオペレーション訓練のようなものを考えているようだから、これを民家の上空でやられたら「細心の注意を払った運用方法」からは外れることになる。日本国内にも7+αの訓練飛行計画のルートがあるそうで、部分的には山林地帯や瀬戸内海の海上などもあるのだろうが、ルートの最初から最後まで民家の上を飛ばないという訳にもいかないだろうから、日本海や太平洋上の海上での飛行訓練でもなければ、日米安保に致命的な傷を与えるリスクをある程度は覚悟せざるを得ない。

素人なので可能性の有無は分からないが、例えば鹿児島の馬毛島にオスプレイの基地を作り、沖縄〜馬毛島間の海上区間を中心に飛行訓練を行い、普天間基地を利用する際には安全な海上で「固定翼航空機モード」から「ヘリコプターモード」に切り替え、沖縄の民家上空では必ずリスクの小さなヘリコプターモード状態でしか飛行しない・・・といった工夫をするなどの可能性は残されているのかも知れない。

ただ、性能面で見ればオスプレイの能力は圧倒的であり、尖閣諸島などでの有事を想定すれば、その存在の有無は対中国を想定すれば抑止力としては大きいかも知れない。例えて言えば、殆ど刀しか無い時代に警察官に銃を携行させようとしたところ、「銃は扱いを間違うと危険である。相手が刀なら、警官も刀で戦えば良いじゃないか!」という人がいたとすればどうであろうか?そして、その意見が通り警官が銃を持たないことが確定した後で銃を持った暴力団員が民間人を襲い、周りの人が警官に助けを求めたが警官は「相手が銃なら勝ち目はない!だから(銃を持たせてくれと)言ったじゃないか!」とこたえて助けてくれなかったとして、「自業自得だね!仕方がない、諦めよう・・・」と諦め切れる話ではない。だから、少なくとも銃を持った相手と戦わなければならない可能性があるなら、警官にも銃を携行させなければ助けてもらえると期待はできない。「そんな銃を持った暴力団など現れない」とタカをくくって覚悟を決めるか、それとも「イザという時に困らないように警官には銃を持たせよう」と考えるか、それは大きな選択である。

ただ、この様な背景を考えた上で「やはりオスプレイの配備は戦略的に認めるべきだ!」となったとしても、それでも残る心配ごとについて最後に議論したい。それは、やはりオスプレイは欠陥機ではないかという心配である。この可能性が大いにあるのであれば、こればかりは米国に対して配備を拒否する理由には成り得るのである。そして、私にはこの点をクリアにするためのひとつの妙案がある(これは最後に述べさせていただく)。

ただ、私にはもう一方の別の意味での危惧がある。それは、日本人の中には、オスプレイが欠陥機ではなく非常に優れた寧ろ安全な機材であったとしても、「生理的にその配備を受け入れられない」という人が多いのではないかと言う点である。これは反原発派にも通じるものであり、彼らの求めるのは安全性の確認ではなく、無条件降伏とでも言うべきものである。これでは議論にはならない。森本防衛大臣も、「自らの専門性もこの様な相手に対しては全く役に立たない」と認めているとおり、それは単なる政治の駆け引きの中で解決するしかなく、純粋な技術論などはそこに入り込む余地はない。

この様に言われて、「そんなことはない。私はオスプレイが危険だから配備に反対しているのだ。安全だというなら私を納得させてみろ!」という人がいたら、先程言いかけた妙案を伝授したい。それは、危険性を日本政府に訴えるのではなく、アメリカのマスメディアにその危険性を訴えるのである。マスコミでなくても、インターネットを用いて危険性を訴える大々的なキャンペーンをアメリカ国内で起こしても構わない。ご存知のように、アメリカは訴訟社会である。事の危険性がマスコミを通じて取り上げられている中で、軍やメーカー側が危険性を示す証拠を握りつぶし、嘘で塗り固めて強硬に運用を継続しようものなら、後でその証拠が世に出たときに懲役刑(実刑)や膨大な賠償訴訟を起こされかねない。日本国内で騒いでも全く無駄であるが、軍やメーカー側は米国内での訴訟を最も恐れる。実際、この様な問題が話題になるのを嫌って、オスプレイの飛行訓練は最近では米国内では行われていないとの噂もあり、だから日本への配備と訓練が望まれているとの話もある。

だから、本当に安全か危険かを議論して明らかにしたいのであれば、アメリカの世論を動かす努力が最善の方法であることは明らかである。しかし、アメリカという国は面白い国だから、ちゃんと論理的な根拠をもとに安全性を証明できれば、攻める側もそこで矛(ほこ)を収めるのがルールである。だから、正々堂々と純粋技術論で勝負する覚悟があれば、アメリカの世論に大いに訴えればよい。しかし、そこで「どの様な結果が出てもその結果を受け入れる」という覚悟がないのであるならば、日本国内で騒ぎ立てるしか手はない。日本国内であれば、エンドレスで騒ぎ続けても「ルールを守れ!」と言われる心配はないのであるから・・・。

かくして、私の「妙案」は多分役には立たないのではないかと思われる。

実効的には、アメリカの世論に訴えるのと同レベルのことを森本防衛大臣が検証してくれるのではないかと期待している。さらには、50年先には彼のそんなプロセスの重要性を評価してくれる人も表れるだろう。しかし、今は単に「やるべきことをやって、耐えるべき時」だと森本防衛大臣も覚悟を決めているのではないか?今日のテレビの映像を見ながらそんな事を感じた。そして、北朝鮮や尖閣問題などでいつ危機的な事態になってもおかしくはない状況で、この人が大臣でいる間は安心だとも改めて思った。

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ふたつのボヤキ(危険運転致死傷罪を適用させる方法を考えてみた)

2012-07-20 23:17:37 | 政治
今日は関係ない話を二つほどぼやかせていただく。ひとつ目は、もうボヤくしかない。ふたつ目は、ボヤキと言っても本気で考えたい話である。

まず、ひとつ目。今日、鳩山元総理が脱原発のデモに参加し、マイクを持って「今から官邸に思いを伝えてきます」とアピールしたという。「また、こいつか・・・」「とほほ・・・」と泣けてくる。脱原発は意見として認めるのであるが、余りにも選挙の票目当てに都合の良いことを言っているのを何度も何度もくり返し見せられると、この様な幼い人格の人が政治に関与することを何とかできない社会というものに脱力感を感じてしまう。

短絡的な原理原則に従えば、確かにその通りである。沖縄の米軍基地負担を軽減するために、「最低でも県外」というのは気持ちとして正しい。しかし、日本国の最高責任者という立場で判断したときに、短絡的な部分から外れる目に見えない奥に潜む要素に対し、「勉強すれば勉強するほど」どの様な判断を下さなければならないかを考えるのが、責任ある政治家の取るべき行動である。この点に関し、あなた(鳩山氏)は既に最低でも「前科1犯」なのである。財源など何とでもなる・・・と豪語して、「勉強すれば勉強するほど」財源がないことを痛感したのもあなたである。他にも幾らでもあるが、これら全ては選挙の票に都合の良い勘違いをしていたことを、後になって気がついて「御免なさい」をしたものである。選挙の票欲しさのポピュリズムのそしりを受けても、甘んじて批判に耐えなければならない。

そしてこの期に及んで、更なる罪を積み上げようとしているのである。2009年の衆院選のマニュフェストには以下のように書かれている。

「46. エネルギーの安定供給体制を確立する
【政策目的】国民生活の安定、経済の安定成長のため、エネルギー安定供給体制を確立する。【具体策】<<中略>>安全を第一として、国民の理解と信頼を得ながら、原子力利用について着実に取り組む。<<後略>>」

今現在、「国民生活の安定」と「経済の安定成長」は原発政策を軸にすると相反する課題と位置付けられている。政治家には、これをバランスを取りながら両立することが求められているのであるが、「国民生活の安定」だけに軸足を移すことは、もし仮に実現してしまったら、その後に「勉強すれば勉強するほど」短絡的な判断だったことを思い知ることになる。あなたは、前科何犯になれば自らの罪深さに気付くのですか・・・?

とまあ、前半は単なるボヤキである。後半はガラリと話が変わる。4月に起きた亀岡の無免許居眠り運転の被害者遺族が、法務大臣に危険運転致死傷罪の適用の拡大などを要望したニュースに思うことである。言いたいことは説明するまでもなくご理解いただけるだろう。そこで、おまけとして付け足したいボヤキを以下に書かせていただく。

まず、私は法律の素人だから、以下に述べることがどの程度可能性があるのかを知らない。しかし、あまりにもそれは惨いので、微かな灯でも見い出すことができないかと、思い付きを語るのである。私の思い付きを膨らませて可能性を見いだせる人がいれば、是非ともしかるべきルートに問題提起をして欲しい。

さて本題であるが、これだけ話題になりながら誰一人危険運転致死傷罪の適用可能性に言及する人がいないということは、多分、試験問題として法解釈をするならば、危険運転致死傷罪の適用は不可能というのが正しいのは認める。法体系として、(先日の重大犯罪の時効撤廃の法案という非常にグレーゾーンの例外を除けば)ことが起きた後で後出しじゃんけんをして、加害者の罪の重さを変えてしまうというのは、絶対にあるべきことではないと理解している。だから、法律の改正を前提とすれば、先日の被害者を救うことはできない。昨年10月にも名古屋で無免許のブラジル人の超無謀な運転で大学生が死亡したが、こちらも危険運転致死傷罪の適用は無理だとの判断である。しかし、私の思い付きは、これを何とかできないかという切なる思いが出発点となっている。

「危険運転致死傷罪」とは「刑法第208条の2」に規定されており、その第1項には、以下の様に記されている。
「1. アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させ、よって、人を負傷させた者は15年以下の懲役に処し、人を死亡させた者は1年以上の有期懲役に処する。その進行を制御することが困難な高速度で、又はその進行を制御する技能を有しないで自動車を走行させ、よって人を死傷させた者も、同様とする。」

問題とされているのは「技能を有しない」の部分である。この意味を解釈するに、例えば免許を持って技能を有する者が、免許失効期間中に事故を起こしたとして罪に問うて良いのか?という視点から、実効的に「技能」を有するかどうかで判断を行うこととしている。しかし、例えば刑法第208条の2の第2項には「赤色信号又はこれに相当する信号を殊更に無視し」の記述があり、この「信号を殊更に無視し」の意味の解釈には最高裁まで争った経緯もあり、法律の解釈はその条文から確定的に疑いもない共通認識となっている訳ではない。であれば、その裁判に持ち込む最初のハードルを下げてあげる「論理武装」を検察側が組み上げることができるか否かにかかっている。私はこの「技能」の解釈に、一石を投じることができないかと考えた次第である。

言うまでもないことだが、亀岡の事故の加害者が、前の晩から長々と運転して事故を起こさなかったのであれば、「技能」を有しているのは認めざるを得ない。だから、議論の論点としては、その「技能」そのものではなく、その「技能」が有効であるか否かを争うことができないか・・・という一点突破に賭けるのである。

例え話をしよう。昔、映画「ダーティーハリー」を観たときに、違法な手法で得た疑いのない決定的な証拠が、裁判では証拠能力を持たないという少々理不尽な事実を知って愕然とした。いわゆる違法収集証拠排除法則という刑事訴訟上の法理だそうだが、違法な手段で得た利益は法的には無効という考え方を逆手に取れば、無免許運転を繰り返して得た「技術」は、法的にはその有効性が否定されるという考え方ができないだろうか?極端な話、法学者がどの様な判断を下しても構わない。この事件は多分、裁判員裁判にかかるだろうから、裁判員裁判の導入の目的である「一般市民目線に沿った裁判」というものを示す良い機会なのかも知れない。そのためには、少なくとも筋の通った論理武装を検察が組み上げる必要がある。第1審でどのような判決が出ても、第2審以降ではプロの裁判官が判断するのであるから、裁判員は自分の信じるままに判決を下せばよい。

その道のプロがいれば聞いてみたいが、違法な手段で得たことが証明可能な「利益」を法的に剥奪することはそれほど無茶な話ではないのではないかと思う。この様な議論がきっかけになり、裁判制度に一石を投じることができれば私のボヤキも世の中の役に立つ。

本当のところはどうなのだろうか?

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電気を笑うものは電気に泣く・・・

2012-07-19 23:28:11 | 政治
最近話題の反原発デモであるが、先日、坂本龍一氏が「たかが電気のために、なんで命を危険にさらさなければいけないのか?」との発言を行ったことがネット上の一部で話題になっているという。反原発派の人からも「おいおい」と突込みが入ったりして、最初の「たかが電気のために」の部分に関してもひょっとしたら本人も不適切と感じているのかも知れない。揚げ足取りが主なる目的ではないが、この手の発言について、少しだけコメントしておきたい。

反原発のデモといえば、坂本教授に加えてノーベル賞作家の大江健三郎氏の活動も有名で、多分、昨年秋のデモの頃の写真だと思うが、「電気なんかいらない」と書いた紙を車から掲げた写真が広まっている。これらの発言に共通することは、「電気はなくても生きていけるが、放射能に汚染されると生きていけない」という考え方である。しかし、これはかなり偏った考え方であることに、多分、彼らは気がついていない。

今回、大飯原発がすったもんだの末に再稼動され、関西の節電目標がだいぶ緩和された。その再稼動の是非は別途議論するとしても、「電気なんかいらない」を真に受けて節電目標を設定せず、クソ暑い大阪の夏で無計画な停電が長時間に渡り発生したら、常識的に考えて熱中症や医療機器を必要とする人達の中で亡くなる方が大勢出ることは容易に予想される。また、仮に計画的に対応できても、経済活動への影響を最小化するために、(経済界への節電を求めず)一般家庭にのみ節電を求める様な特殊なシナリオを描けば、これまたかなりの数の熱中症患者が病院に運び込まれ、死者の数も相当な数に達するだろう。この間逆のシナリオとして、一般家庭には節電を求めずに、経済界に全ての節電を押し付けたら、今度は国内の工場が一斉に海外に流出し、気が付けば多くの雇用が失われ、大阪を中心に日本経済が沈没に至ることも容易に予想できる。その結果、会社が倒産しそうになった中小の経営者を中心に、今度は多数の自殺者がでることになるだろう。

実際にはこの様にならないように政府は微妙なバランスを図ろうとするが、ない袖は振れない(電力が足りていない)のであるから何処かにしわ寄せがくるのは否めない。関東で計画停電が実施された昨年の春は、あの大震災の直後で国民が耐える覚悟が十分に出来ていた上に、季節的には最もインパクトが小さい時期であったから、熱中症による死者や企業の経済活動へのインパクトを押さえ込むことが出来た。休日の変更や夜間の勤務など、十分な準備の下で、大分各企業が無理をして、それに続く夏も無事に乗り切った。東京電力の原発依存度が比較的低かったことも幸いした。しかし、今回の夏はそれとは大分事情が異なるから、仮に大飯原発が再稼動していなかったら、関西で何が起きていたかを想像すると怖いものがある。橋下市長が最後に再稼動を容認したのも、大阪を預かる首長の責任を考えてのことなのだろう。

この様に考えると、「電気なんかいらない」とか「たかが電気」とかいう発言は、非常に楽観論の上に胡坐をかいた発言であり、無責任であると言われても致し方ない。名古屋での意見聴取会で中部電力の社員が「放射能で死んだ人はいない」と発言したことは、原発事故で避難を余儀なくしている人々を思えば、極めて配慮に欠けた不適切な発言であるのは明らかであるが、発言の内容を以下の様に補正すれば、誰にも否定できない議論に振り代えられる。

「福島第一原発の事故で被害を受けた方は多数おり、その苦労は想像を絶するものがある。その被害者の救済を東電に加えて政府も積極的に関与して、手厚く行うのは当然である。一方で大阪の夏に電力の使用を大幅に制限されたら、こちらも様々な形で多くの人命を失うことになりかねない。この様な新たな被害者を出さないように手を尽くさねばならないのは、新たな原発事故を生じさせないための方法を議論するのと同様に重要であり、新規の原発事故のリスクを最小化すれば、別の形での被害者をだすリスクは無視しても構わない・・・という議論は乱暴ではないか?」

つまり、現在求められているのは、一方的な立場から他方を顧みない自己中心的な主張を声高に行うのではなく、双方の立場を理解した上で、それぞれの危惧している課題を同時に最小化でき、結果的な準最適な結論を導くための議論をすることである。

だから、本当ならば、そのデモの会場で「原発推進派や産業界の意見もしっかりと聞き、一方で我々も本当に譲れない要求条件が何であるかを絞込み、相互に納得できる落としどころを探すための前向きな議論をしようではないか!」と声高に叫ぶ人が現れるのを期待するのであるが、伝えられるニュースからはその様な人が現れる予感は感じられない。

このままでは、昔の学生運動を懐かしんで感慨にひたる段階の世代と、政治に失望した中年層と、何か熱くなれるお祭りを求める若者とが偶然にも共鳴したお祭り現象に終わってしまう予感を感じる。

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責任の所在を明確にできないなら、真実を隠せない環境を作るしかない!

2012-07-18 23:57:24 | 政治
先日の国会事故調の報告書を受けて、海外メディアにおいても福島第一原発の事故に対する日本の総括の仕方についてコメントが載せられていた。私はその話をラジオで聞いたのだと思うが、「なるほど、そう来たか・・・」と感慨深く聞いていた。この件は日本の新聞の中でも話題になり、例えば以下の記事などでも読み取ることが出来る。

産経ニュース(7月8日)「『国民性が事故拡大』英各紙、国会事故調報告に苦言

特に着目すべきは最後の部分であり、6日付のタイムズ紙が、「過ちは日本が国全体で起こしたものではなく、個人が責任を負い、彼らの不作為が罰せられるべきものだ。集団で責任を負う文化では問題を乗り越えることはできない」だったと結論付けている。この点は色々と異論がある人もいるだろうが、非常に重要な視点であると思われる。

国会事故調の報告書の中に記載があるかは確認できていないが、今年の4月25日付の産経ニュースでこんなものがあった。

産経ニュース(4月25日)「(中)『寝た子起こすな』反対派封じ込め優先の中、失われた規制の意識

平成18年、国際原子力機関(IAEA)の安全基準の見直しに合わせ、防災対策の重点地域を、原発から半径10km圏内から30kmキロ圏内に拡大し、5km圏内は事故時に即時避難する区域とする見直しの検討を原子力安全委員会より依頼された原子力安全・保安院の広瀬研吉保安院長(当時)が、非公式の場ではあるが「寝た子起こすな」と反対したという。同様の国際的なシビアアクシデント対策の流れに沿った見直しを黙殺した例は数え切れない。本来は規制側の立場にある原子力安全・保安院は、新たな対策を認めるとこれまでの安全基準に不備が合ったことを認めることになるため、何事にも後ろ向きにならざるを得ない。今回の前電源喪失という事態は、この様な国際基準に立てば容易に問題であることが分かる初歩的な原因によるところが大きく、その意味で特に保安員の言動は万死に値すると言われてもいたしかたない無責任なものであった。しかし、誰もその責任を追及しないだろうし、仮に本気で責任を追及したくてもその責任を問う根拠となる法律も乏しいのが現実であろう。

同様に菅前総理が指揮命令系統をズタズタに切り裂き、不用意な発言や行動を乱発したことで多くの官僚、原子力安全委員会、原子力安全・保安院や東電幹部などが「指示待ち」状態になり、能動的に適切な対応が取れなくなった。周りに暴言を吐き、わめき散らし、責任の押し付けを繰り返すことで部下からの報告も上がらなくなり、一方で地下にある危機管理センタよりも快適な官邸5階に陣を構えたことで法的な根拠をもとに情報が集約される危機管理センタから自らの身を遠ざけ、盲目の状態で手探りの行動を繰り返した。日本国の責任を一手に背負わなければならない立場にありながら、人格上の問題で自らの身を律することが出来ず、その結果として被害を増大させるに至ったが、本人は罪の意識は全くなく、寧ろ自分のおかげで最悪の事態を免れたという都合のよいシナリオに酔っている。彼を裁きにかけたい人は多数いるだろうが、多分、この場合も法律で裁くことは困難であり、せいぜい証人喚問で厳しい責任追及を行い、偽証罪に問うぐらいが関の山だろう。

また、話は全く変わるのであるが、DIAMOND online(会員登録者限定)で最近特集が組まれている「大津波の惨事『大川小学校』〜揺らぐ“真実”〜」の中で、東日本大震災の大津波で児童及び教職員84名が亡くなった大川小学校で何が起きていたかを知りたい遺族と、真実をもみ消そうとする学校・教育委員会のやりとりが記されている。多分、生存者5名に対して死亡者84名というこの死亡率の高さを考えれば、学校側に落ち度があったのは否めない。補償問題などを回避したいなどの下心が背景にあるのであろうが、何処に問題があったのか、何故彼らは死んだのかを明らかにしてくれなければ残されたものは納得できない。その壁を乗り越えるためには、事実を事実として認めて振り返ることから始まる。有耶無耶にして逃げ切れるならどうか知らないが、これだけの死者を出して逃げ切れるわけがない。唯一生き残った教員にとっては辛いことであろうが、多分、遺族の追求から逃げ続けてこの後の人生で重い十字架を背負い続けるよりも、知り得ることを全て話し、心の重荷を下ろした方が彼にとっても救われるのだと思う。しかし、多数の子供から教育委員会が聞き取り調査したメモ(4名の担当者各自がメモを残していた)を一斉に廃棄して、ある子供が発言したことが明らかになっている都合の悪い真実を、報告書にも記さずに情報を隠蔽する有様は、大津のいじめ自殺事件の学校、教育委員会の姿に重なって見える。

これが「日本の文化」だと言うのは確かに正しいのであろう。少なくとも、大津のいじめ事件でも大川小の事故でも、当初は教育委員会は糾弾される側には身を置いておらず、ニュートラルな存在であったはずである。しかし、誰かの責任が問われると可哀想だとか変な同情心から、気がつくと自らも加害者側に身を置き、糾弾される側になってしまう。責められる人が多くなれば多くなるほど、ひとりひとりの責任が薄まり、当人からすれば「この程度の希薄な責任なら、まあいいか・・・」と軽い気持ちで引き受けてしまう。しかし、それは被害者の気持ちを踏みにじり、より事態を深刻なものにすることに加担していることを意味する。一定量の責任を分担して薄めるのではなく、例えば10人が結託することを負わなければならない責任の量を10倍以上に増幅し、結果として最初の加害者も元々の責任の量以上の責任を負うことになる。決して誰かを救ってなどいない。

最初の原子力安全・保安院の話でも、彼は電力会社を助けてあげようという気持ちから、結果的に電力会社を危機的な状況に陥れることに加担したことになる。しかし本人は多分、電力会社に申し訳ないという気持ちは殆ど持っていないのだと思う。原子力ムラ全体で背負うべき十字架のほんの一部ぐらいを背負っている認識はあっても、自分は単なる歯車の一部程度でしかなく、殆どネグれる程度の責任だと勘違いしているに違いない。

この様な現実を変えようとした場合、最初の一歩は何であろうか?いきなり「責任を追求する社会」に変えることなど、所詮、日本の文化にはそぐわないのだから不可能なのは目に見えている。であれば、責任を追求するかしないかは横に置いておいて、事実を事実として隠せない状況を確保するしかないのではないかと思う。具体的には、責任ある立場の人が何らかの行動を行うとき、ボイスレコーダーやビデオ映像など、記録に残すことを法的に義務付け、その記録が残っていないときには何らかのペナルティと共に、裁判においては不利に扱われても仕方がないとすればよい。裁判においては、通常は誰かの過失を追求する場合、追求する側に証明責任が負わされるが、疑うのに正当な理由がある場合、ボイスレコーダ等の記録がない場合には記録を残さなかった側に証明責任を課すというようにすればよい。例えば、病院においては手術や集中治療室などにおいては全てをビデオに残し、医療事故が起きた場合にはその映像を患者または第3者機関に公開する義務を追わせれば、責任逃れをすることよりも、責任を認めても早く両者が合意できる着地点を模索する方向でエネルギーを使うようになるのだと思う。

責任の所在を明らかにする常識は、一朝一夕には変わらない。そうせざるを得ない状況を整備することが、遠回りの様に見えて、実際には近道ではないかと感じている。

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気持ちは分かるが、フェアに行こうじゃないか!

2012-07-17 22:23:12 | 政治
原発や再生可能エネルギーを含む、エネルギー政策を議論するためのふたつの施策が動き出した。ひとつは政府が開催する将来のエネルギー・環境政策に関する「国民からの意見聴取会」、もうひとつは「討論型世論調査」である。後者は8月上旬に都内で開催するが、前者は既に仙台、名古屋等で開催されている。それらの意見聴取会がニュースでも取り上げられており、物議を醸し出している。

既に報道でご存知の方も多いと思うが、この意見聴取会のルールとしては、今から約20年後の2030年時点を想定し、そこでの原発依存度を「0%」「15%」「20~25%」の3つの選択肢に分け、参加者から事前のアンケートで何れの選択肢を理想とするかを把握し、無作為にこの中から3名ずつ抽出して合計9名の意見を聞くこととしている。問題になったのは、この中の「20~25%」に属する発言者の中に、仙台では関東在住の東北電力の執行役員が選ばれ、東北電力としての立場からの意見表明をしたことが「やらせ」ではないかと紛糾し、騒然となったという。また、名古屋での意見聴取会に関しても中部電力の社員が一人選ばれ、「放射線で亡くなった人はいない」とも発言し、名古屋の河村市長が「八百長かも知れない!」とまで発言するに至った。政府の方からも、閣議後の古川元久国家戦略相が「聴取会の趣旨から大きくそれるもので、極めて遺憾」などの発言が出てきている。さらには、野田首相から「聴取会に対するいささかの疑念も生じさせてはいけない」として、電力会社の社員が抽選で選ばれても発言を認めず、別の者に差し替えるとの指示をしたという。

これらの報道を聞いていると、ある種、感覚的に「言わんとしていることは理解できる」一方で、明らかに前向きな議論を放棄した後ろ向きな行動だと糾弾せざるを得ないと感じる。

多分、原発推進派ないしは電力会社関係者たちは徒党を組んでこの意見聴取会に乗り組んでくるだろうことは予想できるが、同様に反原発派の人たちも徒党を組んで乗り込むことも予想される。地方での瓦礫処理問題においては、圧倒的多数派である受け入れ容認派に対し、少数派である断固反対派はやはり徒党を組んで各自治体に乗り込み、半ば暴力的に強硬な主張を繰り返していた。民主主義が多数決の原理に従うべきというのであれば、彼らの行動は非民主的な行為である。しかし、彼らは「少数意見であっても、その声に耳を傾けろ!」と怒鳴りまくる訳である。これに対し今回の意見聴取会に関しては、何ら暴力的なことを行った訳ではなく、単に組織的な動員的なことを意見聴取会に対してかけただけであり、この点は原発反対派の人たちと同様である。その運営のルールに問題があるのであれば、そのルールに限定して異論を唱えればよい。

例えば、電力会社の執行役員が選ばれたのが不自然であるというのであれば、くじ引きの公平性を担保するルールを導入すればよい。具体的には、入り口で通し番号を書いたバッジを配り、それを胸につけると共にそのバッジの番号と同一の番号を書いた紙やボールを「0%」「15%」「20~25%」のかごの中に入れ、意見聴取会の開始と共に全ての人が見守る中でその番号を選択し、その場で読み上げられた番号の人が登壇するようにすれば公平性は保たれる。他にも、「0%」「15%」「20~25%」という分類が気に入らないなら、これに加えて「5%以下」という選択肢を加えて、原発消極派である「0%」「5%以下」の発言者数と、原発積極派とでも言うべき「15%」「20~25%」の人数を揃えればよい。また、遠方からの参加者が発言しては意味がないと言うのであれば、原発賛成、反対に関係なく、免許証や健康保険証などで身分確認を行い、少なくとも仙台開催であれば東北地区の在住者のみに発言権を与えるというルールにしても構わない。

少なくとも、今回の意見聴取会の趣旨は、様々な意見を聞く場であるのだから、その中に電力会社の人が入っていてはいけないというルールは存在しない。出張手当を支給して業務として参加する人がいれば話は別だが、電力会社内の有志が仲間を募って手弁当で参加するのであれば、民主主義の前提に立てばそれを排除する論理的な根拠を見つけるのは困難だと思う。同様に、過激な反原発主義者が加わることも許容すべきである。

更に言えば、この意見聴取会の趣旨に賛同できない、つまり会合の最中に暴言を吐いて議事進行を阻害する輩については、原発賛成、反対の区別なく、強権を用いて排除されても致し方ない。議論の場であれば、不規則発言は議論の進行に悪影響を与えるのであるから、厳に慎むべきである。しかし、今回の報道では電力会社関係者が発言したことに対する非難の声は大きい一方で、これらの不規則発言を糾弾する声は一切聞かれない。八百長の可能性は否定しないが、少なくとも自治体の首長という公の立場の人間が、自分と意見が異なるというだけで「八百長かもしれない」と切って捨ててしまえば、意見聴取会の存在自体を否定するものにつながる。

こんな方式で意味のある議論ができるのかは些か疑問だし、仮に有意義な成果が得られてもそれが意に沿わない結果なら反原発派の人達は「ヤラセだ!許さん!」と認めないだろうからあまり期待はしていないが、前向きな取り組みをこの段階で否定する必要はない。しばらくはお手並み拝見と言ったところである。

正々堂々と議論するのではなく、単なるイデオロギーのぶつけ合いの姿を嫌というほど見せつけられることで、「これではいけない」と学習するならば、それはそれで良いかも知れない。

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「増税の前にやるべきことがある」は正しいのか?

2012-07-15 22:51:07 | 政治
もう既に数日が経過してしまったが、先日、民主党を離党した小沢グループが新党を立ち上げた。何とも嫌味な政党名であるが、宇多田ヒカルのツイッターでのウィットの効いたコメントが何とも的を得ており、ついつい笑ってしまった。

しかし多分大真面目な彼らからすれば、この様な政党名を用いて「増税の前にやるべきことがある」という如何にももっともらしい錦の御旗を掲げているつもりなのだろう。しかし、今日はこれが本当に正しいかどうかを議論してみたい。

まず、この「増税の前にやるべきことがある」について、一般論としては正しいことは私も認める。これは野田総理に聞いても当然ながら認める命題だと思うから、この命題をそのまま議論しても意味がない。だからここで本来議論すべき点は「増税の前にやるべきこと」をやらないで「増税すること」は正しいか否か、という命題なのであるとここで読み返させていただく。こうなると、途端に議論が分かれるところである。

私がここで問題提起したいのは、例えば大阪市の取り組みである。具体的には、最近、次のような話題が取りざたされていた。
産経ニュース(6月19日)「敬老パス50円負担で合意 大阪市、維新と公明」
産経ニュース(7月5日)「非公開は駄目」と橋下大阪市長 文楽協会との面会問題 補助金削減で」
産経ニュース(7月12日)「橋下市長、ごみ収集の完全民営化前倒し示唆 組合の民営化反対ビラに激怒」
これらは象徴的な出来事であり、公務員給与のカットや市バス等の赤字事業の民営化を含む事業の見直し、私学助成金のカットなど、所謂抵抗勢力が喜んで飛びつきそうなことを片っ端から実行している。そして、この様な対応で生み出した予算で、教育の充実など、橋下市長なりの優先順位でお金の流れる方向を変えている。これらはつまり、大阪の橋下市長が「増税の前にやるべきこと」について、本気で取り組んでいるというニュースである。だから、本来はこのニュースを拍手喝采で迎え入れなければ理屈に合わない。しかし、マスコミの報道の仕方を見ている限りでは、半ば腰が引けている部分は感じられるが、一方で「正しいのは分かるが、それは弱い者いじめじゃない?」という反橋下陣営からの援護射撃を期待するかのような空気が透けて見えてくる。

実際、ニュースなどを見ていても、高齢者へのインタビューで、「最近は若い者ばかりに金を使えという話ばかりだ。まったくけしからん!もっと弱者である高齢者に金を回すべきだ!」という声を取り上げたりもしている。もちろん、様々な立場の声を吸い上げるのが趣旨なのは分かるが、マスメディアとしてどちらの方向を志向するのかについては、ある程度の方向性を示してもらいたいものだ。実際、多くの新聞はそれぞれが個性を発揮する形で、新聞社のスタンスを明確にする「社説」を書いて議論している。テレビだけは都合の良い報道の仕方で良いというのはあまりにも都合がよすぎる。法的な問題もあるだろうから、特定の党に肩入れするのは如何なものかと思うが、増税の前にやるべきことが何かを具体的に明示することは公平性を欠いてはいない。

まあマスコミを批判するのが今回の目的ではないから先に話を進めると、橋下市長の様に「増税の前にやるべきこと」を実行しようとすると、必ずそれに批判的な勢力はある一定の率で存在する。いささか私の一方的な思い込みではあるが、ここで面白いのは消費税増税に反対し「増税の前にやるべきことがある」と主張する人々と、橋下市長の「増税の前にやるべきこと」を本当に実行してしまったことに対しNOという人々は、非常に相関が強いのであろうということである。別に私は当然ながら統計などとっていないので根拠などないのだが、マスコミや大学の先生などの方で興味のある方は是非統計データを集めてほしい。

この仮説の言わんとしていることは、橋下市長の様に自ら痛みの伴う「やるべきこと」を本当に実行すると、「それは、話が違う!」と言い出し、確かに「増税の前にやるべきこと」は存在するが、その「やるべきこと」は橋下市長たちが実行しようとしている「やるべきこと」ではなく、「(その)やるべきことよりも更に先にやるべき別の『やるべきこと』がある」と言い出し、彼らにとって痛くも痒くもない「やるべきこと」を持ち出さない限り、何処まで行っても話は収束などしないのである。

だから、「増税の前にやるべきことがある」という考え方の何処に問題があるかと言えば、超具体的で実現可能な選択肢を示しながら、「優先順位はこの順番である」と明言し、その順番で「やるべきこと」を着実に実行しなければならないのに、彼らはその具体的な順番を決して明言しようとはせず、抽象的なことに終始するのである。実際、「予算の組み換えでお金は幾らでも捻出できる」と言い切った小沢元幹事長は、政権交代後、数ヶ月で暫定税率廃止のマニュフェストを破り捨て、その予算で「コンクリートからコンクリートへ」という政策を実現しに走った経緯がる。

だから、誰も具体的な「増税の前にやるべきこと」の具体的な優先順位を示せないのであれば、「増税の前にやるべきこと」をやりながら「増税すること」は決して間違っているとは言えないのである。後は、「増税と共に、増税の前にやるべきことも本当にやり遂げることが出来たか?」を客観的に監視すれば良いだけである。

あまり悩むほどの命題とは思えないのだが、それ程問題なのであろうか?

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大津虐め事件の報道できない闇(事態は思ったより深いのかも知れない)

2012-07-14 22:12:58 | 政治
先日のブログで、大津の中学2年生の虐め自殺についてコメントした。様々な方面のコメントで、(私のブログも同様であるが)中学校と教育委員会の対応が糾弾されていた。そのブログを書いたときには、何故、彼らがそれ程無責任な対応をして平気なのかが理解できなかったし、弁解の余地など全くないと確信していた。しかし、色々調べてみると、何故彼らがその様な対応を取らざるを得なかったかが何となく納得できるようになった。少々、人権的に微妙な情報を扱うが、ひょっとすると彼らがこの様な対応に終始せざるを得なかった理由があるのであれば、今後の対応を考える上でも、この様な問題に真面目に向き合うべきかと考え、そのことについて書かせていただく。

最初に断っておくが、以下で書く内容はネット上で流れる情報に基づくものであり、事の真偽は不明である。また、人権的な配慮から具体的な固有名詞は一切差し控える。ただ、誰でも適当なキーワードを入れて検索すれば、加害者の3人の氏名から現在通っている中学校名、更には両親の職業や会社名、住所まで引っかかる。そこに情報を流す人々は、それなりの正義感のつもりだろうが、非常に危険な行動を取っていることは疑いもない。私はこれらの行動を決して許容しないが、そこで知り得た情報に対し敢えて目を瞑ることもないとも考えて、固有名詞を伏せた上で事件の理解に役に立つと思えることを整理してみた。

今回の事件の話を聞いて、どうしても理解できなかった最大のポイントは、学校側が何故加害者側の生徒たちを糾弾することができなかったのかという疑問である。前回のブログの中でも主犯格の少年の親がPTA会長であったらしいことを書いたが、高々、親がPTA会長であった程度で糾弾を躊躇するとは思えない。仮に学校が躊躇しても、教育委員会までが学校に遠慮して糾弾できないのは如何にも不自然である。

しかし、ネット上の情報を見る限りにおいて、どうやらここにはPTA会長という役職を遥かに超える、ふたつの理由があるらしい。

ひとつ目は、この主犯格の少年の母親は、地元の人権団体の役員をしているとのことである。あくまでも一般論で言えば、人権団体とは、例えば関西では同和問題なども扱い、非常にセンシティブな多くの問題をズバッと切って捨てているから、個人としては非常に扱い難い団体である。一時期、大阪市役所で所謂「えせ」とも言われる職員が、長い間働きもしないで好き放題に行動しながら、市役所側は背景の人権団体モドキの影に怯えて、何年もの間放置されていたことが話題になった。それと比較して考えれば、加害者側の責任が逃れられないグーの音も出ないほどの決定的な証拠を押さえた上でなければ、中々「人権団体」と言われると怯えて手出しができないと言うのは理解できる。しかも、事件直後の保護者説明会でも、「うちの子は被害者!これからも生き続ける子供たちはどうなる!」とまくし立てたと言われるから、先方が「戦闘モード」で攻めて来ているのは明らかである。こうなると、虐めを証言した子供達にも「本当に、本当に、お前は虐めだと断言できるのか?相手に訴えられても、それでも証言を変えたりしないか?」といった聞き方になってもおかしくはない。大の大人が尻込みしている姿を見て、幼い子供が「自らの身を犠牲にしてでも被害者のために戦う」という気持ちを貫き通すのは難しい。子供の証言が怯めば、学校や教育委員会側には“渡りに舟”で、「ならば、虐めはなかったことにしよう!」という流れになるのは自然である。

さらにもうひとつは、3人のうちのひとりの父親は、その地域の暴力団の幹部だったという。つまり、人権団体なら所詮は裁判になる程度で済むだろうが、相手が暴力団となれば、何処まで身の危険を覚悟しなければならないかは分からない。自分に危害が及ぶのではなく、自分の家族に危険が及ぶのかも知れない。巧妙なやり方で、「10年でも20年でも俺たちは忘れない。月明かりのない夜は、家族に出歩かないように伝えといた方がいいぞ!」みたいなことを言われれば、大抵の一般人はビビって何もできなくなるかも知れない。

この様に考えると、今回の警察の家宅捜索は、結構、的を得ているのかも知れない。ひょっとしたら、警察が押収した資料の中に、暴力団の恐喝に対する対応の記述などが残されたものがあることを、事前に警察が掴んであの様な対応に出たのかも知れない。仮にそうでなくても、少なくとも将来に渡り暴力団の圧力がかからないようにするには、あの程度のパフォーマンスは必要なのかも知れない。

テレビでは、教育評論家達が「虐めを認めると、自分や学校の評価にマイナスになるから、認めることに消極的になる」と解説し、何となく納得していたが、上述のような裏があったと仮定すると、学校や教育委員会の対応の不可思議さをストンと説明することができるし、警察の家宅捜査の強硬な対応も理解できる。
中々、マスコミでは扱いにくい内容であるが、もしこれが本当であるとすると、世の中で起きていることは思っているほど単純ではなく、その奥の深さは想像を遥かに超えたところにあるのかも知れない。報道とは難しいものである。

【補足】
一部の書き込みでは、母親が人権団体の役員という話は間違いとの指摘もある。しかし、当の母親本人ないしは団体側からネットの噂を否定する宣言もなく、信憑性は依然としてあるものと考えた。仮に上述の内容が正しいとすると、それは今回の事件の理解に役立つため、今回は書かせて頂いた。

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遅ればせながら、国会事故調の報告書を読み込んでみた

2012-07-13 22:25:07 | 政治
前々から気になっていたのだが、やっと時間が取れて、国会事故調の報告書を読むことができた。全体で640ページにも及ぶ資料であり、かなり評価できる内容であると感じられた。その中の幾つか特筆すべきところをピックアップしてみたい。(二日かけて書いたので、少々、長文であることにはご容赦を・・・)

まず最初に、報告書の書き出しの中で資料の位置づけを明確にし、「当委員会では扱わなかった事項」というものも明記して、この委員会に求められている内容の調査にフォーカスしたことを宣言している。非常に中立的な立場で、限られた人員、期間の中で出来ることを考え、委員会の役割ではないことはやらないという考え方は潔い。また、報道でも話題になったが、今回の事故が「人災」であること、及びその背景なども遠慮なく明言し、この辺を今後有耶無耶にして逃れようとしないように釘を刺している。政治家や業界に対する配慮など微塵もなく、彼らにとって痛い所をストレートに突いている。

例えば、「事故の直接的な原因(要旨p13)」において、東電などの報告書では「確認できた範囲では」などの枕言葉と共に津波が直接的な原因と断定していることに対し、「既設炉への影響を最小化しようという考え」が動機として働いたものであり、事故の主因を津波のみに限定すべきでないことを理由と共に明確に宣言している。具体的には、「2.2 いくつかの未解明問題の分析又は検討(p207〜)」において、更に詳しい未解明の課題を明確にしている。特に「2.2.3 津波襲来と全交流電源喪失の関係について(p225〜)」の3).では、津波の到来時刻と少なくとも1 号機A 系の非常用交流電源喪失の時刻の時系列の関係として、津波の到来前に非常用交流電源喪失に至っていた可能性が高いことを具体的に指摘している。さらに、地震発生時に1 号機原子炉建屋4階で作業していた東電の協力企業社員数人が、地震直後に同階で起きた出水を目撃していたこと、その水の出処として合理的な説明が出来るものがない(配管の損傷と考えざるを得ない)ことなどを具体的に指摘している。これらは、東電や原子力ムラの人々が決して認めたくはない不都合な真実であり、この委員会の中立性と誠意を垣間見ることができる。

さらに続けて、p249からの「第3部 事故対応の問題点」は圧巻である。報告は非常に詳細で整理されており、項目ごとに時系列に表形式で整理されている。そして、ここがこの報告書の読み物として興味深いところであるが、ポイントとなるところは報告書を編集する委員会の恣意的な編集操作を排除するため、「作業員など当事者の生の声」をそのまま書き込んでいる。その生の声が報告書の臨場感を高め、信憑性を感じさせるものとしている。例えば、1号機のベントが遅れたことに対して、これをきっかけに首相官邸は非常に不信感を募らせたようだが、p154の生の声の記述を見れば、如何に彼らが必死で作業していたかが見て取れる。また1号機の水素爆発の後、3号機などでの水素爆発の対策に関する会話はp263からp266に書かれているが、ヘリコプターで重たいものを屋上から落下させ、原子炉建家の屋上を突き抜ける穴を開ける作戦などもマジで考えたいきさつや、それ程、事態を深刻に予測して必死で対応を協議していたことが読み取れる。特に、これらの会話からは官邸が横から割り込み、無用なことで時間を割かれたことが明らかにされている。例えば、p269〜p270での給水源確保に関する記述では、官邸が用意した給水用の消防車を使おうとしない現場に東電本店側が業を煮やして「何か使ってくれ」と不毛な指示をするのに対し、吉田所長が「基本的に人がいない。物だけもらっても人がいないんですよ。」と呆れて回答している。オンサイト(第一原発側)では、自らの命がかかった問題として必死で出来ることを優先順位をつけて行っている反面、オフサイト(例えば本店側)では官邸からのヤイノヤイノという不規則な発言に嫌気が差し、それを全て現場に丸投げして顰蹙を買っていることが見て取れる。最近になって、東電は菅前総理が本店に詰掛けて暴言を吐いたとされるビデオ映像を公開することを決めたそうだが、この映像を出し渋っていた背景には、(東電はプライバシーの問題といっているが、その意味は)東電本店側の対応者が如何に無責任な対応をしていたかを明らかにすることになり、それを恐れていたのではないかと予想できる。この報告書の中でかなりの部分が明らかになり、既に隠したところでバレバレなので、だったら菅前総理を道ずれに・・・と考えを改めたのかも知れない。

ちなみに、東電には「フェロー」と呼ばれるその道の権威を示す役職があり、首相官邸や本店でそれなりの役割を果たしたのであるが、私がこの報告書を見る限りにおいて、少なくとも複数の「フェロー」は、福島第一原発の作業員や福島周辺の被害者などよりも、官邸と板ばさみになった自分の立場を優先させた発言を繰り返していたことが読み取れる。この点は、もっと糾弾されてしかるべきであるだろう。

また、3.11の直後にテレビを見ながら、私は「東電はきっと廃炉による損失をきらうだろうから、その下心で海水注入などの適切な判断ができないのではないか?」と思い、首相官邸側が海水注入を指示するなどのアシストは、本来の指揮命令系統を崩してでも、法令で許された権限を最大限に活用すべきであると思っていた。しかし、この報告書を読む限りでは、それは明らかに間違いであることが分かる。先ほども書いたが、オンサイトの人たちは自分の命がかかっているから、本当に必要と判断すれば廃炉の損失などで躊躇することはしない。本店の人たちも、顔見知りの仲間の命を引き換えにすることは出来ないし、彼らが死んだときの責任も取れないから、以外に現場からの提案には下心を出さずに対応していたことが読み取れる。しかし、例えばp262に記載の3号機淡水海水切り替えの経緯に関するやり取りの記録の中(1号炉の水素爆発後である3/13の記録)に、東電は比較的早い段階から3号炉の廃炉の覚悟が出来ていたのにもかかわらず、官邸側が逆に淡水にこだわって、東電の作業に余計な手間暇をかけることになったことが記載されている。

今回の報告書で最も私が注目するのは、p285からまとめられる「3.2 政府による事故対応の問題点」の整理である。ここでは菅前総理の功罪(というか、ほとんど全てが罪)を中心に断罪している。ここでの指摘は至極ごもっともで、指揮命令系統を完全に壊してしまった菅前総理をはじめとする官邸に対し、官邸が本来担うべき役割と実際にとった行動の乖離を明確に指摘している。首相官邸(および政府)が責任もって行わなければならないことは、様々な対応に法的な裏づけを与え、細かな事故対応は東電と原子力安全委員会および原子力安全・保安員に任せ、近隣住民の安全を確保する避難や放射線量のモニタリングと情報公開にあった。だから、緊急事態宣言の発令は全ての行動の前提になるのであるが、菅前総理はその重要性を全く認識しておらず、そのせいで2時間も発動が遅れたことをp304から数ページをかけて非難している。報道でも明らかになっていたが、海江田元経産大臣から緊急での緊急事態宣言の発出を求められていたのに、菅前総理はその議論を有耶無耶にしたまま、野党党首との打ち合わせに出かけてしまった。物事の優先順位が全く理解できていないことを象徴的に示した出来事である。また、p310には3/12の原発の現地視察に関連したやり取りが示されており、報道でも話題になった枝野前官房長官が現地視察を反対した逸話なども記されているが、視察を良しとした寺田補佐官の対応も含めて、それらは全て「政治家としての評価につながる懸念」を示しただけであり、決して首相官邸が空になるリスクなどの危機管理上の問題点を突いたものではなく、危機管理の中心にある政治家としての資質に問題があることを明確に指摘している。

そして、これらを総括した内容はp323以降に「3.4 官邸及び政府(官僚機構)の事故対応に対する評価」に整理されている。特にp324からp330にまとめられた(1)危機管理意識の不足、(2)指揮命令系統の破壊、(3)政府・官邸の役割に関する認識不測、(4)総合力発揮のための組織運営のノウハウの欠如、(5)問題の多かった政府内の情報収集・伝達体制、(6)東電との間の意思疎通の不徹底、(7)危機管理に必要な「心構え」の不足、の7点は非常に説得力のある内容である。特に(7)に関しては直接これを意図した記述ではないと思うが、「3.4.2 官僚機構に関する評価」の中で、p333に「5). 危機において持つべき使命感の不足」に面白い記述がある。

「3月11日、駅に停車中の電車の中で大地震に遭遇したある若い警官は、大津波警報が発令されたことを乗客から聞くと、直ちに乗客全員の避難誘導が必要であると判断し、適切な避難先を選択した上で、津波が背後に迫る中、一人の脱落者も出すことなく避難誘導を行った。また、避難指示が発出された後、放射性物質の拡散の危険を感じながら、住民を全て避難させるまで被災現場にとどまり、避難誘導に尽力した消防団員も多い。マニュアルなき危機に直面した彼らがこのような的確かつ勇敢な行動をとることが出来たのは、住民一人ひとりを守るという自らの使命を、事件、事故に備えた日頃の訓練や教育を通じて叩き込まれていたからである。」

この使命感が、本来、政府・官邸に求められていたのであるが、特に政治家を中心として、その使命感に乏しい人たちが国家の中心を占めていたことが我々にとって最大の不幸であったのかも知れない。

なお、これらの調査報告をまとめるにあたって、委員会は7つの提言を要旨のp20からp22で行っている。
  提言1:規制当局に対する国会の監視
  提言2:政府の危機管理体制の見直し
  提言3:被災住民に対する政府の対応
  提言4:電気事業者の監視
  提言5:新しい規制組織の要件
  提言6:原子力法規制の見直し
  提言7:独立調査委員会の活用
これらに続き、要旨p23においては「提言の実現に向けて」として、「当委員会は、国会に対しこの提言の実現に向けた実施計画を速やかに策定し、その進捗の状況を国民に公表することを期待する。」「ここにある提言を一歩一歩着実に実行し、不断の改革の努力を尽くすことこそが、国民から未来を託された国会議員、国権の最高機関たる国会及び国民一人一人の使命であると当委員会は確信する。」と、この報告書は通過点であり、この報告書をたたき台とした今後の国会を中心とした対応が重要であるとしている。そして「福島原発事故はまだ終わっていない。被災された方々の将来もまだまだ見えない。国民の目から見た新しい安全対策が今、強く求められている。これはこの委員会の委員一同の一致した強い願いである。」と締めている。所々に散りばめられているが、この報告書で安心して「これで終わり」とするのが彼れにとって最悪のシナリオであり、国会、マスコミ、国民が協力してこの思いを実現しなければならない。

今後のたたき台としては、非常に良いものがまとまったと思う。更なる第三者による検証を含めて、次なるボールは国会を中心として我々の側にあることを忘れてはならない。

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次なる総選挙後の政権を安定化させるためには・・・

2012-07-11 23:54:30 | 政治
何を今更・・・と言われそうだが、民主党の消費税増税法案採決の造反議員への処分について、当初の民主党の発表から大幅に後退したことに対し、私は非常に危機感を感じている。ただ、ここでの危険とは民主党の命運という意味ではない。次の総選挙後の国政に関する危機感である。

このままいけば、次の選挙で民主党が惨敗するのは確実である。場合によっては、前回の自民党の惨敗の勢いを超えて、議席数が100を切ることも予想される。しかし、それでも100前後の議員が生き残れば、それなりの勢力として認識せざるを得ない。自民党が比較第1党に返り咲くのは間違いないのだろうが、過半数を取れるとは到底思えない。大阪維新の会も大躍進するだろうが、少なくとも参議院で議席を持たない大阪維新の会の特殊性を考えれば、参院での過半数を確保するのに十分な連立の枠組みが重要な意味を持つ。だから、自民党を中心とした連立であっても、大阪維新の会は「おまけ」的な位置づけで、その他の党との連立が重要になる。

数合わせをしてみれば、自民、公明、たちあがれ日本を合わせても、107議席にしかならない。みんなの党を加えても118議席である。総定数が242議席であるから、過半数は122議席で4議席足りない。安定的な運営を考えれば、過半数を1人、2人超えたような状況は、何時誰かを引き抜かれるかと不安で疑心暗鬼にならざるを得ない。だから、民主党の一部(参院は来年夏まで選挙はないので)を取り込まなければ新政権は立ち行かない。

ここで、今後の政権が安定化するか否かについて言えば、現実的には数が如何に圧倒的な過半数を占めるかどうかよりも、如何に政策的に共通の方向性を持った勢力を結集できるかである。鳩山元総理は民主党の執行部を称して「自民党野田派」と言ったそうだが、多分、野田総理を支持する勢力と現在の非主流派を切り分け、「自民党野田派」と自公の連立政権でも作らないと、多分、政権は安定しない。

常識的に見れば、あれほど揉めに揉めているのだから、次の選挙でのマニュフェストを決める段になれば、意見の異なる人々は分裂せざるを得ないはずだ。しかし、民主党はあれだけ揉めに揉めても離党しなかった不可思議な寄せ合い所帯(しかも、驚くことに離党届を出したはずの人が後から撤回するほどの党)であるから、兎に角、意味なく数だけを揃えてさえいれば、政界での影響力を維持できるという下心だけで生きている政治家も少なくなく、何らかの「踏み絵」を迫ってもあっさりと「踏み絵」を踏んで平気な人たちが党内に多数残ることを排除できない。

仮に連立政権樹立の際に政党間の合意事項を定めても、これらの人たちは後から何を言い出すかが分からない。本来求められていることは、重要法案に対してはひとつの方向性を共有できる組織であること(寄せ集めの烏合の衆ではないこと)、党の綱領に明確にその方向性を謳うこと、党議拘束をかける手続きを明確にすること、造反した場合のペナルティについて明確な基準を定めること、なのであろうが、今回の出来事では民主党はこれら全てをクリアできない党であることを証明したようなものだ。

最近になって知ったのだが、今回の民主党の処分に関して言えば、「党員資格停止」の意味は我々がイメージするものとは大分違うのだそうだ。通常であれば、党員資格停止であれば現在ついている党の役職を全て取り上げられ、且つ、停止期間中に新たな職に就くことも許されない。普通の人はこの様に思うのだが、民主党は「現職に関しては、本人が自ら辞職しない限りは、資格停止により職を強制的に剥奪することは出来ない」というルールを定めてたのだそうだ。最初にこのルールを決めたとき、何を想定してこの様な理解しがたいルールに決めたのか、もはや想像すらできない。全く、素人もいいところだ。ただ、運用において厳しく対処することは論理的には可能であったはずであり、実際、民主党幹事長の権限は他党に比べて驚くほど大きい。だから、幹事長に「偉大なるイエスマン」を据えれば何とかなったのだが、党首よりも大切なものがある幹事長を選んでしまったから、結局、造反処分に対する動かしがたい大甘な判例を作ってしまい、今後の足かせとなってしまった。

私の心配する危機感とは、総選挙後に民主党を連立に巻き込まざるを得ない状況で、この様な人たちが金魚のフンのごとく付いてきて、その人たちが将来に渡り時限爆弾の発火点になるリスクを抱え続けることである。国民新党であれば、前回の様なお家騒動があっても単なる弱小政党であるから、笑って済ませることができた。しかし、民主党の場合には少なくとも来年夏の参院選までは、(小沢グループが抜けたところで)参院での第1党であることは違いないから、単なる御家騒動とは笑っていられない。自民党とすれば、究極の選択を強いられそうである。

この危機感をクリアするためには、相当な戦略性を持った仕込みが必要である。例えば、それは選挙の時に「踏み絵」を踏ませるのではなく、彼らが気を抜いて本心を語りやすいタイミングで、こっそりと「普通の絵」の様に思わせて「踏み絵」を彼らに示すのである。例えて言えば、TPP参加問題や原発のソフトランディング(あくまでも長期的な脱原発であり、短期的には脱原発依存に相当)、更には小沢元代表の証人喚問のようなものを示し、そこで造反者をあぶり出すのである。また、選挙に突入したときに、消費税増税の造反者に対し次の選挙の公認を取り消すのである。殆ど騙し討ちである。その様なことを本当に実行に移すには、多分、幹事長の首を差し替えなければならない。

これまでの野田総理を見ていると、それなりの1本芯の通ったものを持っているのはその通りであるし、それなりの策士であることは認めるが、非情なまでの決断をできない人の良さは否めない。だから、上述のような博打を打てるとは思えないのであるが、ここにきてTPPにしても尖閣問題にしても、さらには成長戦略にしても何にしても、意識的にこれまでと違う何かを志向している変化を感じなくもない。万馬券的な当てずっぽうなコメントであるが、大阪の橋下市長の野田総理に対する褒め殺し発言には、その様な何かを促すような(「その路線を進めれば、維新の会は民主党を敵視はしない」という)メッセージを込めている様に私には見えた。

この辺は相当怪しいが、この危機感が現実のものとならないように、祈るばかりである。

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被害者の無念に報いたい・・・

2012-07-10 22:33:12 | 政治
大津の中学2年生が昨年自殺した事件への報道が注目を集めている。別件の埼玉県北本市のいじめ事件では東京地裁で敗訴判決がなされ、今後、この手の虐め問題について明確な方針を決めるべきとの声が高まることが予想される。今日は最後にその点について書いてみたい。

まず最初に大津の事件の振り返りだが、大雑把なところでは新聞やテレビのニュースの報道の通りである。付け加えるとすれば、ネットでは更なる情報が流れており、真偽は定かではないが、次のような怪しい背景があるようだ。まず、主犯格の加害者の一人の親はPTA会長だったそうである。現在は加害者の3人は全員他校に転校しているし、年度も変わっているのでその父兄も既にPTA会長の職を辞しているだろうが、事件後まもなく開かれた保護者会の場では、加害者の両親が相当なモンスターペアレントぶりを発揮し、議論の方向性を捻じ曲げて参加者の父兄も頭を抱えていたということらしい。さらにこれもネットでの情報であるが、保護者会の当日にも加害者の親が「うちの子は被害者」とビラを配っていたともいう。さらに、被害者の親が警察へ被害届を提出しようとして何度も受理を拒否されたとの報道があるが、これも加害者の祖父が警察OBだという情報もネットで流れていた。多分、この辺は全て情報としては正しいのであろうが、警察がこれを理由に手心を加えたかは怪しい。しかし、被害届を受理しないのも不可解であるのも間違いなく、裏に何かあったと勘ぐられてもおかしくはない。

若い女性の大津市長は、最近の取材では半べそをかきながら謝罪していたが、ちゃんちゃら可笑しな話である。泣くんだったら、泣く前にやることがある。市長という重職に就くということは、何かあったら泣けばよいなどという甘っちょろい考えなど許されない。昨年のうちからやるべきことをやり、教育委員会に対してもリーダーシップを発揮し、徹底的な調査の後に亡くなった生徒が浮かばれる状態になって、初めて保護者と手を取り合って泣けばよい話である。泣いている自分に酔っている様なさまは見ていて恥ずかしい。また、つい先日の7月6日には、被害のあった学校の校長が、校内放送で泣きながら「自殺の練習などという報道は嘘だ!」と全校生徒に訴えたという。自殺した生徒は昨年2年生であったから、今年もその虐めを目の当たりにしていた生徒が多数いるのだから、校長が泣きながらバレバレの嘘を訴えるという、教育現場では最悪の事態であると言わざるを得ない。これでは亡くなった生徒は浮かばれないし、残された生徒も人間不信に陥るだろう。自殺した生徒は先生に泣きながら虐めの救済を訴えていたが、先生は適当にあしらい、まともには取り扱わなかった。たまりかねた両親が学校に相談したが、その様な相談があったかの問い合わせの取材に対するその学校の校長の回答は、「家庭内での金銭的なトラブルの相談だった」とのことである。もちろん、確認されている虐めの中にはキャッシュカードの暗証番号を聞き出されてお金を引き出されるという事案があったから、お金の問題についても相談したのであろうが、それが主なる相談でなかったのは明らかである。

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※訂正:上記の記述ではあたかも虐めの相談であったかの様に断言したが、(後日の報道によれば)実はこの相談の時点で父親は虐めに気がついておらず、子供が銀行口座から大金を引き下ろしていることに対する相談であったとの話がある。この場合、学校側の説明(金銭トラブルの相談との主張)は正しかったことになり、私のブログでの記述は不適切であった。訂正してお詫びいたします。
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更にいえば、自殺の練習や葬式ごっこなどがアンケートで明らかになり、これだけ報道の中でも生徒が匿名でテレビの取材に答えて「相当な虐めがあった」と訴えているのに、今日の夜の市教育委員会の記者会見では、「それでも虐めはなかったと考えている。虐めの確証は得られていない。」と抜けシャァシャァと回答していた。さらに読売新聞の7月6日の報道の中では、市教育委員会は「自殺の練習」の情報を非公開にした理由を、「事実確認は可能な範囲でしたつもりだが、いじめた側にも人権があり、教育的配慮が必要と考えた。『自殺の練習』を問いただせば、当事者の生徒や保護者に『いじめを疑っているのか』と不信感を抱かれるかもしれない、との判断もあった」と説明したという。しかし、アンケートなどを通して真っ黒けの疑いがあるのだから、「疑いがあるから、事情聴取が必要である!」と相手の言い分を突っぱねれば良いはずである。分かり易く言えば、ある成人男性が暴力団から恐喝され、実際に暴行も受け金品も奪われ、自殺するように散々仕向けられた上でその人が自殺した場合、当然警察は捜査を行い、目撃証言などを多数集めて裁判所に逮捕状を請求(ないしは、まずは任意の事情聴取かも知れないが、暴力団員が素直に聞くとは思えなので)し、逮捕した上で事情聴取を行うのであろう。この際、暴力団員が「お前、ワシのこと疑っているだろう!けしからん!」と言ったら警察は謝って釈放するのかといえば、そんな訳、あるはずがない。議論するまでもない話である。十分に疑わしい疑念があるのであれば、その調査をするのは当然である。

この様に、高々、「加害者が未成年である」というだけで、誰も何も手出し出来なくなるというのは明らかに間違いである。直接は関係ない話だが、山口県の光市母子殺害事件の犯人も、事件当時に18歳と1ヶ月という、まさに「1ヶ月」の解釈の仕方で高裁と最高裁で意見が分かれていた。つまり、罪の大きさには年齢は関係なく、罪の大きさを淡々と評価すれば死刑判決となるところを、年齢ファクタで「おまけ」する、「おお目に見る」という判断が加わった。今回の虐めに関しても、明らかに恐喝・暴行が成立する事案であり、これだけ悪質性が高ければ刑事事件として立件されてしかるべきものであるが、教育委員会、学校長、警察の関係者は、年齢ファクタで「おまけ」する権限を自らが有していると考え、覚悟を決めて腹をくくった決断をしなかったのである。

少々不謹慎であるが、この虐めのニュースを見ていると、今の民主党と瓜ふたつであることに驚く。悪いことをした生徒にはそれが悪いことと自覚できるような、相応の処分を行わなければならない。しかし、民主党における消費税増税法案の造反者に対する処分は甘く、しかも、1度は6ヶ月の党員資格停止処分とした鳩山元首相に対し、離党されたら困るからと処分を半分にしてしまった。しかも、その期間中に選挙があったら公認しないと輿石幹事長も公言していたはずなのに、数日で「公認しないなどあり得ない」と前言を撤回した。つまり「処分といっても形式的なもので、実効的には何ら罰してはいませんよ!ご心配なく!」と宣言しているようなものである。

話を元に戻せば、この様な有耶無耶にして責任逃れをしようとする輩を排除するためには、「対処しなければならないことに対し、ちゃんと対処しないことに対する不作為の罪を明確化し、その罰則・ペナルティを厳罰化する」ことが重要である。だから、警察、教育委員会、学校の校長(及び教頭等の管理職)など、責任ある立場の人たちに、明確な対応義務を課す法律を制定し、不作為の場合には禁固刑なども含む罰則を明文化すればよい。そして、不作為でないことの証明義務を、これらの責任を有する立場の者に課せばよい。そしてその引き換えの措置として、今回の虐め事件を例にとれば、加害者側の生徒から裁判を起こされたとしても、少なくとも裁判費用や慰謝料などを個人が負担せずに済む(国や自治体が補償する)ような制度を導入すればよい。

この提案のポイントは、「罰則を科して、鬱憤を晴らそう」というものではない。この様なペナルティを意識すれば、自然と「まじめに対処しよう」という気持ちが沸いてくる。いったん起きてしまった事件をもみ消すのではなく、起きた後の対処で間違わないようにしようという行動を促すものである。起きてしまった事件の「何故、その様な事件が起きたのか?」の責任と、「起きた後の対応」の責任を明確に切り分け、それぞれに独立の評価・判断を行うことで、少なくとも起きてしまった事件の責任を負わない関係者が、自らが新たな犯罪的な行為(事後に取るべき対応に対する不作為の罪)を行うことで、新たな加害者となることを防ぐ抑止力を働かせるのである。そして、裁判の判決で金銭的な負担を強いられないことを保証する代わりに、全てを正直に話すことを強制するのである。

法制化に関しては、多分、専門の先生方でも一筋縄ではいかないような高いハードルがあるのかも知れないが、この様なルールを明文化できないならば不文律としてでも、社会常識にしていかなければならない。そうでなければ死んだ生徒は浮かばれない。血液製剤によるHIV感染の時も話題になったが、不作為の罪を問わない風潮は絶対に是正していかなければならない。もしその様な是正がなされないなら、多分、ネット上のネチズン達が、法律ではない別の形態での処罰をしようという動きを誘発することになる。その様な流れにならないためにも、自ら正すべきことを正すための具体的な措置が求められる。

少しは被害者の命が社会の為に役に立ったという実感を、遺族の皆さんが感じられるような動きがあることを祈る。

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もう、黙っててくれないか!(野田総理の尖閣国有化発言について)

2012-07-09 22:18:27 | 政治
はっきり言って、「黙っててくれないか!」というのが正直な感想である。尖閣諸島購入に対する野田総理の発言に対してである。

昨日の産経新聞では、1面トップにこの話題を持ってくるだけではなく、2面の社説に加え、3面にも半ページ近く特集を組んでいた。以前のブログ、「今が攻め時、棚上げなんてしない!」でも触れたが、私は石原都知事の戦略性には非常に感心している。最大のポイントは、国ではなく東京都が購入するという点である。単なる個人ではなく、公の機関が購入するのではあるが、国家が買い取るのとは訳が違うために、中国としても面と向かって日本国政府に対応を求め難いところがあったし、日本政府も「国内の1自治体の単なる経済活動であり、国家としてコメントする立場にはない」と答えればそれで済む話だった。しかも、先日の重慶前市長の汚職問題と、この秋の国家主席交代に絡んで、権力闘争が勃発し足元が不安定な胡錦濤国家主席としては、対応に苦しんでいた筈である。かなり過激なことをしても国内世論は満足するはずもない状況で、国内にも注目が集まる形で(領土)問題化するためには、もはや戦争になる覚悟で行動をしなければならない。しかし、ただでさえ世界の風当たりは中国に厳しいから、一線を越えるためには「最初に手を出したのは日本だ!」という言い訳が必要だった。その様な意味で、その言い訳を与えない範囲での石原都知事の戦略は素晴らしかった。

この手の領土問題で最も大切なのは、北方領土や竹島においてロシアや韓国が実行しているように、揺ぎない実効支配の実績作りである。変な言い方をすれば、「ダルマさんが転んだ!」と中国が言っている間に、どれだけ多くの実績を作り上げ、一歩づつ前に進むかが問われている。中国が気が着が付いたら(中国政府が中国国内に対して「もはや、許容できない第一線を日本が越えた!」と宣言することに相当)、そこから鬼の反撃が開始される。如何にして相手を出し抜き、実効支配のレベルを高めるかが「外交力」そのものである。

メドベージェフ首相が大統領時代も含めて複数回も北方領土に足を踏み入れるのは、そんなことをしても日本政府がロシアに対して切れるカード(ロシアが困るような実効的な対応)がないという足元を見透かしたものである。プーチン大統領との連携があるのかどうかは知らないが、仮に2島返還まで彼らが譲歩しても、それはとても引き分けとは言いがたい条件である。日本が「ダルマさんが転んだ!」と言っている間に、この様な「外交交渉」を有無を言わせぬ形で突きつけてきた。韓国も同様である。日本が実効的には何も韓国カードを持たないことを知った上で竹島の実効支配を強め、しかもそれを「これでもか!」とばかりに日本に見せつけている。

では尖閣諸島問題はどうであろうか?中国は、漁船衝突事件の時でも日本政府を震え上がらせるような危険なカードを切ることが出来た。誰がどう見ても中国に分がない状況下(ビデオ映像の動かぬ証拠がある)ですら、彼らは「フジタ」カードを切ってきた。非常に無理筋であるが、それでも負けたのは日本だった。だから、実効支配のレベルを高めるためには、中国がいつ「ダルマさんが転んだ!」と言っているのかを見切り、そのタイミングを上手く突いた絶妙の戦略を行わなければならない。

しかし、今回の野田総理の発言は、中国が一線を越えるために必要な口実を、みすみす与える様な発言であった。しかも、日本政府はその発言によって得るものは皆無である。少なくとも尖閣諸島の地権者は国には売るつもりがないから、国家による実効支配の程度には全くの進展はない。全くの口先だけの話で、その実現性は皆無なのである。しかも、中国からの強硬な反応は凄まじく、その反応に対してどの様に対応するのかを考えると、多分、消費税問題よりもこちらの方が野田政権にトドメを刺すことになりかねない。一方で東京都との交渉はかなり進み、年度末の購入の話が年度内に繰り上げになりそうだという。寄付金も13億を突破し、買取予定の島の数が3島から4島に変更になったことからは、既に3島分の買い取り価格を超えていることが予想される。この歴然とした差は何なのか?

野田総理がこの様な発言を急にした理由として語られていることは、ひとつにはこの様なことを言えば国民受けして支持率が回復できるのではないかという「下心」。もうひとつは、東京都が購入したとなれば、来年度以降は日本政府の借り入れ契約が更新できず、尖閣諸島への上陸を禁止する術がなくなることを恐れ、慌てて手を出した・・・というところである。しかし、後者に関しては、東京都が購入を宣言した段階で中国は大した文句を言えなかった状況である。その購入者である東京都が上陸したとして、やはり国家としての関与がある訳ではないので、暖簾に腕押し的に反撃のタイミングを掴みにくい。日本はヌラリクラリと「日本の領土ではあるが、上陸は推奨できないと言っている」と弁解しておけば良い。少なくとも国家の積極的な関与の有無という重要な一点において、野田総理の発言とは雲泥の差がある。

だから、野田総理が発言する前に、本気で政府が「国家による買取宣言のリスク」と「東京都が買い取り後の上陸のリスク」を天秤にかけていれば、どちらの方がリスクが大きいかは一目瞭然のはずである。にもかかわらず、この様な行動を取るのであれば、それにはやはり「下心」があったか、ないしは中国を過小評価しているとしか言いようがない。

しかし、その「下心」が功を奏するかと言えば、多分、全く裏目に出るだろう。少なくとも、国家による買取の実現の目処が全くないこと、東京都が購入した方がよっぽど有効に活用してくれるだろうという地権者の予測、中国の強硬な反発があること、野田総理の発言前に外堀を埋めるための行動の形跡が全くないこと(首相補佐官による石原都知事へのアクセスはあったが門前払いだった)から、マスコミは最終的な国有化はある程度は支持しながらも、流石に今回の行動はスケベな「下心」から先走ったのではないかと批判される。さらに、これだけ中国の反撃を食らいながら、一歩も国有化に向けて前進できない実績を作ってしまうと、石原都知事の発言でつい先ほどまでは中国を出し抜いていたのが逆に中国に出し抜かれ、立場の逆転により日本政府の「外交力」のなさを世界に知らしめる結果となってしまう。全く持って、国益に反する行動である。これで鳩山元総理が変な動き(実際、中国で余計な行動をしているようだが・・・)でもしたら目も当てられない。

やはり、人柄だけでは政治は出来ないのである。「性格の悪い人」と後ろ指を指されても、国益のために行動できる人が求められる。解散総選挙は近そうだ・・・。

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60年安保、70年安保闘争のデモと比較して分かること

2012-07-08 23:59:59 | 政治
毎週、首相官邸前で反原発のデモが行われている。先週末のデモには、坂本龍一「教授」も参加し、ネットを通じて徐々に広がりを見せているようだ。

マスコミは概ね、その活動が正しいものと捉え、好意的に扱っている。中東のジャスミン革命が腐敗の進んだ長期政権を打ち破ったのを引き合いに出し、あたかもそれが同列に扱えるかのように報じている。しかし、本当にそうだろうか?冷静に考えてみたい。

そもそも私の議論は、この反原発デモはいつか何処かで見た景色ではないか・・・というとことろから始まる。最も、私の年代ではライブで体験したわけではない。テレビの映像で、ないしは人づてに聞いたに過ぎない。それは、60年安保、70年安保闘争である。国会議事堂を取り囲んだり、東大安田講堂を占拠したり、学生を中心とするその活動は相当な社会問題化して扱われていた。あの東京大学の入学試験が中止されるほどのインパクトだから、その盛り上がりは想像を絶する。一部の組織は精鋭化し、徐々に一般の人々の支持が離れていったのかも知れないが、その当時のデモ参加者は「自分たちの声で、政治を動かせる」と確信していたに違いない。その後、その確信が失望につながるのであるが・・・。

しかし、それから4、50年が過ぎ、そろそろ歴史がその活動について評価を下すことができる程度には頭の熱が冷めてきた頃であろう。今となって振り返ったときに、「あの時に、デモの意見が政治的に了承され、日米安保が破棄されていたらどうなっただろう・・・」と考えを及ばせてみると、何か見えてくるものがあるだろう。多分、大多数の人々は賛同してくれるだろうが、60年安保が不調に終わり、日本がアメリカとの関係に一線を画していたら、日本の高度経済成長はなかったかも知れない。東西冷戦時代、ソ連、中国を中心とする東側諸国は、共産主義圏を広げるために様々な手を尽くした。ベトナム戦争なども、西側諸国と東側諸国の代理戦争的な面があるから、あの時代に少なくとも本土から米軍が居なくなり、東アジアにおける米軍のプレゼンスが弱まっていたら、最悪の場合には日本にもその流れが押し寄せてきて、東西の綱引きの場になっていたかも知れない。その様なことになれば、軍事的に無防備ではいられないから、自国で軍隊を持つべきということになるのは容易に理解できる。その際の軍事費は、ソ連、中国に十分に対抗できるレベルでなければならないから、GNPに対する軍事費の占める割合は大きくなり、結果的に経済成長の足を引っ張ることになる。アメリカも日本がいつの日か共産圏に取り込まれるかも知れないとなれば、日本にハイテク産業が育つことを許容できないだろうから、さり気なくブレーキをかけるように様々な足枷を求めることも容易に予想できる。多分、それらの殆どは目に見えにくい形で行われるのであろうが、したたかな国が本気で勝負をかけてくれば、それだけで経済成長に与える影響は大きい。だから、あの時にデモに加わっていた人々に「あの経済成長が達せられなかったとしても、それでも日米安保は結ぶべきではなかったと思いますか?」と質問を問いかければ、まず、99%の人は「日米安保は、少なくとも仕方がなかった」と答えるだろう。つまり、あの時のでもに加わっていた自分たちの考えが、非常に青臭い若気の至りとでも言うべき感情に根ざしていたと思い知るだろう。

私が学生運動について最初に聞いたのは、高校の時の担任の先生が「俺が高校のとき、70年安保で敗れた大学の運動家が、『戦いに勝つには、高校生レベルから意識を変えないといけない』と高校に照準を合わせ、高校まで学生運動が降りてきて、生徒会長がその流れに走るのを(ナンバー2か3の担任が)ブレーキをかけるのが大変だった」と語っていたことだった。若者特有の潔癖性的な感覚が原理原則に照らし合わせた場合に、「平和が一番、外国の軍隊なんてとんでもない」という感情が沸き上がることを利用した行動であるが、問題は世の中はそんな理想論だけでは動かないということである。

例えば、こんな例え話はどうだろうか?暴力団と暴力団が仲違いをして、今にも拳銃で打ち合いを始めようとしている。そんなところでドンパチ始まったら周りの一般人に迷惑がかかるから何とかしなければならない。そんな時、丸腰の自分が間に入り、暴力団同士のいさかいを止めることが出来るだろうか?当然、そんなことは不可能であり、少なくとも拳銃を持ったお巡りさんを呼ぶのが一番である。もし警察が当てにならないのであれば、アメリカのように護身用の銃をもつことを求める動きも沸き起こるかも知れない。だから、現実を直視した上で、Bestな選択ができないならSecond Best的な選択が何であるかを考えなければならない。

脱原発に関して言えば、20年程度のスパンの中で現在の原発を廃炉に導きながら、徐々にフェードアウトしなければならないことは、現在では殆どの人が疑わない。しかし、その様なソフトランディングではなく、即座の脱原発、原発停止を求めるならば、経済に与える影響は計り知れない。だから、当然ながら明確な安全基準とその管理体制が整うまでは、大飯原発は期間限定での再稼働であるべきだし、それなりのハードルを課した上で、原発とどう向き合っていくかを真面目に考えなければいけない。そして、例えば原発の廃炉のために新たな技術が必要であれば、そのための技術者も育てなければならないし、お金もかけていかなければならない。その様なことを考えた上で、今回のデモ参加者が行動しているのであれば、50年後に振り返ったときに自分の行動に納得出来るだろうが、もしそうでないのであれば、過去の経験をまた繰り返すだけの危険性をはらんでいる。

自分の中の上っ面の正義感は、あまり信用しない方が良いのかも知れない。

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